はじめに

日々の生活の中で興味を抱いたことや、いまだ一つの考えにまとまらない頭の中のぐじゃぐじゃを、そのまま吐き出すように記していきます。

 

なお、とくに断ることなく内容の変更や削除をおこなうことがありますが、ご了承ください。

 

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (8)

前回は、竹田がフェミニズムからの問題提起に対してどのようなスタンスを取っていたのかということを見てきました。そこでの狙いは、具体的な局面を設定することで、ポストモダン思想などによる「先構成批判」に対して竹田がおこなっている反批判の問題点を明らかにするための準備をすることでした。また、同じような意図から、竹田と同様に実存的な立場からフェミニズム批判をおこなっている小浜逸郎の議論を概観しておきました。今回は、小浜とフェミニズムの間でなされた論争を見ていくことで、彼の実存主義的な思想が抱え込んでいるのではないかと思われる問題について考えてみたいと思います。

 

社会学者の浅井美智子は、小浜の「エロス的関係」*1という概念が吉本隆明の「対幻想」を現象学的な観点から捉え返したものだと指摘し、これに対する批判をおこなっています。彼女は、「結局、「エロス的関係」というのも、母性幻想に収斂するような彼個人の「実感」でしかないことがわかる」*2と言い、小浜の「実感信仰」を批判するのですが、まずは、彼女が批判の対象にしている小浜の議論を確認しておきましょう。

 

小浜は、「たとえば家庭内で、妻が家事・育児にてんてこまいをしているかたわら、夫がなすこともなくタバコをふかしていたりぼんやりテレビを見ていたりする場合、あるいは共稼ぎなのに家事・育児の負担が妻の方に過重にかかってしまうような場合、それを〈差別〉と呼ぶべきだろうか」*3と問いかけ、次のように述べています。

 

可能性としての家族

可能性としての家族

 

 

しかしエロス的な生活過程というのは、対の関係の特殊な相互了解によって作りあげられるさまざまな局面の永い一連の過程の全体であるから、そこだけをとりだして現象的不平等をあげつらってみても、どうもそういう一般的定式で片づくものでもないという気持ちがはたらく。家では何もしない亭主というのがいても、もし女房が別にそれで自分たちの関係はいい(あるいはしかたない)と思っているのだったらいいではないか、と言いたくなるのである*4

 

また別のところでは、小浜は次のような例をあげています。

 

 古い言いぐさに、男は三人の「ママ」をもつというのがある。母親、女房、そしてバーのママである。日本の男のマザコン性や甘ったれ根性やだらしなさを嘲笑するために作られたようなこの表現は、それだけで男に対して、「もっとしっかりしなくちゃ」という強迫観念や、逆に「しょうがねえもんだな」というあきらめ感を喚起する。〔中略〕
 しかし、よくよく考えてみると、ある男が社会的にきちんと一人前でありつつ、男であるがゆえに「母性」をどこかで求めているとしたら、その事実は、性愛関係にとってそれほど悪いことであろうか。私はそう思わない。相手の女が男のこの求めを無意識的によく察知して、いわゆる「母性本能」をくすぐられ、それを媒介として性愛関係のうまいかみ合いが成立するなら、この〔中略〕関係のあり方それ自体は、祝福されるべきことでありこそすれ、何ら非難されるべきことではない。闘い疲れて女の元にやってきた男が女の優しいねぎらいによって癒しを得られ、そのことに感謝して男のほうもその女の人格を尊重する感情を高め、かつ優しく振る舞うことを忘れないとすれば、それはいい関係ではないか*5

 

浅井はこうした小浜の議論に対して、「個別男女の対の関係において、女が男の母親をやってしまうのは勝手だが、この論の行き着く先が「女性が甘え、男性がミエをはる」というような男女関係の容認であ」*6るということを指摘した上で、次のように述べます。

 

このような言説にフェミニストが怒るのは当然としても、一男性の抱く個別対幻想の一般化は、現にある抑圧(女は社会で男にいばられ、家庭で夫という子どものわがままに抑圧される。そして、男は社会で「男である」というミエに脅迫され、家庭においては母性を幻想するがゆえに妻に搾取される)を保持強化することに加担するのである*7

 

浅井は、主観的な確信にすぎない「実感」を思想的な足場にする小浜の主張に対して、上野千鶴子吉本隆明批判*8を参照しながら、「「実感」自体は歴史的・文化的につくられたものであり、それはゆがめられたものであるかもしれない」*9ことを指摘します。その上で、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」*10ことが必要だと主張しています。

 

こうした浅井の小浜に対する批判は、果たして的確なものと言えるでしょうか。なるほど小浜は、みずからのエロス的な心の感得のありようを見つめることで、男女のあり方の〈本質〉的な差異を明確な言葉にもたらそうとしているという意味では、「実感信仰」の立場だと言えなくもありません。たとえば小浜は、「産む性」としての女の〈本質〉について、次のように語っています。

 

 子どもを産むということは、私の想像では、自分のエロス的な生活の時間の目盛りを、うんと長い未来にまで延長し、しかも同時にその性的な行動の領域をきわめて具体的な形で限定して見せることにつながってくると思う。自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受け取ってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である、長い物語を与えられたのである*11

 

だから、「女は自分が女であることのアイデンティティの危機を経験することが相対的に少ない」*12と小浜は言います。これは、子を産み育てていく長い時間が、「女」であることのアイデンティティを規定しているということにほかなりません。

 

これに対して、「男には、自分の未来時間の長い射程を、自分のエロス的な身体のあり方を軸として、一定の分節をもって物語化していけるような条件が与えられていない」*13と小浜は言い、次のように論じています。

 

 彼にとって、個別愛が成立する可能性は、自然なものよりも、むしろ後から観念として作られる倫理性のほうに大きくかかっている。男が一人の女のまえで、長い間彼女にとっての男であるためには、それこそ「男のなんとか」とか、「それでこそ男だ」などと形容されるような、一種気取った意識的な「決意」のようなものが要求されてくるのである。
 これらの「決意」のようなものは、本当は時間的空虚の穴埋めにほかならない。つまりそれらは、長い人生時間を通じて男であることのアイデンティティを保持することがいかに危ういものであるかという事実を逆説的に証明する材料以外の何ものでもない。もともと女との濃密なエロス的時間を共有していないときの男というのは、自分が男であることを確認する手立てなどもっていないのである*14

 

その上で小浜は、長い人生時間を通じて「男」としてのアイデンティティを保持することのできない男性が、彼の人生のとぎれた時間を埋め合わせようとして、社会的な領域におけるアイデンティティの獲得へと向かったのではないかと主張します。つまり、「男のセクシュアリティの特性と、彼が社会的な(それゆえある場合には権力的な)生き方を人生の主要部分としてしまうこととの間には、なかなかに超え難い関連性がある」*15というのです。

 

自己の内における実感に基づいて男女のあり方の〈本質〉を決めつけるような言説に対して、フェミニズムは繰り返し批判をおこなってきました。その際、現在の社会において当然視されている実感は、じつは特定の社会や文化の中で構成されたものにすぎず、動かすことのできない〈本質〉ではないということが指摘されます。しかし小浜は、そうした批判について、「私は常々、こういう論理の出し方にうさんくさいものを感じてきた」*16と述べます。

 

もしも小浜が、彼の個人的な実感を無反省に人類にとって普遍的なものであるかのように論じているのであれば、そうした実感が歴史的に「作られた」ものにすぎず、けっして普遍的なものではないと指摘することは、有効な反論になりえたでしょう。しかし小浜の立場は、こうした素朴な実感信仰とは一線を画しています。彼の著作の中には、たとえば次のような文章を見出すことができます。

 

 一般に、フェミニズムに象徴される現代の知性の一つのパターンとして、これこれのあり方は、歴史的に作られ、仕組まれてきたにすぎないといったことをことさらに強調するやり方がある。たとえば、「専業主婦」は近代になって初めて登場した、といったたぐいの指摘がそれである。
 しかし、この種の認識はたかだか相対的にしか正しさをもっていない。それを、絶対の真実であるかのように思い込ませるものは、現在の枠組を是が非でも変えなくてはならないと思っている実践的な関心と欲望である。つまり、現在自然と思われていることがいかに根拠の浅いものであるかということを証明して見せなくてはならない、というように、この実践的知性は働くのである。真実がまずあるのではなく、関心と欲望にしたがって真実らしいものがセレクトされ、絶対的真実のアクセントを打たれるにすぎないのだ*17

 

研究者たちはこれまで、従来私たちが当たり前だと思っていた男女のあり方が、じつは一定の歴史的・社会的な条件のもとで形成された、特殊な「制度」にすぎないということを、次々に明らかにしてきました。しかし人びとは、ただそれらの研究成果を知っただけでは、これまで疑うこともなく当然視してきた「制度」を問い直し新たな「制度」の実現に向けて積極的に活動をおこなうようになるわけではありません。実証的な研究の成果は、ただの歴史的な事実の提示にすぎないのです。人がそれらの研究において従来の社会のあり方に反省を迫るようなインパクトを認めるとき、彼は実存的な主体である自己の内に見出される「実践的な関心と欲望」に依拠しているはずだと小浜は主張します。

 

 私たちを驚かす歴史的文化人類学的な現実がまず厳然として存在するのではない。私たち自身の現実に対する私たちのある感情的負荷をともなった視線が、歴史的文化人類学的な実証成果を取り巻き、そのことによって初めてそれらは実践意志的な言説のなかに、ある拡大率をかけられ、またそれらがともなっていたに違いないひどさ、体験的辛さ、他のきつい掟などとの不可分の連関性などを捨象されて引き入れられるのである*18

 

こうした小浜の立場を「素朴な実感信仰」と呼ぶことは、適切ではありません。確かに彼は、実存の内において見出されるエロス的な感得、すなわち実感に依拠しています。しかし、そうした実感は歴史的・社会的に「構成」されたものだという批判によって、彼の立場を否定し去ることはできません。そのような批判に対して小浜は、既存の制度は歴史的・社会的に「構成」されたものにすぎず、変更することができるし、また変更するべきだと主張する者たちも、彼ら/彼女らの「実感」に基づいて、そうした主張をおこなっているはずだと切り返すことでしょう*19。このような小浜の立場を、「素朴な実感信仰」と区別して、「反省的・自覚的な実感信仰」と呼ぶことができるかもしれません。

 

すでに見たように浅井は、実感に依拠する小浜の立場を批判して、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」ことを求めていました。しかし、「素朴な実感信仰」ではなく「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ小浜は、こうした反省をおこなうことの必要性を認めたとしても、みずからの立場を修正する必要はないと考えるでしょう。

 

いかなる学問的な言説であっても、その妥当性を認めたり、そこに何らかの意味を見出すのは、私たちの実践的な欲望や関心なのであって、あらゆる言説はそうした実存的な地盤の上においてのみ成り立つはずだ、というのが小浜の主張でした。およそ誠実な思想家であれば、他者からの批判を受けた際に、改めてみずからの主張を検討しなおそうとする実存的な動機を持つはずです。浅井は小浜に対して、みずからの実感を徹底的に問い直すことを要求していますが、このことは彼女に指摘されるまでもなく、思想家としての小浜自身の実存的な動機に基づいておこなわれているはずだと考えられるでしょう。

 

また、仮に小浜が、自身のこれまでの主張よりも批判の方に妥当性を認めざるを得ないと判断したとすれば、今度もやはり彼自身の実存的な動機に基づいて、これまでの主張を改めることになるでしょう。そしてこのことは、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ彼にとっては、「転向」でも「変節」でもありません。彼がみずからの実存的な地盤に基づいて発言をおこなっているという点には、いささかの変更も加えられていないからです。フェミニズムからの批判の妥当性を認めた彼は、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場を少しも変更することなく、みずからの実存的な感得に依拠して、この社会のさまざまなところで目にする男女の非対称的な関係性を告発し、そうした差別をみずからの「実感」に基づいて温存しようとする論者たちに対して抗弁することになるでしょう。

 

さて、小浜の「反省的・自覚的な実感信仰」の立場をこのように理解できるとして、私たちは彼のフェミニズム批判の正しさを認めなければならないのでしょうか。確かに彼の立場は単なる「素朴な実感信仰」の問題点を克服しており、その主張には相当な説得力があるように感じられます。しかし、ここにはなお、一つの重要な問題がひそんでいるように思えます。それは、みずからの実存的な核心に依拠して既存の社会制度に対する抗議の声を上げるというとき、彼の「実感」はその抗弁を支えるような〈権原〉となることができるのか、という問題です。

 

たとえば、何らかの差別がおこなわれている場面に直面したとき、人は許せないという実感を抱くことがあります。しかし、ここで考えておかなければならないのは、差別に対して抗議の声を上げるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依って抗議の声を上げるのであって、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依って抗議の声を上げるのではないということです。彼は、「差別をなくすことが正しいから、この社会は変革されなければならない」と主張するのであって、「差別をなくすことが正しいと私が確信しているから、この社会は変革されなければならない」と主張するのではありません。

 

しかし、あまり先を急がず、ここで提出しようとしている問題が、どのような問題「ではない」のか、少し検討しておくことにしましょう。まず確認しておかなければならないのは、小浜や竹田の考えるエロス原理は純粋に個人的な快/不快に限定されるものではなく、むしろ社会的な人と人とのつながりの中にエロス的な満足を見出すことを積極的に論じていたということです。だから、もし私の感じている疑問が、「エロス原理は個人的な快/不快にすぎず、社会的な連帯の根拠とはなりえないのではないか」ということであったとすれば、それはまったく当たらないということになるでしょう。

 

また私は、「社会的な連帯をエロス原理に帰着させる小浜らの主張は、人は誰しもエゴイストであるという、人間性の本質を矮小化するような考え方なのではないか」といったことを問題にしたいのでもありません。たとえば、マザー・テレサキング牧師といった偉人たちが、その活動の中で大いなる使命感とともにある種の充実感を感じていたということは、ありそうに思えます。しかしだからといって、彼らは個人的な快を求めて活動していただけだ、と言うべきではないでしょう。そして、竹田も小浜も、けっしてこのような主張をしていたわけではないように思われます。彼らの提唱するエロス原理は、偉人たちの崇高な理念に基づく活動を利己的な欲望に帰着させるものではありません。むしろ彼らの考えるエロス原理は、まったくの利己的な欲望から、崇高な理念に基づく使命感まで、広くカヴァーする概念だと理解するべきです。だから、もし竹田や小浜のような実存の立場に依拠する論者が、差別を撤廃しようとする人々はみずからの実存的なエロス原理に基づいてそうした活動をおこなっていると述べたとしても、彼らを卑小なエゴイストに貶める発言だと理解してはならないでしょう。

 

しかし、実存的なエロス原理に依拠する小浜の立場がこれらの問題を見事にクリアしていることを認めたとしても、なお彼に対して向けられるべき問題が残っているように思われます。それは一言でいえば、実存的なエロス性が論議的な(diskursiv)意味における〈妥当性〉を持ちえるのか、ということです。小浜のような立場においても、他者とのつながりの内に実存的なエロス性を感得することは認められるでしょう。この社会は変革されなければならないと主張する人は、必ずしも彼/彼女の利己心の満足を追求してそうした主張をおこなっているわけではありません。しかし、そうした彼/彼女のエロス的な感受性を見つめそれを明確に言葉へともたらすことができたとしても、それによって社会を変革し差別をなくすべきだという主張の〈妥当性〉の根拠が示されたと考えることはできません。単なる主観的な事実としての彼/彼女のエロス的な感得は、当の主張を他の人々に説き彼らを納得させるための〈権原〉になりえないのです。

 

小浜のような「反省的・自覚的な実感信仰」の立場では、あらゆる言説の妥当性や意義はみずからの実存的な地盤の内にその根拠を持っていると考えられていました。したがって、彼が何らかの差別に対して抗議の声を上げるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依拠することはできず、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依拠するのだと考えなければなりません。しかし、〈主観的確信の内における正しさ〉は、他者に向けてその主張をおこない他者を説得する力を持つような、論議的な場面においての〈権原〉とはなりえないのではないでしょうか。

 

なお上の議論では、〈主観的確信の内の正しさ〉と〈正しさ〉を区別しました。しかしこのことは、私たちの実存とはまったく無関係にそれ自体として存在する〈正しさ〉をイデア的な実体として認める形而上学的独断に身を委ねることではありません。このことは、超越論哲学の創始者であるカントの言い回しを借りて、〈正しさ〉は主観的確信〈とともに〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではないと説明することができるように思われますが、その詳細は今後の考察を通じて明らかにしていきたいと思います。

 

さて、今回は小浜とフェミニズムの間の論争を手がかりにしながら、彼の実存的な思想的立場が抱え込んでいる問題を指摘しました。そして私の考えるところでは、この問題はフッサールの超越論的現象学の構想とけっして無関係ではありません。フッサール心理主義と論理主義の隘路を潜り抜けようと格闘していたときに彼が直面していたのは、単なる〈主観の内における妥当性〉に尽きることのない超越論的な〈妥当性〉をどのようにしてみずからの哲学の中に位置づけるのかという問題でした。竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題は、こうしたフッサールの意図を捉え損ねてしまっていることにあります。とくに彼の超越論的還元の解釈は、論議的(diskursiv)な意味における〈妥当性〉を主観の領域の内に閉じ込めてしまっているように思われます。

 

そこで次回以降は、今回の議論を踏まえた上でフッサールの議論についての検討をおこない、竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題に、さらに踏み込んで検討を加えていくことにします。

 

*1:小浜は『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)の中で、「エロス的関係とは、特定の人間個体をまさに特定の人間個体として気にかける関わりのあり方のことである」(小浜逸郎『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)と定義し、特定性に依存しない人間関係である「社会的関係」と対立する概念だと述べています。こうした小浜の「エロス的関係」は、人間相互の関係はもちろん人間以外の対象への「気遣い」をも含むような竹田の「エロス的原理」に比べると非常に狭い範囲においてのみ適用されるものだと言うことができるように思えます。ただし詳細に小浜の主張を検討すると、必ずしもそのように断言することができないのも事実です。小浜は、竹田との対談の中でみずからのエロス概念と竹田のそれとの違いに触れて、「たとえば、ここに美しい茶碗があり、それに美的に魅かれエロスを感じる場合にも、それは本当は対人的な、対人関係として捉えられたエロスからのひとつの派生形態である、という考えかたをしたくてしようがないところがぼくにはあるんです」(竹田・小浜『力への思想』68頁)と述べています。この発言は、小浜の考えるエロス的関係が、実存のうちで人間関係を基礎とする発生的なプロセスを経て、より広範な範囲にまでその影響が及んでいくようなものとして理解されていることを示しているように思われます。ただここでは、ともに実存的な関心に基づくという点で、竹田と小浜の立場が極めて近いところに位置していることを確かめるにとどめ、これ以上両者のエロス概念の差異に立ち入ることは控えることにします。

*2:浅井美智子「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」(江原由美子編『フェミニズム論争―70年代から90年代へ』(勁草書房、1990年)所収)111頁

*3:小浜『可能性としての家族』249頁

*4:小浜『可能性としての家族』249頁

*5:小浜『エロス身体論』177-178頁

*6:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111-112頁

*7:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」112頁

*8:なお、浅井が批判するように、この対談における吉本隆明の主張には、確かにみずからの「実感」に基づいて発言しているところが見られますが、彼を立場を小浜のような実存主義的な立場と同一視することはできないし、吉本に対する上野の批判も、小浜に対する浅井の批判と同一視することはできません。この論文における浅井の吉本への批判的言及には、そうした点が見落とされており、吉本の思想はもちろん、それに対する上野の批判の射程も適切に捉えているとは言えないように思います。もっとも、竹田や小浜らが吉本の思想をみずからの実存主義的な立場に引き付けて理解しようとしていたことは事実であり、また、竹田や彼に近い立場に立つ加藤典洋ポストモダンの立場に立つ思想家たちの間でなされた論争では、吉本の思想をどのように評価するかということが重要な焦点の一つになっています。ここでは、この論争に立ち入ることは控えますが、いずれ詳しく論じてみたいと考えています。

*9:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111頁

*10:吉本隆明全対談集 第9巻』(春秋社、1988年)154頁

*11:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*12:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*13:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』128頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』107頁

*17:小浜『男はどこにいるのか』26-27頁

*18:小浜『男はどこにいるのか』107-108頁

*19:とはいえ小浜の著作の中には、「力ある存在としての「男」、優美な存在としての「女」という文化象徴的な差異は、ちゃんと自然的根拠を持っているのであり、その基本線は今後も転倒するような変化を被ることはないし、解消させるべきでもない」(小浜逸郎『「男」という不安』(PHP新書、2001年)22頁)、あるいは「男がより多く社会で仕事をし、女がより多く家庭のことにかかわるという歴史的なパターンは、壊さなければならない「旧弊」ではなく、男女の自然的、生理的な相違に見合った意義深い基本形であると考えられる」(小浜『「男」という不安』49頁)といった、生物学的決定論に与していると見られるような言葉があることも事実です。ただしここでは、小浜の議論の細部に立ち入って検討することが目的ではないので、これらの発言について論じることは控えます。

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (7)

前回、竹田欲望論と岸田唯幻論の違いについて検討をおこなったところで、あくまでも「意識の水面」に定位しようとする竹田の立場が、現象学に対して繰り返し投げかけられてきた「先構成批判」に対する竹田の反批判にも通じているのではないかと述べておきました。このことを手がかりに、竹田のポストモダン思想に対する批判に含まれている問題のごく大まかな見取り図を描いてみたいのですが、それに先立ち、今回はもう少し具体的な場面に考察の対象を絞り込んでおきたいと思います。

 

まずは前回に続いて、竹田欲望論の立場からの岸田唯幻論に対する批判を、もう少し見ておくことにします。

 

 たとえば岸田秀も『幻想の未来』で、人間の欲望は「他人の欲望の模倣」だと言っている(ラカンもそう言う)。だがそれは、人間は欲望の定まった通路を、「本能」の形ではあらかじめ持っていないから、多くの場合それをまず母親という他者に見習って形成するという意味だ。青年の欲望も、他者が示してくる“範型”によって、その形式性を得る。つまり一切の欲望は、必ずその方向づけのモデルを必要とするということを、岸田秀は言おうとしているのである。
 だが、およそ欲望はその形式性を社会的に(後天的に)習得する、ということと、欲望の主観的性格とは、全く別の問題である。
 欲望は、外在的に言えば必ず「他者の欲望の模倣」であり、その意味では「構成」されたものでしかない。だが、内在的(超越論的)に言えば、それは必ず、他人の欲望ととり換えのきかない、〈私〉に固有のものなのだ*1

 

ここでは「構成」という言葉が使われていますが、こうした竹田の基本的な主張は、現象学に向けられてきた「先構成批判」に対する竹田の反批判にも一貫して見られるものだと言うことができます。先構成批判とは、意識の内において見いだされる確信が、私たちのさまざまな世界体験ないし世界認識の「底板」になっているという現象学の立場に繰り返し向けられてきた批判で、そうした意識の内に見いだされる確信に先だって、それを構成しているはずの深層心理的な条件や歴史的・社会的な条件があるのではないか、というものです。これに対して竹田は、そのような批判は「外在的」な視点からなされたものにすぎないと切り返します。そして彼は、そうした批判者たちの私的が妥当性を持つということも、意識の内における確信という「内在的」な直観に基づいているはずだと反論します。

 

竹田はこの後、外在的な視点から私たちの欲望が社会において「構成」されたものだということを指摘する岸田やラカン、あるいはジラールといった思想家たちを批判して、フッサールを引用しながらその主張を次のように敷衍しています。

 

フッサールの言い方をわたしたちは、いまたどってきたような文脈にひきよせて、こう受け取ればいい。
 実在論や経験論は具体的な世界がまずある、そして人間の夢はその反映だ、と言う。しかしわたしたちの常識からは驚くべきことだが、じつは、誰にとっても、リアルな世界認識がまずはじめにあって、その影絵のようにロマンの世界ができ上がるのではない。むしろロマン的世界への憧れがまず形づくられ、この欲望の形が人間の世界体験(世界認識を含む)を可能にしていると考えたほうがいい、と*2

 

竹田が、みずからの現象学・欲望論を応用することで突っ込んだ考察を重ねているテーマの一つに、「恋愛」があります。彼は、前回参照した『エロスの世界像』(講談社学術文庫)や『恋愛論』(ちくま学芸文庫)といった著作で、このテーマに取り組んでいるのですが、ここで注目したいのは、その中で彼が「本来の想世界」や「内部生命」に生きることを高らかに謳い上げた北村透谷に、好意的な言及をおこなっているということです。たとえば、透谷の「厭世詩家と女性」という文章の中の、次のような一節が参照されています。

 

春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは、古来、似非小説家の人生を卑しみて己れの卑陋なる理想の中に縮少したる毒弊なり、恋愛豈単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり*3

 

透谷のこの文について、竹田は次のように説明をおこなっています。

 

 恋愛とは「春心の勃発」にすぎないというのは古くからの俗見だ。恋愛の本質は単なる肉体的な引きつけ合いではなく、人間の内的世界の「ほんとう」や「真実」と深くかかわるものだ。これが透谷の直観なのだが、プラトンや透谷の恋愛観を単に「精神的愛」を強調する「プラトニズム」と考えるのはあまりにも素朴であって、そこで重要なのはあくまで恋愛という情熱の「本質」は何かという問いなのである(今日、この透谷の洞察をもう一度逆さにした考え方、恋愛などというのは近代以後作りあげられたロマンチックな観念にすぎず、かつては色恋しかなかった、という言い方が流行しているが、もちろんこちらが古くからある俗流の恋愛観であり、透谷の洞察の方が本質的であることはいうまでもない)*4

 

ここで竹田が批判的に言及しているのは、「ロマンティック・ラヴ・イデオロギー」という言葉で広く知られるようになった考え方です。前近代の日本には「恋愛」という概念はなく、「色恋」だけが存在していました。ところが、12世紀のヨーロッパで騎士道精神によって発明された「恋愛」という概念が、キリスト教とともに日本にもたらされました。その後「恋愛」は、遊郭文化を中心にして育まれてきたそれまでの「色好み」や「粋」とは異なり、男女の間の純粋で崇高な精神性に基づく営みであり、透谷らはそれを「近代的自我」にとって決して譲り渡すことのできないものとして称揚しました。現代では、近代という時代においてこうした「恋愛」という観念が形成されていった過程が明らかにされるとともに、それに対する批判がさかんになされていますが、竹田はこうした外在的な視点から「恋愛」を批判的に見直そうとする現代の思想家たちに抗して、透谷の立場を擁護しようとしているのです。

 

ところで、小谷野敦はこうした考えを「恋愛輸入品説」と呼んで、主として実証的な観点から繰り返し批判をおこなっています。以下では、彼の議論を参照しながら、もう少し現代における「恋愛」論の中身に立ち入ってみることにします。

 

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

 

 

小谷野は「恋愛輸入品説」の始まりを、フランス文学者の新倉俊一に求めています*5が、それが広く流布するようになったのは、1980年頃に柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波新書)や柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)以降のことだとしています*6。そこで参照されているのが、柄谷の次のような文章です。

 

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

 

 

しかし、透谷がいう「恋愛」はけっして自然なものではない。たしかに「粋」は不自然だが、「恋愛」もまた同じである。古代日本人に「恋」はあったが恋愛はなかった。同じように、古代ギリシャ人もローマ人も「恋愛」を知らなかった。なぜなら、「恋愛」は西ヨーロッパに発生した観念だからである。ドニ・ド・ルージュモンが『西欧と愛』のなかでいっていることはやや疑わしいが、確実なのは、西欧の「情熱恋愛」がたとえ反キリスト教的なものであっても、キリスト教のなかでこそ発生しえた「病気」だということである*7

 

また上野千鶴子も、透谷によってもたらされた近代的な「恋愛」の中に潜む抑圧的な性格を指摘しています。

 

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

 

 

 「恋愛」を「精神的」なものとして「観念」化することによって、透谷はたしかに「恋」と「情欲」がわかちがたい江戸期までの恋愛観を超克し、近代的な恋愛観をうちたてたと見なされている。だが「観念」としての「恋愛」は、その成立のはじめから、男の側のひとりよがりだったのである。この男仕立ての「恋愛」観が、近代の疫病のごとくはびこった結果、この観念を「共演」してしまった不幸な女たちもまた存在した。たとえば高村光太郎の妻、智恵子は、光太郎に「美神」として奉られ、その役割を引き受けることで「無垢」の闇の中に追いやられた。黒澤亜里子は『女の首』のなかで、男の観念の餌食となった女性の不幸を鋭く衝いている*8

 

こうしたフェミニズムの方から上げられた告発の声の高まりを受けて、竹田は控えめながらも何度か反論をおこなっています。たとえば上野に対して、「最近ちょっと鼻白んだのは、上野千鶴子などを代表とする、「ネオ・マルクス主義フェミニズム」とかいう新種の女性論議である」*9と述べています。

 

上野に代表されるフェミニズムの主張には、ある強固なイメージが付きまとっていると竹田は言います。そのイメージとは、「世の女性は、根本的に歪んだ大きな制度(男権制)の中に閉じ込められているために、みじめな欲望とみじめな生しかつかむことができない」*10というものです。このように指摘した上で、竹田は次のような議論を展開します。

 

世の中にすでに作りあげられている制度(人間の生き方の道すじ)は、いつの時代でもある意味で確かにひとつの制限、枠組みである。だがこの生き方の枠組みはまた、いつの時代でも、人間がその中で生の欲望をつかむための現実的な理由でもある。ひとりの女性が男との生活のために家を作り、子に夢を託すことに幸せを求めることを、そのまま誤った欲望とは言えない。ただ、さまざまな事情が彼女の夢を失調させ、なおこの枠組みが彼女を縛りつけるように現われたとき、はじめてその枠組みは、「悪しき制度」という形で意識される。そのときはじめて女性は、この制度(世間の目)に抗って生きることに、新たな生の理由を見出す*11

 

フェミニズムは、現在の男女の関係を規定しているさまざまな「制度」は歴史的な所産にすぎないということを明らかにしてきました。しかし、それらが「作られた」ものにすぎないという指摘は、ただちにそれらが不当なものであり廃棄されなければならないということを意味するわけではありません。近代的な「恋愛」の観念が、ある時代に作られ、それが今なお私たちの生き方を強固に規定しているという「外在的」な視点からの指摘は、それがどれほど正しいものであったとしても、私たちがある人に想いを寄せたり、振り向いてもらいたいと願ったり、あるいはひどく心を傷つけられたりといった、「内在的」に直観されるエロス的な情熱を無意味なものとしてしまうことはありません。

 

言うまでもなく、この社会に存する特定の「制度」が、私たちの多くの主観的確信において理不尽で差別的なものと直観されるとき、それを告発するフェミニストの主張は、私たちの「内在的」な確信において妥当なものとして認められるはずです。このとき、フェミニズムからの告発は、この社会における人々の関係のあり方を変えていく現実的な力へと育っていくに違いありません。しかしその場合でも、私たちはみずからの内に直観される確信が「底板」となっているという竹田の基本的な主張は依然として成り立っているはずだと考えることができるでしょう。

 

さて、ここまで私たちは、できるだけ竹田自身の基本的な主張に沿うように努めながら、彼の議論を確認してきました。ポストモダン思想に対する竹田の批判にも、これと同様の議論が見出だされるのですが、まずは具体的な場面に即して、こうした竹田の基本的な主張に対して私が抱いている疑問の在り処を指し示してみたいと考えています。

 

しかしその前にもう少しだけ寄り道をして、竹田と同じく実存の立場を拠点にしながらさまざまな領域でアクチュアルな思想を展開している小浜逸郎の議論を紹介しておきます。私の見るところでは、小浜の議論には竹田現象学に対して私の抱いている疑問点が、いっそう明瞭な形で示されているように思われるからです。

 

小浜の思想は、竹田のようにフッサールハイデガーといった特定の哲学者の思想について検討をおこないながら独自の思想を紡ぎだしていくというスタイルを取らず、私たちの生きる社会の中の具体的な問題を手がかりにしながら展開されているように見えます。ただし『エロス身体論』(平凡社新書、2004年)という著作では、彼の思想の理論的な中軸をなしているものに、議論の焦点が向けられているように思われます。この著作の中で小浜は、ハイデガーの「世界内存在」の実存哲学的な側面を切り出してきたような主張を展開しています。

 

エロス身体論 (平凡社新書)

エロス身体論 (平凡社新書)

 

 

そもそも世界が私にとってどのようでありうるか、また私が世界にとってどのようでありうるかを私自身にそのつど画定させるのは、私の「気遣い」「配慮」「関心」(独:Sorge 英:care)である。この場合、「気遣い」「配慮」「関心」といった言葉は、単に意識的な「注意」というような純心理学的な要素と考えられてはならない。それは、身体と心とにいまだはっきりと分節され得ない全心身の、世界への素朴な向き合い方そのものを意味する*12

 

ここでは、小浜のこうした主張について踏み込んだ考察をおこなうことは控え、彼が竹田同様、実存的な場所にみずからの思想的な立脚点を見いだそうとしていることを確認して、先を急ぐことにします。

 

さて、小浜はこうした立場から、フェミニズムに対する厳しい批判を展開します。たとえば『男はどこにいるのか』(ポット出版、2007年)という著書で彼は、確かに女性解放運動は、男女の間の法的・社会的な平等を実現するための制度改革を実現に導いてきたとひとまず肯定的に評価した上で、次のような疑問を記しています。ところが、こうした運動の結果、社会の中から目に見える差別が撤廃されていき、いまだ不十分なところを残しているとはいえ、男女の平等がある程度まで実現されてくるようになると、今度は日常的な人々の意識の中に知らず知らずのうちに入り込んでいる隠れた性差別を発見することにフェミニズムの関心が移っていきます。そして、「ここらあたりから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとう」*13と小浜は言い、批判を開始します。

 

男はどこにいるのか

男はどこにいるのか

 

 

私たちは、この社会のさまざまなところに、固定化された性差のイメージを反復・強化するような事例を発見することができます。たとえば、「航空会社のポスターにおいて、きれいな若い女性を、腹のでた禿頭の中年男性よりもモデルに選ぶ確率が圧倒的に高い」*14という例を取り上げて、そこに「見る」男に対して「見られる」女という、性的魅力の社会的な意味の非対称性が存在していると主張することは可能でしょう。じじつフェミニズムには、こうしたミクロな権力装置が現代の社会の抑圧的な構造を再生産することになっていると告発する議論が見られます。

 

しかし小浜は、このような非対称性は単に男性の一方的な性欲に訴えているのではなく、現実の中で男女双方が承認しつつ参加している「私たちのエロス的な非対称的磁場のあり方」*15に根差していると主張します。

 

「見られる」という受動は、実は「見せる」という能動である。女性の自己客体化の欲望は、それがいかに歴史的構造のなかで仕組まれたものであろうと、主体によって選ばれた能動的意志的な行為であることには変わりがないのだ。それでなければ、自分のなかに他者を引きつける美を何ほどか実感できたとき、どうしてある自由と喜びの感覚をわがものとすることができようか*16

 

だから、それがたとえ人々の性にまつわる意識の非対称性を再生産し続けるような装置の役割を果たしているからと言って、ただちにそれを排するべきだという結論づけることはできないと彼は考えます*17。もし仮に、その広告が男性の大多数にとっては快を感じさせるものでありながら、女性の大多数にとって不快であるような表現だったとすれば、その広告は時を置かずして撤去されることになるでしょうが、それは単にその広告が失敗したというにすぎません。

 

私たちの日常の中に入り込んでいる男女の非対称性を告発するフェミニズムの議論は、人々の生活感情の中に働いているはずのエロス性を、思想の内に繰り込んでいないと小浜は批判しています。広告などに見られる男女の非対称性を指摘しそれを告発する論者たちは、「平等」という抽象的な理念のみに基づいて、非対称性を容認することはできないと主張しているにすぎないのです。そのため、「結局ごく普通の両性は、いったいあれは何を争っているのだと戸惑うばかりで、「いいじゃないの、幸せならば」という冷ややかな視線を返すしかないのである」*18と小浜は述べています。

 

性について論じるのであれば、たとえば広告表現における性の非対称性を、理念的な観念の操作によって告発するのではなく、個別的な経験において感得されたみずからのエロス的な心の動きを内側からたどっていくことで、その内実を思想へと鍛え上げていくのでなければなりません。「たとえば自分がきれいだといわれてこころ浮き浮きしたこととか、他人の美貌や才能や境遇を羨ましく感じたこととか、さらにそのような感得によって、あるときは自分の欲望を一つの方向に伸長させたり、あるときは断念によって自分を組織しなおしたりして自分の過去をかたちづくってきたこと」*19といった具体的で個別的な経験の中に思想の立脚点を求めるべきだと、小浜は主張します。

 

こうした小浜の立場が、竹田の立場に極めて近いことは明らかでしょう*20。そこで次回は、小浜のフェミニズムに対する批判を手がかりにすることで、こうした主張の中に潜んでいる問題点を探ってみたいと思います。

 

*1:竹田青嗣『陽水の快楽―井上陽水論』(河出書房新社、1986年)32頁

*2:竹田『陽水の快楽』36頁

*3:『日本文学全集1 坪内逍遥 二葉亭四迷 北村透谷集』(筑摩書房、1970年)429頁

*4:竹田青嗣プラトン入門』(ちくま学芸文庫、2015年)227-228頁

*5:小谷野敦『男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー』(新曜社、1997年)14頁参照

*6:さらに小谷野は、佐伯順子の『「色」と「恋」の比較文化史』(岩波書店)によって、「恋愛輸入品説」は一種の「流行」にまでなったと言います。この書の中で佐伯は、前近代の日本には自由な性愛の世界が存在していたと主張しており、小谷野がこれを「江戸幻想」と読んで繰り返し批判していることも、今では広く知られていると言ってよいでしょう。小谷野は「江戸幻想」の発生を、田中優子の『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫、1986年)と佐伯順子の『遊女の文化史』(中公新書、1987年)に求め、佐伯の著書は柳田國男の中世以前の「遊女」に関する議論を近世の「女郎」にまで敷衍したもので、「中世以前の遊女が持っていたとされる巫女性を近世の遊郭にまで持ち込むのは強引」(小谷野敦江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』(新曜社、1999年)37-38頁)だと批判しています。さらに小谷野によれば、フェミニズムは当初佐伯の著書に対して批判的でしたが、売春を男による女の搾取として批判する立場から、「性の自己決定権」を認め自由意志によって売春をおこなう女性の労働者としての権利を保護していくべきだという主張が大きくなっていき、近代の抑圧的な「恋愛」を批判しつつ近世における性の自由を称揚する言説が主流的になっていきます。小谷野は、上野千鶴子をはじめとするフェミニズムの論者たちの中から「江戸幻想」に積極的に加担する主張が登場するようになり、「近世の日本には正の抑圧がなかった」という「江戸幻想」がいっそう広まることになったと言います。言うまでもなく、小谷野の「江戸幻想」や「恋愛輸入品説」に対する批判は、歴史的事実を正確に踏まえた上でそれぞれの時代や文化における性愛の実相を評価するべきだというものであり、哲学的な観点からなされる竹田の「恋愛輸入品説」への批判とはまったく異なる観点に立つものです。

*7:柄谷行人日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫、1979年)106-107頁

*8:上野千鶴子『発情装置―エロスのシナリオ』(筑摩書房、1998年)111頁

*9:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』253頁

*10:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』254-255頁

*11:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』255頁

*12:小浜逸郎『エロス身体論』(平凡社新書、2004年)72頁

*13:小浜逸郎『男はどこにいるのか』(ポット出版、2007年)32頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』88頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』89頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』166頁

*17:小浜は別のところで、「女の子は男の子に比べて一般的にエロス的な意味でませているから、すでに三、四歳の頃から、自分が周囲にどのように見られているかということをたいへん気にする」(小浜『エロス身体論』143頁)と述べています。その上で、竹田と同様、ヘーゲルの『精神現象学』における意識の発展の過程を、私たち人間の実存的なあり方の発展過程として捉えなおしながら、「人間にとって根源的なものは、ヘーゲルがとらえたように、自分を他者とかかわらせることを通して、他者に自分の存在を承認してもらい、そのことによって、自分がいま・ここにあることをみずから肯定したいという欲求なのである」(小浜『エロス身体論』149頁)と主張します。

*18:小浜『男はどこにいるのか』34頁

*19:小浜『男はどこにいるのか』96-97頁

*20:竹田は小浜との対談の中で、「男女の性差は、力や能力の差異だとか、お金を持っている持っていないという差異だとかとは違うところがあって、その肝心なポイントは、それが人間のエロス性の根源、源泉になっている、ということだと思います」(竹田青嗣小浜逸郎『力への思想』(學藝書林、1994年)143-144頁)と述べています。この発言を受けて小浜は、次のようにみずからの主張を語っています。「竹田さんは、性差の存在がエロス関係の根源だと言われたのですが、それはまったくそのとおりで、普通の女性が自分が〈女性〉であるということ、つまり〈男性〉との再関係として〈女性〉であるということを、自分が生きるということの最も深いアイデンティティにしている、そのことは否定できないわけです。つまり、自分が〈女性〉であるということで、場合によっては、男性の視線を浴びることで不幸な関係に陥ることがあるかもしれない。だけれども、別にその〈違い〉から這いあがろうと全然思わずに、その〈違い〉そのものに生の意味を見出し、自分の〈女性〉としての人生を設計していこうと感じている、感じるだけでなく、まさにそういうように生きている多くの女性がいるということ、ここだけは覆すことができないと思います」(竹田・小浜『力への思想』147頁)。また竹田も、こうした小浜の実存的な立場に近いところから、次のように主張しています。「ひょっとしたら、性差をなくそうと思ったら、なくせるのかもしれない。ただ、現実に生きている人間の生の条件にとって、そのことがどういう意味をもたらすかということをよく考える必要があるわけです」(竹田・小浜『力への思想』160頁)。

漢字検定の「アホらしさ」について

先日、近くのブックオフの100円・200円均一の棚に、漢字検定準1級の問題集が何冊かあったので、購入しました。

 

何年か前に、テレビ朝日のクイズ番組『Qさま!!』で多くの芸能人が漢字検定を受けていましたが、その頃が「漢字ブーム」のピークだったのではないかと記憶しています。2009年に日本漢字検定協会の資産を理事長が私的に流用していたことがニュースになったこともありましたが、「漢字ブーム」の熱がこれによって冷めることもなく、現在でも根強いものがあるように思います。

 

協会の体質のことはさておき、漢字検定そのものに対して不信感を抱く向きもあるようで、そうした発言の中でしばしば言及されているのが、中国文学の研究者として知られる高島俊男の書いた、「漢字検定のアホらしさ」というエッセイです。その辛辣な批判を引用してみましょう。

 

お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ

お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ

 

 

 実際にどんな問題が出るのか、問題集を買ってきて、出版社の編集者といっしょにやってみた。
 あきれかえるほどのひどい問題ぞろいで、問題を作った人の程度の低さがよくわかる。ついでに、こんな愚問ぞろいの検定試験を受けて、できたのできなかったのと一喜一憂している人の程度の低さもわかる*1

 

高島はいくつもの例をあげながら漢検の問題のおかしさをこき下ろしていますが、そうした「アホらしさ」の生まれる原因を、次のように指摘しています。

 

 二級までは、「解答には、常用漢字旧字体や表外漢字および常用漢字音訓表以外の読みを使ってはいけない」というワクをはめてあるから、教科書なり学習参考書なりを見て適当なところをひっこぬいて、「次の漢字をひらがなで記せ」とか「次のカタカナ部分を漢字に直せ」とか問題にすればよい。
 準一級、一級になると、急に右のワクがはずれる。そうすると、問題の作り手の教養のなさ、常識のなさ、つまりは程度の低さが露呈する。漢和辞典や漢字漢文の本から、なるべくむずかしげな、自分にもわからない字やことばを拾って問題にするのだろうが、その問題がまったく無系統で断片的である。字やことばの持つ雰囲気、気分、使いどころなどを知らないから、奇妙キテレツな文章ができる*2

 

こう述べた上で、「こんな試験を受けるほうこそ災難である。もっとも好きこのんで受けるのだから手の施しようがないが」*3と嘆いています。

 

私には、高島に指摘されていることの妥当性を判定することなどとうてい不可能なのですが、このエッセイが収録されている『お言葉ですが…』シリーズを読んでその著者の学識の深さには常々敬服しているので、彼がそう言うのであればきっとその通りに違いないと思っています。

 

ところで、以前これによく似た批判を目にしたことがあるなと思い、記憶の糸をたぐってみたところ、酒井邦秀による受験英語・学校英語に対する批判だったと思い当たりました。

 

どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)

どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)

 

 

酒井がとくに激しい言葉で批判しているのは、鈴木長十と伊藤和夫によって書かれた『基本英文700選』(駿台文庫)です。著名なこの本に対して酒井は、「その奇妙奇天烈なこと、まさに天下の奇書と言っていいでしょう」*4といった調子で、こちらも高島に負けず辛辣な言葉を連ねています。

 

酒井は、この本に収録されている英文について、「一応文法的には正しい文章がほとんどです」*5としながらも、「しかし、文法さえ正しければ自然な英語になるかというと、そうはいきません」*6と言って、具体的な例を引きながら、「文法的に正しいということがどんなにむなしいものか」*7を指摘しています。

 

酒井は「二人〔『700選』の著者である鈴木と伊藤を指す―引用者〕ののんきさを示す特徴の一つは、文の調子をまったく理解していないことです。『700選』は、友だちと話しているときのくだけた調子も、法律や学術論文の固い調子も、まったく区別していないのです」*8と前置きしてから、次のような例文をやり玉に挙げています。

 

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

 

 

448. The paint on the seat on which you are sitting is still wet.
 君が座っている椅子のペンキはまだ塗りたてだよ*9.

 

この文に対する酒井の批判は次のようなものです。

 

 これはもう笑うしかないでしょう。訳はたしかに会話なのですが、英文はいやにもったいぶってon whichなどという、こんな状況では絶対に出てくるはずのない堅苦しい言い方が使ってあります。
 古くさいドタバタ喜劇のセリフにはあるかもしれません。「ペンキ塗りたてですよ」と注意するだけなのに、わざと時間をかけて持ってまわった言い方をして笑わせようというわけです*10

 

ここでも私自身は、酒井が理解しているのと同じレヴェルで、この英文の不自然さを理解しているわけではありませんが、きっと彼が述べている通りなのだろうと考えています。ただ、学校英語や受験英語を排することが、本当に日本人の英語力の向上につながるのか、自信をもって判断することができません。

 

もちろん私も、英語の教科書や参考書の文章がなるべく自然な英文であってほしいと願っています。だから、酒井が指摘するような不自然さがあるのだとすれば、著者や出版社はそうした英文をより自然なものに替えていくよう努力するべきだと思います。

 

ただ、あえて極端な例を挙げますが、初歩の英文法を学んでいる人にとっては、「This is a pen.」という英語が使われる状況はほとんどない、といったようなことは、あまり気にする必要はないように思います。このレヴェルの学習者にとって大切なのは、be動詞がis、am、areと変化するということを覚えることなのであって、例文の自然さといったようなことに気を配るのは、それほど優先順位の高い事柄とも思えません。

 

私自身の英語の能力はまったく未熟ではありますが、いつかは酒井が論じているような、状況に対して適切な英語表現を身につけたいと願っています。だから、私などよりずっと英語の学習が進んだレヴェルの人たちが、例文の自然さを気にすることには、十分な理由があると考えています。

 

そして、これと同じことが漢字検定についても言えるのではないかと思うのです。たとえば高島は、「列車が方に出発するところだった。」という問題を取り上げて、次のように批判しています。

 

 漢文に「方」が出てくれば、前後の文脈によって「マサニ」と訓読するばあいがある。しかし日本語の現代口語文で、「列車がまさに出発するところ」を「方に出発するところ」と書くことはない。言葉にも文字にも使いどころというものがある。これではムチャクチャである。

 

高島ほどの碩学ではなくても、ある程度漢字や漢文についての素養のある人にとっては、こうした問題は無視してよいものではないのだろう、と思います。しかし、私自身や、漢字検定に合格することをめざして勉強に励んでいる人の多くは、「方に」と書かれているのを見て、「「かたに」? 「ほうに」? なんだそりゃ」というようなレヴェルでしょう。そのようなレヴェルの者に必要なのは、とにかく「方に」と書いて「まさに」と読む場合があるということを学ぶことであり、そのような言い回しのニュアンスやそれが用いられる適切な状況、使いどころなどを知ることは、とりあえずは重要な問題ではないように思います。

 

高島は、「こんな愚問ぞろいの検定試験を受けて、できたのできなかったのと一喜一憂している人の程度の低さもわかる」*11と述べていました。もし、仮にですが、私のようなレヴェルの者のことを「程度が低い」と言うのだとすれば、「程度が低い」のは事実なのですから、その通りだと言うほかありません。とはいえ、誰であろうと「程度が低い」段階を通ってきたに違いないのですから、そのことを恥じるつもりもありません。

 

受験英語にしても漢字検定にしても、要はそれらが登った後に捨てられるべきハシゴだということを心に留めておけばよいのではないでしょうか。

 

ちなみに、毒舌ということにかけては高島や酒井に勝るとも劣らない関口存男はドイツ語文法の学習書の中で、「Schnee(雪)は、英語のsnowに相当する語で、[シュネー]と発音します」*12といった具合に、発音をカタカナで表記しているのですが、もちろん厳密に言えばドイツ語のSchneeの発音と、日本語の[シュネー]という発音は、同じではありません。このことについて、関口は次のように述べています。

 

CD付 関口・初等ドイツ語講座〈上巻〉

CD付 関口・初等ドイツ語講座〈上巻〉

 

 

また、発音の初歩を書物で習う人たちが、そう細かいところまで心配しだした日には際限がありません。そんな厄介なことは、いずれまた先へ行って、ドイツ人の発音を直接聞くような機会でも生じた際に、また改めて注意して訂正したほうがよろしい。そんな事を、書物の上で、そもそもの出発点からいやにやかましく説いたり説かれたりする著者や読者があったとすれば、それは両方とも低能児の寄り合いで、著者も彼が何を教えなければならないかを忘れており、読者も彼が何を習うべきかを忘れている、と言わなければなりますまい*13

 

言うまでもありませんが、このように述べたからと言って、漢字検定の問題が、高島から批判されるような状態のままでよいと考えているわけではありません。漢字検定にせよ受験英語にせよ、適切とは言えない問題が出題されたことに対して、漢字や英語に関する深い教養を持つ識者からの批判がなされることは望ましいことです。

 

なお、ここで取り上げた高島の漢字検定批判の文章が発表されたのは2009年のことのようです。『漢字と日本人』(文春新書)などの著書もある高島の名前は、多少とも漢字に関心のある人の間では広く知られているので、漢字検定の主催者も高島の批判のあることは当然知っているはずです。彼らがこの批判を知って、問題の見直しをおこなったのかどうかは知りませんが、あまりにひどいデタラメはなくなっていることを願っています。

 

*1:高島俊男漢字検定のアホらしさ お言葉ですが…別巻3』(連合出版、2015年)13頁

*2:高島『漢字検定のアホらしさ』26頁

*3:高島『漢字検定のアホらしさ』26頁

*4:酒井邦秀『どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬』(ちくま学芸文庫、1996年)147頁

*5:酒井『どうして英語が使えない?』148-149頁

*6:酒井『どうして英語が使えない?』149頁

*7:酒井『どうして英語が使えない?』148-149頁

*8:酒井『どうして英語が使えない?』152頁

*9:鈴木長十・伊藤和夫編『新・基本英文700選』(駿台文庫、2002年)108-109頁

*10:酒井『どうして英語が使えない?』153頁

*11:高島『漢字検定のアホらしさ』13頁

*12:関口存男生誕100周年記念著作集ドイツ語学編9 改訂標準初等ドイツ語講座』(1994年、三修社)9頁

*13:関口存男生誕100周年記念著作集ドイツ語学編9』9-10頁

当ブログが紹介されました

四畳半大学 宮国研究室」というサイトで、当ブログの「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く」という記事を紹介していただきました。なんだか退路を断たれてしまったみたいで、どうしても結論にまでたどり着かないといけないような気が……。

 

http://miya.aki.gs/mblog/?p=4419

 

サイトを運営されているのは宮国さんという方で、「純粋経験論」という考えを軸に、粘り強い哲学的思索を展開されています。