はじめに

日々の生活のなかで興味を抱いたことや、いまだ一つの考えにまとまらない頭のなかのぐじゃぐじゃを、そのまま吐き出すように記していきます。

 

なお、とくにことわることなく内容の変更や削除をおこなうことがありますが、ご了承ください。

 

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (8)

前回は、竹田がフェミニズムからの問題提起に対してどのようなスタンスを取っていたのかということを見てきました。そこでの狙いは、具体的な局面を設定することで、ポストモダン思想などによる「先構成批判」に対して竹田がおこなっている反批判の問題点を明らかにするための準備をすることでした。また、同じような意図から、竹田と同様に実存的な立場からフェミニズム批判をおこなっている小浜逸郎の議論を概観しておきました。今回は、小浜とフェミニズムの間でなされた論争を見ていくことで、彼の実存主義的な思想が抱え込んでいるのではないかと思われる問題について考えてみたいと思います。

 

社会学者の浅井美智子は、小浜の「エロス的関係」*1という概念が吉本隆明の「対幻想」を現象学的な観点から捉え返したものだと指摘し、これに対する批判をおこなっています。彼女は、「結局、「エロス的関係」というのも、母性幻想に収斂するような彼個人の「実感」でしかないことがわかる」*2と言い、小浜の「実感信仰」を批判するのですが、まずは、彼女が批判の対象にしている小浜の議論を確認しておきましょう。

 

小浜は、「たとえば家庭内で、妻が家事・育児にてんてこまいをしているかたわら、夫がなすこともなくタバコをふかしていたりぼんやりテレビを見ていたりする場合、あるいは共稼ぎなのに家事・育児の負担が妻の方に過重にかかってしまうような場合、それを〈差別〉と呼ぶべきだろうか」*3と問いかけ、次のように述べています。

 

可能性としての家族

可能性としての家族

 

 

しかしエロス的な生活過程というのは、対の関係の特殊な相互了解によって作りあげられるさまざまな局面の永い一連の過程の全体であるから、そこだけをとりだして現象的不平等をあげつらってみても、どうもそういう一般的定式で片づくものでもないという気持ちがはたらく。家では何もしない亭主というのがいても、もし女房が別にそれで自分たちの関係はいい(あるいはしかたない)と思っているのだったらいいではないか、と言いたくなるのである*4

 

また別のところでは、小浜は次のような例をあげています。

 

 古い言いぐさに、男は三人の「ママ」をもつというのがある。母親、女房、そしてバーのママである。日本の男のマザコン性や甘ったれ根性やだらしなさを嘲笑するために作られたようなこの表現は、それだけで男に対して、「もっとしっかりしなくちゃ」という強迫観念や、逆に「しょうがねえもんだな」というあきらめ感を喚起する。〔中略〕
 しかし、よくよく考えてみると、ある男が社会的にきちんと一人前でありつつ、男であるがゆえに「母性」をどこかで求めているとしたら、その事実は、性愛関係にとってそれほど悪いことであろうか。私はそう思わない。相手の女が男のこの求めを無意識的によく察知して、いわゆる「母性本能」をくすぐられ、それを媒介として性愛関係のうまいかみ合いが成立するなら、この〔中略〕関係のあり方それ自体は、祝福されるべきことでありこそすれ、何ら非難されるべきことではない。闘い疲れて女の元にやってきた男が女の優しいねぎらいによって癒しを得られ、そのことに感謝して男のほうもその女の人格を尊重する感情を高め、かつ優しく振る舞うことを忘れないとすれば、それはいい関係ではないか*5

 

浅井はこうした小浜の議論に対して、「個別男女の対の関係において、女が男の母親をやってしまうのは勝手だが、この論の行き着く先が「女性が甘え、男性がミエをはる」というような男女関係の容認であ」*6るということを指摘した上で、次のように述べます。

 

このような言説にフェミニストが怒るのは当然としても、一男性の抱く個別対幻想の一般化は、現にある抑圧(女は社会で男にいばられ、家庭で夫という子どものわがままに抑圧される。そして、男は社会で「男である」というミエに脅迫され、家庭においては母性を幻想するがゆえに妻に搾取される)を保持強化することに加担するのである*7

 

浅井は、主観的な確信にすぎない「実感」を思想的な足場にする小浜の主張に対して、上野千鶴子吉本隆明批判*8を参照しながら、「「実感」自体は歴史的・文化的につくられたものであり、それはゆがめられたものであるかもしれない」*9ことを指摘します。その上で、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」*10ことが必要だと主張しています。

 

こうした浅井の小浜に対する批判は、果たして的確なものと言えるでしょうか。なるほど小浜は、みずからのエロス的な心の感得のありようを見つめることで、男女のあり方の〈本質〉的な差異を明確な言葉にもたらそうとしているという意味では、「実感信仰」の立場だと言えなくもありません。たとえば小浜は、「産む性」としての女の〈本質〉について、次のように語っています。

 

 子どもを産むということは、私の想像では、自分のエロス的な生活の時間の目盛りを、うんと長い未来にまで延長し、しかも同時にその性的な行動の領域をきわめて具体的な形で限定して見せることにつながってくると思う。自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受け取ってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である、長い物語を与えられたのである*11

 

だから、「女は自分が女であることのアイデンティティの危機を経験することが相対的に少ない」*12と小浜は言います。これは、子を産み育てていく長い時間が、「女」であることのアイデンティティを規定しているということにほかなりません。

 

これに対して、「男には、自分の未来時間の長い射程を、自分のエロス的な身体のあり方を軸として、一定の分節をもって物語化していけるような条件が与えられていない」*13と小浜は言い、次のように論じています。

 

 彼にとって、個別愛が成立する可能性は、自然なものよりも、むしろ後から観念として作られる倫理性のほうに大きくかかっている。男が一人の女のまえで、長い間彼女にとっての男であるためには、それこそ「男のなんとか」とか、「それでこそ男だ」などと形容されるような、一種気取った意識的な「決意」のようなものが要求されてくるのである。
 これらの「決意」のようなものは、本当は時間的空虚の穴埋めにほかならない。つまりそれらは、長い人生時間を通じて男であることのアイデンティティを保持することがいかに危ういものであるかという事実を逆説的に証明する材料以外の何ものでもない。もともと女との濃密なエロス的時間を共有していないときの男というのは、自分が男であることを確認する手立てなどもっていないのである*14

 

その上で小浜は、長い人生時間を通じて「男」としてのアイデンティティを保持することのできない男性が、彼の人生のとぎれた時間を埋め合わせようとして、社会的な領域におけるアイデンティティの獲得へと向かったのではないかと主張します。つまり、「男のセクシュアリティの特性と、彼が社会的な(それゆえある場合には権力的な)生き方を人生の主要部分としてしまうこととの間には、なかなかに超え難い関連性がある」*15というのです。

 

自己の内における実感に基づいて男女のあり方の〈本質〉を決めつけるような言説に対して、フェミニズムは繰り返し批判をおこなってきました。その際、現在の社会において当然視されている実感は、じつは特定の社会や文化の中で構成されたものにすぎず、動かすことのできない〈本質〉ではないということが指摘されます。しかし小浜は、そうした批判について、「私は常々、こういう論理の出し方にうさんくさいものを感じてきた」*16と述べます。

 

もしも小浜が、彼の個人的な実感を無反省に人類にとって普遍的なものであるかのように論じているのであれば、そうした実感が歴史的に「作られた」ものにすぎず、けっして普遍的なものではないと指摘することは、有効な反論になりえたでしょう。しかし小浜の立場は、こうした素朴な実感信仰とは一線を画しています。彼の著作の中には、たとえば次のような文章を見出すことができます。

 

 一般に、フェミニズムに象徴される現代の知性の一つのパターンとして、これこれのあり方は、歴史的に作られ、仕組まれてきたにすぎないといったことをことさらに強調するやり方がある。たとえば、「専業主婦」は近代になって初めて登場した、といったたぐいの指摘がそれである。
 しかし、この種の認識はたかだか相対的にしか正しさをもっていない。それを、絶対の真実であるかのように思い込ませるものは、現在の枠組を是が非でも変えなくてはならないと思っている実践的な関心と欲望である。つまり、現在自然と思われていることがいかに根拠の浅いものであるかということを証明して見せなくてはならない、というように、この実践的知性は働くのである。真実がまずあるのではなく、関心と欲望にしたがって真実らしいものがセレクトされ、絶対的真実のアクセントを打たれるにすぎないのだ*17

 

研究者たちはこれまで、従来私たちが当たり前だと思っていた男女のあり方が、じつは一定の歴史的・社会的な条件のもとで形成された、特殊な「制度」にすぎないということを、次々に明らかにしてきました。しかし人びとは、ただそれらの研究成果を知っただけでは、これまで疑うこともなく当然視してきた「制度」を問い直し新たな「制度」の実現に向けて積極的に活動をおこなうようになるわけではありません。実証的な研究の成果は、ただの歴史的な事実の提示にすぎないのです。人がそれらの研究において従来の社会のあり方に反省を迫るようなインパクトを認めるとき、彼は実存的な主体である自己の内に見出される「実践的な関心と欲望」に依拠しているはずだと小浜は主張します。

 

 私たちを驚かす歴史的文化人類学的な現実がまず厳然として存在するのではない。私たち自身の現実に対する私たちのある感情的負荷をともなった視線が、歴史的文化人類学的な実証成果を取り巻き、そのことによって初めてそれらは実践意志的な言説のなかに、ある拡大率をかけられ、またそれらがともなっていたに違いないひどさ、体験的辛さ、他のきつい掟などとの不可分の連関性などを捨象されて引き入れられるのである*18

 

こうした小浜の立場を「素朴な実感信仰」と呼ぶことは、適切ではありません。確かに彼は、実存の内において見出されるエロス的な感得、すなわち実感に依拠しています。しかし、そうした実感は歴史的・社会的に「構成」されたものだという批判によって、彼の立場を否定し去ることはできません。そのような批判に対して小浜は、既存の制度は歴史的・社会的に「構成」されたものにすぎず、変更することができるし、また変更するべきだと主張する者たちも、彼ら/彼女らの「実感」に基づいて、そうした主張をおこなっているはずだと切り返すことでしょう*19。このような小浜の立場を、「素朴な実感信仰」と区別して、「反省的・自覚的な実感信仰」と呼ぶことができるかもしれません。

 

すでに見たように浅井は、実感に依拠する小浜の立場を批判して、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」ことを求めていました。しかし、「素朴な実感信仰」ではなく「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ小浜は、こうした反省をおこなうことの必要性を認めたとしても、みずからの立場を修正する必要はないと考えるでしょう。

 

いかなる学問的な言説であっても、その妥当性を認めたり、そこに何らかの意味を見出すのは、私たちの実践的な欲望や関心なのであって、あらゆる言説はそうした実存的な地盤の上においてのみ成り立つはずだ、というのが小浜の主張でした。およそ誠実な思想家であれば、他者からの批判を受けた際に、改めてみずからの主張を検討しなおそうとする実存的な動機を持つはずです。浅井は小浜に対して、みずからの実感を徹底的に問い直すことを要求していますが、このことは彼女に指摘されるまでもなく、思想家としての小浜自身の実存的な動機に基づいておこなわれているはずだと考えられるでしょう。

 

また、仮に小浜が、自身のこれまでの主張よりも批判の方に妥当性を認めざるを得ないと判断したとすれば、今度もやはり彼自身の実存的な動機に基づいて、これまでの主張を改めることになるでしょう。そしてこのことは、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ彼にとっては、「転向」でも「変節」でもありません。彼がみずからの実存的な地盤に基づいて発言をおこなっているという点には、いささかの変更も加えられていないからです。フェミニズムからの批判の妥当性を認めた彼は、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場を少しも変更することなく、みずからの実存的な感得に依拠して、この社会のさまざまなところで目にする男女の非対称的な関係性を告発し、そうした差別をみずからの「実感」に基づいて温存しようとする論者たちに対して抗弁することになるでしょう。

 

さて、小浜の「反省的・自覚的な実感信仰」の立場をこのように理解できるとして、私たちは彼のフェミニズム批判の正しさを認めなければならないのでしょうか。確かに彼の立場は単なる「素朴な実感信仰」の問題点を克服しており、その主張には相当な説得力があるように感じられます。しかし、ここにはなお、一つの重要な問題がひそんでいるように思えます。それは、みずからの実存的な核心に依拠して既存の社会制度に対する抗議の声を上げるというとき、彼の「実感」はその抗弁を支えるような〈権原〉となることができるのか、という問題です。

 

たとえば、何らかの差別がおこなわれている場面に直面したとき、人は許せないという実感を抱くことがあります。しかし、ここで考えておかなければならないのは、差別に対して抗議の声を上げるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依って抗議の声を上げるのであって、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依って抗議の声を上げるのではないということです。彼は、「差別をなくすことが正しいから、この社会は変革されなければならない」と主張するのであって、「差別をなくすことが正しいと私が確信しているから、この社会は変革されなければならない」と主張するのではありません。

 

しかし、あまり先を急がず、ここで提出しようとしている問題が、どのような問題「ではない」のか、少し検討しておくことにしましょう。まず確認しておかなければならないのは、小浜や竹田の考えるエロス原理は純粋に個人的な快/不快に限定されるものではなく、むしろ社会的な人と人とのつながりの中にエロス的な満足を見出すことを積極的に論じていたということです。だから、もし私の感じている疑問が、「エロス原理は個人的な快/不快にすぎず、社会的な連帯の根拠とはなりえないのではないか」ということであったとすれば、それはまったく当たらないということになるでしょう。

 

また私は、「社会的な連帯をエロス原理に帰着させる小浜らの主張は、人は誰しもエゴイストであるという、人間性の本質を矮小化するような考え方なのではないか」といったことを問題にしたいのでもありません。たとえば、マザー・テレサキング牧師といった偉人たちが、その活動の中で大いなる使命感とともにある種の充実感を感じていたということは、ありそうに思えます。しかしだからといって、彼らは個人的な快を求めて活動していただけだ、と言うべきではないでしょう。そして、竹田も小浜も、けっしてこのような主張をしていたわけではないように思われます。彼らの提唱するエロス原理は、偉人たちの崇高な理念に基づく活動を利己的な欲望に帰着させるものではありません。むしろ彼らの考えるエロス原理は、まったくの利己的な欲望から、崇高な理念に基づく使命感まで、広くカヴァーする概念だと理解するべきです。だから、もし竹田や小浜のような実存の立場に依拠する論者が、差別を撤廃しようとする人々はみずからの実存的なエロス原理に基づいてそうした活動をおこなっていると述べたとしても、彼らを卑小なエゴイストに貶める発言だと理解してはならないでしょう。

 

しかし、実存的なエロス原理に依拠する小浜の立場がこれらの問題を見事にクリアしていることを認めたとしても、なお彼に対して向けられるべき問題が残っているように思われます。それは一言でいえば、実存的なエロス性が論議的な(diskursiv)意味における〈妥当性〉を持ちえるのか、ということです。小浜のような立場においても、他者とのつながりの内に実存的なエロス性を感得することは認められるでしょう。この社会は変革されなければならないと主張する人は、必ずしも彼/彼女の利己心の満足を追求してそうした主張をおこなっているわけではありません。しかし、そうした彼/彼女のエロス的な感受性を見つめそれを明確に言葉へともたらすことができたとしても、それによって社会を変革し差別をなくすべきだという主張の〈妥当性〉の根拠が示されたと考えることはできません。単なる主観的な事実としての彼/彼女のエロス的な感得は、当の主張を他の人々に説き彼らを納得させるための〈権原〉になりえないのです。

 

小浜のような「反省的・自覚的な実感信仰」の立場では、あらゆる言説の妥当性や意義はみずからの実存的な地盤の内にその根拠を持っていると考えられていました。したがって、彼が何らかの差別に対して抗議の声を上げるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依拠することはできず、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依拠するのだと考えなければなりません。しかし、〈主観的確信の内における正しさ〉は、他者に向けてその主張をおこない他者を説得する力を持つような、論議的な場面においての〈権原〉とはなりえないのではないでしょうか。

 

なお上の議論では、〈主観的確信の内の正しさ〉と〈正しさ〉を区別しました。しかしこのことは、私たちの実存とはまったく無関係にそれ自体として存在する〈正しさ〉をイデア的な実体として認める形而上学的独断に身を委ねることではありません。このことは、超越論哲学の創始者であるカントの言い回しを借りて、〈正しさ〉は主観的確信〈とともに〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではないと説明することができるように思われますが、その詳細は今後の考察を通じて明らかにしていきたいと思います。

 

さて、今回は小浜とフェミニズムの間の論争を手がかりにしながら、彼の実存的な思想的立場が抱え込んでいる問題を指摘しました。そして私の考えるところでは、この問題はフッサールの超越論的現象学の構想とけっして無関係ではありません。フッサール心理主義と論理主義の隘路を潜り抜けようと格闘していたときに彼が直面していたのは、単なる〈主観の内における妥当性〉に尽きることのない超越論的な〈妥当性〉をどのようにしてみずからの哲学の中に位置づけるのかという問題でした。竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題は、こうしたフッサールの意図を捉え損ねてしまっていることにあります。とくに彼の超越論的還元の解釈は、論議的(diskursiv)な意味における〈妥当性〉を主観の領域の内に閉じ込めてしまっているように思われます。

 

そこで次回以降は、今回の議論を踏まえた上でフッサールの議論についての検討をおこない、竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題に、さらに踏み込んで検討を加えていくことにします。

 

*1:小浜は『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)の中で、「エロス的関係とは、特定の人間個体をまさに特定の人間個体として気にかける関わりのあり方のことである」(小浜逸郎『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)と定義し、特定性に依存しない人間関係である「社会的関係」と対立する概念だと述べています。こうした小浜の「エロス的関係」は、人間相互の関係はもちろん人間以外の対象への「気遣い」をも含むような竹田の「エロス的原理」に比べると非常に狭い範囲においてのみ適用されるものだと言うことができるように思えます。ただし詳細に小浜の主張を検討すると、必ずしもそのように断言することができないのも事実です。小浜は、竹田との対談の中でみずからのエロス概念と竹田のそれとの違いに触れて、「たとえば、ここに美しい茶碗があり、それに美的に魅かれエロスを感じる場合にも、それは本当は対人的な、対人関係として捉えられたエロスからのひとつの派生形態である、という考えかたをしたくてしようがないところがぼくにはあるんです」(竹田・小浜『力への思想』68頁)と述べています。この発言は、小浜の考えるエロス的関係が、実存のうちで人間関係を基礎とする発生的なプロセスを経て、より広範な範囲にまでその影響が及んでいくようなものとして理解されていることを示しているように思われます。ただここでは、ともに実存的な関心に基づくという点で、竹田と小浜の立場が極めて近いところに位置していることを確かめるにとどめ、これ以上両者のエロス概念の差異に立ち入ることは控えることにします。

*2:浅井美智子「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」(江原由美子編『フェミニズム論争―70年代から90年代へ』(勁草書房、1990年)所収)111頁

*3:小浜『可能性としての家族』249頁

*4:小浜『可能性としての家族』249頁

*5:小浜『エロス身体論』177-178頁

*6:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111-112頁

*7:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」112頁

*8:なお、浅井が批判するように、この対談における吉本隆明の主張には、確かにみずからの「実感」に基づいて発言しているところが見られますが、彼を立場を小浜のような実存主義的な立場と同一視することはできないし、吉本に対する上野の批判も、小浜に対する浅井の批判と同一視することはできません。この論文における浅井の吉本への批判的言及には、そうした点が見落とされており、吉本の思想はもちろん、それに対する上野の批判の射程も適切に捉えているとは言えないように思います。もっとも、竹田や小浜らが吉本の思想をみずからの実存主義的な立場に引き付けて理解しようとしていたことは事実であり、また、竹田や彼に近い立場に立つ加藤典洋ポストモダンの立場に立つ思想家たちの間でなされた論争では、吉本の思想をどのように評価するかということが重要な焦点の一つになっています。ここでは、この論争に立ち入ることは控えますが、いずれ詳しく論じてみたいと考えています。

*9:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111頁

*10:吉本隆明全対談集 第9巻』(春秋社、1988年)154頁

*11:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*12:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*13:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』128頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』107頁

*17:小浜『男はどこにいるのか』26-27頁

*18:小浜『男はどこにいるのか』107-108頁

*19:とはいえ小浜の著作の中には、「力ある存在としての「男」、優美な存在としての「女」という文化象徴的な差異は、ちゃんと自然的根拠を持っているのであり、その基本線は今後も転倒するような変化を被ることはないし、解消させるべきでもない」(小浜逸郎『「男」という不安』(PHP新書、2001年)22頁)、あるいは「男がより多く社会で仕事をし、女がより多く家庭のことにかかわるという歴史的なパターンは、壊さなければならない「旧弊」ではなく、男女の自然的、生理的な相違に見合った意義深い基本形であると考えられる」(小浜『「男」という不安』49頁)といった、生物学的決定論に与していると見られるような言葉があることも事実です。ただしここでは、小浜の議論の細部に立ち入って検討することが目的ではないので、これらの発言について論じることは控えます。

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (7)

前回、竹田欲望論と岸田唯幻論の違いについて検討をおこなったところで、あくまでも「意識の水面」に定位しようとする竹田の立場が、現象学に対して繰り返し投げかけられてきた「先構成批判」に対する竹田の反批判にも通じているのではないかと述べておきました。このことを手がかりに、竹田のポストモダン思想に対する批判に含まれている問題のごく大まかな見取り図を描いてみたいのですが、それに先立ち、今回はもう少し具体的な場面に考察の対象を絞り込んでおきたいと思います。

 

まずは前回に続いて、竹田欲望論の立場からの岸田唯幻論に対する批判を、もう少し見ておくことにします。

 

 たとえば岸田秀も『幻想の未来』で、人間の欲望は「他人の欲望の模倣」だと言っている(ラカンもそう言う)。だがそれは、人間は欲望の定まった通路を、「本能」の形ではあらかじめ持っていないから、多くの場合それをまず母親という他者に見習って形成するという意味だ。青年の欲望も、他者が示してくる“範型”によって、その形式性を得る。つまり一切の欲望は、必ずその方向づけのモデルを必要とするということを、岸田秀は言おうとしているのである。
 だが、およそ欲望はその形式性を社会的に(後天的に)習得する、ということと、欲望の主観的性格とは、全く別の問題である。
 欲望は、外在的に言えば必ず「他者の欲望の模倣」であり、その意味では「構成」されたものでしかない。だが、内在的(超越論的)に言えば、それは必ず、他人の欲望ととり換えのきかない、〈私〉に固有のものなのだ*1

 

ここでは「構成」という言葉が使われていますが、こうした竹田の基本的な主張は、現象学に向けられてきた「先構成批判」に対する竹田の反批判にも一貫して見られるものだと言うことができます。先構成批判とは、意識の内において見いだされる確信が、私たちのさまざまな世界体験ないし世界認識の「底板」になっているという現象学の立場に繰り返し向けられてきた批判で、そうした意識の内に見いだされる確信に先だって、それを構成しているはずの深層心理的な条件や歴史的・社会的な条件があるのではないか、というものです。これに対して竹田は、そのような批判は「外在的」な視点からなされたものにすぎないと切り返します。そして彼は、そうした批判者たちの私的が妥当性を持つということも、意識の内における確信という「内在的」な直観に基づいているはずだと反論します。

 

竹田はこの後、外在的な視点から私たちの欲望が社会において「構成」されたものだということを指摘する岸田やラカン、あるいはジラールといった思想家たちを批判して、フッサールを引用しながらその主張を次のように敷衍しています。

 

フッサールの言い方をわたしたちは、いまたどってきたような文脈にひきよせて、こう受け取ればいい。
 実在論や経験論は具体的な世界がまずある、そして人間の夢はその反映だ、と言う。しかしわたしたちの常識からは驚くべきことだが、じつは、誰にとっても、リアルな世界認識がまずはじめにあって、その影絵のようにロマンの世界ができ上がるのではない。むしろロマン的世界への憧れがまず形づくられ、この欲望の形が人間の世界体験(世界認識を含む)を可能にしていると考えたほうがいい、と*2

 

竹田が、みずからの現象学・欲望論を応用することで突っ込んだ考察を重ねているテーマの一つに、「恋愛」があります。彼は、前回参照した『エロスの世界像』(講談社学術文庫)や『恋愛論』(ちくま学芸文庫)といった著作で、このテーマに取り組んでいるのですが、ここで注目したいのは、その中で彼が「本来の想世界」や「内部生命」に生きることを高らかに謳い上げた北村透谷に、好意的な言及をおこなっているということです。たとえば、透谷の「厭世詩家と女性」という文章の中の、次のような一節が参照されています。

 

春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは、古来、似非小説家の人生を卑しみて己れの卑陋なる理想の中に縮少したる毒弊なり、恋愛豈単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり*3

 

透谷のこの文について、竹田は次のように説明をおこなっています。

 

 恋愛とは「春心の勃発」にすぎないというのは古くからの俗見だ。恋愛の本質は単なる肉体的な引きつけ合いではなく、人間の内的世界の「ほんとう」や「真実」と深くかかわるものだ。これが透谷の直観なのだが、プラトンや透谷の恋愛観を単に「精神的愛」を強調する「プラトニズム」と考えるのはあまりにも素朴であって、そこで重要なのはあくまで恋愛という情熱の「本質」は何かという問いなのである(今日、この透谷の洞察をもう一度逆さにした考え方、恋愛などというのは近代以後作りあげられたロマンチックな観念にすぎず、かつては色恋しかなかった、という言い方が流行しているが、もちろんこちらが古くからある俗流の恋愛観であり、透谷の洞察の方が本質的であることはいうまでもない)*4

 

ここで竹田が批判的に言及しているのは、「ロマンティック・ラヴ・イデオロギー」という言葉で広く知られるようになった考え方です。前近代の日本には「恋愛」という概念はなく、「色恋」だけが存在していました。ところが、12世紀のヨーロッパで騎士道精神によって発明された「恋愛」という概念が、キリスト教とともに日本にもたらされました。その後「恋愛」は、遊郭文化を中心にして育まれてきたそれまでの「色好み」や「粋」とは異なり、男女の間の純粋で崇高な精神性に基づく営みであり、透谷らはそれを「近代的自我」にとって決して譲り渡すことのできないものとして称揚しました。現代では、近代という時代においてこうした「恋愛」という観念が形成されていった過程が明らかにされるとともに、それに対する批判がさかんになされていますが、竹田はこうした外在的な視点から「恋愛」を批判的に見直そうとする現代の思想家たちに抗して、透谷の立場を擁護しようとしているのです。

 

ところで、小谷野敦はこうした考えを「恋愛輸入品説」と呼んで、主として実証的な観点から繰り返し批判をおこなっています。以下では、彼の議論を参照しながら、もう少し現代における「恋愛」論の中身に立ち入ってみることにします。

 

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

 

 

小谷野は「恋愛輸入品説」の始まりを、フランス文学者の新倉俊一に求めています*5が、それが広く流布するようになったのは、1980年頃に柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波新書)や柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)以降のことだとしています*6。そこで参照されているのが、柄谷の次のような文章です。

 

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

 

 

しかし、透谷がいう「恋愛」はけっして自然なものではない。たしかに「粋」は不自然だが、「恋愛」もまた同じである。古代日本人に「恋」はあったが恋愛はなかった。同じように、古代ギリシャ人もローマ人も「恋愛」を知らなかった。なぜなら、「恋愛」は西ヨーロッパに発生した観念だからである。ドニ・ド・ルージュモンが『西欧と愛』のなかでいっていることはやや疑わしいが、確実なのは、西欧の「情熱恋愛」がたとえ反キリスト教的なものであっても、キリスト教のなかでこそ発生しえた「病気」だということである*7

 

また上野千鶴子も、透谷によってもたらされた近代的な「恋愛」の中に潜む抑圧的な性格を指摘しています。

 

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

 

 

 「恋愛」を「精神的」なものとして「観念」化することによって、透谷はたしかに「恋」と「情欲」がわかちがたい江戸期までの恋愛観を超克し、近代的な恋愛観をうちたてたと見なされている。だが「観念」としての「恋愛」は、その成立のはじめから、男の側のひとりよがりだったのである。この男仕立ての「恋愛」観が、近代の疫病のごとくはびこった結果、この観念を「共演」してしまった不幸な女たちもまた存在した。たとえば高村光太郎の妻、智恵子は、光太郎に「美神」として奉られ、その役割を引き受けることで「無垢」の闇の中に追いやられた。黒澤亜里子は『女の首』のなかで、男の観念の餌食となった女性の不幸を鋭く衝いている*8

 

こうしたフェミニズムの方から上げられた告発の声の高まりを受けて、竹田は控えめながらも何度か反論をおこなっています。たとえば上野に対して、「最近ちょっと鼻白んだのは、上野千鶴子などを代表とする、「ネオ・マルクス主義フェミニズム」とかいう新種の女性論議である」*9と述べています。

 

上野に代表されるフェミニズムの主張には、ある強固なイメージが付きまとっていると竹田は言います。そのイメージとは、「世の女性は、根本的に歪んだ大きな制度(男権制)の中に閉じ込められているために、みじめな欲望とみじめな生しかつかむことができない」*10というものです。このように指摘した上で、竹田は次のような議論を展開します。

 

世の中にすでに作りあげられている制度(人間の生き方の道すじ)は、いつの時代でもある意味で確かにひとつの制限、枠組みである。だがこの生き方の枠組みはまた、いつの時代でも、人間がその中で生の欲望をつかむための現実的な理由でもある。ひとりの女性が男との生活のために家を作り、子に夢を託すことに幸せを求めることを、そのまま誤った欲望とは言えない。ただ、さまざまな事情が彼女の夢を失調させ、なおこの枠組みが彼女を縛りつけるように現われたとき、はじめてその枠組みは、「悪しき制度」という形で意識される。そのときはじめて女性は、この制度(世間の目)に抗って生きることに、新たな生の理由を見出す*11

 

フェミニズムは、現在の男女の関係を規定しているさまざまな「制度」は歴史的な所産にすぎないということを明らかにしてきました。しかし、それらが「作られた」ものにすぎないという指摘は、ただちにそれらが不当なものであり廃棄されなければならないということを意味するわけではありません。近代的な「恋愛」の観念が、ある時代に作られ、それが今なお私たちの生き方を強固に規定しているという「外在的」な視点からの指摘は、それがどれほど正しいものであったとしても、私たちがある人に想いを寄せたり、振り向いてもらいたいと願ったり、あるいはひどく心を傷つけられたりといった、「内在的」に直観されるエロス的な情熱を無意味なものとしてしまうことはありません。

 

言うまでもなく、この社会に存する特定の「制度」が、私たちの多くの主観的確信において理不尽で差別的なものと直観されるとき、それを告発するフェミニストの主張は、私たちの「内在的」な確信において妥当なものとして認められるはずです。このとき、フェミニズムからの告発は、この社会における人々の関係のあり方を変えていく現実的な力へと育っていくに違いありません。しかしその場合でも、私たちはみずからの内に直観される確信が「底板」となっているという竹田の基本的な主張は依然として成り立っているはずだと考えることができるでしょう。

 

さて、ここまで私たちは、できるだけ竹田自身の基本的な主張に沿うように努めながら、彼の議論を確認してきました。ポストモダン思想に対する竹田の批判にも、これと同様の議論が見出だされるのですが、まずは具体的な場面に即して、こうした竹田の基本的な主張に対して私が抱いている疑問の在り処を指し示してみたいと考えています。

 

しかしその前にもう少しだけ寄り道をして、竹田と同じく実存の立場を拠点にしながらさまざまな領域でアクチュアルな思想を展開している小浜逸郎の議論を紹介しておきます。私の見るところでは、小浜の議論には竹田現象学に対して私の抱いている疑問点が、いっそう明瞭な形で示されているように思われるからです。

 

小浜の思想は、竹田のようにフッサールハイデガーといった特定の哲学者の思想について検討をおこないながら独自の思想を紡ぎだしていくというスタイルを取らず、私たちの生きる社会の中の具体的な問題を手がかりにしながら展開されているように見えます。ただし『エロス身体論』(平凡社新書、2004年)という著作では、彼の思想の理論的な中軸をなしているものに、議論の焦点が向けられているように思われます。この著作の中で小浜は、ハイデガーの「世界内存在」の実存哲学的な側面を切り出してきたような主張を展開しています。

 

エロス身体論 (平凡社新書)

エロス身体論 (平凡社新書)

 

 

そもそも世界が私にとってどのようでありうるか、また私が世界にとってどのようでありうるかを私自身にそのつど画定させるのは、私の「気遣い」「配慮」「関心」(独:Sorge 英:care)である。この場合、「気遣い」「配慮」「関心」といった言葉は、単に意識的な「注意」というような純心理学的な要素と考えられてはならない。それは、身体と心とにいまだはっきりと分節され得ない全心身の、世界への素朴な向き合い方そのものを意味する*12

 

ここでは、小浜のこうした主張について踏み込んだ考察をおこなうことは控え、彼が竹田同様、実存的な場所にみずからの思想的な立脚点を見いだそうとしていることを確認して、先を急ぐことにします。

 

さて、小浜はこうした立場から、フェミニズムに対する厳しい批判を展開します。たとえば『男はどこにいるのか』(ポット出版、2007年)という著書で彼は、確かに女性解放運動は、男女の間の法的・社会的な平等を実現するための制度改革を実現に導いてきたとひとまず肯定的に評価した上で、次のような疑問を記しています。ところが、こうした運動の結果、社会の中から目に見える差別が撤廃されていき、いまだ不十分なところを残しているとはいえ、男女の平等がある程度まで実現されてくるようになると、今度は日常的な人々の意識の中に知らず知らずのうちに入り込んでいる隠れた性差別を発見することにフェミニズムの関心が移っていきます。そして、「ここらあたりから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとう」*13と小浜は言い、批判を開始します。

 

男はどこにいるのか

男はどこにいるのか

 

 

私たちは、この社会のさまざまなところに、固定化された性差のイメージを反復・強化するような事例を発見することができます。たとえば、「航空会社のポスターにおいて、きれいな若い女性を、腹のでた禿頭の中年男性よりもモデルに選ぶ確率が圧倒的に高い」*14という例を取り上げて、そこに「見る」男に対して「見られる」女という、性的魅力の社会的な意味の非対称性が存在していると主張することは可能でしょう。じじつフェミニズムには、こうしたミクロな権力装置が現代の社会の抑圧的な構造を再生産することになっていると告発する議論が見られます。

 

しかし小浜は、このような非対称性は単に男性の一方的な性欲に訴えているのではなく、現実の中で男女双方が承認しつつ参加している「私たちのエロス的な非対称的磁場のあり方」*15に根差していると主張します。

 

「見られる」という受動は、実は「見せる」という能動である。女性の自己客体化の欲望は、それがいかに歴史的構造のなかで仕組まれたものであろうと、主体によって選ばれた能動的意志的な行為であることには変わりがないのだ。それでなければ、自分のなかに他者を引きつける美を何ほどか実感できたとき、どうしてある自由と喜びの感覚をわがものとすることができようか*16

 

だから、それがたとえ人々の性にまつわる意識の非対称性を再生産し続けるような装置の役割を果たしているからと言って、ただちにそれを排するべきだという結論づけることはできないと彼は考えます*17。もし仮に、その広告が男性の大多数にとっては快を感じさせるものでありながら、女性の大多数にとって不快であるような表現だったとすれば、その広告は時を置かずして撤去されることになるでしょうが、それは単にその広告が失敗したというにすぎません。

 

私たちの日常の中に入り込んでいる男女の非対称性を告発するフェミニズムの議論は、人々の生活感情の中に働いているはずのエロス性を、思想の内に繰り込んでいないと小浜は批判しています。広告などに見られる男女の非対称性を指摘しそれを告発する論者たちは、「平等」という抽象的な理念のみに基づいて、非対称性を容認することはできないと主張しているにすぎないのです。そのため、「結局ごく普通の両性は、いったいあれは何を争っているのだと戸惑うばかりで、「いいじゃないの、幸せならば」という冷ややかな視線を返すしかないのである」*18と小浜は述べています。

 

性について論じるのであれば、たとえば広告表現における性の非対称性を、理念的な観念の操作によって告発するのではなく、個別的な経験において感得されたみずからのエロス的な心の動きを内側からたどっていくことで、その内実を思想へと鍛え上げていくのでなければなりません。「たとえば自分がきれいだといわれてこころ浮き浮きしたこととか、他人の美貌や才能や境遇を羨ましく感じたこととか、さらにそのような感得によって、あるときは自分の欲望を一つの方向に伸長させたり、あるときは断念によって自分を組織しなおしたりして自分の過去をかたちづくってきたこと」*19といった具体的で個別的な経験の中に思想の立脚点を求めるべきだと、小浜は主張します。

 

こうした小浜の立場が、竹田の立場に極めて近いことは明らかでしょう*20。そこで次回は、小浜のフェミニズムに対する批判を手がかりにすることで、こうした主張の中に潜んでいる問題点を探ってみたいと思います。

 

*1:竹田青嗣『陽水の快楽―井上陽水論』(河出書房新社、1986年)32頁

*2:竹田『陽水の快楽』36頁

*3:『日本文学全集1 坪内逍遥 二葉亭四迷 北村透谷集』(筑摩書房、1970年)429頁

*4:竹田青嗣プラトン入門』(ちくま学芸文庫、2015年)227-228頁

*5:小谷野敦『男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー』(新曜社、1997年)14頁参照

*6:さらに小谷野は、佐伯順子の『「色」と「恋」の比較文化史』(岩波書店)によって、「恋愛輸入品説」は一種の「流行」にまでなったと言います。この書の中で佐伯は、前近代の日本には自由な性愛の世界が存在していたと主張しており、小谷野がこれを「江戸幻想」と読んで繰り返し批判していることも、今では広く知られていると言ってよいでしょう。小谷野は「江戸幻想」の発生を、田中優子の『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫、1986年)と佐伯順子の『遊女の文化史』(中公新書、1987年)に求め、佐伯の著書は柳田國男の中世以前の「遊女」に関する議論を近世の「女郎」にまで敷衍したもので、「中世以前の遊女が持っていたとされる巫女性を近世の遊郭にまで持ち込むのは強引」(小谷野敦江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』(新曜社、1999年)37-38頁)だと批判しています。さらに小谷野によれば、フェミニズムは当初佐伯の著書に対して批判的でしたが、売春を男による女の搾取として批判する立場から、「性の自己決定権」を認め自由意志によって売春をおこなう女性の労働者としての権利を保護していくべきだという主張が大きくなっていき、近代の抑圧的な「恋愛」を批判しつつ近世における性の自由を称揚する言説が主流的になっていきます。小谷野は、上野千鶴子をはじめとするフェミニズムの論者たちの中から「江戸幻想」に積極的に加担する主張が登場するようになり、「近世の日本には正の抑圧がなかった」という「江戸幻想」がいっそう広まることになったと言います。言うまでもなく、小谷野の「江戸幻想」や「恋愛輸入品説」に対する批判は、歴史的事実を正確に踏まえた上でそれぞれの時代や文化における性愛の実相を評価するべきだというものであり、哲学的な観点からなされる竹田の「恋愛輸入品説」への批判とはまったく異なる観点に立つものです。

*7:柄谷行人日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫、1979年)106-107頁

*8:上野千鶴子『発情装置―エロスのシナリオ』(筑摩書房、1998年)111頁

*9:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』253頁

*10:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』254-255頁

*11:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』255頁

*12:小浜逸郎『エロス身体論』(平凡社新書、2004年)72頁

*13:小浜逸郎『男はどこにいるのか』(ポット出版、2007年)32頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』88頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』89頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』166頁

*17:小浜は別のところで、「女の子は男の子に比べて一般的にエロス的な意味でませているから、すでに三、四歳の頃から、自分が周囲にどのように見られているかということをたいへん気にする」(小浜『エロス身体論』143頁)と述べています。その上で、竹田と同様、ヘーゲルの『精神現象学』における意識の発展の過程を、私たち人間の実存的なあり方の発展過程として捉えなおしながら、「人間にとって根源的なものは、ヘーゲルがとらえたように、自分を他者とかかわらせることを通して、他者に自分の存在を承認してもらい、そのことによって、自分がいま・ここにあることをみずから肯定したいという欲求なのである」(小浜『エロス身体論』149頁)と主張します。

*18:小浜『男はどこにいるのか』34頁

*19:小浜『男はどこにいるのか』96-97頁

*20:竹田は小浜との対談の中で、「男女の性差は、力や能力の差異だとか、お金を持っている持っていないという差異だとかとは違うところがあって、その肝心なポイントは、それが人間のエロス性の根源、源泉になっている、ということだと思います」(竹田青嗣小浜逸郎『力への思想』(學藝書林、1994年)143-144頁)と述べています。この発言を受けて小浜は、次のようにみずからの主張を語っています。「竹田さんは、性差の存在がエロス関係の根源だと言われたのですが、それはまったくそのとおりで、普通の女性が自分が〈女性〉であるということ、つまり〈男性〉との再関係として〈女性〉であるということを、自分が生きるということの最も深いアイデンティティにしている、そのことは否定できないわけです。つまり、自分が〈女性〉であるということで、場合によっては、男性の視線を浴びることで不幸な関係に陥ることがあるかもしれない。だけれども、別にその〈違い〉から這いあがろうと全然思わずに、その〈違い〉そのものに生の意味を見出し、自分の〈女性〉としての人生を設計していこうと感じている、感じるだけでなく、まさにそういうように生きている多くの女性がいるということ、ここだけは覆すことができないと思います」(竹田・小浜『力への思想』147頁)。また竹田も、こうした小浜の実存的な立場に近いところから、次のように主張しています。「ひょっとしたら、性差をなくそうと思ったら、なくせるのかもしれない。ただ、現実に生きている人間の生の条件にとって、そのことがどういう意味をもたらすかということをよく考える必要があるわけです」(竹田・小浜『力への思想』160頁)。

当ブログが紹介されました

四畳半大学 宮国研究室」というサイトで、当ブログの「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く」という記事を紹介していただきました。なんだか退路を断たれてしまったみたいで、どうしても結論にまでたどり着かないといけないような気が……。

 

http://miya.aki.gs/mblog/?p=4419

 

サイトを運営されているのは宮国さんという方で、「純粋経験論」という考えを軸に、粘り強い哲学的思索を展開されています。

 

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (6)

前回は、竹田のハイデガー解釈を概観しながら、「欲望論」ないし「エロス論」と呼ばれる彼の立場の根幹にある考えについて検討しました。竹田は、こうした立場に基づく実存的な観点から、さまざまな問題について考察をおこなっています。そこで、ほんの一部ではありますが、竹田欲望論という観点から見えてくる世界をのぞいてみることにしましょう。

 

竹田によれば、人間はみずからの欲望に基づいて、みずからを取り巻く世界のうちにさまざまな実践的価値を読み取っています。このような原理は「エロス原理」*1と呼ばれていますが、竹田はユクスキュルの環世界論を継承したシェーラーやハイデガーメルロ=ポンティ丸山圭三郎らと同様に、人間以外の生き物の世界と人間の世界との間には隔たりが存在すると考えています。

 

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

 

 

 まず、「欲望」とはどういう原理か。それは主体が世界とエロス的な関係として向き合っているということだ。その基本形は「快苦」の原理である。「快苦」原理とは、主体(身体)をして、ある対象はこれを「遠ざけ」ようとし、ある対象はこれを「近づけ」ようとする態度をとらせる。そのような“力動”の原理である。
 ところで、たいていの動物においては、この快苦原理は生理的な身体の育成に応じてほぼ定められた段階を通って完成された体制にいたる。しかし、人間の場合はそう簡単ではない*2

 

竹田によれば、「人間の「身体」は、何らかの「意味」に対して快‐不快の情動を発動させるような「幻想的身体」となっている」*3とされます。では、この「幻想的身体」とは何を意味しているのでしょうか。また、「幻想的身体」は人間と動物の間にどのような違いを生んでいるのでしょうか。竹田は次のように説明しています。

 

 人間の「欲望」は「自我」の欲望である。そして「自我」とは自分と世界の関係についての「物語」以外のものではない。しかしそのように言うとき、この「自我」は単に「関係の了解の意識」なのではない。この「自我」それ自体が「美醜」や「よし悪し」を感じる能力を持ったひとつの「幻想的身体」なのである。
 「自我」とは、「世界」のありようを「快苦」、「よし悪し」、「美醜」として(つまり、エロス的世界として)感じ取る力としての「幻想的身体」であり、そのようなものとしてひとつの「欲望」なのである*4

 

人間によって生きられる世界は、単なる生理的な快苦の原理によって秩序づけられた世界ではありません。私たちがこの世界のうちで出会うことになるさまざまな対象は、「美醜」や「よし悪し」といった、生理学的な快苦に直接には結びついていないような価値を帯びています。たとえば文学作品や芸術作品によってもたらされる歓びは、生理学的な快苦に直接つながっているわけではありません。生物の世界が生存という唯一の目的に基づいて秩序づけられたいわばモノクロの世界だとすれば、人間の世界は多彩な色を持った世界なのです。

 

このようにして私たち人間は、単なる生理的な快苦に基づいて価値づけられた世界から離脱して、エロス的な原理に基づいて秩序づけられた色鮮やかな世界のうちへと参入することになると竹田は考えます。

 

また竹田は、私たち人間が「自我」を有するという事実を、このようなエロス的原理に基づいて解き明かそうとしています。いったいどのようにして、人間は「自我」を有するようになったのでしょうか。竹田は次のような例をあげて説明します。

 

 たとえば、母親がいないとき、泣く代わりに我慢する子供は、自分の身体にとって快い母親の温もりを断念するのだが、その代わりに、「いい子だ」と言ってほめられることを知る。この“ほめられる”というエロスが「断念」の見返りとして与えられなければ、子供は自らの選択としての「断念」をおこなう動機を持たないだろう。
 この行為において子供は、端的に身体的なエロスを断念して、親たちから「いい子だ」と誉められることのエロスを見出す。このエロスは身体的エロスではなく、いわば「自我」の(つまり幻想的身体の)エロスである*5

 

このようにして人間は、直接的な身体の快‐不快に基づいて世界を了解するのみならず、他者との関係の中で自己意識を築いていくことにいわば社会的な満足感を見いだすようになるとされています。やがて彼/彼女は、両親のみならず仲間たちとの関係の中で承認を獲得し、「自我」を拡大したり「自我」を安定させることに幻想的なエロスを感受するようになるでしょう。竹田はこのような観点から、ヘーゲルが『精神現象学』の中でたどった自己意識の発展過程を、人間のエロス原理の発展過程として読み変える試みをおこなっています。そこでは、人びとは互いに、承認をめぐる闘争の中でみずからのアイデンティティを作り上げていくことになるとされています。

 

 仲間たちとの世界では、ヘーゲルの言うような「主人と奴隷」の間の相互承認の戦いが必ず生じる。子供は自分の能力を賭けて周りの人間の中での「主人」たろうとするが、そこでつねに勝利するとはかぎらない。むしろ現実の世界では、彼はつねに自分の力が“全能ではありえないこと”を思い知らされる。*6

 

こうして竹田は、「人間は例外なくこのような承認のゲームを生きている」*7と述べています。いずれにせよ、このようなプロセスを経て、人間は身体的で直接的な快苦原理から離脱し、他者の承認に基づく「自我」を獲得していくと考えられているのです。

 

ところで竹田は、自身の「欲望論」の立場と、心理学者の岸田秀が提唱する「唯幻論」の立場について、次のように述べています。

 

岸田理論は大変わかり易いうえに、ひとの意表を突くところがあり、それは今まで使われていた概念を、トランプのカードをめくり返すように、くるりと反転させてしまうような形で現れるのである。
 だが、岸田理論のそういった面白さは、わたしにとっては両義的である。岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、また〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える*8

 

そこで以下では、竹田欲望論と岸田唯幻論の差異について、少し詳しく検討をおこなうことにしたいと思います。

 

上で見たように、竹田はユクスキュルや丸山圭三郎の議論を踏まえつつ、人間によって生きられる世界と他の生物によって生きられる世界との間に大きな違いがあると述べていました。岸田もまた、竹田とは別の仕方で、人間と他の動物の違いから議論を始めます。岸田唯幻論の出発点となるのは、「人間は本能の壊れた動物である」という規定です。このことを説明するに当たって、岸田はL・ボルクの「胎児化説」に触れています。これは、「人は猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類である」*9という説です。その結果、次のような事態がもたらされたと岸田は述べます。

 

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

 

 

 生まれたときの子どもは、感覚運動器官がきわめて未発達であるから、もちろん、現実と非現実、自己と他者の区別を知らない。したがって、親が提供してくれた人工的世界は、子ども自身にとっては、現実によっても他者によっても限定されない唯我独尊、全知全能の世界である。このような世界のなかで満足を知った子どもの本能は、現実からずれてしまう。本能とは、本来なら、現実への適応を保証するものである。動物は本能に従って行動し、それがそのまま自己保存、種族保存の目的につながっている。ところが、人間においては、本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり、現実への適応を保証するものとしての本能はこわれてしまった。人間の本能は、唯我独尊の幻想のなかで、自閉と全能の幻想のなかで空回りする*10

 

本能が壊れてしまった人間は、幻想的なナルシシズムの世界に暮らしている限り、互いにどのようなつながりもありえません。「その状態は、いわば、それぞれ勝手な空想に耽って自慰をしていて、おたがいに相手には無関心な男と女のようなもの」*11だと岸田は言います。しかしこのままでは、人間は現実に適応できず、幻想の世界に自閉したまま滅びるほかありません。ナルシシズムの世界に生きる個々の人間を、現実に適応させるにはどうすればよいのかと岸田は問い、次のような答えを提出します。

 

 ここに文化が発生した。文化は、矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の自己保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できるかぎり各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、本来の現実、いわば物理的現実の代用品、つまり作為された社会的現実であり、後者の意味において共同幻想(集団幻想と言ってもいいが)である*12

 

文化とは、個々人の私的幻想を部分的に共同化することで作られた共同幻想であり、疑似現実にすぎません。「われわれが現実と信じているところのもの、われわれの日常性は、つくりものでしかなく、それを支える確実な根拠は何もない」*13と岸田は述べています。

 

こうして人びとは、神、理想や真理などの抽象概念、あるいは「人類」「国家」「民族」といった所属集団などを、自我の支えとするようになります。「主体的な個人」というのもそうした共同幻想の一例にすぎず、他の文化においては人びとは「主体的な個人」ではなく別の幻想に自我の支えを求めています。

 

ところで岸田は、幻想の世界の中で空転することになった人間の本能を、「欲望」と呼んでいます*14。「本能的行動形式を失ってしまったとき、人間の本能は欲望に変質した」*15と彼は述べ、欲望は本能とは異なりけっして最終的な満足に行きつくことはないと主張します*16

 

幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

 

 

 さて、欲望とは不安定な自我を安定させようとする企てであるが、自我は本質的に不安定なのだから、あらゆる欲望が本質的に不可能なことをめざしているのである。財産欲にせよ名誉欲にせよ、キリがないのはそのためで(ほかに理由もあるが)、欲望に最終的満足はない。しかし、われわれは自我の最終的安定をめざさざるを得ない。不安定な自我を抱えているわれわれは、いつかは自我の安定が得られるとの希望に縋るしかない*17

 

本能の壊れた人間は、自我の安定をもたらしてくれるような「物語」を求めざるをえない存在です。人は、財産や名誉を求め、神や真理といった抽象概念にすがり、人類や国家、民族といった集団を自我の支えとします。しかし、そこには合理的な理由もなければ、本能などの自然に基づく原因もないと岸田は主張します。「本質的に不安定な自我を抱えているわれわれ人間は、自我が不安定であるのはこれこれの原因のためで、その原因を解決すれば自我の安定が得られるという物語を不可欠に必要とする」*18と彼は述べています。

 

こうした岸田の主張を、竹田は次のように解説します。

 

 さて、岸田理論の力点をどう捉えればいいだろうか。自我とはつまり自我を安定させようとする「欲望」のことである。この「欲望」は自分と世界についての「関係」の物語をつくり、それをめざす。この物語はしかし、「欲望」の本来の目標に相関しない「嘘の欲望」でしかありえない*19

 

 岸田秀が言うように、ふつう人間の欲望は「自我を安定させようとする」根本動機を持っている。自我の物語とは、この自我の安定のための目標となるモデルであり、人は、この物語を完全に実現すれば自我が安定するはずだという「幻想」を抱いている*20

 

竹田もまた、「「自我」とは自分と世界の関係についての「物語」以外のものではない」*21と述べていました。さらには、人間存在を理解するためのキーワードでとして「欲望」という概念を用いる点で、竹田と岸田の主張には相互に通じ合うところがあると考えられるかもしれません。両者はともに、人間は物理的環境や生物学的環境を生きているのではなく、人間に固有の「欲望」に基づいて描かれた「物語」の世界を生きていると主張しています。

 

では、岸田唯幻論と竹田欲望論の違いは、どこにあるのでしょうか。岸田と竹田は『〈現在〉との対話3 岸田秀物語論批判/世界・欲望・エロス』(作品社、1985年)で対談をおこなっており、この中で人間の「欲望」を捉える両者の観点の違いが、かなり明瞭に語られています。竹田は、みずからの現象学の立場について、次のように述べています。

 

 

ぼくの考えでは、基本的に人間の無意識の構造がどうなっているのかというのは、結局ひとつの物語つまり仮説として立てられるだけだということがあるんですよ。このことを現象学の見方で言うと、人間に直接に与えられているのはいわば意識の水面だけなんです。すると、水面の上部が人間のつまり外界、〈世界〉にあたるわけですね。で、水面下が人間の内部、つまり無意識というものにあたる。そしてその構造がどうなっているかというのは、いわば水面の波のかたちから推論していくことしかできない*22

 

竹田は、「意識の水面」に与えられる知覚や意味こそが確信成立の底板をなしているという立場を貫こうとします。すでに見たように岸田は、「欲望」ないし「エロス」を原理とする人間存在のあり方に関して、本能が壊れたことによって現実から乖離した「幻想」の世界に生きるようになったと説明していました。しかし、それは一つの「仮説」にすぎず、私たちが直接的にアクセスすることができるのは「意識の水面」だけではないかと竹田は主張するのです。

 

こうした竹田の主張に対して岸田は、「ただ、ぼくがぼくの観点に固執するのは、やはり精神分析の立場からどうしても人間の意識というものを額面通りには受け取れないからです」*23と述べて、次のような例に言及しています。

 

ある母親が、無意識においては息子を憎んでいるにもかかわらず、その憎しみを抑圧して意識の上では自分は息子に対して愛情を抱いていると思い込んでいるとします。彼女は献身的に息子に尽くており、他人の目には過保護に映る振る舞いを、息子への愛情の表現だと信じています。しかし、その息子は母親によって束縛され、そのことでたいへんな心の苦しみを感じています。このようなケースでは、母親の意識の水面に目を向けているだけでは、息子に対する愛情しか見いだすことはできません。しかし、そのような意識の水面における現われを額面通り受け取っていては、この問題の解決策を発見することはできないと岸田は言います。

 

人は誰しも、自我を支えるような幻想なくしては生きていくことはできないと、岸田は考えます。しかし、この例に登場する母親の自我を支えている幻想には欺瞞があり、彼女自身の意識の水面においては、それは「息子への愛情」として理解されていますが、その幻想が息子を追いつめてしまっているのです。

 

こうした問題を解決するためには、精神分析の観点から彼女の無意識に考察のメスを入れなければなりません。分析者は、母親の無意識のうちには息子を支配したいという欲望が抑圧されており、それが彼女の振る舞いを規定していることを明らかにすることで、母親と息子を苦しめていた幻想からの解放を実現しようとします。

 

このような例を挙げた上で岸田は、「竹田さんの言う現象学的観点では、意識の水面に現れている欲望をそのまま生きるか、それが不可能な時には我慢するしかないことになりませんか」*24と問いかけます。これに対する竹田の反論は、次のようなものです。

 

 それはぼくはこう思うんです。ニーチェが『権力への意志』の中で、意識から出発する哲学を信用しすぎてはいけない、なぜなら意識そのものはすでに構成の結果だから、と言っているんです。フランスのフロイト派であるラカンも同じ発想です。現象学はコギト主義だと言うんです。これは今岸田さんが言われたように、起こりうる反論だと思います。だけどフッサールの“還元”という考え方に対する批判にはなりえないと思います。“還元”の立場は、合理的な意識の明晰性というデカルトの〈コギト〉の立場とは違います。たとえば今言われたような母親の反動形成がある。そのとき母親は息子を愛していると思っている。分析者が現れてあなたはほんとは愛していなくて憎んでいる、と言う。そのとき母親はこの〈解釈〉の真偽をいったい何によって決めるでしょうか。〔中略〕要は母親がその説明を聞いて、自分自身の意識に問い質してみるわけです。そしてその説明がほんとうらしいかどうかを自分の意識のあらわれに聞いてみる。で、その説明がほんとうだな、どうもそうらしいなと自分で納得すれば今までの思い込みが解かれるわけです。つまり、母親が態度を改めるか否かは実践的な問題なんで、その説明が唯一ほんとうのものでなくていいし、そういう唯一絶対のほんとうというのはないわけです。現象学の意識への還元というのは、だから明晰性と合理的思考がすべてだというのとは全然違って、いろんな〈物語〉があるが、その実践的な真偽を決するのは意識の水面での確信のあらわれだけだということだとぼくは思います*25

 

ここには、「意識そのものはすでに構成の結果だ」と考える精神分析の観点と、現象学の観点の違いがはっきりと語られています。

 

竹田は岸田の唯幻論の立場について、「岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、また〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える」*26と述べていました。岸田は、「幻想」というキーワードを駆使して人間存在のあり方を説明しますが、それは意識の水面において内的に確信されることで初めて実践的な意味を持つような、一つの「仮説」にすぎません。ところが、すべてを「幻想」というキーワードで解き明かす岸田の説明があまりにも鮮やかであるために、私たちはそれが一つの「仮説」であることを忘れ、「世界の説明」として受け容れてしまう恐れがあるのではないかと、竹田は問いかけているのです。

 

さて、岸田唯幻論に対する竹田のこうした問題提起は、ポストモダン思想から現象学に向けられてきた「先構成批判」に対する竹田の反論と同じ構造を持っています。次回は、もうしばらくこうした竹田の考えの射程を検討しながら、その上で私自身が竹田現象学に対して抱いている疑問の入り口を探ってみたいと考えています。

 

*1:竹田『エロスの世界像』17頁

*2:竹田『エロスの世界像』135-136頁

*3:竹田『エロスの世界像』84頁

*4:竹田『エロスの世界像』137-138頁

*5:竹田『エロスの世界像』87頁

*6:竹田『エロスの世界像』96頁

*7:竹田青嗣『恋愛論』(ちくま学芸文庫、2010年)58頁

*8:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)212頁

*9:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』(青土社、1992年)42頁

*10:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』43-44頁

*11:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』46頁

*12:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』46-47頁

*13:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』72頁

*14:岸田はこの「欲望」を、フロイトの「衝動」(Trieb)と関係づけて次のように説明しています。「ここでわたしは、フロイドが本能とは区別して衝動と呼んだものを、欲望と言いかえたい。衝動という用語は、本能と混同されるニュアンスをいささか残しており〔中略〕とくに人間的なものを表わすには欲望と呼ぶ方が適当のように思われるからである」(『岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』134頁)。

*15:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』135頁

*16:さらに岸田は、フロイトによって提唱された「快感原則」と「現実原則」の対立図式を、これまでの議論に重ね合わせて理解しようと試みています。「現実原則と快感原則とのこの対立と分裂は、人類だけが直面する悲劇であり、動物においては、現実への適応と快感の追及とのあいだに矛盾はない。フロイドの言うところのエスとその快感原則は、人類に特有な本能のずれと歪みを表わしており、決して動物における本能と同一視できるものではない。エスは本能ではない。快感原則は本能の原則ではない。それはむしろ、幻想の原則である」(『岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』45頁)。現実から乖離して私的幻想の世界で遊ぶことになった「エス」を抱え込むことになった人間は、みずからの私的幻想の一部を共同幻想のうちに見いだすことで、かろうじて現実原則にしたがう「自我」を打ち立てることに成功すると考えられています。

*17:岸田秀コレクション 幻想の未来』(青土社、1993年)189頁

*18:岸田秀『幻想の未来』196頁

*19:竹田『エロスの世界像』132頁

*20:竹田『エロスの世界像』158頁

*21:竹田『エロスの世界像』137頁

*22:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)21頁

*23:岸田秀コレクション 物語論批判』143頁

*24:岸田秀コレクション 物語論批判』145頁

*25:岸田秀コレクション 物語論批判』145-146頁

*26:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)212頁