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竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (5)

「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれている思想の構築にもっとも大きな影響のあった哲学者は言うまでもなくフッサールですが、ハイデガーもそれに劣らず重要な哲学者です。竹田は「フッサールが示した認識論上の限界点という現象学のモチーフを、最も深いところで受けとったのは、メルロ=ポンティでもなくサルトルでもなく、マルチン・ハイデガーである」*1と述べており、とりわけ「エロス」や「欲望」といった彼の思想の中心的な概念は、フッサール以上にハイデガーからの影響のもとで作り上げられていったと言ってもよいのではないかと思います。そこで今回は、前回も参照した『意味とエロス』の他、『ハイデガー入門』を参照しながら、竹田がハイデガーの思想をどのように受け取ったのかを見ていきたいと思います。

 

まずは、竹田がフッサールからハイデガーへと考察の対象を移していく経緯をたどっていくことにしましょう。フッサールは還元という操作によって意識現象へと目を向け、その中で私たちが抱くさまざまな確信の根拠となっているものを見いだそうとします。竹田によれば、それは私たちの意識のうちで了解される〈意味〉にほかなりません。

 

 『イデーン』における「純粋自我」の概念が明らかにしたことは、存在妥当は〈意味志向‐意味充実〉という構造の中で成立するが、それは同時に、意識現象は〈意味〉という認識上のつきあたり(限界点)を持つ、ということだった。だがこのとき、ひとつひとつの事象の〈意味〉がどのように構成されるのかと考えるならば、「純粋意識」の内側からはそのことについて何ひとつ導き出すことができない。ひとつの〈意味〉は、ひとりの人間が具体的に生きて(生活して)いることの意味連関からしか現われ得ないからである*2

 

しかしながら、〈意味〉は単に客観的な事実に関する私たちの確信を支えているだけではなく、同時にさまざまな実践的価値を含んでいるはずだと竹田は主張します。彼が参照しているのは、フッサールの次のような言葉です。

 

この世界は、私にとって、一つの単なる事象世界として現にそこに存在しているのではなく、同じ直接性において、価値世界、財貨世界、実践的世界として、現にそこに存在している。私の眼前の所持物が、事象としての諸性情を具えているのと同様に、価値の諸性格をも具え、つまり、美しいとか醜いとか、気に入るとか気に入らないとか、快適なとか不快なとか等々といった価値の諸性格をも具えていることを私が見出すのは、造作ないことである。直接的には諸事物は、実用品として現にそこにある。例えば、「書物」を載せた「机」とか、「コップ」とか、「花瓶」とか、「ピアノ」とか等といったようにである*3

 

竹田は『ハイデガー入門』の中で、こうした事態を「欲望相関図式」*4と呼ばれる枠組みによって理解しています。この点に関する竹田の説明を簡単にたどってみましょう。

 

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

 

 

竹田によれば、近代哲学の最大のアポリアは「主観‐客観」問題でした。これは、人間の認識能力は、果たして客観的現実を正しく捉えていると言えるのかという問題です。この問題に対してカントは、人間の認識能力は「物自体」を捉えることができず、みずからの感性と悟性によって規定された「現象界」しか認識することができないと結論づけました。竹田は次のように説明しています。

 

 カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在」は、それぞれの“身体性”(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望能力の形式)に応じて違ったものになるはずだ。
 人間にとっては、それは「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在」でしかない。トンボには、丸い形だけは認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバにとってそれは、“丸いもの”ですらなく、もっと他の「存在」だろう*5

 

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(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

竹田はカントの認識論のポイントを2点にまとめています。一つ目は、「人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であるということ」*6であり、もう一つは「世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されていない)だけだということ」*7です。

 

こうした認識問題における「カント図式」に大きな転換をもたらしたのが、ニーチェでした。竹田は次のようにその意義を説明します。

 

 ニーチェは当然神を認めない。すると、つまり、存在するさまざまな生き物な生き物の数だけ多様な経験される「世界」が存在する、ということになる(これは要するにさまざまな「生きられている世界」が存在するだけだ、ということでもある)〔中略〕
 カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために、「客観世界」を認識できない。これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「入り」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。「客観世界」というものは存在しない。もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在」を受け取っているだけである……*8

 

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(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

ニーチェによって発見されたこうした新しい見方が、「欲望相関図式」です。そして、フッサールから受け継いだ現象学的な問題設定を、ニーチェと同じような欲望相関的な観点から新しく捉えなおしたのがハイデガーだったと、竹田は理解しているのです。

 

竹田は、ハイデガーの「気遣い」という概念の意義を、このような観点から理解しています。『存在と時間』では「気遣い」について次のように述べられていました。

 

現存在の存在が意味しているのは、(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈自分に先だって存在していること〉なのである。このように存在していることによって、気づかいという名称の意義が充たされるのであって、その名称はそのさい純粋に存在論的‐実存論的に使用されている*9

 

竹田によればこの「気遣い」という概念は、フッサールの問題を欲望相関的観点から捉え返したものにほかなりません。

 

 〈意識〉の「根本性格」を、すでに見たようにフッサールは、「志向性」として示した〈意識〉は本質的に〈志向体験〉としてのみ捉え得る。この構造は、〈意味志向‐意味充実〉(ノエシスノエマ)という相関構造である。これはまた、〈意識〉の内部でのみ、〈私〉(主観)と〈世界〉(事物)という公が成立することをよく示している。
 ハイデガーは、この〈私〉と〈世界〉の本質的相関を、「気遣い」という概念で言いあてようとする。
〔中略〕
 「気遣い」とは、さしあたって言えば、人間が「つねにすでに」〈世界〉(対象世界)に対して、さまざまなレベルでの関心、心配、希望、欲求、意志、感情等を向けて生きているというあり方を指している*10

 

欲望相関図式に基づくこうした竹田のハイデガー解釈は、ユクスキュルやシェーラーからハイデガーへの影響を重視する木田元の解釈に基づいていると言ってよいと思います*11

 

ハイデガーの思想 (岩波新書)

ハイデガーの思想 (岩波新書)

 

 

木田は、ハイデガーにおけるユクスキュルやシェーラーからの影響について、さまざまな著作の中で繰り返し述べています*12が、それらの議論をまとめると、おおむね次のように述べることができます。

 

ユクスキュルの「環世界」論によれば、ダニやミツバチといった動物は、外部からの刺激に因果的・機械的な仕方で反応しているのではなく、それぞれの種にとって有効な刺激の総体から成る固有の環境を生きているとされます。つまり、ダニにはダニの環境があり、ミツバチにはミツバチの環境があると考えられています。生体が種に固有の環境に適応して生きていることを、シェーラーは「環境繋縛性」と呼んでいます。これに対して人間は、そのときどきの具体的な状況から自由であるとシェーラーは考え、こうしたあり方を「世界開放性」と呼びました。そして木田によれば、ハイデガーの「世界内存在」という概念には、シェーラーのこうした考えからの影響が認められるとされています*13

 

竹田は、こうした木田の議論を念頭に置きながら、「欲望相関図式」に基づくみずからのハイデガー解釈を描き出そうと試みています。『意味とエロス』では、言語哲学者である丸山圭三郎の『文化のフェティシズム』の次の文章を参照しています。

 

文化のフェティシズム

文化のフェティシズム

 

 

動物たちにとっても、意味以前の裸のデータともいうべき客体が存在するわけではないのだ。ダニにはダニ固有の、イヌにはイヌ固有の〈意味=現象〉群が存在していて、それらがその種独自の世界を形成しているのであるが、いずれの世界がより客観的でも物理的でもなく、これまた彼らの〈生への関与性〉次第で存在もし、非在化もする。多くの動物は、何らかの音を聞いた際それを一定の視覚対象に帰属させる構成をもっているという、ユクスキュルJ. von Uexkuellが挙げた例を一つだけひこう。トカゲは枯葉の音ならどんなにかすかなものであれひどくびくつくのに、そばでピストルを発射されても全く反応しない。何故なら、そのような音響と結びついているような危険の要素は、トカゲ本来の環境には存在しない、つまりこの物音はトカゲにとって〈意味=現象〉ではなく、彼の刺激閾の向う側にしか存在しないからである*14

 

丸山は市川浩から「身分け」という概念を受け継いでおり、その説明をおこなう際にユクスキュルの「環世界」の考えに触れているのですが、竹田はここから「欲望相関図式」という発想を導こうとしています。たとえば次の文章が、こうした竹田の考えの筋道をよく示しているように思われます。

 

 「身体」として存在すること、それはつまり、世界とその諸対象を常に快苦原理によって区分(分節)している、ということである。「身体」として存在することはまた、「欲望」や「関心」や「配慮」として存在することでもあり、それはつまり、世界とその諸対象の中につねに何らかの目標を見出し、またある可能性の意味連関としてそれらを把握し、秩序づけている、ということだ。すなわち、世界とその諸対象が、たえずそのつどそのつどの「欲望=関心」の相関者として存在していること、このことが、世界やその諸対象がさまざまなレベルでの「意味」を帯びて現われることの“根拠”なのである*15

 

ダニやミツバチが、それぞれの種に固有の身体ないし器官に応じて周囲の環境を分節し秩序づけているように、人間はそのつどの「身体」や「欲望」、「関心」、「配慮」のあり方に応じて、この世界を「意味」づけています。あるいは端的に、「「意味」の受け取りが可能であるのは、人間がつねにすでに「身体・欲望・関心・配慮」として存在しているからだ」*16とも述べられています。

 

竹田はこのように欲望相関的な観点から、ハイデガーの「道具的連関」についての説明を解き明かしていきます。「人間がつねにすでに「配慮的な気遣い」として「存在」していること、言い換えれば、身体・欲望・関心といった原理で存在していること、このことが事物存在を道具性、道具連関、有意義連関とおいう「存在」として現出させる」*17のです。

 

ハイデガーはハンマーを例に道具的連関性の説明をしていますが、竹田はテレビを例に取り上げます。部屋にあるテレビは、客観的な「存在」としては「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」として捉えられていると彼は言います。ところが、「配慮的な気遣い」に基づいてテレビを理解するとき、それは映りが悪くて見づらいテレビであったり、部屋の割りに大きすぎてうとうしい調度だったりします。さらに、夜中に物音で目を覚まし、家の中に泥棒が忍び込んでいるのではないか、と考えているときには、テレビは身を守るための武器としての「存在意味」を露わにします。竹田はこのような例によって説明した上で、「テレビは、まさしく〈私〉の「配慮的な気遣い」から、言い換えれば、〈私〉の実存的な「いまここ」の地点から見られた「道具存在」だと言えるのである」*18と結論しています。ここで竹田は「実存」という言葉を用いていますが、彼がハイデガーを評価する最大の理由となったのが、この「実存」の立場を確立したことだと言ってよいと思います*19

 

ハイデガーの「実存」について、竹田は次のように理解しています。

 

 事物存在は、いつも必ずそれが人間にとって持つ〈意味〉の連関として、つまり「道具連関」としてのみ捉え(規定され)得る。〔中略〕ところで人間存在は、むろん〈意味〉連関として捉えることも可能だが、むしろ本質的にこの〈意味〉連関を生み出し、秩序づける原因である。この事態をどう言い表わせばいいか。ハイデガーはそれを〈実存〉と呼ぶ*20

 

つまり、みずからの身体や欲望、関心、配慮に基づいてこの世界におけるさまざまな事物を意味づけ秩序づけている私たちの存在のあり方が、「実存」という言葉で理解されているのです。竹田の「欲望」や「エロス」という言葉には、意味や価値を付与する審級という意味が込められていると言えるでしょう。たとえば『意味とエロス』の中には、「〈欲望〉という概念の最も中心の狙いは、それが、個別的な〈意識〉、〈意味〉、〈身体〉の現象学的考察にとどまらず、それらの領域を底で支えている諸価値(審級性)の問題を明らかにする点にある」*21といった説明が見られます。より詳しい説明として、次の文章を引用しておきます。

 

〈欲望〉とは、簡単に言って、そこにおいてはじめて、さまざまな「存在者」の存在が問題となるような境位である。ものの世界が現存在にとって「道具連関」として現われるのは、人間が、さまざまなレベルで〈欲望〉を持つからだ。この欲望をメルロ=ポンティ流に〈知覚〉と呼ぼうと〈身体〉と呼ぼうと、ハイデガーのように「気遣い」と呼ぼうと同じことである。ただこの分析不可能な中心を〈意識〉と呼べばコギト主義を孕むし、また単に〈身体〉というとフッサールの言う“志向性”のニュアンスが削がれてしまう。それは、「事物』一般が客観的に存在するという、ごく普通の世界像(これはいわば人間の原信憑なのだ)を現象学的に「還元」することによって得られるものであって、逆に言えば、なんらかの固有の〈欲望〉がはじめて「事物」に固有の〈ある〉という規定を与え、さらに、この固有の〈欲望〉にとっての固有の〈ある〉が、客観化され、共同化され、普遍化されることによって、「事物一般の客観的存在」という「世界像」が人間のうちに形成されることになるのである*22

 

このように、竹田の「欲望」の概念は、フッサールの「志向性」と同様、客観的世界という描像の根底に位置づけられています。しかし、それは単に私たちの客観的世界の理解を可能にしているだけではなく、この世界の中で私たちが出会うさまざまな事物が意味や価値を帯びて見いだされることの根拠にもなっているのです。竹田は、「人間の〈欲望〉は〈意味〉への欲望であり、しかもそれは〈快苦〉、〈美醜〉、〈よいわるい〉といった情動性をつきまとわせている」*23と述べています。「欲望」とともに、竹田欲望論の中核となっている「エロス」という概念も、このような意味を持っています。

 

 わたしがエロス性という言葉で示したいのは、〈世界〉が、〈私〉にとって単なる実在やその関係としてではなく、快苦、美醜、倫理性の価値関係として、つまり、つねにすでに色づけられて現われてくるようなそういった〈私〉と〈世界〉の関係上の原理にほかならない。この原理は、人間の「経験」が必ず〈意味〉として現われ出ることの根本的な基礎をなしているとともに、〈実存〉という概念のいちばん重要な土台でもある*24

 

私たちは、フッサールの「志向性」からハイデガーの「実存」への展開をたどりながら「竹田欲望論」と呼ばれる立場を確立していく竹田の考察をたどってきました。竹田はフッサール現象学を学ぶことで、この世界についてのさまざまな確信が成り立つ条件について考察しました。さらにハイデガーの「実存」に関する思想から、「快苦」「美醜」「善悪」といった価値によって私たちを取り巻いている世界が彩られていることを発見しました。こうして彼は、フッサール現象学の窮屈さを脱して、エロス的な価値に色づけられた豊饒な世界を切り開くことになったのです。

 

〈欲望〉という概念は、ロジカルには、フッサールの「超越論的主観」という言葉を言い換えたものにすぎない。この言い換えはふたつの契機を持っている。ひとつはこの言葉が持っている、純粋でアプリオリな自我という、カント的な色彩を脱色するということ。そしてもうひとつは、〈主観〉は、世界と知的に関係しているのではなく、エロス的に関係しているということである。だから、わたしの言う超越論的欲望は、フッサールの超越論的主観を、認識論から実存論にそのまま位相変容したものにほかならない*25

 

彼はまた、「超越論のつきあたりを、単なる〈意識〉ではなく〈欲望〉として捉えるとき、私たちは、ロマン、エロス、美としての世界、という領域を、純粋理性、実践理性という二分法に陥ることなく、一貫して了解するような展望にはじめて踏み込むことができるはずである」*26と述べていますが、この文章の意味も、私たちがこれまでたどってきた竹田の思索の道筋を顧みれば明らかであるように思います。

 

*1:竹田『意味とエロス』77頁

*2:竹田『意味とエロス』97頁

*3:竹田『意味とエロス』105頁より孫引

*4:竹田『ハイデガー入門』45頁

*5:竹田青嗣ハイデガー入門』(講談社選書メチエ、1995年)63-64頁

*6:竹田『ハイデガー入門』64頁

*7:竹田『ハイデガー入門』64頁

*8:竹田『ハイデガー入門』64-65頁

*9:ハイデガー存在と時間』第2巻、390頁

*10:竹田『意味とエロス』82頁

*11:とはいえ、竹田はこうした木田の解釈に全面的に従っているわけではありません。『ハイデガー入門』には、次のように述べられています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、この「配慮的な気遣い」の観点とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」(あるいはM・シェーラーの「環境繋縛性」)の概念との近親生徒影響関係を指摘している。時代的にもその影響関係はあるに違いない。ただ、ユクスキュルの「環境世界」は、動物の身体構造と自然世界との存在相関性を説いたもので、人間の場合、身体性も欲望もいわばそのつど性を持っていて固定的ではない。そういう意味で、ハイデガーの「気遣い」はニーチェフッサール的な観点において理解するのがいっそう適切だと私は思う」(竹田『ハイデガー入門』61頁)。

*12:木田元ハイデガーの思想』(岩波新書、1993年)82頁以降、『ハイデガー』(岩波現代文庫、2001年)52頁以降、『ハイデガー存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)45頁以降など

*13:木田は、1925年から26年にかけておこなわれた講義『論理学―真理への問い」や、1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本問題―世界・有限性・孤独』などに、ユクスキュルやシェーラーからの影響があったことが確かめられるとしています。

*14:丸山圭三郎著作集』第2巻(岩波書店、2013年)298頁

*15:竹田『ハイデガー入門』174-175頁

*16:竹田『ハイデガー入門』174頁

*17:竹田『ハイデガー入門』71頁

*18:竹田『ハイデガー入門』60頁

*19:ハイデガー本人はみずからの思想を「実存哲学」として理解されるのを拒否していましたが、竹田はこの点について次のように述べています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、ハイデガーが『存在と時間』が当初「実存思想」の」原典のように受け取られたことに拒否感を示し、自分の狙いはあくまで「存在一般の意味の究明」にあったと力説している点を指摘している。たしかにその通りだが、ただハイデガー自身の見解とその思想の影響とは必ずしも一致しないので、『存在と時間』における実存論が圧倒的に実存思想として影響を与えたことは疑えないと思う」(竹田『ハイデガー入門』11頁)。また竹田はこの本の中で、ハイデガーの後期思想を「実存」の立場からの後退だとして、批判的な立場から解釈をおこなっています。

*20:竹田『意味とエロス』78頁

*21:竹田『意味とエロス』85頁

*22:竹田『意味とエロス』200-201頁

*23:竹田『意味とエロス』157-158頁

*24:竹田『意味とエロス』124頁

*25:竹田『意味とエロス』165-166頁

*26:竹田『意味とエロス』167-168頁

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (4)

前回の最後で、竹田がフッサールに対する「先構成的批判」への反論を試みていたことに触れました。「先構成的批判」とは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉なのではなく、それを可能にしている先行条件が存在するはずだというものでした。

 

しかし、標準的なフッサール解釈においては、「先構成的批判」への第一歩を記しづけたのもまた、フッサールその人だったとされています。それが、「生活世界の現象学」と呼ばれる、後期のフッサールの思索です。

 

そこで今回は、生活世界の現象学に対する竹田の解釈を見ていきたいと思います。なお、前回と同様、標準的なフッサール解釈との違いについても触れることにします。前回は谷徹の『これが現象学だ』を参照しましたが、今回は現象学入門のロング・セラーとも言うべき木田元の『現象学』(岩波新書)を利用することにします。

 

さて、フッサールの後期思想への歩みにおいて重要な意味を持っているのが、「自然的態度」と「自然主義的態度」の区別です。中期においては、現象学的還元によって自然的態度の定立にエポケーが施され、それによって私たちは超越的世界から現象学的残余としての「純粋意識」の領野に立ち返り、そこで働く意識の構成作用を明らかにすることができると考えられていました。ところがフッサールは『イデーン』第2巻において、還元によって超えられるべきだったのは「自然的態度」ではなく、それとは区別される「自然主義的態度」だったと主張するようになります。こうした見通しに基づいて、自然主義的世界観に対する批判的検討をおこなったのが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でした。竹田の『現象学入門』も、おおむねこうした解釈に従っていると言ってよいと思います。

 

ここから、竹田の議論を追っていくことにします。フッサールは、近代の合理主義的な世界観はガリレイの測定術に端を発すると考えていました。「測定術はもともとは、たとえば、丸の内から新宿まで行くのにどう歩けばいちばん近いかとか、この土地とあの土地とどっちが広いかなどをしらべるための、経験的、実践的な動機を持っている」*1と竹田は言います。このように測定術は、もともと人間の生活上の必要から生まれたものです。

 

 測定すること、それは本来は、人間の生活上の必要から出たものだ。ここにリンゴの樹を何本植えられるかとか、どの土地が羊を飼うのに適しているか、といったことが測定術の根にはあった。だから測定術がはじめに求めたのは、生活上の〈~のために〉という目的にかなうような測定基準を見出すことだった*2

 

ところが、やがて人びとの間に正確な測定という技術上の理念が生じ、この理念化されたものだけを扱う「幾何学者」が登場するようになると、そこで第一の逆転が生まれることになります。すなわち、理念化された測定の「基準」によって、自然を数学的に正確に測定するという企てがおこなわれるようになるのです。さらに近代自然科学の進展は、数学的に記述できる自然現象を因果系列のもとに整理・統合していくことになります。これによって、たとえば「熱い/冷たい」「柔らかい/固い」「明るい/暗い」「つるつる/ざらざら」といった、ロックのいわゆる第二性質までもが、自然科学的な「基準」によって測定できるという考え方が生まれます。「熱い/冷たい」という感覚的性質は、熱によって一定の仕方で膨張したり収縮したりするアルコールや水銀などの物質の振る舞いを客観的な「基準」とすることで、正確に測定することができると考えられるようになるのです。それどころか、日常的な感覚的経験は主観的で相対的な世界にすぎず、自然科学的な基準によって測定される客観的な世界の方が確実だという信憑が人びとの間に広まっていきます。

 

よく知られているように、フッサールは始まる自然科学的世界観の礎を築いたガリレイについて、次のように述べています。

 

 物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ〔中略〕は、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもあるのだ。彼は、数学的自然、また方法的理念を発見し、無限の物理学的発見者と発見のために道を切り拓いた。彼は、直観的世界の普遍的因果性(世界の不変の形式としての)に対して、それ以後端的に因果法則と呼ばれるようになったもの、すなわち「真の」(理念化され数学化された)世界の「アプリオリな形式」を発見し、また理念化された「自然」のあらゆる出来事が精密な法則に従わねばならないとする「精密な法則性の法則」を発見した。これらはすべて、発見であるとともに隠蔽であるのに、われわれはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受けとってきた*3

 

近代の自然科学的世界観によって、その端緒であったはずの具体的な生活世界が隠い隠されることになったとフッサールは主張します。もともと測定術は、生活の必要上から生まれたものであったにも関わらず、そのことがすっかり忘れ去られてしまい、自然法則によって記述される世界の方が確実であり、日常の世界は相対的であいまいだと考えられるようになったのです。「「数学と数学的自然科学」という理念の衣〔中略〕は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をなし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる」*4フッサールは述べています。

 

フッサールは、こうした「理念の衣」にすぎないものを払いのけることで、根源的な生活世界に立ち返り、そこから逆にこうした理念が生じてくる仕組みを明らかにすることをめざします。

 

さて、ここまでのところでは、竹田のフッサール解釈は標準的な解釈に比べて大きな隔たりはありません。しかしここから、両者の間に隔たりが生じ始めます。まずは木田元の解説を見てみることにしましょう。

 

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

 

 

中期のフッサールは、超越論的還元という操作によって純粋意識の領野に立ち戻ることをめざしていました。そこでは、自然的態度における世界定立は停止され、それらが意識の構成作用によって私たちにもたらされるプロセスが、透明な意識のもとで明晰に把握されることになると考えられていました。

 

しかし、いまや還元によって排除されるのは、自然的態度ではなく、客体化された自然主義的世界観だとされることになります。そして還元を経ることで私たちが立ち返ることになるのも、純粋意識の領野ではなく、自然な日常的経験において生きられる世界、すなわち「生活世界」だと考えられるようになります。

 

木田は、こうした後期フッサールの企図について、次のように解説しています。

 

 ここにきてフッサールの考え方は、大きな転回を示しているように思われる。現象学的還元つまり哲学的反省とは、もはや無世界的な純粋意識、すべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことではなく、われわれの素朴な日常的経験、ふだんは反省されることもない自然的態度を振りかえることにほかならないことになる。つまり、ここでは―メルロ=ポンティの表現をかりれば―「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ちもどることであり」、「真の哲学とは、世界を見ることを学びなおすこと」と考えられているのである。*5

 

では、この生活世界の中で、私たちはどのような対象に出会うことになるのでしょうか。私たちはもはや、志向作用によって対象が構成されるプロセスを純粋意識という透明な意識の領野において明晰に把握することはできません。なぜなら、生活世界における個々の対象は、それだけで経験されるのではなく、それを取り巻くさまざまな事物との関係の中で規定されているからです。個別的な対象は、必ずある「地平」の中で与えられることになります。この「地平」には、個々の対象と同時にその背景に現われてくる諸対象から成る「外的地平」だけでなく、主題となっている対象の持つ性質や部分的な諸契機など、それについてさらに詳しい経験を私たちに与えてくれる「内的地平」も含んでいます。

 

とにかくすべての対象はつねに、無限に開けた外的および内的地平をともなって経験される。そして、この地平は経験においてさしあたっては潜在的に匿名でしか与えられないが、われわれは注意を向けなおすことによってそれをどこまでも顕在化してゆくことができるのである。しかもこの地平は相互に錯綜し、多層的に含蓄し基礎づけ合いながら一つの全体的地平をなすが、これこそが「世界」とよばれるものにほかならない。したがって、すべての対象は世界のなかで経験され、またすべての個別的な経験において世界はともに経験されている。*6

 

つまり、世界は個々の対象を定立する能動的な活動に先立って「つねにすでに」与えられていると考えられるのです。

 

後期のフッサールは、こうした志向性の働きを「受動的綜合」という概念によって説明し、意識の能動的な意味の構成に先立って発動しつつある、受動的な「意味の発生」に注目するようになります。これが「発生的現象学」と呼ばれる試みにほかなりません。

 

ここに見られるように、中期思想で経験的世界の定立を透明な意識のもとに反省的に捉えようとしたフッサールの企図が断念され、生活世界や受動的構成といった問題圏が新たに浮上してきたというのが、標準的な現象学理解として受けれられていると言ってよいように思います。

 

それでは、竹田はフッサールの中期思想と後期思想の関係を、どのように理解していたのでしょうか。そのことを端的に示しているのが次の引用文です。

 

イデーン』での「素朴な世界像」〔自然的態度において把握されている世界―引用者〕の還元と、『危機』における「生活世界」の〈還元〉の違いは、ただ一点である。『イデーン』では、事象存在の妥当を意識の構造として解明することに主眼があった。『危機』で問題になっているのは、人間の生活上の「実践的関心」という点であり、したがって、人間にとっての事象の意味や価値の“与えられ方”が中心のテーマなのである。*7

 

竹田の後期フッサール解釈の中核をなしているのは、「実践的関心」というキーワードです。まずは、竹田がこの言葉を登場させる経緯を簡単に見てみることにしましょう。

 

竹田もまた、後期のフッサールが自然学的態度から生活世界への還帰をおこなったと理解しています。彼が引用するのは『危機書』の中に現われる次の文章です。

 

生活世界の主観的性格と、「客観的で」「真の」世界との対比は、後者が理論的‐論理的構築物であり、原理的にはけっして知覚することができず、また原理的にその固有の自体存在について経験することのできないものの世界であるのに対して、生活世界的に主観的なものは、まさしくすべての点で現実に経験しうるという特徴をもつ、というところにある。*8

 

私たちは自然主義的態度に囚われているため、私たちが体験しうる世界は主観的であいまいであり、これに対して自然科学が描き出す世界こそが客観的で正確だと思い込んでいますが、これは転倒した見方であり、じつは生活世界の方が自然科学的世界観を基礎づけていると考えなければなりません。

 

それでは、生活世界はどのような仕方で私たちに与えられているのでしょうか。木田の著書では、フッサールが「受動的綜合」という概念を用いて、生活世界が私たちに与えられる仕方を解き明かそうとしていたことが解説されていました。

 

これに対して、竹田の与える説明はどのようなものだったのでしょうか。彼は、フッサールの次の文章を引用しています。

 

世界は、目覚めつつつねになんらかの仕方で実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれに、たまたまある時に与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍的領野として、地平として、あらかじめ与えられている。生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界とその世界のうちに生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に体験し、現に遂行しているということである。*9

 

木田がこうしたフッサールの思想から取り出したのは、「つねにすでに」遂行しつつある受動的綜合の次元への着目でした。しかし、竹田がこの引用の中で重要視しているのは「実践的な関心」という言葉です。生活世界は、私たち自身の「実践的関心」に応じて組織されているのです。

 

 いま〈私〉の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミ、タバコ、灰皿、コーヒーカップなどがある。さらに〈私〉はひとつの部屋の中にいて、また部屋の中には本棚やコピー機、ソファー、窓、ドアなどが〈私〉と共に存在している。
 ところでこれらの事物は、“〈私〉にとっては”、けっして単に「たまたまあるときに与えられ」ている事物存在なのではない。原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという〈私〉の“関心”に応じて〈私〉にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているのである。
 もしもペンの調子が悪ければ、〈私〉は新しいペンを机の引き出しから取り出して使おうとするだろう。予備のペンやそれを入れておく机の引き出しは、そのとき、調子よく書くためのペン、それをしまっておくための引き出しというそれぞれの意味と価値を孕んで存在する。〔中略〕このように、〈私〉のまわりに存在する一切の事物は、〈私〉の生の実践的関心に応じてだけさまざまな意味‐価値の秩序の「地平」をそのつど形成しているのだ。*10

 

ここに語られているのは、フッサールの思想の解説というよりも、ハイデガーの「道具的連関」の解説と言うべきものです。実際に竹田は「フッサールの生活世界の現象学はそのような問題を提示したが、そういう課題をひきついでよく実践したのは、ハイデガーの存在論だったと言える」*11と述べており、彼自身の関心がフッサールからハイデガーの方へと向かっていることは明らかです。

 

このように、竹田のフッサール解釈と、木田に代表される標準的な現象学の解説との間の間には、若干の隔たりがあるように思います。しかもこの隔たりには、単に強調点の違いだと言って片付けるわけにはいかない問題が含まれているのです。

 

標準的な現象学の解説では、中期のフッサールがめざしたのは、「主観-客観」図式の根源にある体験流へと立ち返ることであり、超越論的還元という操作をおこなうことで、意識の志向的構成の働きをつぶさに観察することができる純粋意識という透明な領野を確保することができるとされていました。

 

ところが、後期フッサールの思索は、こうしたプランを破綻へと導くことになりますす。フッサールは、自然主義的態度を還元することで到達することになる生活世界においては、「つねにすでに」匿名の総合作用が働きつつあることを認めざるをえなかったのです。こうして、いっさいの志向的意識の構成作用を透明な意識のもとで明らかにするという「厳密学」の理念は挫折を余儀なくされたのでした。木田は、後期フッサールの試みの意義を、次のように説明します。

 

フッサールの中期の思索においては、〔中略〕超越論的意識の志向的構成作業の連関を反省しさえすれば経験的世界の意味連関はことごとく解明されるはずであった。しかし、もはや哲学的反省にそうした権能は認められない。哲学する「われ」が反省によって見出すのは、その哲学的反省そのものがつねに世界に内属する意識の未反省な生活に依存し、それへの反省としてしかありえないということであり、したがって現象学も経験諸科学の事実認定に依存しつつ、しかもその認識には開示されない事実の意味を解読することにこそ、その使命があることになるのである。*12

 

ところが、竹田のフッサール解釈においては、「主観-客観」図式の根源としての体験流に立ち返るということは重要な意味を持っていません。すでに見てきたように、彼は「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*13と述べています。竹田がフッサール現象学の中に読み取ったのは、もっぱら主観のうちでどのような場合に確信がもたらされるのかを見届けることだけだったのです。

 

竹田はこのような立場に立つことで、さらに「わたしたちのこの世界は、決して単に、ものが客観的に存在するという相で現われているわけではない」*14と考えを進めていきます。なぜなら、私たちの主観のうちで確信される意味は、さまざまな価値を帯びているはずだからです。竹田はこうした事情を、『意味とエロス』の中で次のように説明します。

 

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 私たちのこの世界は、単なる「事象世界」ではなく、すでに〈私〉の〈欲望〉の諸相によって色づけられ(価値を与えられて)存在している。〈還元〉が理解すべきなのは、まさしくこのような、色づけられた事象の世界でなくてはならないのである*15

 

したがって、フッサールの〈還元〉の方法を、その本来的な意図に置き直そうとすれば、わたしたちは、事物の〈ある‐ない〉という存在妥当とともに、〈快‐苦〉、〈美‐醜〉、〈よい‐わるい〉といった事象の価値妥当を、一貫して理解し得るような道すじを見出さなくてはならないはずなのである。*16

 

こうして私たちは、フッサールの独自の解釈をもとに、「竹田欲望論」と呼ばれる思想が成立することを見届けてきました。ただし、竹田がこのような立場を構築するに際して大きな影響を与えた哲学者に、ハイデガーがいることを忘れてはなりません。次回は、竹田のハイデガー解釈について見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』114頁

*2:竹田『現象学入門』115頁

*3:E・フッサール著、細谷恒夫、木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫、1995年)95-96頁

*4:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』94頁

*5:木田元現象学』(岩波新書、1970年)56頁

*6:木田『現象学』64頁

*7:竹田『現象学入門』148頁

*8:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』227頁

*9:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』255頁

*10:竹田『現象学入門』145-146頁

*11:竹田『現象学入門』221頁

*12:木田『現象学』69頁

*13:竹田『現象学入門』80頁

*14:竹田青嗣『意味とエロス』(ちくま学芸文庫、1993年)102頁

*15:竹田『意味とエロス』105‐106頁

*16:竹田『意味とエロス』106頁

自己啓発書を読み解く (1)

谷本真由美の『キャリアポルノは人生の無駄だ』は、自己啓発書にハマる人びとが陥っている問題を鋭く指摘した本です。

 

キャリアポルノは人生の無駄だ (朝日新書)

キャリアポルノは人生の無駄だ (朝日新書)

 

 

この本の中で谷本は、自己啓発書を「キャリアポルノ」という言葉で呼んでいます。「キャリアポルノ」とは、フェミニストの批評家であるロザリンド・カワードらによって用いられた「フードポルノ」という言葉に倣って谷本が作った言葉で、次のように説明されています。

 

 私が自己啓発書を「キャリアポルノ」と定義した理由は、基本的に自己啓発書が「フードポルノ」と同じだというところに理由があります。
 フードポルノは、食べ物を食べたり健康になることが目的ではなく、食べ物を見ることでストレスを解消したり、自分では作ることができないおいしい食べ物、自分では費用を負担することができない高い食べ物、自分では時間もお金もないので体験することができない外国の珍しくておいしい食べ物を食べたり体験することの代償行為です。代わりに見て楽しむだけなのです。そして、それを見たからといって、自分の生活が豊かになるわけでも、おいしいものが食べられるわけでもありません。おいしいものを食べるには、自分で料理方法を研究したり、実際に作ってみたり、おいしいレストランに行ったりしなければなりません。行動が伴わなければ本当に欲しいものは得られないのです*1

 

 フードポルノと同じように、自己啓発書というのは、目に見えない部分での努力や行動、勉強をすっ飛ばして、読むだけで自分の手に届かないもの、例えばかわいい彼女、素敵な家、もっとやりがいのある仕事、高い給料、楽しい友達などを想像し、自分が求めている欲望を満たすだけの「娯楽」にすぎないのです。読むだけ、聞くだけ、見るだけでは、自分の欲しいものは手に入りません*2

 

また、キャリアポルノによってもたらされるのは、一時の「精神的な高揚感」*3でしかなく、それらの本を読んだだけではその人の生活や仕事の問題の根本的な解決にはつながらないと述べられています。

 

さて、この本で谷本は、「私の偏見および思い込みによる分類です」*4と断りつつも、自己啓発書の分類をおこなっています。(1) 説教系、(2) 俺自慢系、(3) 変われる系、(4) やればできる系、(5) 儲かる系、(6) 信じる者は救われる系、(7) エンタメ系、(8) ノマド系です。

 

(1)は、松下幸之助稲盛和夫本田宗一郎といった、人生経験を積んだ高齢の経営者が書いた訓話のようなもの、(2)は『カーネギー自伝』やスティーヴ・ジョブズの伝記などを指します。また、(3)の例としてはナポレオン・ヒルやケリー・マクゴニガルの本、(4)の例としては本田健大前研一、奥野宣之らの本が挙げられています。自己啓発書のジャンルの中でも、次々に同じような内容の本が出てもっとも目立っているのがこの分類に属する本ではないかと思います。(5)はロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』のような金儲け本、(6)は「引き寄せの法則」のような疑似科学を含む本、(7)は岩崎夏海の『もしドラ』のような本を指します。

 

(8)の「ノマド系」という分類は、名前を聞いただけでは分かりにくいのですが、谷本は次のように説明しています。

 

 ノマド自己啓発書とは、2010年ぐらいから出てきた新しい分類の自己啓発書です。「ノマド」とは、オフィスではなくカフェや自宅など好きな場所で自由に働くスタイルを実践する人、という意味と、会社や役所など組織に雇用されず個人事業朱として働く人、という二つの意味があります。景気が悪いために希望の組織に就職できなかったり、就職できても私生活がほとんどないほど厳しい就労環境にうんざりしたサラリーマンが手に取るのがノマド系の自己啓発書です*5

 

例として、本田直之ノマドライフ 好きな場所に住んで自由に働くために、やっておくべきこと』、高城剛『モノを捨てよ 世界へ出よう』、安藤美冬『冒険に出よう』の3冊が挙げられています。

 

谷本は、こうしたタイプの自己啓発書のスタイルを「自己啓発2.0」*6と呼んでいますが、このような自己啓発書の新しいジャンルの存在をはっきりと指摘したことは大きな意味があるように思います。ところが、どうも彼女は、こうした新しい自己啓発書が登場したことの意味を明確に捉えていないのではないか、と思えてしまいます。

 

ノマド系」の自己啓発書は、従来の仕事のスタイルに不満を感じている読者に、別の選択肢の存在を教えるものであり、そこには従来の働き方に対する懐疑が見られます。そして、こうした「ノマド系」の自己啓発書のスタンスは、従来の自己啓発書の教える働き方を批判する谷本自身の立場と重なっているように見えてしまうのです。

 

そもそも谷本のこの著書自体、新しい働き方を読者に教え諭す内容になっていることは、指摘しておかなければならないでしょう。本書に対する批評の中には、この本自体が自己啓発書と同じスタイルで書かれているのではないか、という指摘が少なくありませんが、私自身も同じような感想を持ちました。

 

谷本はこの本の中で、みずからの来歴についても詳しく語っており、彼女がビジネスの世界における厳しい競争を生き抜いてきたことと、身内の事故がきっかけで、そうした働き方に疑いを抱くようになったこと、そして、イタリアやイギリスで生活をしてみることで、それまでの生き方とは異なるライフ・スタイルがありうるということに気づいた経緯が綴られています。

 

日本だったら店員さんがお客さんとなじみの感覚でおしゃべりしていたら、店長や同僚に怒られますし、他のお客さんもよい顔をしません。
 イタリアではそんなことはないのです。明るく楽しく会話をするのが当たり前なのです。日本でも個人経営の店や地方の店ではまだまだこういうノリがありますが、イタリアでは会社の社員食堂や大都会でさえもこういうのんびりとした会話があり、人間らしいサービスがあります。とても自然なのです。ユーモアのセンス、愛、人と人との付きあいがあります。〔中略〕
 最初はあっけにとられていましたが、言葉がだんだんわかるようになると、ちょっとした会話がとても楽しく、なんて人間らしい環境なんだろうと思うようになりました。
 それまで、日本の職場で「クライアントのために働いているのだから一分一秒も無駄にしてはいけない」と教育されていた自分にとっては、この「大人が朝っぱらからおやつを食べて、やあやあ元気ですか、今日はきれいだね、と挨拶する文化がある」というのは衝撃的でした*7

 

分刻みのスケジュールに縛られ、朝から晩まで仕事のこと以外は何一つ考えずせっせと働き詰めに働く非人間的なライフ・スタイルを彼女は批判します。

 

さらに、日本人には「仕事をすること」ないし「働くこと」が「自己実現」だと思い込んでいる人が多いという問題が指摘されます。

 

 そもそも、「自己実現」は、さまざまな活動により実現されるものであって、「広い意味で創造的であること、そして、人間がそのような想像力を発揮できること、自分というものを表現できるもの」という幅広い概念や活動をとらえたものであったにもかかわらず、日本では親の世代も若い人も「自己実現」が「働くこと」に限定されてしまっている感じがします。
 私はこのような考え方が、現代の日本における「不幸」の原因のひとつであると考えています。なぜなら、マズローや神谷氏が提示したように、「自己実現」とは幅広いものであるはずです。その欲求は個人個人違うものであり、違うからこそ、そこに「個性」というものがうまれるわけです。
 ところが、それを「仕事」に限定してしまうと、仕事という狭い範囲の活動においてしか、自分の個性や活動を肯定することができなくなってしまいます*8

 

その上で谷本は、「労働こそが自己実現である」という発想はマルクスの思想の中に見いだせると主張しています。

 

「労働こそが自己実現である」という社会では、勤勉に働いて、仕事の中で自己実現することで、社会的認知を得て、自分の価値を確認し、心の中の不安を払拭するのです。つまり、働かない人というのは不安から自由になれないのです。
 このような考え方は、共産主義体制が考える「労働」に近いものです。
 マルクスは、労働者が自分の労働が肯定されないことで精神的に疲弊し、自分の求める本質(=自己実現)を達成できないことで、精神が退廃化するとも指摘していますが、これも、労働が人間のありかたを決定するという、労働に偏った見方です〔中略〕
 つまり、社会主義共産主義が大好きな人々が偏愛するマルクス先生は、労働原理主義の「働き者」なのです*9

 

こうした著者のマルクス解釈には、首をかしげざるを得ません。初期マルクスは、近代資本主義社会における疎外された労働を克服することで人間の本質としての労働を実現することをめざしていたと言えますが、そこで人間の本質としての労働とされているのは、谷本が批判する「労働こそが自己実現である」という発想とは重なりません。『ドイツ・イデオロギー』の中から、次の文章を引いておきましょう。

 

これにひきかえ、共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝に狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする―猟師、漁夫、牧人あるいは批評家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである*10

 

さらに『経済学批判要綱』を経て『資本論』へ至る過程で、マルクスは自然必然性に従う労働を人間の自由な活動とする考え方を乗り越えていくことになります。

 

谷本がこうした誤りを犯した理由は明らかで、マルクスの「労働」概念自体を検討することを怠り、それを彼女自身が日常的な意味で用いている「労働」と安易に同一視したことにあると言ってよいでしょう。

 

もっとも、谷本は最初からマルクスを正確に理解することなど問題にしていないことは承知しているつもりです。彼女自身の労働に対する考えを紹介するに際して、ちょっと寄り道をしただけのことなのでしょう。したがって、この問題にこれ以上拘泥しても得るところはないと言ってよいと思います。

 

それに、現実の社会主義国家について伝えられているさまざまな事件や出来事を見ると、こうした理解が生じるのもやむをえないという気がします。たとえば、旧ソ連の詩人でノーベル文学賞を受賞したヨシフ・ブロツキーは、「無為徒食」の罪で裁判にかけられました。裁判の中で次のようなやりとりがおこなわれたことは、よく知られています。

 

裁判官「あなたの職業は?」
「詩を書いています。詩の翻訳もしています。僕の考えでは……」
裁判官「あなたの考えなど聞いていません。ちゃんと立ちなさい! 壁にもたれないで! まっすぐ前を見て、きちんと答えなさい! 定職はもっていますか?」
「それが定職だと思いますが」
裁判官「正確に答えなさい!」
「僕は詩を書いてきました。その詩が出版されると考えていました。僕の考えでは……」
裁判官「あなたがどう考えようと、そんなことに我々は関心ありません。あなたの専門は?」
「詩人です。翻訳家の詩人です」
裁判官「誰があなたを詩人だと言ったのです? 誰があなたを詩人だと認定したのです?」
「誰も。では、誰が僕を人間だと認めたのですか?」
裁判官「で、あなたは専門の勉強をしたのですか?」
「何の?」
裁判官「詩人になるためのです。あなたはそのための教育を受けようとしましたか……」
「教育によって詩人になれるなんて考えてもみませんでした……」
裁判官「では、どうすればなれます?」
「僕の考えでは、それは神から与えられるものです」

 

ここに現われている問題の深淵をのぞき込むことは人びとに戦慄をもたらさずにはおかないはずなのですが、このやりとりが実際になされたときの様子を思い浮かべると、どうしても笑いがこみ上げてしまいます。裁判の結果、彼には5年の国内流刑と強制労働が言い渡されることになりました。

 

それはさておき、谷本は「労働こそが自己実現である」という考えを抱いていたマルクスを批判する一方で、マルクスの娘婿であるポール・ラファルグが1883年に刊行した『怠ける権利』に肯定的に言及し、「私個人としては、長年ニートマルクス先生よりも、ラファルグ先生の「三時間労働」の方になんとなく魅力を感じます」*11と述べています。

 

そのラファルグは、次のように声高に「三時間労働」の主張を掲げていました。

 

 一日に12時間の労働、これが18世紀の博愛主義者、モラリストたちの理想であるとは。なんとわれらは最後の一線を踏み越えてしまったことか! 現代の工場は労働大衆を幽閉し、男のみならず女子供にも、12時間から14時間の強制労働を課する理想的な懲役施設になったのである。《恐怖政治》を担った英雄の息子たちが、1848年のあと、生産工場内での労働を12時間に限る法令を、革命の一成果として受諾するまでに、労働の宗教で堕落させられてしまったとは。革命の一原則として、彼らは労働の権利を祭り上げたのである。フランスのプロレタリアートよ、恥を知れ! おもうに奴隷だけが、このような下賤な地位に耐えうるというものだ。*12

 

 自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない*13

 

しかし、こうした谷本のラファルグ賛美は、彼女の陥った決定的な問題を浮き彫りにしていると言わなければなりません。今度はマルクスの場合とは違い、彼女のラファルグ解釈に拘泥しても仕方がないと言って見過ごすわけにはいかないのです。

 

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』の中で、次のようにラファルグを批判しています。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

 ラファルグは、「資本主義文明」が大嫌いである。だから、労働者階級が労働を賛美することで、それとは気づかずに資本の論理に取り込まれていることが許せない。怠惰の賛美はそこから出てくる。労働をもとめるのではなく、余暇をもとめること。それこそが資本の論理の外に出ることだとラファルグは信じている。
 しかし、実はそれは完全に間違っているのだ。ラファルグの能天気な思い込みは、20世紀に木っ端みじんに砕け散ったと言ってよい。なぜなら、余暇は資本の外部ではないからだ*14

 

國分はアメリカの自動車王ヘンリー・フォードの業績に触れながら、このことを説明していきます。自動車の組み立てラインに初めてベルト・コンベアーを導入した彼は、労働者が自ら歩いたり身体をかがめたりする必要がないように配慮して、機器や部品を配置するということをおこないました。さらに彼は、労働者に高賃金を約束し、十分な余暇を取ることができるように配慮しました。このように見てくると、フォードは労働者思いのすばらしい経営者のように思えてきます。しかし國分は次のように指摘します。

 

 だが、こうした思いやり、労働者に対するケアが、すべて生産性の向上という経済原理にもとづいていることを忘れてはならない。フォードは生産性を向上させるために労働者をおもんぱかっているのであって、その逆ではない。したがって、生産性を向上させるためであれば何でもするし、生産性を低下させる要素があればそれを断固として排除するだろう*15

 

さらに、労働者が仕事から解放されて自由に享受することのできる余暇までもが、資本の内部に組み込まれていると言います。

 

 フォードは、自社の労働者たちがフォードの車を買い、自分たちの足として、そして余暇のためにそれを用いることを望んでいた。フォードが労働者たちに十分な賃金と休暇を与えたのは、労働者に抜かりなく働いてもらうだけではない。そうして稼いだお金で労働者たちに自社製品を買ってもらうためでもあった。フォードで働いてもらい、フォードの車を買ってもらう。そしてレジャーを楽しんでもらう。
 十九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転化する術を見出した。20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのだ*16

 

こうした見方に立つとき、労働の中での「自己実現」へと私たちを駆り立てているものが、私たちを余暇における「自己実現」へと駆り立てているのと同じ資本の力学だということが見えてくるのではないでしょうか。

 

谷本の本の中で「ノマド系」の自己啓発書として分類されていたのは、従来の組織に捕らわれた働き方や、生産至上主義的な価値観から脱却し、より自由なライフ・スタイルを提唱する本でした。それは、従来の自己啓発書に対するアンチ・テーゼを含んでいるとはいえ、そこに描かれている新しい働き方、自由なライフ・スタイルに憧れる人々が、それらの本を読んだだけで、何か有益なことをしたつもりになるとすれば、従来の自己啓発書と何も変わらないと言うべきでしょう。これらの本も、それを消費する人びとに一時の高揚感をもたらすものでしかないという意味では、まさしく「キャリアポルノ」と呼ばれるにふさわしいものでした。「ノマド」という言葉に象徴される新しい働き方や自由なライフ・スタイルによって「自己実現」を図るという考えが私たちを呪縛し、一時の快感を求めてキャリアポルノを買い続ける読者を生んでいるのだとすれば、何かがおかしいと言わざるを得ません。

 

繰り返しになりますが、谷本がこうした自己啓発書のジャンルの存在をはっきりと指摘したことは、やはり慧眼だったと思います。ところが、これらの自己啓発書にハマる人びとの労働に対する意識を批判していたはずの谷本自身の言葉が、まさに彼女が批判していたはずのものに似てきてしまうところに、この問題の本質があります。

 

そしてこうした彼女の身振りが、労働を神聖視する人びとの意識を批判し、余暇を称揚することで資本の外部への脱出を果たしたと思い込んだラファルグの誤りの再演であることは、もはや明らかなのではないでしょうか。

 

私たちは、同じ罠に三度も引っかかってしまうほど愚かではないはずです。自己啓発書を「キャリアポルノ」と呼んで批判する谷本自身の言葉が自己啓発書に似ていると指摘することで、みずからはこうした陥穽から免れていると信じることほど、滑稽はことはないでしょう。

 

「働くこと」について考えるということは、このメカニズムの外部に立って、それを批評することであってはなりません。私たちに課されているのは、このようなメカニズムの中に巻き込まれつつ、自己を巻き込んでいるこのメカニズムに目を凝らすことなのではないでしょうか。

 

次回は、実際にいくつかの自己啓発書を参照しながら、このメカニズムが働く様子を叙述していきたいと思います。

 

*1:谷本真由美『キャリアポルノは人生の無駄だ』(朝日新書、2013年)52頁

*2:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』53頁

*3:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』57頁

*4:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』30頁

*5:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』42頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*6:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』44頁

*7:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』145-146頁

*8:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』162頁

*9:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』177-178頁

*10:マルクスエンゲルス著、廣松渉編訳『新編輯版ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫、2002年)66-67頁

*11:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』182頁

*12:ポール・ラファルグ『怠ける権利』田淵晋也訳(平凡社ライブラリー、2008年)21-22頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*13:ラファルグ『怠ける権利』37頁

*14:國分功一郎『暇と退屈の倫理学〔増補新版〕』(太田出版、2015年)122頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*15:國分『暇と退屈の倫理学』125頁

*16:國分『暇と退屈の倫理学』130頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (3)

前回は、竹田のフッサール解釈について、とくにその「方法的独我論」という規定について、簡単に見てきました。今回も引き続いて、竹田のフッサール解釈を概観することにします。なおその際、従来の現象学理解はひどい誤解に覆われていると竹田が繰り返し主張していることを鑑みて、竹田のフッサール解釈の独自性はどこにあるのかということについても、多少立ち入って考えたいと思います。


竹田は『現象学入門』の中で、フッサールの『イデーン』における「原的に与える働きをする直観」に関する文章を引用しています。

 

さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである*1


ここでフッサールは、いっさいの認識、判断のいちばん底にあり、その源泉となる「原的に与える働きをする直観」があると主張しています。そして竹田は、「原的に与える働きをする直観」とは「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」*2であり、「知覚直観」と「本質直観」の二つがそれに当たると言います。


なぜ、知覚直観と本質直観は、それを疑うことが無意味だとされるのでしょうか。竹田は次のような例をあげて説明しています。いま目の前に、一つのリンゴがあるとします。私はそれを一瞥して、赤いもの、丸いもの、つやつやしたものという感覚で捉え、「リンゴだ」と考えます。しかし、それが本物のリンゴだということは確かなことなのでしょうか。もしかするとそれは、本物そっくりに作られたロウ細工のリンゴかもしれません。それを手に取り、香りを嗅ぎ、食べてみて、「やはりリンゴだ」と考えたとしても、なお、それが最新科学で作り上げられた本物そっくりの合成のリンゴかもしれないと疑うことは可能です。


しかし、このとき私が「丸い感じ」「つやつやした赤い感じ」を受けたということ、この体験それ自身は、ひょっとしたら「赤く」感じたのではなかったかもしれない、とか、「丸く」感じたのではなかったのかもしれない、といった疑いを抱くことはできません。「知覚直観」とは、「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」のような知覚における内在的な感覚体験のことを意味しています。そして竹田は、このような知覚直観は世界の諸事象に対する人間の確信のいちばん底を支える条件をなしていると言います。


これと同じこととが、「本質直観」についても言われています。竹田はまず、「現象学で言う「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい」*3と簡単な解説を加えた上で、リンゴに関して私たちが抱く「本質」も、けっして心の恣意的な生産物として現われるのではないとしています。たとえば、ひとはリンゴを見て、それをミカンだと確信することはできません。また腐ったリンゴを見て、このリンゴはじつにうまそうで価値があるなどと確信することも不可能です。こうして、私たちの意識にとって自由にならず、どうしても退けることのできないようなものとして現われてくる「知覚直観」と「本質直観」が、「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」だと竹田は論じています。


ここで注意しなければならないのは、竹田の理解するフッサール現象学の場合、「知覚直観」と「本質直観」を疑いえないものだとされるのは、それが「主観-客観」図式の成立する以前の「純粋意識」の領野に見いだされるからではなく、「世界の諸事象に対する人間の自然な信憑(=確信)の、いちばん底を支える条件」*4を意味しているからだ、ということです。おそらくこの点に、竹田がフッサールを評価する最大の理由が存するように思われます。


多くの現象学の解説書では、還元によって「主観-客観」図式の根底にある「純粋意識」の領野に立ち返り、志向的意識による「構成」の働きを明らかにすることが現象学の課題だと説明されます。ここでは、前回も取り上げた谷徹の『これが現象学だ』における「構成」の解説を見てみましょう。

 

これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)

 

 

谷はまず、「私たちはマッハ的光景(表象)の外には出られない」*5と言い、「フッサールはマッハに近い考えを持っていた」*6ことを確認しています。しかし他方でフッサールは、直接経験の領野に見いだされるはずの「志向性」をマッハが見落としていることに批判的だったと述べています。


マッハ的光景の中で、サイコロはパースペクティヴ的に現出しています。「たとえば、五の目の面が正面に見えている。少し右に首を動かすと、三の目の面が見える。さらに右に首を動かすと、(期待したとおり)二の目の面が見えてくる」*7。しかし私たちは、そのつどのサイコロの見え方をバラバラに知覚・経験しているのではなく、一つのサイコロの多様な現出として把握しています。「私たちは、「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験している」*8のです。

 

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谷徹『これが現象学だ』57頁

 

ここで「現出」と呼ばれている、五の目の面や二の目の面などは、『イデーンⅠ』では「射影」と呼ばれており、「こうした現出/射影は(直接経験における)「ノエマ的意味」を含んでいる」*9と谷は解説しています。

 

ここで重要なのは、もろもろのノエマ的意味がバラバラになっていないということである。それらは、ひとつの「基体」に収斂している。だからこそ、それは、ひとつのサイコロ(対象/現出者)の多様な意味(あるいは現出)とみなされるのである。サイコロは、もろもろのノエマ的意味とひとつの基体から成り立っている*10


そしてここから、志向的体験におけるノエシスノエマの相関関係が説明されることになります。まず、もろもろのノエマ的意味が一つの基体に収斂しているという一体的な構造が「ノエマ」と呼ばれます。あるいは、「これは、要するに、諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである」*11とも述べられています。他方ノエシスについては、次のように解説されています。

 

 ひとつのノエマは、もろもろのノエマ的意味が(ひとつの)基体に収斂させられることによって、構成されている。〔中略〕この構成を遂行しているのは、直接経験=志向的体験の働きである。この意識の働き(志向性)は、ノエマと対比されるときには、ノエシスと呼ばれる。ノエシスノエマはいつも必ず一体である。ノエシスのないノエマとか、ノエマのないノエシスなどは、ない*12


私たちは、マッハ的な表象の世界の外に出ることはできません。それにもかかわらず、私たちには、表象の外に実在的な対象が存在すると思い込んでしまう傾向がそなわっています。このような傾向は「自然的態度」に基づくとされますが、現象学ではこうした自然的態度の傾向にストップをかけ、マッハ的光景へと立ち返り、そこで実在的な対象という「存在=超越」がどのように構成されるのかを明らかにしようとします。これが「超越論的現象学」の課題にほかなりません。

 

 しかし、繰り返すが、私たちはマッハ的光景(表象)の外には出られない。存在=超越は、私たちがマッハ的光景(表象)の内部で構成したもの、今も構成しつづけているものである。かくして、「超越論的」とは、こうした「存在=超越」を、その構成にまで引き戻して、学問的に問うときに用いられる言葉である。すなわち、超越を学問的に問うから、超越論的である*13


しかしこのような説明は、ともすれば次のように受け取られかねないところがあるのではないでしょうか。すなわち、超越論的還元によって確保される純粋意識の内容が私たちの認識を構成している「素材」であり、志向的意識における「構成」作用とは、それらを適切な意味を付与することで、自然的態度における「世界定立」を作り上げることを意味している、といった理解です。しかし竹田は、こうした「組み立て工場」*14のような志向性の解釈を、はっきりと退けています。標準的な現象学解釈に対する竹田の批判は、おそらくこの点に向けられているのではないかと思います*15

 

確認しておくと、竹田の理解する現象学とは、主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届けた上で、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察を集中することを意味していました。だから、知覚直観と本質直観について「それを疑うことが無意味である」とされるのも、それが「主観-客観」図式の根源である純粋意識の領野に存するからではなく、主観の内における確信成立の「底板」をなしているからだと理解しなければなりません。このことがよく分かるのは、竹田が提出している次のような例です。

 

 〈私〉は昨日誰かと、「今日の六時、新宿駅西口で」という待ち合わせの約束をしたと思っていたが、ちょっと記憶があいまいなので約束した時の記憶を思い起こしてみる。すると六という数字がはっきり浮かんできたのでまず間違いないと思う〔中略〕。このとき、六時とともに五時とか、七時という言葉が入りまじって浮かんできたら、〈私〉は「六時」に約束したことの確実性を“疑う”だろう。そういう場合、自分の記憶が少し怪しいのでもう一度思い返してみるだろう。すると「六日(今日の日付)の六時に」と同じ六並びで約束したのだったという記憶がはっきり生じ、何度思い直しても、この明瞭さが反復されたとしよう。
 さて、このようなとき、〈私〉はもはや「六時の約束」の確実性を“疑えなく”なる。たとえあえて疑おうと意志しようとしても、〈私〉にはこれを疑う動機がなくなってしまうのである。論理的には、いくら明朗な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対に正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上「疑えなく」なる。たしかに六時だったという確信がいやでもやってくる。だから「明証性」とは、〈私〉がさまざまなものごとを「正しい」とか「ほんとうだ」とか思うことの、絶対的で「必然的な」根拠である。そういうことをフッサールは言っているにすぎない。そしてこういう「明証性」の状態をどのように記述できるかを試みているにすぎない。*16


先に取り上げたリンゴの例を、ここでもう一度考えてみましょう。私たちは、目の前にあるリンゴが、本物のリンゴであるかどうかということを、いくらでも疑うことができます。それは精巧に作られたロウ細工かもしれず、あるいは最先端の科学によって作られたリンゴそっくりの化学食品かもしれません。しかし、「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」といった知覚における内在的な感覚体験は、けっして疑うことができませんでした。そしてこのような知覚直観が、世界の諸事象について私たちが抱いている確信の底板をなしているというのが、竹田の現象学解釈なのです。


私たちが抱く「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」をけっして疑うことができないのは、それが「主観-客観」図式の根源にある「純粋意識」の領野に存するからではありません。そして、「目の前にリンゴが置かれている」といった世界の諸事象についての私たちの確信が成立するのは、私たちの意識が「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」といった知覚直観を「素材」として、そこから世界についての信憑を作り上げるからではありません。竹田は、こうした「組み立て工場」のような「構成」の理解をはっきりと退けています。


リンゴの例について、竹田は次のように述べています。

 

 このリンゴを食べてみてまったく“違い”を見出せなかった。その後身体がおかしいということもない。そういう場合、わたしたちはリンゴの怪しさを疑う動機を失う。このとき「明証性」はいやでもやってくるのである。*17


知覚直観が世界の諸事象に関する私たちの確信の「底板」をなしているということは、このようなことを意味しています。私たちは、じっさいにリンゴを手に取り、味わってみることで、もはやそれが本物のリンゴではないかもしれない、という疑いの動機を失うことになるのです。


もちろん、知覚直観が信憑の底板をなすと言っても、条件が変われば信憑の条件となる知覚も変わります。竹田は次のように説明しています。

 

ひとは、たとえばニセの金貨が流通すれば、「金色に光るものが金だ」というそれまでの判断基準を捨ててそれを歯で噛んで験してみる。本ものの金貨は柔らかいからだ。だがもしもニセ金貨作りが金と同じ固さの合金を作ったとしたら、また新しい確かめの方法が探しだされなくてはならない。〔中略〕
 だがここで肝要なのは、わたしたちはなんらかの基準でものを確かめる場合、原理的に、自分の〈内在的知覚〉を最後の頼りにするということである。
 輝きも硬さも同じようなニセ金貨が現われて手軽な確かめの方法が見つからないとき、ひとは科学の力を使って金の組成を検証する方法をとるかもしれない。しかしこの場合でもひとは、試薬や計器、またそれが表示する数値のまちがいなさを、自分の目で確かめたときはじめてこれは金だと納得(同定)する。論理的にはこの同定は、最終的な確証ではない。しかし何ぴとといえども、その方法が最上のものと認められているときには、もはやこの金貨をそれ以上疑い続ける動機を持ちつづけることができないのである。*18


現象学は確信成立の条件についての学問であるという竹田の解釈の大筋が、そろそろはっきりしてきたのではないでしょうか。


現象学が解明しなければならない問題は、「主観-客観」図式を超えた純粋意識の領野に立ち返り、そこに見いだされる体験流を「素材」として、どのように世界定立が「組み立て」られてきたのかを見届けることではありません。


竹田は、「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*19と主張していました。しかし、当然のことながら竹田は、単に独我論の立場に立って、客観的認識は不可能性だと開きなおるべきだと主張しているわけではありません。現象学的還元が「発想の転換」や「視線の変更」と呼ばれているのは、ここで主観と客観の一致をどのようにして確かめることができるか、という従来の認識論の問題を考えるのではなく、「いかに「超越」(いわゆる客観的な対象)が、われわれの〈内在意識〉のうちで“妥当な認識”として成立するのか」*20という問題を考察の対象とすることを意味しているのです。このことは、『超解読! はじめてのフッサール現象学の理念』』(講談社現代新書)の中で、より詳しく説明されています。

 

 

私の考えでは、そもそも認識を「主観」と「客観」の関係としてみなす考え自体に誤りがあるのだ。
 この問題を解明するには、「主観-客観」という概念を棄て、その代わりに、「内在-超越」という概念でこれを考えるべきである。〔中略〕
 「超越」には、本質的に「可疑性」がつきまとっている。これに対して、「内在」は、意識に“直接与えられている所与”だから、決して疑わしさがない。「主観-客観」の概念の代わりに、われわれは問題を、「内在」と「超越」という概念で考えよう。このことで、認識問題の「謎」はよく解明されるはずである。*21


さらに竹田は、「内在」と「超越」の関係について、次のように解説しています。

 

「これはこれこれのリンゴだ」という対象意識は、それが「内在」に与えられている、という点では、やはり“疑えない”。しかしそれを、「ここにリンゴが存在する」という実在についての信憑としてみると、それは「超越」的な認識となる。*22


竹田は、「これはこれこれのリンゴだ」といった対象意識が「内在」において捉えられるとき、それは「対象意識」ではなく「対象についての確信の意識」と理解するべきだと述べています。現象学の立場に立つとき、自然的態度において「超越」すなわち客観的存在だとみなされていたものは、じつは「内在」において構成された「対象の確信像」にほかならないということが明瞭になると言うのです。その上で、「内在における「世界の構成」のありようを観取するとは、われわれが「内在」でいかにさまざまな「対象の確信像」を構成しているかを解明すること、すなわち、「確信成立の条件」を解明すること」*23であり、これこそが現象学の課題にほかならないと主張します。


こうして、現象学が取り組むべき問題は、次のように整理されることになります。

 

現象学的な「認識の妥当性」の根拠づけとは、「認識」が客観認識=真理であることの根拠づけではまったくない。ある「認識」が妥当な認識、つまり「普遍的な認識」と呼べることの条件の解明、ということなのである。*24


フッサールがめざしたのは、実在についての信憑に「エポケー」(判断停止)を施すことで「主観-客観」図式の根源にある体験流の領野に至り、そこにあらゆる認識の源泉を見いだすことではありません。従来のフッサール解釈ではこのことが正しく理解されていないために、さまざまな批判を招くことになったと竹田は言います。その中でも彼がとくに詳しく検討し反論を試みているのが、「先構成的批判」と呼ばれる批判です。これは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉であるとフッサールは考えていたが、じつはそれを可能にしている先行条件が存在するのではないか、という考えに基づいています。

 

 われわれの「意識」が、「身体」や「情動」といった下位の層から支えられていることは誰もが感じていることであり、ある意味で自明である。そこで、一般的な表象としては、誰も、「意識」を支えそれを“可能にしているもの”としての「先構成的」諸相、つまり「身体」「情動」「言葉」「無意識」「関係」「制度」などを指摘することができる。このような根拠関係の表象から、〈内在意識〉こそ絶対的な根源であるという主張に対して、否、「身体」「情動」「無意識」「時間」「言葉」こそ、「意識」を“可能”にするののであり、したがって、「身体」「情動」「無意識」「言葉」といった根源性を、「意識」が絶対的に内省し把握することはできない、と主張することはむしろ容易である。*25


竹田は、フィンクやラントグレーベといったフッサールの高弟、さらに新田義弘や谷徹といったわが国の代表的な現象学研究者もまた、こうしたフッサール批判を正当なものとして受け入れていることを指摘し、彼らに対して厳しい批判を述べています。


さて、こうした竹田のフッサール解釈や、従来の解釈に対する批判については、なお慎重に検討するべき事柄が残っているように思われます。しかしそれらの検討にはなお準備が不足しているので、今は竹田によって理解されたフッサールの思想を概観したところで、ひとまず満足したいと思います。次は、彼がこうしたフッサール解釈に依拠しながら「竹田欲望論」と呼ばれる彼自身の独創的な思想をどのように展開していったのかを見ていくことにします。

 

*1:渡辺二郎訳『イデーン I-1』(みすず書房、1979年)117頁

*2:竹田『現象学入門』50頁

*3:竹田『現象学入門』59頁

*4:竹田『現象学入門』214頁

*5:谷『これが現象学だ』51頁

*6:谷『これが現象学だ』55頁

*7:谷『これが現象学だ』132-133頁

*8:谷『これが現象学だ』56頁

*9:谷『これが現象学だ』133頁

*10:谷『これが現象学だ』133頁

*11:谷『これが現象学だ』132頁

*12:谷『これが現象学だ』135頁

*13:谷『これが現象学だ』51頁

*14:竹田『現象学入門』106頁

*15:谷は「構成」という言葉について、「この言葉は、対象が私たちの側からの働きかけから独立に存在すると認めることを拒絶するものであり、逆に、対象は(その存在=超越すらも)、私たちのなんらかの働きかけによってこそ成立するということを意味している」(谷『これが現象学だ』51頁)と述べて、注意を促しています。また、「この言葉は、日常的に理解すると、誤解を招きやすい」と述べていますが、それは「日常語の構成は作ることを意味するから、構成とは、ペガサスのような実在しない空想対象を作ることだけを意味すると考えやすいからである」(谷『これが現象学だ』51-52頁)として、現象学では、富士山のような実在するとみなされる対象もまた、志向的意識によって構成されたものだとみなされると説明しています。

*16:竹田『現象学入門』157頁

*17:竹田『現象学入門』164頁

*18:竹田『現象学入門』97頁

*19:竹田『現象学入門』80頁

*20:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念』』39頁

*21:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』36頁

*22:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』46頁

*23:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』113頁

*24:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』158頁

*25:竹田『完全解読フッサール現象学の理念」』234頁

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (2)

今回は、主として『現象学入門』(NHKブックス、1989年)によりつつ、彼の現象学解釈、とくに「現象学的還元」についての解釈を概観していくことにします。

 

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

 

 

竹田は、「ふつうわたしたちが常識的にものを考えるときには、暗黙のうちに〈主観/客観〉図式を前提としている」と言い、「私たちは暗黙のうちに身につけている「ものの見方」を捨て去って、まったく違った視線で事態を見なければならない」*1と主張します。これは端的に言えば、「〈主-客〉図式をとり払うこと」*2にほかなりません。

 

「主観-客観」図式を取り払うという発想は、竹田の独創的解釈ではなく、標準的なフッサール解釈をそのままなぞっているように思えます。しかし竹田の議論を少し詳しく見てみるならば、標準的なフッサール解釈と竹田のそれとでは、かなりの違いがあることが明らかになります。

 

谷徹は、現象学の入門書として定評のある『これが現象学だ』(講談社現代新書、2002年)の中で、フッサールに重要な着想を与えた思想家であるマッハの現象論に言及しています。そこで彼は、マッハの『感覚の分析』にある有名な絵を参照しつつ、「フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた」*3と述べています。ただし、急いで付け加えなければなりませんが、谷がここで「主観的」と呼んでいるのは、「主観-客観」図式の片方の項を意味しているのではありません。彼は、「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」*4と説明しています。

 

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Ernst Mach, Die Analyse der Empfindungen, 1992, Jena, Gustav Fischer

 

同様のことを、マッハの『感覚の分析』の翻訳を手がけた廣松渉も述べています。

 

 マッハのいう要素は、普通には感覚と呼ばれているもの―色、香、音、温冷の感覚、圧覚、空間感覚(つまり形や大きさの諸感覚)、時間感覚、等々―にほかならない。それが要素と呼ばれるわけは、それが存在者の構成要素であり、しかも、現在のところもはやそれ以上分解することも他に還元することもできない元素だからである。
 ところで、この要素=感覚は、「頭のなかにある」主観的な心像として理解されてはならない。「要素」は、もしそのような云いかたが許されるならば、頭のそとにある感覚なのである。それは第二次的な所産ではなく、第一次的・根源的な所与であり、それ自身としては主観的でも客観的でもない。いわば中性的な構成要素である*5

 

マッハは、ふだん私たちが当たり前だと考えている「主観-客観」図式から離れ、その前提をなしている「直接経験」の領野に立ち返るべきだと主張しました。フッサール現象学にも、こうしたマッハの思想から影響を受けているとされています。

 

ところが、竹田の「〈主-客〉図式をとり払うこと」*6という言葉は、これとは違う意味で用いられているように思われます。例えば次のような文章に、竹田の考えがよく示されています。

 

 どんな認識も〈主観〉だが、しかし〈主観〉は自分の認識能力の正しさを判定できない。ゆえに認識は決して〈客観〉に達しえない。これが〈主-客〉問題の謎である。
 この問題を考えるとき、論理上はふたつの方法しかない。〈主観〉から出発して〈客観〉が何であるかを説くか、〈客観〉から出発して〈主観〉の何であるかを説くかのどちらかの道である。事実、近代の認識論は必ずどちらかの方法をとってきた*7

 

彼によれば、認識論には主観から出発するか、客観から出発するかという2つの方法しかなく、「主観-客観」図式の前提に立ち返るという方法は考慮されていません。そして彼は、フッサールの立場を次のように解釈します。

 

 フッサールが言うのはこういうことだ。〈主-客〉の「一致」が可能かどうかと問う限り、問題は〈主観〉の認識能力の是非を問うほかない〔中略〕
 というのは、〈客観〉から説明するという限り、〈客観〉が何であるかという規定が必要だが、この問題ではまさしくこの何であるかこそ求めるべきXであるからだ。ゆえにこの問題は〈主観〉から説明するほかにないのだ、と*8

 

もしフッサールの立場がこのようなものであるとするならば、それは独我論ではないかという批判を招くことは避けられないように思われます。しかし竹田は、このような批判は「ナンセンス」だと主張します。

 

 さて、現象学にたいするもうひとつの大きな非難は、それが「独我論」であるというものだ。現象学は人間の〈主観〉から一切を説明するので、それは一見、「世界」などどこにも存在しない、あるのはただ〈私〉に現われた「世界」像だけだ、という「独我論」の言い方にひどく似ている。だからその面だけ見ると、この批判はたしかに当たっているように見えるかも知れない。
 現象学独我論に似ているのは、まず〈私〉の場面から考えようとする点だ。しかし現象学独我論であるという批判は、まったくナンセンスと言うほかないものである。というのは、現象学は、主観-客観の問題を“解決する”ためには、むしろ「独我論の立場を“出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」と主張しているからだ*9

 

フッサールは、独我論の立場から議論を開始することを「戦略的に」選んだのだと、竹田は考えます。彼は、「現象学独我論だという批判は、したがって、寿司屋で刺身を注文した人が刺身にくっついたうろこを見て、「なんだ、これは魚じゃないか」と文句をつけているのに似ていると言えるだろう」*10と述べています。

 

では、「戦略的に」独我論の立場に立ってみることで、フッサールは何を得ることになったのでしょうか。それは、〈主観〉から出発して〈客観〉に達することは不可能であるにもかかわらず、私たちは「真理に到達した」という確信を抱くことがある、ということにほかなりません。竹田は次のように述べています。「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」*11フッサール現象学の最大の意義は、主観と客観の一致から確信成立の条件へと問題を組み替えたことにあるという、竹田のフッサール解釈のもっとも重要な考えが、ここに示されることになりました。

 

ここで、私たちがたどってきた議論を簡単に振り返っておきましょう。竹田によれば、フッサールは「〈主-客〉図式をとり払うこと」を主張したとされていますが、それは「主観-客観」図式の前提となっているより根源的な領野に立ち返ることを意味してはいません。それはただ、「〈主観〉は自分の外に出て〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確かめることができない」*12という帰結を受け入れることだと言ってよいでしょう。そして、それにもかかわらず私たちが主観のうちで「真理に到達した」という確信を抱くということに目を向け、主観の内における確信成立の条件を考察することが新たな課題として立ち現われてくることになります。

 

竹田はフッサールの立場をこのように理解した上で、それに「方法的独我論」という名称を与えていました。その理由は、おそらく次のようなことではないかと思われます。すなわち、従来の独我論は「主観-客観」図式から脱却しているとは言えず、この枠組みの中で、私たちはしょせん主観的な意識の内部に閉じ込められていて客観に至ることができないと主張しているにすぎません。それはいまだ懐疑主義的な立場にとどまっていると言うべきでしょう。「方法的独我論」はこうした懐疑主義的な立場とは異なり、主観の立場から出発して客観に到達することはできないということを承認した上で、主観の内における確信成立の条件という新たな問題圏へと抜け出ることに成功しています。竹田はこのような理解に基づいて、フッサールの立場を「方法的独我論」と呼んだのだと思われます。

 

次に問題となるのは、主観の内における確信成立の条件に関する竹田の議論ですが、それについて立ち入って見ていくのは次回以降に譲ることにして、今回はこれまで見てきた竹田のフッサール解釈について、少しだけ検討を加えて、後論のための布石をおこなっておきたいと思います。

 

まず考えてみたいのは、こうした竹田のフッサール解釈がほんとうに「〈主-客〉図式をとり払うこと」になっているのか、という問題です。すでに引用した文ですが、竹田は「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」と述べていました。しかし、「主観-客観」図式を取り払ってしまったのであれば、「〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件」という言葉は意味をなさないはずです。それとも谷のように、ここでの〈主観〉とは「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」といった意味で理解するべきなのでしょうか。

 

おそらく竹田は、標準的なフッサール解釈とは異なり、「主観-客観」図式が成立する以前の体験流にまで立ち返るという発想は抱いていないと思われます。こうした竹田のフッサール解釈の特徴がはっきりと現われているのが、「現象学的還元」の解釈です。フッサールの「現象学的還元」とは、自然的態度における定立作用を「括弧に入れ」「判断停止」することで「現象学的剰余」としての「純粋意識」を確保することを意味します。このような操作を経ることで、私たちは純粋意識に示された志向的構成作業を分析し、世界定立が形成されていく仕組みを明らかにすることができるようになると考えられています。まずはフッサール自身による「判断停止」の説明を見てみましょう。

 

 眼前に与えられている客観的な世界についてどんな態度決定をすることも、したがってさしあたり(存在、仮象、可能的存在、蓋然的存在、等々といった)存在について態度決定することも、このようにすべて差し控えること(「禁止すること」、「働かせないこと」)―あるいは、よく言われて来たように、客観的世界の「現象学的な判断停止」あるいは「括弧入れ」―は、私たちを無の前に立たせるわけではない。私たちにとって、あるいはもっと正確に言えば、省察する者である私にとって、むしろまさにそのことによって、あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる。判断停止とは、いわば根本的で普遍的な方法であり、これによって私は自分を自我として、しかも自分の純粋な意識の生をもった自我として純粋に捉えることになる*13

 

他方、竹田による「現象学的還元」の解釈は、次のようになっています。

 

 ここで読者に注意を促しておきたいのは『イデーン』などを読むと、〈還元〉という概念はあたかも厳密な学問的方法のように受けとられるのだが、じつは、〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎないということだ。またしたがって、そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で〈世界〉を見直してみることができる。このことを了解することが〈還元〉という概念をつかむ唯一の道なのである*14

 

竹田によれば、還元とは「独我論的に考えをすすめる」ことであり、このことを理解することが「〈還元〉という概念をつかむ唯一の道」だとされています。しかし、そのために必要なことは、単なる「視線の変更」だけなのです。ここには、「主観-客観」図式の前提にまで遡ってこの図式を解体しようという意図はなく、ただ主観と客観の一致を求めることはやめて、もっぱら主観の内の確信について考察することにしようという提案がなされているにすぎません*15

 

さて、ここまで竹田の「方法論的独我論」に関する議論をたどってきましたが、じつは私自身にとって関心があるのは、こうした竹田の解釈がフッサールの理解として妥当なのかどうかということには向かってはいません。むしろ私が考えたいのは、「フッサール現象学」から「竹田現象学」において何が受け継がれたのか、あるいは、「竹田現象学」は何を本質的な問題としているのか、といったことです。

 

なお、標準的なフッサール解釈に基づいて、現象学を基礎づけ主義だとする批判がなされていることはよく知られています。「主観-客観」図式の根源としての体験流にまで立ち返り、そこから「主観-客観」図式という枠組みのもとで把握される世界定立がどのようにして生まれてきたのか、ということを見届けることがめざされていると、言ってよいのではないかと思います。こうした立場に対しては、根源としての「体験流」という概念の内に「主観-客観」図式がひそかに紛れ込んでいるのではないかという厳しい検証にさらされることになります。反基礎づけ主義の立場を標榜するポストモダンの陣営からは、根源としての「体験流」なるものも、じっさいのところ何らかの来歴を持って形成されてきたものだと批判するでしょう。後期フッサールの生活世界への還帰は、彼がこうした問題に踏み込んでいったことの証左だと考えられます。またメルロ=ポンティの次のような言葉も、彼がこうした問題に参入していったことを教えています。

 

徹底的な反省は自分自身が非反省的生活に依存していることを意識しており、この非反省的生活こそ反省の端緒的かつ恒常的かつ終局的な状況である、ということでもある。現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の定式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、それゆえハイデガーの〈世界=内=存在〉も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである*16

 

ところで、竹田のフッサール解釈では、このような問題を考慮する必要がありません。なぜなら、そこでは「主観-客観」図式の根源にまで立ち返るといったことはおこなわれていないからです。私たちは、ただ主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届け、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察をおこなっていけばよいのです。いずれ詳しく検討したいと思っているのですが、ポストモダン陣営からのフッサール批判に対する竹田の反批判は、実存的な意味や価値がこのような仕方で確かめられうる最後の根拠となっているということに依拠しています。

 

ただし、現時点での見通しをあらかじめ手短に述べておくと、こうした現象学解釈に基づく竹田自身の立場には、やはり問題が残されているように思います。竹田の解釈の問題は、経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルの区別が哲学史の中で問題とされるようになった経緯を踏まえないまま、現象学を理解しようとしていることに集約されます。このことは一方で、フッサール現象学における意識の志向性をエロス的原理に拡張し、「竹田欲望論」と呼ばれる豊穣な世界を切り開いていくことを可能にしました。しかし他方で、無視することのできない問題を「竹田現象学」の内に招き入れることになったのではないか、という疑念を抱かざるをえないようにも思うのです。竹田のポストモダン批判に対する私自身の疑問は、主にこうした点に関わっているのですが、それについて論じるためには、もう少し彼のフッサール解釈を見ていく必要があります。

 

竹田がフッサールを参照しながら「〈主-客〉図式をとり払う」べきだと主張するとき、彼は何をめざしていたのでしょうか。ここまでの検討を経て明らかになったのは、いまだ主観でも客観でもない中性的な所与に立ち返るということを竹田はめざしているのではなかったということです。しかし、これだけでは竹田の主張の消極的な規定にとどまっており、彼の現象学解釈の重点がどこに置かれているのかということは、まだはっきりしていません。次回は、この点についてさらに詳しく竹田の議論を検討していきたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』36頁

*2:竹田『現象学入門』42頁

*3:谷『これが現象学だ』47-48頁

*4:谷『これが現象学だ』47頁

*5:廣松渉「マッハの哲学―紹介と解説に代えて」(『廣松渉著作集 第3巻』(岩波書店、1997年)500頁

*6:竹田『現象学入門』42頁

*7:竹田『現象学入門』177頁

*8:竹田『現象学入門』178頁

*9:竹田『現象学入門』13頁

*10:竹田『現象学入門』13頁

*11:竹田『現象学入門』42頁

*12:竹田『現象学入門』42頁

*13:浜渦辰二訳『デカルト省察』(岩波文庫、2001年)48頁

*14:竹田『現象学入門』80頁

*15:竹田の『完全解読フッサール現象学の理念」』(講談社選書メチエ、2012年)や『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』(講談社現代新書、2012年)では、現象学的な「私」と心理学的な「私」を区別する議論がなされています。ただしそこで竹田が述べているのは、心理学的な「私」が客観的な時間の中でのリアルな現実存在であるのに対し、現象学的な「私」はリアルな現実存在であることを意味しないということであって、哲学的認識論における「主観-客観」図式を解体するような議論ではありません。たとえば竹田は次のように述べています。「この〈内在意識〉の領域は、いわゆる心理学的な意味での「心」や「自我」の内側ということではない。心理学では、心や自我の存在自体を自明のものとしており、あくまで「自然的な見方」を前提しているのだ」(『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』、48頁)。ここで語られているのは、コップや太陽が一定の空間を占める物理的な意味で現実存在であるように、心理学における「私」も一定の時間を占める心理学的な意味での現実存在と考えられるということでしょう。しかし、物理学的な対象であれ心理学的対象であれ、自然的態度のもとで把握される対象である以上、それらはともに「主観-客観」図式の「客観」の側に位置づけられるものです。竹田が主張しているのは、そうした「客観」に位置づけられるような心理学的な「私」と、現象学的な「私」は異なっているということであって、やはり、「主観-客観」図式を超えていっそう根源的な領野へと立ち返ろうとする意図は見られません。

*16:モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎、小木貞孝訳『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967年)13頁