はじめに

日々の生活の中で興味を抱いたことや、いまだ一つの考えにまとまらない頭の中のぐじゃぐじゃを、そのまま吐き出すように記していきます。

 

なお、とくに断ることなく内容の変更や削除をおこなうことがありますが、ご了承ください。

 

漢字検定の「アホらしさ」について

先日、近くのブックオフの100円・200円均一の棚に、漢字検定準1級の問題集が何冊かあったので、購入しました。

 

何年か前に、テレビ朝日のクイズ番組『Qさま!!』で多くの芸能人が漢字検定を受けていましたが、その頃が「漢字ブーム」のピークだったのではないかと記憶しています。2009年に日本漢字検定協会の資産を理事長が私的に流用していたことがニュースになったこともありましたが、「漢字ブーム」の熱がこれによって冷めることもなく、現在でも根強いものがあるように思います。

 

協会の体質のことはさておき、漢字検定そのものに対して不信感を抱く向きもあるようで、そうした発言の中でしばしば言及されているのが、中国文学の研究者として知られる高島俊男の書いた、「漢字検定のアホらしさ」というエッセイです。その辛辣な批判を引用してみましょう。

 

お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ

お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ

 

 

 実際にどんな問題が出るのか、問題集を買ってきて、出版社の編集者といっしょにやってみた。
 あきれかえるほどのひどい問題ぞろいで、問題を作った人の程度の低さがよくわかる。ついでに、こんな愚問ぞろいの検定試験を受けて、できたのできなかったのと一喜一憂している人の程度の低さもわかる*1

 

高島はいくつもの例をあげながら漢検の問題のおかしさをこき下ろしていますが、そうした「アホらしさ」の生まれる原因を、次のように指摘しています。

 

 二級までは、「解答には、常用漢字旧字体や表外漢字および常用漢字音訓表以外の読みを使ってはいけない」というワクをはめてあるから、教科書なり学習参考書なりを見て適当なところをひっこぬいて、「次の漢字をひらがなで記せ」とか「次のカタカナ部分を漢字に直せ」とか問題にすればよい。
 準一級、一級になると、急に右のワクがはずれる。そうすると、問題の作り手の教養のなさ、常識のなさ、つまりは程度の低さが露呈する。漢和辞典や漢字漢文の本から、なるべくむずかしげな、自分にもわからない字やことばを拾って問題にするのだろうが、その問題がまったく無系統で断片的である。字やことばの持つ雰囲気、気分、使いどころなどを知らないから、奇妙キテレツな文章ができる*2

 

こう述べた上で、「こんな試験を受けるほうこそ災難である。もっとも好きこのんで受けるのだから手の施しようがないが」*3と嘆いています。

 

私には、高島に指摘されていることの妥当性を判定することなどとうてい不可能なのですが、このエッセイが収録されている『お言葉ですが…』シリーズを読んでその著者の学識の深さには常々敬服しているので、彼がそう言うのであればきっとその通りに違いないと思っています。

 

ところで、以前これによく似た批判を目にしたことがあるなと思い、記憶の糸をたぐってみたところ、酒井邦秀による受験英語・学校英語に対する批判だったと思い当たりました。

 

どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)

どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)

 

 

酒井がとくに激しい言葉で批判しているのは、鈴木長十と伊藤和夫によって書かれた『基本英文700選』(駿台文庫)です。著名なこの本に対して酒井は、「その奇妙奇天烈なこと、まさに天下の奇書と言っていいでしょう」*4といった調子で、こちらも高島に負けず辛辣な言葉を連ねています。

 

酒井は、この本に収録されている英文について、「一応文法的には正しい文章がほとんどです」*5としながらも、「しかし、文法さえ正しければ自然な英語になるかというと、そうはいきません」*6と言って、具体的な例を引きながら、「文法的に正しいということがどんなにむなしいものか」*7を指摘しています。

 

酒井は「二人〔『700選』の著者である鈴木と伊藤を指す―引用者〕ののんきさを示す特徴の一つは、文の調子をまったく理解していないことです。『700選』は、友だちと話しているときのくだけた調子も、法律や学術論文の固い調子も、まったく区別していないのです」*8と前置きしてから、次のような例文をやり玉に挙げています。

 

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

 

 

448. The paint on the seat on which you are sitting is still wet.
 君が座っている椅子のペンキはまだ塗りたてだよ*9.

 

この文に対する酒井の批判は次のようなものです。

 

 これはもう笑うしかないでしょう。訳はたしかに会話なのですが、英文はいやにもったいぶってon whichなどという、こんな状況では絶対に出てくるはずのない堅苦しい言い方が使ってあります。
 古くさいドタバタ喜劇のセリフにはあるかもしれません。「ペンキ塗りたてですよ」と注意するだけなのに、わざと時間をかけて持ってまわった言い方をして笑わせようというわけです*10

 

ここでも私自身は、酒井が理解しているのと同じレヴェルで、この英文の不自然さが理解しているわけではありませんが、きっと彼が述べている通りなのだろうと考えています。ただ、学校英語や受験英語を排することが、本当に日本人の英語力の向上につながるのか、自信をもって判断することができません。

 

もちろん私も、英語の教科書や参考書の文章がなるべく自然な英文であってほしいと願っています。だから、酒井が指摘するような不自然さがあるのだとすれば、著者や出版社はそうした英文をより自然なものに替えていくよう努力するべきだと思います。

 

ただ、あえて極端な例を挙げますが、初歩の英文法を学んでいる人にとっては、「This is a pen.」という英語が使われる状況はほとんどない、といったようなことは、あまり気にする必要はないように思います。このレヴェルの学習者にとって大切なのは、be動詞がis、am、areと変化するということを覚えることなのであって、例文の自然さといったようなことに気を配るのは、それほど優先順位の高い事柄とも思えません。

 

私自身の英語の能力はまったく未熟ではありますが、いつかは酒井が論じているような、状況に対して適切な英語表現を身につけたいと願っています。だから、私などよりずっと英語の学習が進んだレヴェルの人たちが、例文の自然さを気にすることには、十分な理由があると考えています。

 

そして、これと同じことが漢字検定についても言えるのではないかと思うのです。たとえば高島は、「列車が方に出発するところだった。」という問題を取り上げて、次のように批判しています。

 

 漢文に「方」が出てくれば、前後の文脈によって「マサニ」と訓読するばあいがある。しかし日本語の現代口語文で、「列車がまさに出発するところ」を「方に出発するところ」と書くことはない。言葉にも文字にも使いどころというものがある。これではムチャクチャである。

 

高島ほどの碩学ではなくても、ある程度漢字や漢文についての素養のある人にとっては、こうした問題は無視してよいものではないのだろう、と思います。しかし、私自身や、漢字検定に合格することをめざして勉強に励んでいる人の多くは、「方に」と書かれているのを見て、「「かたに」? 「ほうに」? なんだそりゃ」というようなレヴェルでしょう。そのようなレヴェルの者に必要なのは、とにかく「方に」と書いて「まさに」と読む場合があるということを学ぶことであり、そのような言い回しのニュアンスやそれが用いられる適切な状況、使いどころなどを知ることは、とりあえずは重要な問題ではないように思います。

 

高島は、「こんな愚問ぞろいの検定試験を受けて、できたのできなかったのと一喜一憂している人の程度の低さもわかる」*11と述べていました。もし、仮にですが、私のようなレヴェルの者のことを「程度が低い」と言うのだとすれば、「程度が低い」のは事実なのですから、その通りだと言うほかありません。とはいえ、どんな大知識人でもかつては程度が低かったに違いないのですから、「程度が低い」ことを恥じるつもりもありません。

 

受験英語にしても漢字検定にしても、要はそれらが登った後に捨てられるべきハシゴだということを心に留めておけばよいのではないでしょうか。

 

ちなみに、毒舌ということにかけては高島や酒井に勝るとも劣らない関口存男はドイツ語文法の学習書の中で、「Schnee(雪)は、英語のsnowに相当する語で、[シュネー]と発音します」*12といった具合に、発音をカタカナで表記しているのですが、もちろん厳密に言えばドイツ語のSchneeの発音と、日本語の[シュネー]という発音は、同じではありません。このことについて、関口は次のように述べています。

 

CD付 関口・初等ドイツ語講座〈上巻〉

CD付 関口・初等ドイツ語講座〈上巻〉

 

 

また、発音の初歩を書物で習う人たちが、そう細かいところまで心配しだした日には際限がありません。そんな厄介なことは、いずれまた先へ行って、ドイツ人の発音を直接聞くような機会でも生じた際に、また改めて注意して訂正したほうがよろしい。そんな事を、書物の上で、そもそもの出発点からいやにやかましく説いたり説かれたりする著者や読者があったとすれば、それは両方とも低能児の寄り合いで、著者も彼が何を教えなければならないかを忘れており、読者も彼が何を習うべきかを忘れている、と言わなければなりますまい*13

 

言うまでもありませんが、このように述べたからと言って、漢字検定の問題が、高島から批判されるような状態のままでよいと考えているわけではありません。漢字検定にせよ受験英語にせよ、適切とは言えない問題が出題されたことに対して、漢字や英語に関する深い教養を持つ識者からの批判がなされることは望ましいことです。

 

なお、ここで取り上げた高島の漢字検定批判の文章が発表されたのは2009年のことのようです。『漢字と日本人』(文春新書)などの著書もある高島の名前は、多少とも漢字に関心のある人の間では広く知られているので、漢字検定の主催者も高島の批判のあることは当然知っているはずです。彼らがこの批判を知って、問題の見直しをおこなったのかどうかは知りませんが、あまりにひどいデタラメはなくなっていることを願っています。

 

*1:高島俊男漢字検定のアホらしさ お言葉ですが…別巻3』(連合出版、2015年)13頁

*2:高島『漢字検定のアホらしさ』26頁

*3:高島『漢字検定のアホらしさ』26頁

*4:酒井邦秀『どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬』(ちくま学芸文庫、1996年)147頁

*5:酒井『どうして英語が使えない?』148-149頁

*6:酒井『どうして英語が使えない?』149頁

*7:酒井『どうして英語が使えない?』148-149頁

*8:酒井『どうして英語が使えない?』152頁

*9:鈴木長十・伊藤和夫編『新・基本英文700選』(駿台文庫、2002年)108-109頁

*10:酒井『どうして英語が使えない?』153頁

*11:高島『漢字検定のアホらしさ』13頁

*12:関口存男生誕100周年記念著作集ドイツ語学編9 改訂標準初等ドイツ語講座』(1994年、三修社)9頁

*13:関口存男生誕100周年記念著作集ドイツ語学編9』9-10頁

当ブログが紹介されました

四畳半大学 宮国研究室」というサイトで、当ブログの「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く」という記事を紹介していただきました。なんだか退路を断たれてしまったみたいで、どうしても結論にまでたどり着かないといけないような気が……。

 

http://miya.aki.gs/mblog/?p=4419

 

サイトを運営されているのは宮国さんという方で、「純粋経験論」という考えを軸に、粘り強い哲学的思索を展開されています。

 

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (6)

前回は、竹田のハイデガー解釈を概観しながら、「欲望論」ないし「エロス論」と呼ばれる彼の立場の根幹にある考えについて検討しました。竹田は、こうした立場に基づく実存的な観点から、さまざまな問題について考察をおこなっています。そこで、ほんの一部ではありますが、竹田欲望論という観点から見えてくる世界をのぞいてみることにしましょう。

 

竹田によれば、人間はみずからの欲望に基づいて、みずからを取り巻く世界のうちにさまざまな実践的価値を読み取っています。このような原理は「エロス原理」*1と呼ばれていますが、竹田はユクスキュルの環世界論を継承したシェーラーやハイデガーメルロ=ポンティ丸山圭三郎らと同様に、人間以外の生き物の世界と人間の世界との間には隔たりが存在すると考えています。

 

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

 

 

 まず、「欲望」とはどういう原理か。それは主体が世界とエロス的な関係として向き合っているということだ。その基本形は「快苦」の原理である。「快苦」原理とは、主体(身体)をして、ある対象はこれを「遠ざけ」ようとし、ある対象はこれを「近づけ」ようとする態度をとらせる。そのような“力動”の原理である。
 ところで、たいていの動物においては、この快苦原理は生理的な身体の育成に応じてほぼ定められた段階を通って完成された体制にいたる。しかし、人間の場合はそう簡単ではない*2

 

竹田によれば、「人間の「身体」は、何らかの「意味」に対して快‐不快の情動を発動させるような「幻想的身体」となっている」*3とされます。では、この「幻想的身体」とは何を意味しているのでしょうか。また、「幻想的身体」は人間と動物の間にどのような違いを生んでいるのでしょうか。竹田は次のように説明しています。

 

 人間の「欲望」は「自我」の欲望である。そして「自我」とは自分と世界の関係についての「物語」以外のものではない。しかしそのように言うとき、この「自我」は単に「関係の了解の意識」なのではない。この「自我」それ自体が「美醜」や「よし悪し」を感じる能力を持ったひとつの「幻想的身体」なのである。
 「自我」とは、「世界」のありようを「快苦」、「よし悪し」、「美醜」として(つまり、エロス的世界として)感じ取る力としての「幻想的身体」であり、そのようなものとしてひとつの「欲望」なのである*4

 

人間によって生きられる世界は、単なる生理的な快苦の原理によって秩序づけられた世界ではありません。私たちがこの世界のうちで出会うことになるさまざまな対象は、「美醜」や「よし悪し」といった、生理学的な快苦に直接には結びついていないような価値を帯びています。たとえば文学作品や芸術作品によってもたらされる歓びは、生理学的な快苦に直接つながっているわけではありません。生物の世界が生存という唯一の目的に基づいて秩序づけられたいわばモノクロの世界だとすれば、人間の世界は多彩な色を持った世界なのです。

 

このようにして私たち人間は、単なる生理的な快苦に基づいて価値づけられた世界から離脱して、エロス的な原理に基づいて秩序づけられた色鮮やかな世界のうちへと参入することになると竹田は考えます。

 

また竹田は、私たち人間が「自我」を有するという事実を、このようなエロス的原理に基づいて解き明かそうとしています。いったいどのようにして、人間は「自我」を有するようになったのでしょうか。竹田は次のような例をあげて説明します。

 

 たとえば、母親がいないとき、泣く代わりに我慢する子供は、自分の身体にとって快い母親の温もりを断念するのだが、その代わりに、「いい子だ」と言ってほめられることを知る。この“ほめられる”というエロスが「断念」の見返りとして与えられなければ、子供は自らの選択としての「断念」をおこなう動機を持たないだろう。
 この行為において子供は、端的に身体的なエロスを断念して、親たちから「いい子だ」と誉められることのエロスを見出す。このエロスは身体的エロスではなく、いわば「自我」の(つまり幻想的身体の)エロスである*5

 

このようにして人間は、直接的な身体の快‐不快に基づいて世界を了解するのみならず、他者との関係の中で自己意識を築いていくことにいわば社会的な満足感を見いだすようになるとされています。やがて彼/彼女は、両親のみならず仲間たちとの関係の中で承認を獲得し、「自我」を拡大したり「自我」を安定させることに幻想的なエロスを感受するようになるでしょう。竹田はこのような観点から、ヘーゲルが『精神現象学』の中でたどった自己意識の発展過程を、人間のエロス原理の発展過程として読み変える試みをおこなっています。そこでは、人びとは互いに、承認をめぐる闘争の中でみずからのアイデンティティを作り上げていくことになるとされています。

 

 仲間たちとの世界では、ヘーゲルの言うような「主人と奴隷」の間の相互承認の戦いが必ず生じる。子供は自分の能力を賭けて周りの人間の中での「主人」たろうとするが、そこでつねに勝利するとはかぎらない。むしろ現実の世界では、彼はつねに自分の力が“全能ではありえないこと”を思い知らされる。*6

 

こうして竹田は、「人間は例外なくこのような承認のゲームを生きている」*7と述べています。いずれにせよ、このようなプロセスを経て、人間は身体的で直接的な快苦原理から離脱し、他者の承認に基づく「自我」を獲得していくと考えられているのです。

 

ところで竹田は、自身の「欲望論」の立場と、心理学者の岸田秀が提唱する「唯幻論」の立場について、次のように述べています。

 

岸田理論は大変わかり易いうえに、ひとの意表を突くところがあり、それは今まで使われていた概念を、トランプのカードをめくり返すように、くるりと反転させてしまうような形で現れるのである。
 だが、岸田理論のそういった面白さは、わたしにとっては両義的である。岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、また〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える*8

 

そこで以下では、竹田欲望論と岸田唯幻論の差異について、少し詳しく検討をおこなうことにしたいと思います。

 

上で見たように、竹田はユクスキュルや丸山圭三郎の議論を踏まえつつ、人間によって生きられる世界と他の生物によって生きられる世界との間に大きな違いがあると述べていました。岸田もまた、竹田とは別の仕方で、人間と他の動物の違いから議論を始めます。岸田唯幻論の出発点となるのは、「人間は本能の壊れた動物である」という規定です。このことを説明するに当たって、岸田はL・ボルクの「胎児化説」に触れています。これは、「人は猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類である」*9という説です。その結果、次のような事態がもたらされたと岸田は述べます。

 

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

 

 

 生まれたときの子どもは、感覚運動器官がきわめて未発達であるから、もちろん、現実と非現実、自己と他者の区別を知らない。したがって、親が提供してくれた人工的世界は、子ども自身にとっては、現実によっても他者によっても限定されない唯我独尊、全知全能の世界である。このような世界のなかで満足を知った子どもの本能は、現実からずれてしまう。本能とは、本来なら、現実への適応を保証するものである。動物は本能に従って行動し、それがそのまま自己保存、種族保存の目的につながっている。ところが、人間においては、本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり、現実への適応を保証するものとしての本能はこわれてしまった。人間の本能は、唯我独尊の幻想のなかで、自閉と全能の幻想のなかで空回りする*10

 

本能が壊れてしまった人間は、幻想的なナルシシズムの世界に暮らしている限り、互いにどのようなつながりもありえません。「その状態は、いわば、それぞれ勝手な空想に耽って自慰をしていて、おたがいに相手には無関心な男と女のようなもの」*11だと岸田は言います。しかしこのままでは、人間は現実に適応できず、幻想の世界に自閉したまま滅びるほかありません。ナルシシズムの世界に生きる個々の人間を、現実に適応させるにはどうすればよいのかと岸田は問い、次のような答えを提出します。

 

 ここに文化が発生した。文化は、矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の自己保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できるかぎり各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、本来の現実、いわば物理的現実の代用品、つまり作為された社会的現実であり、後者の意味において共同幻想(集団幻想と言ってもいいが)である*12

 

文化とは、個々人の私的幻想を部分的に共同化することで作られた共同幻想であり、疑似現実にすぎません。「われわれが現実と信じているところのもの、われわれの日常性は、つくりものでしかなく、それを支える確実な根拠は何もない」*13と岸田は述べています。

 

こうして人びとは、神、理想や真理などの抽象概念、あるいは「人類」「国家」「民族」といった所属集団などを、自我の支えとするようになります。「主体的な個人」というのもそうした共同幻想の一例にすぎず、他の文化においては人びとは「主体的な個人」ではなく別の幻想に自我の支えを求めています。

 

ところで岸田は、幻想の世界の中で空転することになった人間の本能を、「欲望」と呼んでいます*14。「本能的行動形式を失ってしまったとき、人間の本能は欲望に変質した」*15と彼は述べ、欲望は本能とは異なりけっして最終的な満足に行きつくことはないと主張します*16

 

幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

 

 

 さて、欲望とは不安定な自我を安定させようとする企てであるが、自我は本質的に不安定なのだから、あらゆる欲望が本質的に不可能なことをめざしているのである。財産欲にせよ名誉欲にせよ、キリがないのはそのためで(ほかに理由もあるが)、欲望に最終的満足はない。しかし、われわれは自我の最終的安定をめざさざるを得ない。不安定な自我を抱えているわれわれは、いつかは自我の安定が得られるとの希望に縋るしかない*17

 

本能の壊れた人間は、自我の安定をもたらしてくれるような「物語」を求めざるをえない存在です。人は、財産や名誉を求め、神や真理といった抽象概念にすがり、人類や国家、民族といった集団を自我の支えとします。しかし、そこには合理的な理由もなければ、本能などの自然に基づく原因もないと岸田は主張します。「本質的に不安定な自我を抱えているわれわれ人間は、自我が不安定であるのはこれこれの原因のためで、その原因を解決すれば自我の安定が得られるという物語を不可欠に必要とする」*18と彼は述べています。

 

こうした岸田の主張を、竹田は次のように解説します。

 

 さて、岸田理論の力点をどう捉えればいいだろうか。自我とはつまり自我を安定させようとする「欲望」のことである。この「欲望」は自分と世界についての「関係」の物語をつくり、それをめざす。この物語はしかし、「欲望」の本来の目標に相関しない「嘘の欲望」でしかありえない*19

 

 岸田秀が言うように、ふつう人間の欲望は「自我を安定させようとする」根本動機を持っている。自我の物語とは、この自我の安定のための目標となるモデルであり、人は、この物語を完全に実現すれば自我が安定するはずだという「幻想」を抱いている*20

 

竹田もまた、「「自我」とは自分と世界の関係についての「物語」以外のものではない」*21と述べていました。さらには、人間存在を理解するためのキーワードでとして「欲望」という概念を用いる点で、竹田と岸田の主張には相互に通じ合うところがあると考えられるかもしれません。両者はともに、人間は物理的環境や生物学的環境を生きているのではなく、人間に固有の「欲望」に基づいて描かれた「物語」の世界を生きていると主張しています。

 

では、岸田唯幻論と竹田欲望論の違いは、どこにあるのでしょうか。岸田と竹田は『〈現在〉との対話3 岸田秀物語論批判/世界・欲望・エロス』(作品社、1985年)で対談をおこなっており、この中で人間の「欲望」を捉える両者の観点の違いが、かなり明瞭に語られています。竹田は、みずからの現象学の立場について、次のように述べています。

 

 

ぼくの考えでは、基本的に人間の無意識の構造がどうなっているのかというのは、結局ひとつの物語つまり仮説として立てられるだけだということがあるんですよ。このことを現象学の見方で言うと、人間に直接に与えられているのはいわば意識の水面だけなんです。すると、水面の上部が人間のつまり外界、〈世界〉にあたるわけですね。で、水面下が人間の内部、つまり無意識というものにあたる。そしてその構造がどうなっているかというのは、いわば水面の波のかたちから推論していくことしかできない*22

 

竹田は、「意識の水面」に与えられる知覚や意味こそが確信成立の底板をなしているという立場を貫こうとします。すでに見たように岸田は、「欲望」ないし「エロス」を原理とする人間存在のあり方に関して、本能が壊れたことによって現実から乖離した「幻想」の世界に生きるようになったと説明していました。しかし、それは一つの「仮説」にすぎず、私たちが直接的にアクセスすることができるのは「意識の水面」だけではないかと竹田は主張するのです。

 

こうした竹田の主張に対して岸田は、「ただ、ぼくがぼくの観点に固執するのは、やはり精神分析の立場からどうしても人間の意識というものを額面通りには受け取れないからです」*23と述べて、次のような例に言及しています。

 

ある母親が、無意識においては息子を憎んでいるにもかかわらず、その憎しみを抑圧して意識の上では自分は息子に対して愛情を抱いていると思い込んでいるとします。彼女は献身的に息子に尽くており、他人の目には過保護に映る振る舞いを、息子への愛情の表現だと信じています。しかし、その息子は母親によって束縛され、そのことでたいへんな心の苦しみを感じています。このようなケースでは、母親の意識の水面に目を向けているだけでは、息子に対する愛情しか見いだすことはできません。しかし、そのような意識の水面における現われを額面通り受け取っていては、この問題の解決策を発見することはできないと岸田は言います。

 

人は誰しも、自我を支えるような幻想なくしては生きていくことはできないと、岸田は考えます。しかし、この例に登場する母親の自我を支えている幻想には欺瞞があり、彼女自身の意識の水面においては、それは「息子への愛情」として理解されていますが、その幻想が息子を追いつめてしまっているのです。

 

こうした問題を解決するためには、精神分析の観点から彼女の無意識に考察のメスを入れなければなりません。分析者は、母親の無意識のうちには息子を支配したいという欲望が抑圧されており、それが彼女の振る舞いを規定していることを明らかにすることで、母親と息子を苦しめていた幻想からの解放を実現しようとします。

 

このような例を挙げた上で岸田は、「竹田さんの言う現象学的観点では、意識の水面に現れている欲望をそのまま生きるか、それが不可能な時には我慢するしかないことになりませんか」*24と問いかけます。これに対する竹田の反論は、次のようなものです。

 

 それはぼくはこう思うんです。ニーチェが『権力への意志』の中で、意識から出発する哲学を信用しすぎてはいけない、なぜなら意識そのものはすでに構成の結果だから、と言っているんです。フランスのフロイト派であるラカンも同じ発想です。現象学はコギト主義だと言うんです。これは今岸田さんが言われたように、起こりうる反論だと思います。だけどフッサールの“還元”という考え方に対する批判にはなりえないと思います。“還元”の立場は、合理的な意識の明晰性というデカルトの〈コギト〉の立場とは違います。たとえば今言われたような母親の反動形成がある。そのとき母親は息子を愛していると思っている。分析者が現れてあなたはほんとは愛していなくて憎んでいる、と言う。そのとき母親はこの〈解釈〉の真偽をいったい何によって決めるでしょうか。〔中略〕要は母親がその説明を聞いて、自分自身の意識に問い質してみるわけです。そしてその説明がほんとうらしいかどうかを自分の意識のあらわれに聞いてみる。で、その説明がほんとうだな、どうもそうらしいなと自分で納得すれば今までの思い込みが解かれるわけです。つまり、母親が態度を改めるか否かは実践的な問題なんで、その説明が唯一ほんとうのものでなくていいし、そういう唯一絶対のほんとうというのはないわけです。現象学の意識への還元というのは、だから明晰性と合理的思考がすべてだというのとは全然違って、いろんな〈物語〉があるが、その実践的な真偽を決するのは意識の水面での確信のあらわれだけだということだとぼくは思います*25

 

ここには、「意識そのものはすでに構成の結果だ」と考える精神分析の観点と、現象学の観点の違いがはっきりと語られています。

 

竹田は岸田の唯幻論の立場について、「岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、また〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える」*26と述べていました。岸田は、「幻想」というキーワードを駆使して人間存在のあり方を説明しますが、それは意識の水面において内的に確信されることで初めて実践的な意味を持つような、一つの「仮説」にすぎません。ところが、すべてを「幻想」というキーワードで解き明かす岸田の説明があまりにも鮮やかであるために、私たちはそれが一つの「仮説」であることを忘れ、「世界の説明」として受け容れてしまう恐れがあるのではないかと、竹田は問いかけているのです。

 

さて、岸田唯幻論に対する竹田のこうした問題提起は、ポストモダン思想から現象学に向けられてきた「先構成批判」に対する竹田の反論と同じ構造を持っています。次回は、この点についての竹田の考えを検討し、その上で私自身が竹田現象学に対して抱いている疑問の入り口を示してみたいと考えています。

 

*1:竹田『エロスの世界像』17頁

*2:竹田『エロスの世界像』135-136頁

*3:竹田『エロスの世界像』84頁

*4:竹田『エロスの世界像』137-138頁

*5:竹田『エロスの世界像』87頁

*6:竹田『エロスの世界像』96頁

*7:竹田青嗣『恋愛論』(ちくま学芸文庫、2010年)58頁

*8:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)212頁

*9:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』(青土社、1992年)42頁

*10:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』43-44頁

*11:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』46頁

*12:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』46-47頁

*13:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』72頁

*14:岸田はこの「欲望」を、フロイトの「衝動」(Trieb)と関係づけて次のように説明しています。「ここでわたしは、フロイドが本能とは区別して衝動と呼んだものを、欲望と言いかえたい。衝動という用語は、本能と混同されるニュアンスをいささか残しており〔中略〕とくに人間的なものを表わすには欲望と呼ぶ方が適当のように思われるからである」(『岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』134頁)。

*15:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』135頁

*16:さらに岸田は、フロイトによって提唱された「快感原則」と「現実原則」の対立図式を、これまでの議論に重ね合わせて理解しようと試みています。「現実原則と快感原則とのこの対立と分裂は、人類だけが直面する悲劇であり、動物においては、現実への適応と快感の追及とのあいだに矛盾はない。フロイドの言うところのエスとその快感原則は、人類に特有な本能のずれと歪みを表わしており、決して動物における本能と同一視できるものではない。エスは本能ではない。快感原則は本能の原則ではない。それはむしろ、幻想の原則である」(『岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』45頁)。現実から乖離して私的幻想の世界で遊ぶことになった「エス」を抱え込むことになった人間は、みずからの私的幻想の一部を共同幻想のうちに見いだすことで、かろうじて現実原則にしたがう「自我」を打ち立てることに成功すると考えられています。

*17:岸田秀コレクション 幻想の未来』(青土社、1993年)189頁

*18:岸田秀『幻想の未来』196頁

*19:竹田『エロスの世界像』132頁

*20:竹田『エロスの世界像』158頁

*21:竹田『エロスの世界像』137頁

*22:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)21頁

*23:岸田秀コレクション 物語論批判』143頁

*24:岸田秀コレクション 物語論批判』145頁

*25:岸田秀コレクション 物語論批判』145-146頁

*26:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)212頁

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (5)

「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれている思想の構築にもっとも大きな影響のあった哲学者は言うまでもなくフッサールですが、ハイデガーもそれに劣らず重要な哲学者です。竹田は「フッサールが示した認識論上の限界点という現象学のモチーフを、最も深いところで受けとったのは、メルロ=ポンティでもなくサルトルでもなく、マルチン・ハイデガーである」*1と述べており、とりわけ「エロス」や「欲望」といった彼の思想の中心的な概念は、フッサール以上にハイデガーからの影響のもとで作り上げられていったと言ってもよいのではないかと思います。そこで今回は、前回も参照した『意味とエロス』の他、『ハイデガー入門』を参照しながら、竹田がハイデガーの思想をどのように受け取ったのかを見ていきたいと思います。

 

まずは、竹田がフッサールからハイデガーへと考察の対象を移していく経緯をたどっていくことにしましょう。フッサールは還元という操作によって意識現象へと目を向け、その中で私たちが抱くさまざまな確信の根拠となっているものを見いだそうとします。竹田によれば、それは私たちの意識のうちで了解される〈意味〉にほかなりません。

 

 『イデーン』における「純粋自我」の概念が明らかにしたことは、存在妥当は〈意味志向‐意味充実〉という構造の中で成立するが、それは同時に、意識現象は〈意味〉という認識上のつきあたり(限界点)を持つ、ということだった。だがこのとき、ひとつひとつの事象の〈意味〉がどのように構成されるのかと考えるならば、「純粋意識」の内側からはそのことについて何ひとつ導き出すことができない。ひとつの〈意味〉は、ひとりの人間が具体的に生きて(生活して)いることの意味連関からしか現われ得ないからである*2

 

しかしながら、〈意味〉は単に客観的な事実に関する私たちの確信を支えているだけではなく、同時にさまざまな実践的価値を含んでいるはずだと竹田は主張します。彼が参照しているのは、フッサールの次のような言葉です。

 

この世界は、私にとって、一つの単なる事象世界として現にそこに存在しているのではなく、同じ直接性において、価値世界、財貨世界、実践的世界として、現にそこに存在している。私の眼前の所持物が、事象としての諸性情を具えているのと同様に、価値の諸性格をも具え、つまり、美しいとか醜いとか、気に入るとか気に入らないとか、快適なとか不快なとか等々といった価値の諸性格をも具えていることを私が見出すのは、造作ないことである。直接的には諸事物は、実用品として現にそこにある。例えば、「書物」を載せた「机」とか、「コップ」とか、「花瓶」とか、「ピアノ」とか等といったようにである*3

 

竹田は『ハイデガー入門』の中で、こうした事態を「欲望相関図式」*4と呼ばれる枠組みによって理解しています。この点に関する竹田の説明を簡単にたどってみましょう。

 

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

 

 

竹田によれば、近代哲学の最大のアポリアは「主観‐客観」問題でした。これは、人間の認識能力は、果たして客観的現実を正しく捉えていると言えるのかという問題です。この問題に対してカントは、人間の認識能力は「物自体」を捉えることができず、みずからの感性と悟性によって規定された「現象界」しか認識することができないと結論づけました。竹田は次のように説明しています。

 

 カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在」は、それぞれの“身体性”(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望能力の形式)に応じて違ったものになるはずだ。
 人間にとっては、それは「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在」でしかない。トンボには、丸い形だけは認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバにとってそれは、“丸いもの”ですらなく、もっと他の「存在」だろう*5

 

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(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

竹田はカントの認識論のポイントを2点にまとめています。一つ目は、「人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であるということ」*6であり、もう一つは「世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されていない)だけだということ」*7です。

 

こうした認識問題における「カント図式」に大きな転換をもたらしたのが、ニーチェでした。竹田は次のようにその意義を説明します。

 

 ニーチェは当然神を認めない。すると、つまり、存在するさまざまな生き物の数だけ多様な経験される「世界」が存在する、ということになる(これは要するにさまざまな「生きられている世界」が存在するだけだ、ということでもある)〔中略〕
 カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために、「客観世界」を認識できない。これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「背理」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。「客観世界」というものは存在しない。もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在」を受け取っているだけである……*8

 

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(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

ニーチェによって発見されたこうした新しい見方が、「欲望相関図式」です。そして、フッサールから受け継いだ現象学的な問題設定を、ニーチェと同じような欲望相関的な観点から新しく捉えなおしたのがハイデガーだったと、竹田は理解しているのです。

 

竹田は、ハイデガーの「気遣い」という概念の意義を、このような観点から理解しています。『存在と時間』では「気遣い」について次のように述べられていました。

 

現存在の存在が意味しているのは、(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈自分に先だって存在していること〉なのである。このように存在していることによって、気づかいという名称の意義が充たされるのであって、その名称はそのさい純粋に存在論的‐実存論的に使用されている*9

 

竹田によればこの「気遣い」という概念は、フッサールの問題を欲望相関的観点から捉え返したものにほかなりません。

 

 〈意識〉の「根本性格」を、すでに見たようにフッサールは、「志向性」として示した〈意識〉は本質的に〈志向体験〉としてのみ捉え得る。この構造は、〈意味志向‐意味充実〉(ノエシスノエマ)という相関構造である。これはまた、〈意識〉の内部でのみ、〈私〉(主観)と〈世界〉(事物)という公が成立することをよく示している。
 ハイデガーは、この〈私〉と〈世界〉の本質的相関を、「気遣い」という概念で言いあてようとする。
〔中略〕
 「気遣い」とは、さしあたって言えば、人間が「つねにすでに」〈世界〉(対象世界)に対して、さまざまなレベルでの関心、心配、希望、欲求、意志、感情等を向けて生きているというあり方を指している*10

 

欲望相関図式に基づくこうした竹田のハイデガー解釈は、ユクスキュルやシェーラーからハイデガーへの影響を重視する木田元の解釈に基づいていると言ってよいと思います*11

 

ハイデガーの思想 (岩波新書)

ハイデガーの思想 (岩波新書)

 

 

木田は、ハイデガーにおけるユクスキュルやシェーラーからの影響について、さまざまな著作の中で繰り返し述べています*12が、それらの議論をまとめると、おおむね次のように述べることができます。

 

ユクスキュルの「環世界」論によれば、ダニやミツバチといった動物は、外部からの刺激に因果的・機械的な仕方で反応しているのではなく、それぞれの種にとって有効な刺激の総体から成る固有の環境を生きているとされます。つまり、ダニにはダニの環境があり、ミツバチにはミツバチの環境があると考えられています。生体が種に固有の環境に適応して生きていることを、シェーラーは「環境繋縛性」と呼んでいます。これに対して人間は、そのときどきの具体的な状況から自由であるとシェーラーは考え、こうしたあり方を「世界開放性」と呼びました。そして木田によれば、ハイデガーの「世界内存在」という概念には、シェーラーのこうした考えからの影響が認められるとされています*13

 

竹田は、こうした木田の議論を念頭に置きながら、「欲望相関図式」に基づくみずからのハイデガー解釈を描き出そうと試みています。『意味とエロス』では、言語哲学者である丸山圭三郎の『文化のフェティシズム』の次の文章を参照しています。

 

文化のフェティシズム

文化のフェティシズム

 

 

動物たちにとっても、意味以前の裸のデータともいうべき客体が存在するわけではないのだ。ダニにはダニ固有の、イヌにはイヌ固有の〈意味=現象〉群が存在していて、それらがその種独自の世界を形成しているのであるが、いずれの世界がより客観的でも物理的でもなく、これまた彼らの〈生への関与性〉次第で存在もし、非在化もする。多くの動物は、何らかの音を聞いた際それを一定の視覚対象に帰属させる構成をもっているという、ユクスキュルJ. von Uexkuellが挙げた例を一つだけひこう。トカゲは枯葉の音ならどんなにかすかなものであれひどくびくつくのに、そばでピストルを発射されても全く反応しない。何故なら、そのような音響と結びついているような危険の要素は、トカゲ本来の環境には存在しない、つまりこの物音はトカゲにとって〈意味=現象〉ではなく、彼の刺激閾の向う側にしか存在しないからである*14

 

丸山は市川浩から「身分け」という概念を受け継いでおり、その説明をおこなう際にユクスキュルの「環世界」の考えに触れているのですが、竹田はここから「欲望相関図式」という発想を導こうとしています。たとえば次の文章が、こうした竹田の考えの筋道をよく示しているように思われます。

 

 「身体」として存在すること、それはつまり、世界とその諸対象を常に快苦原理によって区分(分節)している、ということである。「身体」として存在することはまた、「欲望」や「関心」や「配慮」として存在することでもあり、それはつまり、世界とその諸対象の中につねに何らかの目標を見出し、またある可能性の意味連関としてそれらを把握し、秩序づけている、ということだ。すなわち、世界とその諸対象が、たえずそのつどそのつどの「欲望=関心」の相関者として存在していること、このことが、世界やその諸対象がさまざまなレベルでの「意味」を帯びて現われることの“根拠”なのである*15

 

ダニやミツバチが、それぞれの種に固有の身体ないし器官に応じて周囲の環境を分節し秩序づけているように、人間はそのつどの「身体」や「欲望」、「関心」、「配慮」のあり方に応じて、この世界を「意味」づけています。あるいは端的に、「「意味」の受け取りが可能であるのは、人間がつねにすでに「身体・欲望・関心・配慮」として存在しているからだ」*16とも述べられています。

 

竹田はこのように欲望相関的な観点から、ハイデガーの「道具的連関」についての説明を解き明かしていきます。「人間がつねにすでに「配慮的な気遣い」として「存在」していること、言い換えれば、身体・欲望・関心といった原理で存在していること、このことが事物存在を道具性、道具連関、有意義連関という「存在」として現出させる」*17のです。

 

ハイデガーはハンマーを例に道具的連関性の説明をしていますが、竹田はテレビを例に取り上げます。部屋にあるテレビは、客観的な「存在」としては「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」として捉えられていると彼は言います。ところが、「配慮的な気遣い」に基づいてテレビを理解するとき、それは映りが悪くて見づらいテレビであったり、部屋の割りに大きすぎてうとうしい調度だったりします。さらに、夜中に物音で目を覚まし、家の中に泥棒が忍び込んでいるのではないか、と考えているときには、テレビは身を守るための武器としての「存在意味」を露わにします。竹田はこのような例によって説明した上で、「テレビは、まさしく〈私〉の「配慮的な気遣い」から、言い換えれば、〈私〉の実存的な「いまここ」の地点から見られた「道具存在」だと言えるのである」*18と結論しています。ここで竹田は「実存」という言葉を用いていますが、彼がハイデガーを評価する最大の理由となったのが、この「実存」の立場を確立したことだと言ってよいと思います*19

 

ハイデガーの「実存」について、竹田は次のように理解しています。

 

 事物存在は、いつも必ずそれが人間にとって持つ〈意味〉の連関として、つまり「道具連関」としてのみ捉え(規定され)得る。〔中略〕ところで人間存在は、むろん〈意味〉連関として捉えることも可能だが、むしろ本質的にこの〈意味〉連関を生み出し、秩序づける原因である。この事態をどう言い表わせばいいか。ハイデガーはそれを〈実存〉と呼ぶ*20

 

つまり、みずからの身体や欲望、関心、配慮に基づいてこの世界におけるさまざまな事物を意味づけ秩序づけている私たちの存在のあり方が、「実存」という言葉で理解されているのです。竹田の「欲望」や「エロス」という言葉には、意味や価値を付与する審級という意味が込められていると言えるでしょう。たとえば『意味とエロス』の中には、「〈欲望〉という概念の最も中心の狙いは、それが、個別的な〈意識〉、〈意味〉、〈身体〉の現象学的考察にとどまらず、それらの領域を底で支えている諸価値(審級性)の問題を明らかにする点にある」*21といった説明が見られます。より詳しい説明として、次の文章を引用しておきます。

 

〈欲望〉とは、簡単に言って、そこにおいてはじめて、さまざまな「存在者」の存在が問題となるような境位である。ものの世界が現存在にとって「道具連関」として現われるのは、人間が、さまざまなレベルで〈欲望〉を持つからだ。この欲望をメルロ=ポンティ流に〈知覚〉と呼ぼうと〈身体〉と呼ぼうと、ハイデガーのように「気遣い」と呼ぼうと同じことである。ただこの分析不可能な中心を〈意識〉と呼べばコギト主義を孕むし、また単に〈身体〉というとフッサールの言う“志向性”のニュアンスが削がれてしまう。それは、「事物』一般が客観的に存在するという、ごく普通の世界像(これはいわば人間の原信憑なのだ)を現象学的に「還元」することによって得られるものであって、逆に言えば、なんらかの固有の〈欲望〉がはじめて「事物」に固有の〈ある〉という規定を与え、さらに、この固有の〈欲望〉にとっての固有の〈ある〉が、客観化され、共同化され、普遍化されることによって、「事物一般の客観的存在」という「世界像」が人間のうちに形成されることになるのである*22

 

このように、竹田の「欲望」の概念は、フッサールの「志向性」と同様、客観的世界という描像の根底に位置づけられています。しかし、それは単に私たちの客観的世界の理解を可能にしているだけではなく、この世界の中で私たちが出会うさまざまな事物が意味や価値を帯びて見いだされることの根拠にもなっているのです。竹田は、「人間の〈欲望〉は〈意味〉への欲望であり、しかもそれは〈快苦〉、〈美醜〉、〈よいわるい〉といった情動性をつきまとわせている」*23と述べています。「欲望」とともに、竹田欲望論の中核となっている「エロス」という概念も、このような意味を持っています。

 

 わたしがエロス性という言葉で示したいのは、〈世界〉が、〈私〉にとって単なる実在やその関係としてではなく、快苦、美醜、倫理性の価値関係として、つまり、つねにすでに色づけられて現われてくるようなそういった〈私〉と〈世界〉の関係上の原理にほかならない。この原理は、人間の「経験」が必ず〈意味〉として現われ出ることの根本的な基礎をなしているとともに、〈実存〉という概念のいちばん重要な土台でもある*24

 

私たちは、フッサールの「志向性」からハイデガーの「実存」への展開をたどりながら「竹田欲望論」と呼ばれる立場を確立していく竹田の考察をたどってきました。竹田はフッサール現象学を学ぶことで、この世界についてのさまざまな確信が成り立つ条件について考察しました。さらにハイデガーの「実存」に関する思想から、「快苦」「美醜」「善悪」といった価値によって私たちを取り巻いている世界が彩られていることを発見しました。こうして彼は、フッサール現象学の窮屈さを脱して、エロス的な価値に色づけられた豊饒な世界を切り開くことになったのです。

 

〈欲望〉という概念は、ロジカルには、フッサールの「超越論的主観」という言葉を言い換えたものにすぎない。この言い換えはふたつの契機を持っている。ひとつはこの言葉が持っている、純粋でアプリオリな自我という、カント的な色彩を脱色するということ。そしてもうひとつは、〈主観〉は、世界と知的に関係しているのではなく、エロス的に関係しているということである。だから、わたしの言う超越論的欲望は、フッサールの超越論的主観を、認識論から実存論にそのまま位相変容したものにほかならない*25

 

彼はまた、「超越論のつきあたりを、単なる〈意識〉ではなく〈欲望〉として捉えるとき、私たちは、ロマン、エロス、美としての世界、という領域を、純粋理性、実践理性という二分法に陥ることなく、一貫して了解するような展望にはじめて踏み込むことができるはずである」*26と述べていますが、この文章の意味も、私たちがこれまでたどってきた竹田の思索の道筋を顧みれば明らかであるように思います。

 

*1:竹田『意味とエロス』77頁

*2:竹田『意味とエロス』97頁

*3:竹田『意味とエロス』105頁より孫引

*4:竹田『ハイデガー入門』45頁

*5:竹田青嗣ハイデガー入門』(講談社選書メチエ、1995年)63-64頁

*6:竹田『ハイデガー入門』64頁

*7:竹田『ハイデガー入門』64頁

*8:竹田『ハイデガー入門』64-65頁

*9:ハイデガー存在と時間』第2巻、390頁

*10:竹田『意味とエロス』82頁

*11:とはいえ、竹田はこうした木田の解釈に全面的に従っているわけではありません。『ハイデガー入門』には、次のように述べられています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、この「配慮的な気遣い」の観点とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」(あるいはM・シェーラーの「環境繋縛性」)の概念との近親生徒影響関係を指摘している。時代的にもその影響関係はあるに違いない。ただ、ユクスキュルの「環境世界」は、動物の身体構造と自然世界との存在相関性を説いたもので、人間の場合、身体性も欲望もいわばそのつど性を持っていて固定的ではない。そういう意味で、ハイデガーの「気遣い」はニーチェフッサール的な観点において理解するのがいっそう適切だと私は思う」(竹田『ハイデガー入門』61頁)。

*12:木田元ハイデガーの思想』(岩波新書、1993年)82頁以降、『ハイデガー』(岩波現代文庫、2001年)52頁以降、『ハイデガー存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)45頁以降など

*13:木田は、1925年から26年にかけておこなわれた講義『論理学―真理への問い」や、1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本問題―世界・有限性・孤独』などに、ユクスキュルやシェーラーからの影響があったことが確かめられるとしています。

*14:丸山圭三郎著作集』第2巻(岩波書店、2013年)298頁

*15:竹田『ハイデガー入門』174-175頁

*16:竹田『ハイデガー入門』174頁

*17:竹田『ハイデガー入門』71頁

*18:竹田『ハイデガー入門』60頁

*19:ハイデガー本人はみずからの思想を「実存哲学」として理解されるのを拒否していましたが、竹田はこの点について次のように述べています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、ハイデガーが『存在と時間』が当初「実存思想」の」原典のように受け取られたことに拒否感を示し、自分の狙いはあくまで「存在一般の意味の究明」にあったと力説している点を指摘している。たしかにその通りだが、ただハイデガー自身の見解とその思想の影響とは必ずしも一致しないので、『存在と時間』における実存論が圧倒的に実存思想として影響を与えたことは疑えないと思う」(竹田『ハイデガー入門』11頁)。また竹田はこの本の中で、ハイデガーの後期思想を「実存」の立場からの後退だとして、批判的な立場から解釈をおこなっています。

*20:竹田『意味とエロス』78頁

*21:竹田『意味とエロス』85頁

*22:竹田『意味とエロス』200-201頁

*23:竹田『意味とエロス』157-158頁

*24:竹田『意味とエロス』124頁

*25:竹田『意味とエロス』165-166頁

*26:竹田『意味とエロス』167-168頁