はじめに

日々の生活の中で興味を抱いたことや、いまだ一つの考えにまとまらない頭の中のぐじゃぐじゃを、そのまま吐き出すように記していきます。

 

なお、とくに断ることなく内容の変更や削除をおこなうことがありますが、ご了承ください。

 

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (7)

前回、竹田欲望論と岸田唯幻論の違いについて検討をおこなったところで、あくまでも「意識の水面」に定位しようとする竹田の立場が、現象学に対して繰り返し投げかけられてきた「先構成批判」に対する竹田の反批判にも通じているのではないかと述べておきました。このことを手がかりに、竹田のポストモダン思想に対する批判に含まれている問題のごく大まかな見取り図を描いてみたいのですが、それに先立ち、今回はもう少し具体的な場面に考察の対象を絞り込んでおきたいと思います。

 

まずは前回に続いて、竹田欲望論の立場からの岸田唯幻論に対する批判を、もう少し見ておくことにします。

 

 たとえば岸田秀も『幻想の未来』で、人間の欲望は「他人の欲望の模倣」だと言っている(ラカンもそう言う)。だがそれは、人間は欲望の定まった通路を、「本能」の形ではあらかじめ持っていないから、多くの場合それをまず母親という他者に見習って形成するという意味だ。青年の欲望も、他者が示してくる“範型”によって、その形式性を得る。つまり一切の欲望は、必ずその方向づけのモデルを必要とするということを、岸田秀は言おうとしているのである。
 だが、およそ欲望はその形式性を社会的に(後天的に)習得する、ということと、欲望の主観的性格とは、全く別の問題である。
 欲望は、外在的に言えば必ず「他者の欲望の模倣」であり、その意味では「構成」されたものでしかない。だが、内在的(超越論的)に言えば、それは必ず、他人の欲望ととり換えのきかない、〈私〉に固有のものなのだ*1

 

ここでは「構成」という言葉が使われていますが、こうした竹田の基本的な主張は、現象学に向けられてきた「先構成批判」に対する竹田の反批判にも一貫して見られるものだと言うことができます。先構成批判とは、意識の内において見いだされる確信が、私たちのさまざまな世界体験ないし世界認識の「底板」になっているという現象学の立場に繰り返し向けられてきた批判で、そうした意識の内に見いだされる確信に先だって、それを構成しているはずの深層心理的な条件や歴史的・社会的な条件があるのではないか、というものです。これに対して竹田は、そのような批判は「外在的」な視点からなされたものにすぎないと切り返します。そして彼は、そうした批判者たちの私的が妥当性を持つということも、意識の内における確信という「内在的」な直観に基づいているはずだと反論します。

 

竹田はこの後、外在的な視点から私たちの欲望が社会において「構成」されたものだということを指摘する岸田やラカン、あるいはジラールといった思想家たちを批判して、フッサールを引用しながらその主張を次のように敷衍しています。

 

フッサールの言い方をわたしたちは、いまたどってきたような文脈にひきよせて、こう受け取ればいい。
 実在論や経験論は具体的な世界がまずある、そして人間の夢はその反映だ、と言う。しかしわたしたちの常識からは驚くべきことだが、じつは、誰にとっても、リアルな世界認識がまずはじめにあって、その影絵のようにロマンの世界ができ上がるのではない。むしろロマン的世界への憧れがまず形づくられ、この欲望の形が人間の世界体験(世界認識を含む)を可能にしていると考えたほうがいい、と*2

 

竹田が、みずからの現象学・欲望論を応用することで突っ込んだ考察を重ねているテーマの一つに、「恋愛」があります。彼は、前回参照した『エロスの世界像』(講談社学術文庫)や『恋愛論』(ちくま学芸文庫)といった著作で、このテーマに取り組んでいるのですが、ここで注目したいのは、その中で彼が「本来の想世界」や「内部生命」に生きることを高らかに謳い上げた北村透谷に、好意的な言及をおこなっているということです。たとえば、透谷の「厭世詩家と女性」という文章の中の、次のような一節が参照されています。

 

春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは、古来、似非小説家の人生を卑しみて己れの卑陋なる理想の中に縮少したる毒弊なり、恋愛豈単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり*3

 

透谷のこの文について、竹田は次のように説明をおこなっています。

 

 恋愛とは「春心の勃発」にすぎないというのは古くからの俗見だ。恋愛の本質は単なる肉体的な引きつけ合いではなく、人間の内的世界の「ほんとう」や「真実」と深くかかわるものだ。これが透谷の直観なのだが、プラトンや透谷の恋愛観を単に「精神的愛」を強調する「プラトニズム」と考えるのはあまりにも素朴であって、そこで重要なのはあくまで恋愛という情熱の「本質」は何かという問いなのである(今日、この透谷の洞察をもう一度逆さにした考え方、恋愛などというのは近代以後作りあげられたロマンチックな観念にすぎず、かつては色恋しかなかった、という言い方が流行しているが、もちろんこちらが古くからある俗流の恋愛観であり、透谷の洞察の方が本質的であることはいうまでもない)*4

 

ここで竹田が批判的に言及しているのは、「ロマンティック・ラヴ・イデオロギー」という言葉で広く知られるようになった考え方です。前近代の日本には「恋愛」という概念はなく、「色恋」だけが存在していました。ところが、12世紀のヨーロッパで騎士道精神によって発明された「恋愛」という概念が、キリスト教とともに日本にもたらされました。その後「恋愛」は、遊郭文化を中心にして育まれてきたそれまでの「色好み」や「粋」とは異なり、男女の間の純粋で崇高な精神性に基づく営みであり、透谷らはそれを「近代的自我」にとって決して譲り渡すことのできないものとして称揚しました。現代では、近代という時代においてこうした「恋愛」という観念が形成されていった過程が明らかにされるとともに、それに対する批判がさかんになされていますが、竹田はこうした外在的な視点から「恋愛」を批判的に見直そうとする現代の思想家たちに抗して、透谷の立場を擁護しようとしているのです。

 

ところで、小谷野敦はこうした考えを「恋愛輸入品説」と呼んで、主として実証的な観点から繰り返し批判をおこなっています。以下では、彼の議論を参照しながら、もう少し現代における「恋愛」論の中身に立ち入ってみることにします。

 

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

 

 

小谷野は「恋愛輸入品説」の始まりを、フランス文学者の新倉俊一に求めています*5が、それが広く流布するようになったのは、1980年頃に柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波新書)や柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)以降のことだとしています*6。そこで参照されているのが、柄谷の次のような文章です。

 

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

 

 

しかし、透谷がいう「恋愛」はけっして自然なものではない。たしかに「粋」は不自然だが、「恋愛」もまた同じである。古代日本人に「恋」はあったが恋愛はなかった。同じように、古代ギリシャ人もローマ人も「恋愛」を知らなかった。なぜなら、「恋愛」は西ヨーロッパに発生した観念だからである。ドニ・ド・ルージュモンが『西欧と愛』のなかでいっていることはやや疑わしいが、確実なのは、西欧の「情熱恋愛」がたとえ反キリスト教的なものであっても、キリスト教のなかでこそ発生しえた「病気」だということである*7

 

また上野千鶴子も、透谷によってもたらされた近代的な「恋愛」の中に潜む抑圧的な性格を指摘しています。

 

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

 

 

 「恋愛」を「精神的」なものとして「観念」化することによって、透谷はたしかに「恋」と「情欲」がわかちがたい江戸期までの恋愛観を超克し、近代的な恋愛観をうちたてたと見なされている。だが「観念」としての「恋愛」は、その成立のはじめから、男の側のひとりよがりだったのである。この男仕立ての「恋愛」観が、近代の疫病のごとくはびこった結果、この観念を「共演」してしまった不幸な女たちもまた存在した。たとえば高村光太郎の妻、智恵子は、光太郎に「美神」として奉られ、その役割を引き受けることで「無垢」の闇の中に追いやられた。黒澤亜里子は『女の首』のなかで、男の観念の餌食となった女性の不幸を鋭く衝いている*8

 

こうしたフェミニズムの方から上げられた告発の声の高まりを受けて、竹田は控えめながらも何度か反論をおこなっています。たとえば上野に対して、「最近ちょっと鼻白んだのは、上野千鶴子などを代表とする、「ネオ・マルクス主義フェミニズム」とかいう新種の女性論議である」*9と述べています。

 

上野に代表されるフェミニズムの主張には、ある強固なイメージが付きまとっていると竹田は言います。そのイメージとは、「世の女性は、根本的に歪んだ大きな制度(男権制)の中に閉じ込められているために、みじめな欲望とみじめな生しかつかむことができない」*10というものです。このように指摘した上で、竹田は次のような議論を展開します。

 

世の中にすでに作りあげられている制度(人間の生き方の道すじ)は、いつの時代でもある意味で確かにひとつの制限、枠組みである。だがこの生き方の枠組みはまた、いつの時代でも、人間がその中で生の欲望をつかむための現実的な理由でもある。ひとりの女性が男との生活のために家を作り、子に夢を託すことに幸せを求めることを、そのまま誤った欲望とは言えない。ただ、さまざまな事情が彼女の夢を失調させ、なおこの枠組みが彼女を縛りつけるように現われたとき、はじめてその枠組みは、「悪しき制度」という形で意識される。そのときはじめて女性は、この制度(世間の目)に抗って生きることに、新たな生の理由を見出す*11

 

フェミニズムは、現在の男女の関係を規定しているさまざまな「制度」は歴史的な所産にすぎないということを明らかにしてきました。しかし、それらが「作られた」ものにすぎないという指摘は、ただちにそれらが不当なものであり廃棄されなければならないということを意味するわけではありません。近代的な「恋愛」の観念が、ある時代に作られ、それが今なお私たちの生き方を強固に規定しているという「外在的」な視点からの指摘は、それがどれほど正しいものであったとしても、私たちがある人に想いを寄せたり、振り向いてもらいたいと願ったり、あるいはひどく心を傷つけられたりといった、「内在的」に直観されるエロス的な情熱を無意味なものとしてしまうことはありません。

 

言うまでもなく、この社会に存する特定の「制度」が、私たちの多くの主観的確信において理不尽で差別的なものと直観されるとき、それを告発するフェミニストの主張は、私たちの「内在的」な確信において妥当なものとして認められるはずです。このとき、フェミニズムからの告発は、この社会における人々の関係のあり方を変えていく現実的な力へと育っていくに違いありません。しかしその場合でも、私たちはみずからの内に直観される確信が「底板」となっているという竹田の基本的な主張は依然として成り立っているはずだと考えることができるでしょう。

 

さて、ここまで私たちは、できるだけ竹田自身の基本的な主張に沿うように努めながら、彼の議論を確認してきました。ポストモダン思想に対する竹田の批判にも、これと同様の議論が見出だされるのですが、まずは具体的な場面に即して、こうした竹田の基本的な主張に対して私が抱いている疑問の在り処を指し示してみたいと考えています。

 

しかしその前にもう少しだけ寄り道をして、竹田と同じく実存の立場を拠点にしながらさまざまな領域でアクチュアルな思想を展開している小浜逸郎の議論を紹介しておきます。私の見るところでは、小浜の議論には竹田現象学に対して私の抱いている疑問点が、いっそう明瞭な形で示されているように思われるからです。

 

小浜の思想は、竹田のようにフッサールハイデガーといった特定の哲学者の思想について検討をおこないながら独自の思想を紡ぎだしていくというスタイルを取らず、私たちの生きる社会の中の具体的な問題を手がかりにしながら展開されているように見えます。ただし『エロス身体論』(平凡社新書、2004年)という著作では、彼の思想の理論的な中軸をなしているものに、議論の焦点が向けられているように思われます。この著作の中で小浜は、ハイデガーの「世界内存在」の実存哲学的な側面を切り出してきたような主張を展開しています。

 

エロス身体論 (平凡社新書)

エロス身体論 (平凡社新書)

 

 

そもそも世界が私にとってどのようでありうるか、また私が世界にとってどのようでありうるかを私自身にそのつど画定させるのは、私の「気遣い」「配慮」「関心」(独:Sorge 英:care)である。この場合、「気遣い」「配慮」「関心」といった言葉は、単に意識的な「注意」というような純心理学的な要素と考えられてはならない。それは、身体と心とにいまだはっきりと分節され得ない全心身の、世界への素朴な向き合い方そのものを意味する*12

 

ここでは、小浜のこうした主張について踏み込んだ考察をおこなうことは控え、彼が竹田同様、実存的な場所にみずからの思想的な立脚点を見いだそうとしていることを確認して、先を急ぐことにします。

 

さて、小浜はこうした立場から、フェミニズムに対する厳しい批判を展開します。たとえば『男はどこにいるのか』(ポット出版、2007年)という著書で彼は、確かに女性解放運動は、男女の間の法的・社会的な平等を実現するための制度改革を実現に導いてきたとひとまず肯定的に評価した上で、次のような疑問を記しています。ところが、こうした運動の結果、社会の中から目に見える差別が撤廃されていき、いまだ不十分なところを残しているとはいえ、男女の平等がある程度まで実現されてくるようになると、今度は日常的な人々の意識の中に知らず知らずのうちに入り込んでいる隠れた性差別を発見することにフェミニズムの関心が移っていきます。そして、「ここらあたりから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとう」*13と小浜は言い、批判を開始します。

 

男はどこにいるのか

男はどこにいるのか

 

 

私たちは、この社会のさまざまなところに、固定化された性差のイメージを反復・強化するような事例を発見することができます。たとえば、「航空会社のポスターにおいて、きれいな若い女性を、腹のでた禿頭の中年男性よりもモデルに選ぶ確率が圧倒的に高い」*14という例を取り上げて、そこに「見る」男に対して「見られる」女という、性的魅力の社会的な意味の非対称性が存在していると主張することは可能でしょう。じじつフェミニズムには、こうしたミクロな権力装置が現代の社会の抑圧的な構造を再生産することになっていると告発する議論が見られます。

 

しかし小浜は、このような非対称性は単に男性の一方的な性欲に訴えているのではなく、現実の中で男女双方が承認しつつ参加している「私たちのエロス的な非対称的磁場のあり方」*15に根差していると主張します。

 

「見られる」という受動は、実は「見せる」という能動である。女性の自己客体化の欲望は、それがいかに歴史的構造のなかで仕組まれたものであろうと、主体によって選ばれた能動的意志的な行為であることには変わりがないのだ。それでなければ、自分のなかに他者を引きつける美を何ほどか実感できたとき、どうしてある自由と喜びの感覚をわがものとすることができようか*16

 

だから、それがたとえ人々の性にまつわる意識の非対称性を再生産し続けるような装置の役割を果たしているからと言って、ただちにそれを排するべきだという結論づけることはできないと彼は考えます*17。もし仮に、その広告が男性の大多数にとっては快を感じさせるものでありながら、女性の大多数にとって不快であるような表現だったとすれば、その広告は時を置かずして撤去されることになるでしょうが、それは単にその広告が失敗したというにすぎません。

 

私たちの日常の中に入り込んでいる男女の非対称性を告発するフェミニズムの議論は、人々の生活感情の中に働いているはずのエロス性を、思想の内に繰り込んでいないと小浜は批判しています。広告などに見られる男女の非対称性を指摘しそれを告発する論者たちは、「平等」という抽象的な理念のみに基づいて、非対称性を容認することはできないと主張しているにすぎないのです。そのため、「結局ごく普通の両性は、いったいあれは何を争っているのだと戸惑うばかりで、「いいじゃないの、幸せならば」という冷ややかな視線を返すしかないのである」*18と小浜は述べています。

 

性について論じるのであれば、たとえば広告表現における性の非対称性を、理念的な観念の操作によって告発するのではなく、個別的な経験において感得されたみずからのエロス的な心の動きを内側からたどっていくことで、その内実を思想へと鍛え上げていくのでなければなりません。「たとえば自分がきれいだといわれてこころ浮き浮きしたこととか、他人の美貌や才能や境遇を羨ましく感じたこととか、さらにそのような感得によって、あるときは自分の欲望を一つの方向に伸長させたり、あるときは断念によって自分を組織しなおしたりして自分の過去をかたちづくってきたこと」*19といった具体的で個別的な経験の中に思想の立脚点を求めるべきだと、小浜は主張します。

 

こうした小浜の立場が、竹田の立場に極めて近いことは明らかでしょう*20。そこで次回は、小浜のフェミニズムに対する批判を手がかりにすることで、こうした主張の中に潜んでいる問題点を探ってみたいと思います。

 

*1:竹田青嗣『陽水の快楽―井上陽水論』(河出書房新社、1986年)32頁

*2:竹田『陽水の快楽』36頁

*3:『日本文学全集1 坪内逍遥 二葉亭四迷 北村透谷集』(筑摩書房、1970年)429頁

*4:竹田青嗣プラトン入門』(ちくま学芸文庫、2015年)227-228頁

*5:小谷野敦『男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー』(新曜社、1997年)14頁参照

*6:さらに小谷野は、佐伯順子の『「色」と「恋」の比較文化史』(岩波書店)によって、「恋愛輸入品説」は一種の「流行」にまでなったと言います。この書の中で佐伯は、前近代の日本には自由な性愛の世界が存在していたと主張しており、小谷野がこれを「江戸幻想」と読んで繰り返し批判していることも、今では広く知られていると言ってよいでしょう。小谷野は「江戸幻想」の発生を、田中優子の『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫、1986年)と佐伯順子の『遊女の文化史』(中公新書、1987年)に求め、佐伯の著書は柳田國男の中世以前の「遊女」に関する議論を近世の「女郎」にまで敷衍したもので、「中世以前の遊女が持っていたとされる巫女性を近世の遊郭にまで持ち込むのは強引」(小谷野敦江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』(新曜社、1999年)37-38頁)だと批判しています。さらに小谷野によれば、フェミニズムは当初佐伯の著書に対して批判的でしたが、売春を男による女の搾取として批判する立場から、「性の自己決定権」を認め自由意志によって売春をおこなう女性の労働者としての権利を保護していくべきだという主張が大きくなっていき、近代の抑圧的な「恋愛」を批判しつつ近世における性の自由を称揚する言説が主流的になっていきます。小谷野は、上野千鶴子をはじめとするフェミニズムの論者たちの中から「江戸幻想」に積極的に加担する主張が登場するようになり、「近世の日本には正の抑圧がなかった」という「江戸幻想」がいっそう広まることになったと言います。言うまでもなく、小谷野の「江戸幻想」や「恋愛輸入品説」に対する批判は、歴史的事実を正確に踏まえた上でそれぞれの時代や文化における性愛の実相を評価するべきだというものであり、哲学的な観点からなされる竹田の「恋愛輸入品説」への批判とはまったく異なる観点に立つものです。

*7:柄谷行人日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫、1979年)106-107頁

*8:上野千鶴子『発情装置―エロスのシナリオ』(筑摩書房、1998年)111頁

*9:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』253頁

*10:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』254-255頁

*11:竹田青嗣コレクション2 恋愛というテクスト』255頁

*12:小浜逸郎『エロス身体論』(平凡社新書、2004年)72頁

*13:小浜逸郎『男はどこにいるのか』(ポット出版、2007年)32頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』88頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』89頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』166頁

*17:小浜は別のところで、「女の子は男の子に比べて一般的にエロス的な意味でませているから、すでに三、四歳の頃から、自分が周囲にどのように見られているかということをたいへん気にする」(小浜『エロス身体論』143頁)と述べています。その上で、竹田と同様、ヘーゲルの『精神現象学』における意識の発展の過程を、私たち人間の実存的なあり方の発展過程として捉えなおしながら、「人間にとって根源的なものは、ヘーゲルがとらえたように、自分を他者とかかわらせることを通して、他者に自分の存在を承認してもらい、そのことによって、自分がいま・ここにあることをみずから肯定したいという欲求なのである」(小浜『エロス身体論』149頁)と主張します。

*18:小浜『男はどこにいるのか』34頁

*19:小浜『男はどこにいるのか』96-97頁

*20:竹田は小浜との対談の中で、「男女の性差は、力や能力の差異だとか、お金を持っている持っていないという差異だとかとは違うところがあって、その肝心なポイントは、それが人間のエロス性の根源、源泉になっている、ということだと思います」(竹田青嗣小浜逸郎『力への思想』(學藝書林、1994年)143-144頁)と述べています。この発言を受けて小浜は、次のようにみずからの主張を語っています。「竹田さんは、性差の存在がエロス関係の根源だと言われたのですが、それはまったくそのとおりで、普通の女性が自分が〈女性〉であるということ、つまり〈男性〉との再関係として〈女性〉であるということを、自分が生きるということの最も深いアイデンティティにしている、そのことは否定できないわけです。つまり、自分が〈女性〉であるということで、場合によっては、男性の視線を浴びることで不幸な関係に陥ることがあるかもしれない。だけれども、別にその〈違い〉から這いあがろうと全然思わずに、その〈違い〉そのものに生の意味を見出し、自分の〈女性〉としての人生を設計していこうと感じている、感じるだけでなく、まさにそういうように生きている多くの女性がいるということ、ここだけは覆すことができないと思います」(竹田・小浜『力への思想』147頁)。また竹田も、こうした小浜の実存的な立場に近いところから、次のように主張しています。「ひょっとしたら、性差をなくそうと思ったら、なくせるのかもしれない。ただ、現実に生きている人間の生の条件にとって、そのことがどういう意味をもたらすかということをよく考える必要があるわけです」(竹田・小浜『力への思想』160頁)。

漢字検定の「アホらしさ」について

先日、近くのブックオフの100円・200円均一の棚に、漢字検定準1級の問題集が何冊かあったので、購入しました。

 

何年か前に、テレビ朝日のクイズ番組『Qさま!!』で多くの芸能人が漢字検定を受けていましたが、その頃が「漢字ブーム」のピークだったのではないかと記憶しています。2009年に日本漢字検定協会の資産を理事長が私的に流用していたことがニュースになったこともありましたが、「漢字ブーム」の熱がこれによって冷めることもなく、現在でも根強いものがあるように思います。

 

協会の体質のことはさておき、漢字検定そのものに対して不信感を抱く向きもあるようで、そうした発言の中でしばしば言及されているのが、中国文学の研究者として知られる高島俊男の書いた、「漢字検定のアホらしさ」というエッセイです。その辛辣な批判を引用してみましょう。

 

お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ

お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ

 

 

 実際にどんな問題が出るのか、問題集を買ってきて、出版社の編集者といっしょにやってみた。
 あきれかえるほどのひどい問題ぞろいで、問題を作った人の程度の低さがよくわかる。ついでに、こんな愚問ぞろいの検定試験を受けて、できたのできなかったのと一喜一憂している人の程度の低さもわかる*1

 

高島はいくつもの例をあげながら漢検の問題のおかしさをこき下ろしていますが、そうした「アホらしさ」の生まれる原因を、次のように指摘しています。

 

 二級までは、「解答には、常用漢字旧字体や表外漢字および常用漢字音訓表以外の読みを使ってはいけない」というワクをはめてあるから、教科書なり学習参考書なりを見て適当なところをひっこぬいて、「次の漢字をひらがなで記せ」とか「次のカタカナ部分を漢字に直せ」とか問題にすればよい。
 準一級、一級になると、急に右のワクがはずれる。そうすると、問題の作り手の教養のなさ、常識のなさ、つまりは程度の低さが露呈する。漢和辞典や漢字漢文の本から、なるべくむずかしげな、自分にもわからない字やことばを拾って問題にするのだろうが、その問題がまったく無系統で断片的である。字やことばの持つ雰囲気、気分、使いどころなどを知らないから、奇妙キテレツな文章ができる*2

 

こう述べた上で、「こんな試験を受けるほうこそ災難である。もっとも好きこのんで受けるのだから手の施しようがないが」*3と嘆いています。

 

私には、高島に指摘されていることの妥当性を判定することなどとうてい不可能なのですが、このエッセイが収録されている『お言葉ですが…』シリーズを読んでその著者の学識の深さには常々敬服しているので、彼がそう言うのであればきっとその通りに違いないと思っています。

 

ところで、以前これによく似た批判を目にしたことがあるなと思い、記憶の糸をたぐってみたところ、酒井邦秀による受験英語・学校英語に対する批判だったと思い当たりました。

 

どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)

どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬 (ちくま学芸文庫)

 

 

酒井がとくに激しい言葉で批判しているのは、鈴木長十と伊藤和夫によって書かれた『基本英文700選』(駿台文庫)です。著名なこの本に対して酒井は、「その奇妙奇天烈なこと、まさに天下の奇書と言っていいでしょう」*4といった調子で、こちらも高島に負けず辛辣な言葉を連ねています。

 

酒井は、この本に収録されている英文について、「一応文法的には正しい文章がほとんどです」*5としながらも、「しかし、文法さえ正しければ自然な英語になるかというと、そうはいきません」*6と言って、具体的な例を引きながら、「文法的に正しいということがどんなにむなしいものか」*7を指摘しています。

 

酒井は「二人〔『700選』の著者である鈴木と伊藤を指す―引用者〕ののんきさを示す特徴の一つは、文の調子をまったく理解していないことです。『700選』は、友だちと話しているときのくだけた調子も、法律や学術論文の固い調子も、まったく区別していないのです」*8と前置きしてから、次のような例文をやり玉に挙げています。

 

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

 

 

448. The paint on the seat on which you are sitting is still wet.
 君が座っている椅子のペンキはまだ塗りたてだよ*9.

 

この文に対する酒井の批判は次のようなものです。

 

 これはもう笑うしかないでしょう。訳はたしかに会話なのですが、英文はいやにもったいぶってon whichなどという、こんな状況では絶対に出てくるはずのない堅苦しい言い方が使ってあります。
 古くさいドタバタ喜劇のセリフにはあるかもしれません。「ペンキ塗りたてですよ」と注意するだけなのに、わざと時間をかけて持ってまわった言い方をして笑わせようというわけです*10

 

ここでも私自身は、酒井が理解しているのと同じレヴェルで、この英文の不自然さを理解しているわけではありませんが、きっと彼が述べている通りなのだろうと考えています。ただ、学校英語や受験英語を排することが、本当に日本人の英語力の向上につながるのか、自信をもって判断することができません。

 

もちろん私も、英語の教科書や参考書の文章がなるべく自然な英文であってほしいと願っています。だから、酒井が指摘するような不自然さがあるのだとすれば、著者や出版社はそうした英文をより自然なものに替えていくよう努力するべきだと思います。

 

ただ、あえて極端な例を挙げますが、初歩の英文法を学んでいる人にとっては、「This is a pen.」という英語が使われる状況はほとんどない、といったようなことは、あまり気にする必要はないように思います。このレヴェルの学習者にとって大切なのは、be動詞がis、am、areと変化するということを覚えることなのであって、例文の自然さといったようなことに気を配るのは、それほど優先順位の高い事柄とも思えません。

 

私自身の英語の能力はまったく未熟ではありますが、いつかは酒井が論じているような、状況に対して適切な英語表現を身につけたいと願っています。だから、私などよりずっと英語の学習が進んだレヴェルの人たちが、例文の自然さを気にすることには、十分な理由があると考えています。

 

そして、これと同じことが漢字検定についても言えるのではないかと思うのです。たとえば高島は、「列車が方に出発するところだった。」という問題を取り上げて、次のように批判しています。

 

 漢文に「方」が出てくれば、前後の文脈によって「マサニ」と訓読するばあいがある。しかし日本語の現代口語文で、「列車がまさに出発するところ」を「方に出発するところ」と書くことはない。言葉にも文字にも使いどころというものがある。これではムチャクチャである。

 

高島ほどの碩学ではなくても、ある程度漢字や漢文についての素養のある人にとっては、こうした問題は無視してよいものではないのだろう、と思います。しかし、私自身や、漢字検定に合格することをめざして勉強に励んでいる人の多くは、「方に」と書かれているのを見て、「「かたに」? 「ほうに」? なんだそりゃ」というようなレヴェルでしょう。そのようなレヴェルの者に必要なのは、とにかく「方に」と書いて「まさに」と読む場合があるということを学ぶことであり、そのような言い回しのニュアンスやそれが用いられる適切な状況、使いどころなどを知ることは、とりあえずは重要な問題ではないように思います。

 

高島は、「こんな愚問ぞろいの検定試験を受けて、できたのできなかったのと一喜一憂している人の程度の低さもわかる」*11と述べていました。もし、仮にですが、私のようなレヴェルの者のことを「程度が低い」と言うのだとすれば、「程度が低い」のは事実なのですから、その通りだと言うほかありません。とはいえ、誰であろうと「程度が低い」段階を通ってきたに違いないのですから、そのことを恥じるつもりもありません。

 

受験英語にしても漢字検定にしても、要はそれらが登った後に捨てられるべきハシゴだということを心に留めておけばよいのではないでしょうか。

 

ちなみに、毒舌ということにかけては高島や酒井に勝るとも劣らない関口存男はドイツ語文法の学習書の中で、「Schnee(雪)は、英語のsnowに相当する語で、[シュネー]と発音します」*12といった具合に、発音をカタカナで表記しているのですが、もちろん厳密に言えばドイツ語のSchneeの発音と、日本語の[シュネー]という発音は、同じではありません。このことについて、関口は次のように述べています。

 

CD付 関口・初等ドイツ語講座〈上巻〉

CD付 関口・初等ドイツ語講座〈上巻〉

 

 

また、発音の初歩を書物で習う人たちが、そう細かいところまで心配しだした日には際限がありません。そんな厄介なことは、いずれまた先へ行って、ドイツ人の発音を直接聞くような機会でも生じた際に、また改めて注意して訂正したほうがよろしい。そんな事を、書物の上で、そもそもの出発点からいやにやかましく説いたり説かれたりする著者や読者があったとすれば、それは両方とも低能児の寄り合いで、著者も彼が何を教えなければならないかを忘れており、読者も彼が何を習うべきかを忘れている、と言わなければなりますまい*13

 

言うまでもありませんが、このように述べたからと言って、漢字検定の問題が、高島から批判されるような状態のままでよいと考えているわけではありません。漢字検定にせよ受験英語にせよ、適切とは言えない問題が出題されたことに対して、漢字や英語に関する深い教養を持つ識者からの批判がなされることは望ましいことです。

 

なお、ここで取り上げた高島の漢字検定批判の文章が発表されたのは2009年のことのようです。『漢字と日本人』(文春新書)などの著書もある高島の名前は、多少とも漢字に関心のある人の間では広く知られているので、漢字検定の主催者も高島の批判のあることは当然知っているはずです。彼らがこの批判を知って、問題の見直しをおこなったのかどうかは知りませんが、あまりにひどいデタラメはなくなっていることを願っています。

 

*1:高島俊男漢字検定のアホらしさ お言葉ですが…別巻3』(連合出版、2015年)13頁

*2:高島『漢字検定のアホらしさ』26頁

*3:高島『漢字検定のアホらしさ』26頁

*4:酒井邦秀『どうして英語が使えない?―「学校英語」につける薬』(ちくま学芸文庫、1996年)147頁

*5:酒井『どうして英語が使えない?』148-149頁

*6:酒井『どうして英語が使えない?』149頁

*7:酒井『どうして英語が使えない?』148-149頁

*8:酒井『どうして英語が使えない?』152頁

*9:鈴木長十・伊藤和夫編『新・基本英文700選』(駿台文庫、2002年)108-109頁

*10:酒井『どうして英語が使えない?』153頁

*11:高島『漢字検定のアホらしさ』13頁

*12:関口存男生誕100周年記念著作集ドイツ語学編9 改訂標準初等ドイツ語講座』(1994年、三修社)9頁

*13:関口存男生誕100周年記念著作集ドイツ語学編9』9-10頁

当ブログが紹介されました

四畳半大学 宮国研究室」というサイトで、当ブログの「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く」という記事を紹介していただきました。なんだか退路を断たれてしまったみたいで、どうしても結論にまでたどり着かないといけないような気が……。

 

http://miya.aki.gs/mblog/?p=4419

 

サイトを運営されているのは宮国さんという方で、「純粋経験論」という考えを軸に、粘り強い哲学的思索を展開されています。

 

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (6)

前回は、竹田のハイデガー解釈を概観しながら、「欲望論」ないし「エロス論」と呼ばれる彼の立場の根幹にある考えについて検討しました。竹田は、こうした立場に基づく実存的な観点から、さまざまな問題について考察をおこなっています。そこで、ほんの一部ではありますが、竹田欲望論という観点から見えてくる世界をのぞいてみることにしましょう。

 

竹田によれば、人間はみずからの欲望に基づいて、みずからを取り巻く世界のうちにさまざまな実践的価値を読み取っています。このような原理は「エロス原理」*1と呼ばれていますが、竹田はユクスキュルの環世界論を継承したシェーラーやハイデガーメルロ=ポンティ丸山圭三郎らと同様に、人間以外の生き物の世界と人間の世界との間には隔たりが存在すると考えています。

 

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

エロスの世界像 (講談社学術文庫)

 

 

 まず、「欲望」とはどういう原理か。それは主体が世界とエロス的な関係として向き合っているということだ。その基本形は「快苦」の原理である。「快苦」原理とは、主体(身体)をして、ある対象はこれを「遠ざけ」ようとし、ある対象はこれを「近づけ」ようとする態度をとらせる。そのような“力動”の原理である。
 ところで、たいていの動物においては、この快苦原理は生理的な身体の育成に応じてほぼ定められた段階を通って完成された体制にいたる。しかし、人間の場合はそう簡単ではない*2

 

竹田によれば、「人間の「身体」は、何らかの「意味」に対して快‐不快の情動を発動させるような「幻想的身体」となっている」*3とされます。では、この「幻想的身体」とは何を意味しているのでしょうか。また、「幻想的身体」は人間と動物の間にどのような違いを生んでいるのでしょうか。竹田は次のように説明しています。

 

 人間の「欲望」は「自我」の欲望である。そして「自我」とは自分と世界の関係についての「物語」以外のものではない。しかしそのように言うとき、この「自我」は単に「関係の了解の意識」なのではない。この「自我」それ自体が「美醜」や「よし悪し」を感じる能力を持ったひとつの「幻想的身体」なのである。
 「自我」とは、「世界」のありようを「快苦」、「よし悪し」、「美醜」として(つまり、エロス的世界として)感じ取る力としての「幻想的身体」であり、そのようなものとしてひとつの「欲望」なのである*4

 

人間によって生きられる世界は、単なる生理的な快苦の原理によって秩序づけられた世界ではありません。私たちがこの世界のうちで出会うことになるさまざまな対象は、「美醜」や「よし悪し」といった、生理学的な快苦に直接には結びついていないような価値を帯びています。たとえば文学作品や芸術作品によってもたらされる歓びは、生理学的な快苦に直接つながっているわけではありません。生物の世界が生存という唯一の目的に基づいて秩序づけられたいわばモノクロの世界だとすれば、人間の世界は多彩な色を持った世界なのです。

 

このようにして私たち人間は、単なる生理的な快苦に基づいて価値づけられた世界から離脱して、エロス的な原理に基づいて秩序づけられた色鮮やかな世界のうちへと参入することになると竹田は考えます。

 

また竹田は、私たち人間が「自我」を有するという事実を、このようなエロス的原理に基づいて解き明かそうとしています。いったいどのようにして、人間は「自我」を有するようになったのでしょうか。竹田は次のような例をあげて説明します。

 

 たとえば、母親がいないとき、泣く代わりに我慢する子供は、自分の身体にとって快い母親の温もりを断念するのだが、その代わりに、「いい子だ」と言ってほめられることを知る。この“ほめられる”というエロスが「断念」の見返りとして与えられなければ、子供は自らの選択としての「断念」をおこなう動機を持たないだろう。
 この行為において子供は、端的に身体的なエロスを断念して、親たちから「いい子だ」と誉められることのエロスを見出す。このエロスは身体的エロスではなく、いわば「自我」の(つまり幻想的身体の)エロスである*5

 

このようにして人間は、直接的な身体の快‐不快に基づいて世界を了解するのみならず、他者との関係の中で自己意識を築いていくことにいわば社会的な満足感を見いだすようになるとされています。やがて彼/彼女は、両親のみならず仲間たちとの関係の中で承認を獲得し、「自我」を拡大したり「自我」を安定させることに幻想的なエロスを感受するようになるでしょう。竹田はこのような観点から、ヘーゲルが『精神現象学』の中でたどった自己意識の発展過程を、人間のエロス原理の発展過程として読み変える試みをおこなっています。そこでは、人びとは互いに、承認をめぐる闘争の中でみずからのアイデンティティを作り上げていくことになるとされています。

 

 仲間たちとの世界では、ヘーゲルの言うような「主人と奴隷」の間の相互承認の戦いが必ず生じる。子供は自分の能力を賭けて周りの人間の中での「主人」たろうとするが、そこでつねに勝利するとはかぎらない。むしろ現実の世界では、彼はつねに自分の力が“全能ではありえないこと”を思い知らされる。*6

 

こうして竹田は、「人間は例外なくこのような承認のゲームを生きている」*7と述べています。いずれにせよ、このようなプロセスを経て、人間は身体的で直接的な快苦原理から離脱し、他者の承認に基づく「自我」を獲得していくと考えられているのです。

 

ところで竹田は、自身の「欲望論」の立場と、心理学者の岸田秀が提唱する「唯幻論」の立場について、次のように述べています。

 

岸田理論は大変わかり易いうえに、ひとの意表を突くところがあり、それは今まで使われていた概念を、トランプのカードをめくり返すように、くるりと反転させてしまうような形で現れるのである。
 だが、岸田理論のそういった面白さは、わたしにとっては両義的である。岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、また〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える*8

 

そこで以下では、竹田欲望論と岸田唯幻論の差異について、少し詳しく検討をおこなうことにしたいと思います。

 

上で見たように、竹田はユクスキュルや丸山圭三郎の議論を踏まえつつ、人間によって生きられる世界と他の生物によって生きられる世界との間に大きな違いがあると述べていました。岸田もまた、竹田とは別の仕方で、人間と他の動物の違いから議論を始めます。岸田唯幻論の出発点となるのは、「人間は本能の壊れた動物である」という規定です。このことを説明するに当たって、岸田はL・ボルクの「胎児化説」に触れています。これは、「人は猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類である」*9という説です。その結果、次のような事態がもたらされたと岸田は述べます。

 

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

 

 

 生まれたときの子どもは、感覚運動器官がきわめて未発達であるから、もちろん、現実と非現実、自己と他者の区別を知らない。したがって、親が提供してくれた人工的世界は、子ども自身にとっては、現実によっても他者によっても限定されない唯我独尊、全知全能の世界である。このような世界のなかで満足を知った子どもの本能は、現実からずれてしまう。本能とは、本来なら、現実への適応を保証するものである。動物は本能に従って行動し、それがそのまま自己保存、種族保存の目的につながっている。ところが、人間においては、本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり、現実への適応を保証するものとしての本能はこわれてしまった。人間の本能は、唯我独尊の幻想のなかで、自閉と全能の幻想のなかで空回りする*10

 

本能が壊れてしまった人間は、幻想的なナルシシズムの世界に暮らしている限り、互いにどのようなつながりもありえません。「その状態は、いわば、それぞれ勝手な空想に耽って自慰をしていて、おたがいに相手には無関心な男と女のようなもの」*11だと岸田は言います。しかしこのままでは、人間は現実に適応できず、幻想の世界に自閉したまま滅びるほかありません。ナルシシズムの世界に生きる個々の人間を、現実に適応させるにはどうすればよいのかと岸田は問い、次のような答えを提出します。

 

 ここに文化が発生した。文化は、矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の自己保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できるかぎり各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、本来の現実、いわば物理的現実の代用品、つまり作為された社会的現実であり、後者の意味において共同幻想(集団幻想と言ってもいいが)である*12

 

文化とは、個々人の私的幻想を部分的に共同化することで作られた共同幻想であり、疑似現実にすぎません。「われわれが現実と信じているところのもの、われわれの日常性は、つくりものでしかなく、それを支える確実な根拠は何もない」*13と岸田は述べています。

 

こうして人びとは、神、理想や真理などの抽象概念、あるいは「人類」「国家」「民族」といった所属集団などを、自我の支えとするようになります。「主体的な個人」というのもそうした共同幻想の一例にすぎず、他の文化においては人びとは「主体的な個人」ではなく別の幻想に自我の支えを求めています。

 

ところで岸田は、幻想の世界の中で空転することになった人間の本能を、「欲望」と呼んでいます*14。「本能的行動形式を失ってしまったとき、人間の本能は欲望に変質した」*15と彼は述べ、欲望は本能とは異なりけっして最終的な満足に行きつくことはないと主張します*16

 

幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

幻想の未来―唯幻論序説 (講談社学術文庫)

 

 

 さて、欲望とは不安定な自我を安定させようとする企てであるが、自我は本質的に不安定なのだから、あらゆる欲望が本質的に不可能なことをめざしているのである。財産欲にせよ名誉欲にせよ、キリがないのはそのためで(ほかに理由もあるが)、欲望に最終的満足はない。しかし、われわれは自我の最終的安定をめざさざるを得ない。不安定な自我を抱えているわれわれは、いつかは自我の安定が得られるとの希望に縋るしかない*17

 

本能の壊れた人間は、自我の安定をもたらしてくれるような「物語」を求めざるをえない存在です。人は、財産や名誉を求め、神や真理といった抽象概念にすがり、人類や国家、民族といった集団を自我の支えとします。しかし、そこには合理的な理由もなければ、本能などの自然に基づく原因もないと岸田は主張します。「本質的に不安定な自我を抱えているわれわれ人間は、自我が不安定であるのはこれこれの原因のためで、その原因を解決すれば自我の安定が得られるという物語を不可欠に必要とする」*18と彼は述べています。

 

こうした岸田の主張を、竹田は次のように解説します。

 

 さて、岸田理論の力点をどう捉えればいいだろうか。自我とはつまり自我を安定させようとする「欲望」のことである。この「欲望」は自分と世界についての「関係」の物語をつくり、それをめざす。この物語はしかし、「欲望」の本来の目標に相関しない「嘘の欲望」でしかありえない*19

 

 岸田秀が言うように、ふつう人間の欲望は「自我を安定させようとする」根本動機を持っている。自我の物語とは、この自我の安定のための目標となるモデルであり、人は、この物語を完全に実現すれば自我が安定するはずだという「幻想」を抱いている*20

 

竹田もまた、「「自我」とは自分と世界の関係についての「物語」以外のものではない」*21と述べていました。さらには、人間存在を理解するためのキーワードでとして「欲望」という概念を用いる点で、竹田と岸田の主張には相互に通じ合うところがあると考えられるかもしれません。両者はともに、人間は物理的環境や生物学的環境を生きているのではなく、人間に固有の「欲望」に基づいて描かれた「物語」の世界を生きていると主張しています。

 

では、岸田唯幻論と竹田欲望論の違いは、どこにあるのでしょうか。岸田と竹田は『〈現在〉との対話3 岸田秀物語論批判/世界・欲望・エロス』(作品社、1985年)で対談をおこなっており、この中で人間の「欲望」を捉える両者の観点の違いが、かなり明瞭に語られています。竹田は、みずからの現象学の立場について、次のように述べています。

 

 

ぼくの考えでは、基本的に人間の無意識の構造がどうなっているのかというのは、結局ひとつの物語つまり仮説として立てられるだけだということがあるんですよ。このことを現象学の見方で言うと、人間に直接に与えられているのはいわば意識の水面だけなんです。すると、水面の上部が人間のつまり外界、〈世界〉にあたるわけですね。で、水面下が人間の内部、つまり無意識というものにあたる。そしてその構造がどうなっているかというのは、いわば水面の波のかたちから推論していくことしかできない*22

 

竹田は、「意識の水面」に与えられる知覚や意味こそが確信成立の底板をなしているという立場を貫こうとします。すでに見たように岸田は、「欲望」ないし「エロス」を原理とする人間存在のあり方に関して、本能が壊れたことによって現実から乖離した「幻想」の世界に生きるようになったと説明していました。しかし、それは一つの「仮説」にすぎず、私たちが直接的にアクセスすることができるのは「意識の水面」だけではないかと竹田は主張するのです。

 

こうした竹田の主張に対して岸田は、「ただ、ぼくがぼくの観点に固執するのは、やはり精神分析の立場からどうしても人間の意識というものを額面通りには受け取れないからです」*23と述べて、次のような例に言及しています。

 

ある母親が、無意識においては息子を憎んでいるにもかかわらず、その憎しみを抑圧して意識の上では自分は息子に対して愛情を抱いていると思い込んでいるとします。彼女は献身的に息子に尽くており、他人の目には過保護に映る振る舞いを、息子への愛情の表現だと信じています。しかし、その息子は母親によって束縛され、そのことでたいへんな心の苦しみを感じています。このようなケースでは、母親の意識の水面に目を向けているだけでは、息子に対する愛情しか見いだすことはできません。しかし、そのような意識の水面における現われを額面通り受け取っていては、この問題の解決策を発見することはできないと岸田は言います。

 

人は誰しも、自我を支えるような幻想なくしては生きていくことはできないと、岸田は考えます。しかし、この例に登場する母親の自我を支えている幻想には欺瞞があり、彼女自身の意識の水面においては、それは「息子への愛情」として理解されていますが、その幻想が息子を追いつめてしまっているのです。

 

こうした問題を解決するためには、精神分析の観点から彼女の無意識に考察のメスを入れなければなりません。分析者は、母親の無意識のうちには息子を支配したいという欲望が抑圧されており、それが彼女の振る舞いを規定していることを明らかにすることで、母親と息子を苦しめていた幻想からの解放を実現しようとします。

 

このような例を挙げた上で岸田は、「竹田さんの言う現象学的観点では、意識の水面に現れている欲望をそのまま生きるか、それが不可能な時には我慢するしかないことになりませんか」*24と問いかけます。これに対する竹田の反論は、次のようなものです。

 

 それはぼくはこう思うんです。ニーチェが『権力への意志』の中で、意識から出発する哲学を信用しすぎてはいけない、なぜなら意識そのものはすでに構成の結果だから、と言っているんです。フランスのフロイト派であるラカンも同じ発想です。現象学はコギト主義だと言うんです。これは今岸田さんが言われたように、起こりうる反論だと思います。だけどフッサールの“還元”という考え方に対する批判にはなりえないと思います。“還元”の立場は、合理的な意識の明晰性というデカルトの〈コギト〉の立場とは違います。たとえば今言われたような母親の反動形成がある。そのとき母親は息子を愛していると思っている。分析者が現れてあなたはほんとは愛していなくて憎んでいる、と言う。そのとき母親はこの〈解釈〉の真偽をいったい何によって決めるでしょうか。〔中略〕要は母親がその説明を聞いて、自分自身の意識に問い質してみるわけです。そしてその説明がほんとうらしいかどうかを自分の意識のあらわれに聞いてみる。で、その説明がほんとうだな、どうもそうらしいなと自分で納得すれば今までの思い込みが解かれるわけです。つまり、母親が態度を改めるか否かは実践的な問題なんで、その説明が唯一ほんとうのものでなくていいし、そういう唯一絶対のほんとうというのはないわけです。現象学の意識への還元というのは、だから明晰性と合理的思考がすべてだというのとは全然違って、いろんな〈物語〉があるが、その実践的な真偽を決するのは意識の水面での確信のあらわれだけだということだとぼくは思います*25

 

ここには、「意識そのものはすでに構成の結果だ」と考える精神分析の観点と、現象学の観点の違いがはっきりと語られています。

 

竹田は岸田の唯幻論の立場について、「岸田理論は、既成の理論(世界の説明)を「幻想」というキーワードで次々に解体させてしまうのだが、その説明がいわばツボにはまりすぎて、また〈世界の説明〉になってしまうところがあるように思える」*26と述べていました。岸田は、「幻想」というキーワードを駆使して人間存在のあり方を説明しますが、それは意識の水面において内的に確信されることで初めて実践的な意味を持つような、一つの「仮説」にすぎません。ところが、すべてを「幻想」というキーワードで解き明かす岸田の説明があまりにも鮮やかであるために、私たちはそれが一つの「仮説」であることを忘れ、「世界の説明」として受け容れてしまう恐れがあるのではないかと、竹田は問いかけているのです。

 

さて、岸田唯幻論に対する竹田のこうした問題提起は、ポストモダン思想から現象学に向けられてきた「先構成批判」に対する竹田の反論と同じ構造を持っています。次回は、もうしばらくこうした竹田の考えの射程を検討しながら、その上で私自身が竹田現象学に対して抱いている疑問の入り口を探ってみたいと考えています。

 

*1:竹田『エロスの世界像』17頁

*2:竹田『エロスの世界像』135-136頁

*3:竹田『エロスの世界像』84頁

*4:竹田『エロスの世界像』137-138頁

*5:竹田『エロスの世界像』87頁

*6:竹田『エロスの世界像』96頁

*7:竹田青嗣『恋愛論』(ちくま学芸文庫、2010年)58頁

*8:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)212頁

*9:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』(青土社、1992年)42頁

*10:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』43-44頁

*11:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』46頁

*12:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』46-47頁

*13:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』72頁

*14:岸田はこの「欲望」を、フロイトの「衝動」(Trieb)と関係づけて次のように説明しています。「ここでわたしは、フロイドが本能とは区別して衝動と呼んだものを、欲望と言いかえたい。衝動という用語は、本能と混同されるニュアンスをいささか残しており〔中略〕とくに人間的なものを表わすには欲望と呼ぶ方が適当のように思われるからである」(『岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』134頁)。

*15:岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』135頁

*16:さらに岸田は、フロイトによって提唱された「快感原則」と「現実原則」の対立図式を、これまでの議論に重ね合わせて理解しようと試みています。「現実原則と快感原則とのこの対立と分裂は、人類だけが直面する悲劇であり、動物においては、現実への適応と快感の追及とのあいだに矛盾はない。フロイドの言うところのエスとその快感原則は、人類に特有な本能のずれと歪みを表わしており、決して動物における本能と同一視できるものではない。エスは本能ではない。快感原則は本能の原則ではない。それはむしろ、幻想の原則である」(『岸田秀コレクション ものぐさ精神分析』45頁)。現実から乖離して私的幻想の世界で遊ぶことになった「エス」を抱え込むことになった人間は、みずからの私的幻想の一部を共同幻想のうちに見いだすことで、かろうじて現実原則にしたがう「自我」を打ち立てることに成功すると考えられています。

*17:岸田秀コレクション 幻想の未来』(青土社、1993年)189頁

*18:岸田秀『幻想の未来』196頁

*19:竹田『エロスの世界像』132頁

*20:竹田『エロスの世界像』158頁

*21:竹田『エロスの世界像』137頁

*22:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)21頁

*23:岸田秀コレクション 物語論批判』143頁

*24:岸田秀コレクション 物語論批判』145頁

*25:岸田秀コレクション 物語論批判』145-146頁

*26:岸田秀コレクション 物語論批判―世界・欲望・エロス』(青土社、1992年)212頁