しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (1)

現象学入門』(NHKブックス、1989年)や『ニーチェ入門』(ちくま新書、1994年)など、数多くの哲学の入門書を執筆している竹田青嗣は、難解な哲学の議論をわかりやすいことばに噛み砕いて説明することで多くの読者の支持を得ています。その一方で、彼の現象学の理解は間違っているという指摘や、彼のポストモダン思想に対する批判は的を射ていないという声も少なくありません。そこで、竹田の主張内容をたどり、その議論の妥当性についてしばらく考えていきたいと思います。


竹田がもっとも大きな影響を受けた哲学者は、何と言ってもフッサールだといってよいでしょう。「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれる彼の立場は、フッサール現象学を独自の仕方で読み替えることで構築されています。そのフッサールとの出会いについて、竹田は次のように語っています。

 

 そもそもわたしが現象学に引かれたのは、それまで絶対的に正しいと信じていたある強力な世界理論が自分の中で完全に崩壊するという奇妙な体験があったからだ。この強力な理論とはマルクス主義のことである*1

 

 自分が強く信じていた思想や世界観が誤っていたと感じられたとき、ひとはさまざまな態度をとるだろう。思想的な懐疑主義ニヒリズムに陥ったり、それが誤っていたのはここがおかしかったからだという修正主義もある。またひとつの強力な理論(物語)の代わりに、さらに強力な理論(物語)を見出して、そちらに依拠するという態度もあるだろう。しかしわたしの場合は、そもそも人がさまざまな理論の中からあるひとつの理論を確信し、それに依拠して生きるということの「意味」が何であるのか、ということが最も大きな疑問として生き残った。
 現象学は、このやっかいな問いにひとつのはっきりした解を与えてくれるものとしてわたしにやってきたのである*2


若き日の竹田がマルクス主義に出会う経緯は、『自分を知るための哲学入門』のなかにくわしく書かれています。

 

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 

 

高校から大学に入った頃、わたしはごくフツーの真面目で純朴な青年だったと思う。大学を出て放送局に入り、フツーの立派なサラリーマンになることが夢だった。
〔・・・〕
 ところが、大学に入ってみるとすぐに、むずかしい議論と大義名分のついた“闘争”に巻き込まれてしまった。
 「社会を変革し、人間らしさを取り戻そう」という命題がやってきて、わたしはその天の声にわしづかみにされてしまった。青天の霹靂である。どんなことでも知っている(と思えた)ステキな先輩たちが「大学解体」「造反有理」などと言うのを聞いて、素朴で真面目なフツーの青年だったわたしにその「正しさ」が疑えるわけがなかった*3

 

その後、竹田たちのような若者をとらえた「大学闘争」の情熱はしだいに冷めていきます。さらに1972年の連合赤軍事件にショックを受けた彼は、文学や思想の世界にロマンを求めていくことになりました。しかしやがて、「現実」から乖離した「ロマン」や「理想」を求めつづけて生きることにともなう疲労感が彼を襲ってきます。

 

 わたしは進むことも引くこともできない生活の関係の中で困り果てていた。何とか自分の不安な状態を救いたかったのだが、文学や思想の世界は自分を救うためには全く無力なものだった。キルケゴールが言ったとおり、そのことに思い当ってわたしは“絶望”した。自分の「心の義」の世界が、まったく独我論の世界にすぎないことに、ようやく気づいたのである*4

 

彼がフッサールの『現象学の理念』という本に出会ったのは、そんな日のことでした。そして以後、彼はフッサールの思想に引き込まれていきます。

 

では、フッサールの何が、それほど深く竹田の関心を引いたのでしょうか。この出会いについて、彼は次のように語っています。

 

 たとえば現象学は、人間の世界像の一切を主観の意識内容、意識表象に「還元」する。自分にとって疑えぬ「現実」と思えていたものが、自分の内の観念、表象にすぎないと突然感じられたこの体験は、「還元」という概念の核を容易に受け入れさせたのである。
 現象学は、繰り返し言うように方法的独我論をとる。それは、一見リアルなものとして現われている世界の風景の一切を意識に生じた表象にすぎないものと見なす。あらゆる現実的な確信をドクサ(臆見)と見なすのである。そういう手続きを取った上で、この現実性がどのように成立するかを吟味する。
 わたしが体験したのは、要するに、それまで疑えない現実感を伴って存在していた自分の世界像が徐々にその現実性を削ぎ落され、やがてその一切が自分だけのドクサでないかと思える場所にまで退行するという事態だった。現象学はいわば方法的にこのような「還元」を行なうのだが、わたしの場合、自分のロマン的世界像と現実世界とのせめぎ合いが、自分にそういった「還元」をもたらしたのである*5

 

マルクス主義の世界観への信頼が失われてしまったことで途方に暮れていた竹田に、彼の置かれていた実存的状況をうまく解き明かすためのヒントをもたらしたのが、フッサール現象学だったのです。他方で彼は、1980年代の日本の思想界を席巻したポストモダン思想は、そうした問題にうまく答えていないのではないかという疑問を抱くようになりました。そしてこのことが、竹田のポストモダン思想に対する批判の核心にあるといえるように思います。

 

それでは、近代的な認識論の枠組みを継承するフッサール現象学と、上で見たような竹田の直面していた実存的な悩みという、一見したところまったく性格の異なるように思える2つの問題は、いったいどのようにして結びついているのでしょうか。

 

竹田はそのことを説明するに当たって、フッサールの『現象学の理念』から、次の文章を引用しています。

 

 認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?*6

 

竹田は、ここでフッサールが提出している「主観-客観」問題こそ、「近代哲学の認識論の根本問題」*7にほかならないと述べています。

 

同じ問題を竹田がみずからのことばで説明している箇所も、引用しておきましょう。

 

 いま目の前に、何でもいいが、たとえばコップがあるとする。〈私〉はこのコップを見ている。しかしこれをよく考えると奇妙な問題が生じる。〈私〉がいま見ているコップは、〈私〉の視角を通して自分の中に入ってきたコップの像である。ところでこの〈私〉が見ているコップの像と、このコップそれ自体はまったく同じものと言えるだろうか。この疑問が、哲学上主観-客観の難問と言われるものだ。
 青いメガネをかけてものを見ると赤いリンゴも青く見える。人間の視覚(あるいは認識)も完全なものであるという保証はどこにもない。すると、人間の認識があるがままの現実(=客観)と一致しているという保証もないのである*8

 

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竹田青嗣現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫、1992年)169頁

 

竹田は、近代以降のあらゆる哲学者たちがこの問題に立ち向かっていたと考えます。たとえば、「デカルトの「神の存在証明」は、単にひとびとにどう神への信仰を取り戻させるかということを超えて、この主-客の難問に対する彼なりの解答だったのだ」*9とされます。デカルトは神の存在証明をおこなった後、神が欺瞞者ではありえないのだから、私たちが神から与えられた認識能力にしたがってとらえられるものは、客観的実在だと考えてよいと主張しました*10。竹田は、こうしたデカルトの主張の意義を、次のように理解します。

 

 つまりデカルトにおいては、〈主観〉と〈客観〉のあいだを架橋するのは〈神〉にほかならない。これは逆に言えば、〈神〉のような存在をもち出さなければ、〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確証することは原理的に不可能だということを、彼も認めていたという事を示している*11

 

もちろん竹田は、「この「神の存在証明」を聞いて、なるほどそのとおりだと思うひとは、いまではほとんどいないだろう」*12と述べており、〈主観〉と〈客観〉の一致はデカルト哲学においてもうまく解き明かされていないと考えています。そして、フッサール現象学によってはじめて、この難問は見事に解き明かされることになったと考えられています。

 

ところで、こうした近代哲学の認識論上の難問と、竹田の直面していた実存的な悩みとは、彼の中で次のような仕方で結びついていたのでしょうか。この点についての竹田の説明を見ておきましょう。

 

 この西洋哲学の主-客「一致」問題は、わたしがたどってきたようなロマン的世界の経験と何の関係もないと見えるかも知れない。しかし、自分が内側に抱え込んでいる世界像が、回りの現実から全く孤立した自分だけの観念にすぎないのではないかという感覚は、まさしくこの難問と重なり合っているように思えた。自分の世界像(=自分の認識)は、はたして回りの現実(=客観)に「一致」しているのか。もしこの「一致」が成立していないとすれば、自分の内の世界像とはいったい何であるのか。フッサールの問題設定は、そういうかたちでわたしが抱えていた問題に強く響いたのである*13

 

若き日の竹田は、マルクス主義がこの現実を正しく説明していると信じていました。しかし、やがてそれは誤りであったことが明らかになっていきます。全共闘運動の挫折から連合赤軍事件へとつづいていく歴史のなかで、竹田はそうした事実を受け入れ、文学や思想といった自我のうちのロマン的世界に逃げ込んでいくことになりました。

 

むろん竹田以外にも、このような挫折を経験した若者は数多くいたはずです。しかし、彼が同時代をすごした多くの若者たちと異なっていたのは、みずからが抱えていた問題を、「自分の世界像(=自分の認識)は、はたして回りの現実(=客観)に「一致」しているのか」というかたちで理解していたことです。そしてさらにこの問題は、われわれの主観的な認識が客観的な世界と一致しているのかという、近代哲学の根本問題と重ねあわされていたのです。

 

他方、80年代の日本において流行したポストモダン思想も、マルクス主義の凋落という時代背景を反映していたということができるでしょう。しかし竹田は、ポストモダン思想は近代哲学の根本問題であった「主観-客観」の一致をめぐる謎を解き明かしていないと断じます。竹田によれば、近代哲学の根本問題である「主観-客観」の一致をめぐるアポリアは、フッサール現象学によって完全に解き明かされたのであり、だからこそ彼は、フッサールに出会うことによって、それまで彼を苦しめていた実存的な悩みからの脱出口を見いだすことになったのです。

 

ところで、竹田はフッサール現象学によって「主観-客観」の一致をめぐる近代哲学の根本問題に解決がもたらされたと考えていましたが、そのことは十分に理解されていないと述べています。ふつうフッサール現象学は、われわれの表象の外部に対象が客観的に実在しているはずだという「自然的態度」にエポケーを施し、「超越論的主観性」の領域に立ち返ることだと理解されています。そして現象学独我論であるという批判がくり返しなされてきたと竹田はいいます。しかし竹田によれば、こうした批判は現象学に対する誤解にほかなりません。竹田はこうした誤解に対し、フッサールを弁護して次のように述べています。

 

 現象学は方法的な独我論である。それはフッサールも自認している。しかしそれはちょうど、デカルトが方法的懐疑を行なったのと同じ意味においてである。そのことでいま「デカルト懐疑主義者である」などと言うひとがいたら、てんで判っちゃいないと誰でも言うだろう。現象学独我論だといって非難するひとは、これと同じなのである*14

 

デカルトは、真正の懐疑論者以上に懐疑を徹底し、あらゆるものに疑いを向けていきました。その結果、彼はもはやどうしても疑うことのできない「考える私」の存在を証明し、かえって懐疑論者たちの主張を掘り崩すことに成功しました。竹田は、フッサール独我論に対する関係は、これと同じだというのです。つまり、フッサールは真正の独我論者以上に独我論の立場を徹底して掘り下げていくことによって、独我論がひそかに前提していた底板を掘り抜くことになったのです。竹田はフッサールの戦略をこのように理解しており、これに「方法的独我論」と呼んで、次のように主張します。

 

デカルトの方法的懐疑がわざと懐疑論を徹底したように、フッサールはわざと独我論を徹底するのである。この「わざと独我論を徹底して世界を見る」という方法が、現象学では「還元」と呼ばれる*15

 

次回は、こうした竹田のフッサール解釈についてもう少しくわしく見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田青嗣『意味とエロス―欲望論の現象学』(ちくま学芸文庫、1993年)315頁

*2:竹田『意味とエロス』316頁

*3:竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫、1993年)48-49頁

*4:竹田『自分を知るための哲学入門』56頁

*5:竹田『自分を知るための哲学入門』58-59頁

*6:立松弘孝訳『現象学の理念』(みすず書房、1965年)34-35頁

*7:竹田『自分を知るための哲学入門』64頁

*8:竹田『自分を知るための哲学入門』144頁

*9:竹田『自分を知るための哲学入門』145頁

*10:ただし、このような竹田のデカルト解釈には、若干の勇み足があるように思われます。たしかにデカルトは、神の存在証明を経ることによって、数学的対象のように人間がみずからの知性によって明晰判明に理解できるものが、神によって物質的世界に創造されて存在することが可能だと主張しました。ただし、人間が数学的観念にしたがって明晰判明に理解したものが単に存在可能だというだけでなく、現実に存在すると主張することはできません。それは、永遠真理ですらも自由に創造するというデカルトの神の理解に矛盾することになります(小林道夫デカルト哲学体系―自然学・形而上学・道徳論』(勁草書房、1995年)第6章参照)。「第六省察」において改めて、外的世界の存在証明をおこなう必要があったのはそのためです。

*11:竹田青嗣現象学入門』(NHKブックス、1989年)27頁

*12:竹田『自分を知るための哲学入門』143頁

*13:竹田『自分を知るための哲学入門』65頁

*14:竹田『自分を知るための哲学入門』47頁

*15:竹田『自分を知るための哲学入門』182頁

サブカルチャー批評を読み解く (5)

前回は、『動物化するポストモダン』において東浩紀が意図的に「セクシュアリティ」の問題を回避していることに触れ、さらにササキバラ・ゴウの『〈美少女〉の現代史』を参照しながら、サブカルチャーにおける「セクシュアリティ」の問題について考察しました。今回はそのつづきになります。

 

前回も述べたように、ササキバラは1979年以降の美少女キャラクターの歴史をたどっていくにあたり、とくに吾妻ひでお宮崎駿高橋留美子の三人の仕事について突っ込んだ考察をおこなっています。

 

かつて、少年マンガに登場するヒロインたちは、「エッチ」な関心の対象にとどまっていました。これに対して、宮崎駿は映画『ルパン三世カリオストロの城』のなかで、クラリスという美少女キャラクターを登場させ、「お姫様」である彼女に愛される「王子様」としてのルパンの姿を描きました。

 

クラリスにはじまる美少女キャラクターにかんしてササキバラが注目しているのは、彼女たちに向けられた男の子たちのまなざしの変化です。彼らは、「お色気コード」にのっとったヒロインの振る舞いを期待するマッチョイズムに気づき、みずからが「傷つける性」であることを自覚するようになったとササキバラは主張しました。

 

みずからが「傷つける性」であることを自覚した少年は、女の子の細やかな内面を理解しようと努めます。彼らが女の子の内面を理解するためのマニュアルとなったのが、少女マンガだったとササキバラは論じています。すでに少女マンガの世界では、萩尾望都大島弓子竹宮恵子といった「二十四年組」と呼ばれる作家たちによって、少女たちの細やかな内面をえがいた作品が登場していました。ただし、この点にかんしてササキバラはそれほど詳細な考察を展開してはいないようです。そこで、ササキバラとの共著で『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書、2001年)を刊行した大塚英志の議論を参照することで、ササキバラの議論を補うことにします。

 

 

大塚は、この本の「萩尾望都」をあつかった章で、「二十四年組」による「内面の発見」という事件についての考察をおこなっています。その際に彼は、少女マンガの「内側」と「外側」で起きた二つの出来事をとりあげています。

 

少女マンガの「内側」で生じた出来事は、「表現技法上の問題」と呼ばれています。簡単にいうと、フキダシの中の言葉と外の言葉の使い分けのことです。つまり、フキダシの中に書き込まれた言葉が音声化されたセリフを表わし、フキダシの外に書き込まれた言葉がキャラクターの心の中のセリフや語り手の独白、手紙の文面など他のテクストの引用、主題を強調する短いフレーズなどを表わすという技法です*1

 

ここで大塚は、かつて吉本隆明が『マス・イメージ論』のなかで、フキダシの外側に配置されたセリフのニュアンスを細やかに使い分けていくこれらの技法に注目し、それを「言語の位相化」と呼んでいたことに触れています。

 

マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

 

 

吉本がまずとりあげているのは、山岸凉子の「籠の中の鳥」という作品の一場面です(下図参照)。ここに見られる表現技法について、吉本は次のように論じています。

 

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山岸凉子『天人唐草―自選作品集』(文春文庫ビジュアル版、1994年)156頁

 

1コマ目での、主人公の融の「村に行くのいやだ」というセリフと、祖母の「ふんそいじゃ腹すかしてここにいろ」というセリフは、登場人物のかわす会話を表わしています。これらはふつう、一重線の囲みで表現されます。吉本は、「緊迫した叫び声や叱咤の声のばあいは、草書体の無囲み、あるいは崩した一重線の囲みで表わされる」*2と説明しています。

 

2コマ目の「ゴク」という語は、少年が生つばを飲み込む擬音です。これにかんしては、「擬音や音声にならない意識の内語のばあいは、草書体の無囲み、あるいは崩した一重線の囲みで表わされる」*3と説明されます。

 

そして、3コマ目で融が一人称の語り手の位相で語る「ぼくの家はヨミノ山の奥にあります」「時どきふもとの村からむかえの人が来ることがあります」という、二重線の囲みで表わされている文章は、ナレーションの語りを表わしています。

 

こうした山岸の表現技法の意義をについて、吉本は次のように述べています。

 

 山岸凉子の「籠の中の鳥」が感銘ぶかい作品だというのは云うをまたないが、それよりももっと意味ぶかいのは、画像と組みあわせることが可能な言語の位相を、その同一性と差異の全体にわたってはっきりと抑えきっていることだとおもえる。たとえばこの作品は「ぼく」という主人公が語り手になり展開される物語だが、「ぼく」は同時に作品のなかで、主たる登場人物としても振舞うことになる。語り手としての「ぼく」と主人公としての「ぼく」はどうちがうのか。この言葉の本質的な差異は、一重線の囲いと二重線の囲いによって区別されている。「ぼく」の内語もまた別の区別をうける。さしあたってはわたしたちは、画像と組合される物語言語においては、それ以上の位相的な差異と同一性を区別しなくていいことがわかる。こうみてくると山岸凉子は、現在のコミックス画像の世界を流通する言語的な手段を、意識的にとりだした明晰な作者だということがわかる*4

 

次に吉本は、萩尾望都『メッシュ』という作品の一場面を例にとりあげ、さらに複雑な登場人物の内面を表現するための技法が確立されていると主張します。

 

たぶんこの作者には、刻々変化してくる登場人物たちの感覚的な陰影を捉えたいという極度な欲求があって、平面画像のなかにさえも多様な言語のシートを、何枚も重ねて埋め込んでいる。そんな表現様式を創りだしている*5

 

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萩尾望都『メッシュ』第2巻(白泉社文庫、1994年)35頁

 

さて、大塚はこうした吉本の議論を引き継ぎながら、こういった表現技法が少女マンガにおける「内面の発見」を可能にしたと主張します。

 

台詞を位相化し、和音のようにことばを重ねていく技法こそが70年前後に少女まんが領域で確立した手法なのです。〔・・・〕
 このようにしてフキダシの外の台詞を駆使することによって、少女まんがはキャラクターの心を重なり合った層として、いわば奥行きのあるものとして描く技術を手に入れたのです。
 たとえていうならこうです。今、自分がしゃべっていることばとは別に心の中には別の気持ちがあり、あるいは耳の奥に不意にフラッシュバックすることばがある……そしてそれらを一歩離れたところから見つめるキャラクターの〈私〉としての自意識がある、といった具合にです。ぼくが70年代初頭に少女まんがが「内面」を発見したと記すのは、こういった技術の裏打ちをふまえてのことです*6

 

他方で大塚は、少女マンガの「外側」で生じたもう一つの出来事をとりあげます。それは、60年代以降のフェミニズム思想の興隆や「手記ブーム」などを通して「女性性」の問題がしだいにクローズ・アップされてきたという事実です。「手記ブーム」とは、60年代に素人の書いた手記が次々と出版されベスト・セラーになった現象を指しています。大塚はここで、藤井淑禎による「手記ブーム」の研究を参照しながら議論をおこなっています。そこで次に、藤井の『純愛の精神史―昭和三十年代の青春を読む』(新潮選書、1994年)に少し立ち入ってみることにします。

 

純愛の精神誌―昭和三十年代の青春を読む (新潮選書)

純愛の精神誌―昭和三十年代の青春を読む (新潮選書)

 

 

この本のなかで藤井は、「手記ブーム」の時代を1958年から1971年としています。そのはじまりとなったのが、九州の炭鉱町での極貧生活を記録した安本末子の日記である『にあんちゃん』です。ブームは、軟骨肉腫という不治の病に冒され21歳の若さで亡くなった大島みち子とその恋人の河野実の往復書簡をまとめた『愛と死をみつめて―ある純愛の記録』の刊行をピークとして、立命館大学で大学紛争に身を投じた末にみずから死を選んだ高野悦子の『二十歳の原点』までつづきました。

 

藤井はこの本のなかで「手記ブーム」の意義について考察しており、「手記ブーム」とは「玄人たちによって独占されていた「文学」というものを、アマチュアたちの手に取り戻そうとする動き」*7だと主張しています。また、「私小説的風土を逆手にとった一人称体に、呼びかけ的性格が加味される」ことで書き手と読み手が直接的に結ばれ、「読者は、一人称体の私小説の場合などとは比較にならないほどの強い力で書物のなかに巻き込まれてしまう」*8ことに注目して、こうした「手記ブーム」には「「小説」というジャンルに対する非小説(ノンフィクション)サイドからの異議申し立て」*9という側面があったことを指摘しています。

 

しかし大塚の議論にかかわってくるのは、藤井が「手記ブーム」を「男性主導の「文学」という制度に対する女性の側からのNOの声でもあった」*10と特徴づけている箇所だといってよいでしょう。注目すべきは、藤井が「女性たちの告発」の意義に一定の評価をあたえながらも、そこに孕まれていた一つの困難を鋭く指摘していることです。

 

藤井は、『愛と死をみつめて』の大島みち子の病気が再発し、パニック状態に陥った河野実の手紙と、それに対する大島の返答について考察をおこなっています。

 

愛と死をみつめて ポケット版 (だいわ文庫)

愛と死をみつめて ポケット版 (だいわ文庫)

 

 

まず、河野の手紙から引用します。

 

 みこが逝ってしまった時の事を考えると全身に身震いがする。意識もなく寝ているもとへ僕は行って、じっとみこを見守っているだろう。何も言わずただ茫然と……。そしてその瞬間僕は大声を出して笑い出すかもしれない。発狂するだろう。ああいやだ。助けて……。今すぐみこのもとへ飛んで行きたい。みこの胸に抱かれて、もういやという程思い切り泣いてみたい。気が済むまで……。〔・・・〕みこ! みこの御両親、みこと僕の関係がそうとう深いものと思っていると思う。生きているうちに、生きているうちに純潔を証明しておいてほしい*11

 

ここに見られる河野の「純潔」へのこだわりについて、藤井は次のように解説しています。

 

 純潔というものに対するあまりにも過剰な意識がみてとれるのだが、これもまた同時代の細密画たる『愛と死をみつめて』という書物が垣間見せてくれた当時の青年男女の典型的かつ平均的な在りようであったとすれば、そうした言動を背後から操っていたのが、この時代の支配的な観念であった純潔というイデオロギーだったのである*12

 

藤井は、当時の文部省が編纂した純潔教育についてのさまざまな啓蒙パンフレットの存在に触れながら、河野が恋人である大島に純潔証明を要請したことに「純潔」のイデオロギーの影響を見ることができると述べています。

 

しかし、河野の純潔証明の要請に対して大島が返した次の手紙には、「純潔」のイデオロギーを相対化する視点が見られると藤井はいいます。

 

 さて速達のお返事ですが、私の両親に純潔の証をたてておくようにとのことですが、どうして、そうしなければならないのかわかりませんし、どの方法をもってそうであることを証明していいのかもわかりません。〔・・・〕マコ、純潔って一たいどんなこと? 肉体的に純潔であっても精神的に純潔でない人もいるでしょうし、またその逆の人もいると思うのです。結婚前に最愛の人にすべてを捧げることは決して不純だとは私は思いません。ただなんとなく道徳上、いけないような気もするのですが。
 十月、貴方と六日間、せまい一室ですごしました。たとえ病室だったとはいえ、完全な個室、そして一日中顔を合せての生活でした。まずたいていの人は、私たちが俗に言う深い関係になったと想像するでしょう。そう思うなら思わせておけばいい。私たちは精神的には強く強く結ばれたけれども、肉体的には結ばれなかった。私がこんなになってしまうのなら、一さい何もかも貴方にあげてしまえばよかった(と言っても、貴方は要求しませんでしたが)と思う反面、そうしなかったことでよけいに私たちの愛情が清く美しい様に思われたりして。
 父や母に証をたてることはしませんでしたけれども、入院した当時からの日記を読めばわかることです。マコ、それでいいではないの*13

 

ここには、「純潔」という規範とそれに縛られた河野に対する、大島の異議申し立てを見ることができます。

 

また『愛はかなしみとともに』の著者である佐々木道子も、次のような文章を記していました。

 

秀樹君は私の前に立って、いつにもない恐い程真剣な目をして、こころもち腕を広げて私を見た。ぼくの腕の中に飛び込んでおいでといっているのだった。私は応じることができなかった。ほんとは抱かれたかったけど、何か抵抗があって、空しい気持ちで彼を見上げただけ。秀樹君はすごくガッカリしたらしかった。ごめんなさい。私はどうしても素直な心になれなかった。
 それから秀樹君は私を立たせて、私はそのまま、抱かれてしまった。でもその時、悪いことをしているような罪の意識をふと感じて、嬉しいより見苦しいような、悲しい気持ちがした*14

 

ここにもまた、男たちをがんじがらめにしている「純潔」や「純愛」のイデオロギーを相対化し告発する、女性たちの内なる声が響いています。

 

しかしながら、手記を書く女性たちは、ここからまっすぐに「純愛」のイデオロギーからの解放へ向けて進んでいったわけではありませんでした。藤井は、「手記ブーム」の最後に位置づけられた高野悦子の『二十歳の原点』に、「純愛」からの解放の困難さを見ています。

 

二十歳(はたち)の原点序章 (新潮文庫 た 16-2)

二十歳(はたち)の原点序章 (新潮文庫 た 16-2)

 

 

藤井が参照しているのは、たとえば次のような文章です。

 

絶対に昨日のことは忘れるまい。要するに酔って旅館に連れ込まれたということ。でも滑稽だった。裸同士の男と女が、子供のぶきっちょさで遊んでいたということだもの。「これでも俺はプレーボーイなんだ。お前を裸にしてみせる」と暴力的にムリヤリに服を脱がせた。お見事! さすがにプレーボーイ! 「キミハステキダ、ナントスバラシイ、ボクヲスキカイ」いつもの手順でプレーボーイ氏はやる。その空虚さ、しらじらしさ。そう、簡単明瞭に言えば、体が欲しい、征服したいということ。裸同士でダブルベッドの上をおしくらまんじゅうだナ。トイレバス付きの、ベッドだけが大きな個室。醜態だな*15

 

藤井は、ここに見られるような「極端な韜晦口調」が「規範に対することさらなる反抗」にすぎないのではないか、と問いかけます。そして、もしそうだとすれば、彼女の言葉は規範からの解放を証明するどころか、「従うか、あえて背くかのちがいはあっても、依然として〔・・・〕規範に深いところで囚われていた可能性は相当に高いとみなくてはならないだろう」*16といいます。

 

さらに藤井は、高野悦子が自殺に至るまでの三か月あまりのあいだに、二人の男性とのかかわりを通して、みずからが追い求めたのは「幻想としての恋愛」にすぎなかったという事実に直面させられたことをとりあげます。そこで彼女がたどり着いたのは、「恋愛も男性も性的行為も、そして自分自身をも含め、ありとあらゆるものから幻想性がはぎとられ、むきだしにされた裸形の世界」であり、「もはや〈父〉もなく〈家〉もない、何の突っかい棒もない荒れ野」*17でした。彼女の歩んだ道が示している困難について、藤井は次のように説明します。

 

 そして、おそらくそこが荒れ野でしかありえなかったのは、ほんとうの意味での規範からの自由が「主体的」に獲得されていなかったからにちがいない。純潔という規範との関わり方の場合でいえば、単なる裏返しであり、反動としての規範への反抗・否定に過ぎず、実際は依然としてその影をひきずっていたからなのである。だからこそ、たとえば〈家〉制度に代わる共産主義的な政治的イデオロギーだとか、純潔という規範に代わる解放的な性イデオロギーだとかのように、ひとつの規範の否定は単に別のもうひとつの規範を呼び寄せてしまっていたに過ぎず、相変わらず人間が規範の囚われであるという事態はいっこうに変わりがないのだった*18

 

大塚の『彼女たちの連合赤軍』を読んだことのある読者は、そこで大塚が、こうした藤井の問題意識を受け継ぎ展開させていたことに気づくことでしょう。しかし、その点について立ち入って論じる暇はないので、この辺りでもう一度大塚の少女マンガ論に話をもどして、ひとまず締めくくることにしたいと思います。

 

さて、以上のような時代背景を踏まえたうえで大塚は、「手記ブーム」が少女マンガの主題にも影響をおよぼしたと主張します。彼が「手記ブームと団塊世代の少女まんがをつなぐ象徴的な作品」*19としてとりあげているのは、島中隆子・大和和紀の『真由子の日記』という作品です。

 

この作品は、主人公である真由子の次のようなモノローグからはじまります。

 

あたし真由子
もうじき十五になります
女の子です
一人まえのむすめになってから
もう三年になります
これは
わたしだけのひみつの日記
あなたにだけ こっそり
みせてあげましょうか
でも約束してくださいね
だれにもあたしのひみつを
しゃべらないって
あたし……?
どこにでもいるへいぼんな女の子です
そう
あなた自身かもしれません*20

 

ここには、「一人称による私語りという手記の文体がはっきりと採用されてい」*21ると大塚は指摘しています。みずからの「性」に直面して戸惑う少女の「内面」の告白と、それをえがくことを可能にした表現技法について、大塚は次のように述べています。

 

少女まんがはその作画技術においては戦前の少女画の延長上にあります。それは手塚まんがとはまた違う系譜での記号絵でした。とてもはしょった言い方になりますが少女まんがの絵はいわばお人形さん的な、身体性を欠落させたキャラクターでありそこには「性」は存在しませんでした。二十四年組の絵柄も技法としてはあくまでもその延長にあります。けれども『真由子の日記』では真由子には初潮が訪れており彼女は性的な身体を持った等身大としての主人公として少女まんが誌に登場したのでした。これはとても衝撃的な出来事でした*22

 

 自分の身体が既に性的な身体であることを自覚することによって、真由子の「内面」は明瞭な輪郭を結びます。「性的な身体の発見」と、その自らの身体における女性性と向かい合うことでそれを語る「内面の発見」の二つは戦後少女まんが史の中ではほぼ同時になされたのだといえます。つまり『真由子の日記』は少女たちが自らの女性性を把握する表現として示されたということになります*23

 

そして大塚は、萩尾望都の諸作品のなかに、このような「女性性」の問題に対する戦いを見いだしているのですが、このことについては次回検討することにしたいと思います。

*1:フランス文学・思想の研究者である内田樹は、佐々木倫子の『Heaven?―ご苦楽レストラン』のなかで(1)「現実に発語されたことば」(2)「内面のモノローグ」(3)「(1)(2)の双方の言葉についてのコメント」の三種類のレヴェルが区別されていることを指摘したうえで、(3)のレベルに出現するのは「ある種の価値判断(ただしそれは話者の意識化されていない)を伴った言明」であるといい、それは「文法用語で言えば、「接続法」で書かれた言明である」(内田樹『街場のマンガ論』(2014年、小学館文庫)87頁)と述べています。さらに内田は、次のように説明をおこなっています。「「接続法」というのは、「主観的な判断がしみ込んでいる動詞のかたち」のことである。日本語にはそんなものは存在しないので、説明に窮するのだが、「……であったらいいな」とか「……であったら困るなあ」というふうに、話者の側に願望や期待や疑惑の思いが伏流しているとき、欧米の言語では動詞の活用形が変わるのである。動詞の活用形を変えることで「この言明は客観的現実を叙しているのではなくて、主観的な思いがしみこんでいますよ」というメッセージを受信者に「めくばせ」しているのである」(内田『街場のマンガ論』88頁)。

*2:吉本隆明『マス・イメージ論』(福武文庫、1988年)272頁

*3:吉本『マス・イメージ論』272頁

*4:吉本『マス・イメージ論』278-279頁

*5:吉本『マス・イメージ論』294頁

*6:大塚・ササキバラ教養としての〈まんが・アニメ〉』65-66頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります

*7:藤井淑禎『純愛の精神誌―昭和三十年代の青春を読む』(新潮選書、1994年)186頁

*8:藤井『純愛の精神史』190頁

*9:藤井『純愛の精神史』187頁

*10:藤井『純愛の精神史』193頁

*11:河野実・大島みち子『愛と死をみつめて―ある純愛の記録[新版]』(大和出版、1979年)180頁

*12:藤井『純愛の精神史』51-52頁

*13:河野・大島『愛と死をみつめて[新版]』182-183頁

*14:藤井『純愛の精神史』199-200頁より孫引

*15:高野悦子二十歳の原点序章―未熟な孤独の心』(新潮社、1974年)217頁

*16:藤井『純愛の精神史』200-201頁

*17:藤井『純愛の精神史』203頁

*18:藤井『純愛の精神史』203頁

*19:大塚・ササキバラ教養としての〈まんが・アニメ〉』75頁

*20:大塚・ササキバラ教養としての〈まんが・アニメ〉』75-76頁より孫引

*21:大塚・ササキバラ教養としての〈まんが・アニメ〉』76頁

*22:大塚・ササキバラ教養としての〈まんが・アニメ〉』77頁

*23:大塚・ササキバラ教養としての〈まんが・アニメ〉』78-79頁