しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (4)

前回の最後で、竹田がフッサールに対する「先構成的批判」への反論を試みていたことに触れました。「先構成的批判」とは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉なのではなく、それを可能にしている先行条件が存在するはずだというものでした。

 

しかし、標準的なフッサール解釈においては、「先構成的批判」への第一歩を記しづけたのもまた、フッサールそのひとだったとされています。それが、「生活世界の現象学」と呼ばれる、後期のフッサールの思索です。

 

そこで今回は、生活世界の現象学に対する竹田の解釈を見ていきたいと思います。なお、前回と同様、標準的なフッサール解釈との違いについても触れることにします。前回は谷徹の『これが現象学だ』を参照しましたが、今回は現象学入門のロング・セラーともいうべき木田元の『現象学』(岩波新書)を利用することにします。

 

さて、フッサールの後期思想への歩みにおいて重要な意味をもっているのが、「自然的態度」と「自然主義的態度」の区別です。中期においては、現象学的還元によって自然的態度の定立にエポケーが施され、それによってわれわれは超越的世界から現象学的残余としての「純粋意識」の領野に立ち返り、そこで働く意識の構成作用を明らかにすることができると考えられていました。ところがフッサールは『イデーン』第2巻において、還元によって超えられるべきだったのは「自然的態度」ではなく、それとは区別される「自然主義的態度」だったと主張するようになります。こうした見通しに基づいて、自然主義的世界観に対する批判的検討をおこなったのが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でした。竹田の『現象学入門』も、おおむねこうした解釈にしたがっているといってよいと思います。

 

ここから、竹田の議論を追っていくことにします。フッサールは、近代の合理主義的な世界観はガリレイの測定術に端を発すると考えていました。「測定術はもともとは、たとえば、丸の内から新宿まで行くのにどう歩けばいちばん近いかとか、この土地とあの土地とどっちが広いかなどをしらべるための、経験的、実践的な動機を持っている」*1と竹田は言います。このように測定術は、もともと人間の生活上の必要から生まれたものです。

 

 測定すること、それは本来は、人間の生活上の必要から出たものだ。ここにリンゴの樹を何本植えられるかとか、どの土地が羊を飼うのに適しているか、といったことが測定術の根にはあった。だから測定術がはじめに求めたのは、生活上の〈~のために〉という目的にかなうような測定基準を見出すことだった*2

 

ところが、やがて人びとの間に正確な測定という技術上の理念が生じ、この理念化されたものだけをあつかう「幾何学者」が登場するようになると、そこで第一の逆転が生まれることになります。すなわち、理念化された測定の「基準」によって、自然を数学的に正確に測定するという企てがおこなわれるようになるのです。さらに近代自然科学の進展は、数学的に記述できる自然現象を因果系列のもとに整理・統合していくことになります。これによって、たとえば「熱い/冷たい」「柔らかい/固い」「明るい/暗い」「つるつる/ざらざら」といった、ロックのいわゆる第二性質までもが、自然科学的な「基準」によって測定できるという考えが生じます。「熱い/冷たい」という感覚的性質は、熱によって一定の仕方で膨張したり収縮したりするアルコールや水銀などの物質の振る舞いを客観的な「基準」とすることで、正確に測定することができると考えられるようになるのです。それどころか、日常的な感覚的経験は主観的で相対的な世界にすぎず、自然科学的な基準によって測定される客観的な世界のほうが確実だという信憑が人びとのあいだに広まっていきます。

 

よく知られているように、フッサールは始まる自然科学的世界観の礎を築いたガリレイについて、次のように述べています。

 

 物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ〔中略〕は、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもあるのだ。彼は、数学的自然、また方法的理念を発見し、無限の物理学的発見者と発見のために道を切り拓いた。彼は、直観的世界の普遍的因果性(世界の不変の形式としての)に対して、それ以後端的に因果法則と呼ばれるようになったもの、すなわち「真の」(理念化され数学化された)世界の「アプリオリな形式」を発見し、また理念化された「自然」のあらゆる出来事が精密な法則に従わねばならないとする「精密な法則性の法則」を発見した。これらはすべて、発見であるとともに隠蔽であるのに、われわれはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受けとってきた*3

 

近代の自然科学的世界観によって、その端緒であったはずの具体的な生活世界が隠い隠されることになったとフッサールは主張します。もともと測定術は、生活の必要上から生まれたものであったにもかかわらず、そのことがすっかり忘れ去られてしまい、自然法則によって記述される世界のほうが確実であり、日常の世界は相対的であいまいだと考えられるようになったのです。「「数学と数学的自然科学」という理念の衣〔・・・〕は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をなし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる」*4フッサールは述べています。

 

フッサールは、こうした「理念の衣」にすぎないものを払いのけることで、根源的な生活世界に立ち返り、そこから逆にこうした理念が生じてくる仕組みを明らかにすることをめざします。

 

さて、ここまでのところでは、竹田のフッサール解釈は標準的な解釈にくらべて大きなへだたりはありません。しかしここから、両者のあいだにへだたりが生じはじめます。まずは木田元の解説を見てみることにしましょう。

 

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

 

 

中期のフッサールは、超越論的還元という操作によって純粋意識の領野に立ちもどることをめざしていました。そこでは、自然的態度における世界定立は停止され、それらが意識の構成作用によってわれわれにもたらされるプロセスが、透明な意識のもとで明晰に把握されることになると考えられていました。

 

しかし、いまや還元によって排除されるのは、自然的態度ではなく、客体化された自然主義的世界観だとされることになります。そして還元を経ることでわれわれが立ち返ることになるのも、純粋意識の領野ではなく、自然な日常的経験において生きられる世界、すなわち「生活世界」だと考えられるようになります。

 

木田は、こうした後期フッサールの企図について、次のように解説しています。

 

 ここにきてフッサールの考え方は、大きな転回を示しているように思われる。現象学的還元つまり哲学的反省とは、もはや無世界的な純粋意識、すべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことではなく、われわれの素朴な日常的経験、ふだんは反省されることもない自然的態度を振りかえることにほかならないことになる。つまり、ここでは―メルロ=ポンティの表現をかりれば―「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ちもどることであり」、「真の哲学とは、世界を見ることを学びなおすこと」と考えられているのである*5

 

では、この生活世界のなかで、われわれはどのような対象に出会うことになるのでしょうか。われわれはもはや、志向作用によって対象が構成されるプロセスを純粋意識という透明な意識の領野において明晰に把握することはできません。なぜなら、生活世界における個々の対象は、それだけで経験されるのではなく、それを取り巻くさまざまな事物との関係のなかで規定されているからです。個別的な対象は、かならず一定の「地平」のうちであたえられることになります。この「地平」には、個々の対象と同時にその背景に現われてくる諸対象からなる「外的地平」だけでなく、主題となっている対象のもつ性質や部分的な諸契機など、それについてさらにくわしい経験をわれわれにあたえてくれる「内的地平」も含んでいます。

 

とにかくすべての対象はつねに、無限に開けた外的および内的地平をともなって経験される。そして、この地平は経験においてさしあたっては潜在的に匿名でしか与えられないが、われわれは注意を向けなおすことによってそれをどこまでも顕在化してゆくことができるのである。しかもこの地平は相互に錯綜し、多層的に含蓄し基礎づけ合いながら一つの全体的地平をなすが、これこそが「世界」とよばれるものにほかならない。したがって、すべての対象は世界のなかで経験され、またすべての個別的な経験において世界はともに経験されている*6

 

つまり、世界は個々の対象を定立する能動的な活動に先立って「つねにすでに」あたえられていると考えられるのです。

 

後期のフッサールは、こうした志向性の働きを「受動的綜合」という概念によって説明し、意識の能動的な意味の構成に先立って発動しつつある、受動的な「意味の発生」に注目するようになります。これが「発生的現象学」と呼ばれる試みにほかなりません。

 

ここに見られるように、中期思想で経験的世界の定立を透明な意識のもとに反省的にとらえようとしたフッサールの企図が断念され、生活世界や受動的構成といった問題圏が新たに浮上してきたというのが、標準的な現象学理解として受けれられているといってよいように思います。

 

それでは、竹田はフッサールの中期思想と後期思想の関係を、どのように理解していたのでしょうか。そのことを端的に示しているのが次の引用文です。

 

イデーン』での「素朴な世界像」〔自然的態度において把握されている世界―引用者〕の還元と、『危機』における「生活世界」の〈還元〉の違いは、ただ一点である。『イデーン』では、事象存在の妥当を意識の構造として解明することに主眼があった。『危機』で問題になっているのは、人間の生活上の「実践的関心」という点であり、したがって、人間にとっての事象の意味や価値の“与えられ方”が中心のテーマなのである*7

 

竹田の後期フッサール解釈の中核をなしているのは、「実践的関心」というキーワードです。まずは、竹田がこのことばを登場させる経緯を簡単に見てみることにしましょう。

 

竹田もまた、後期のフッサールが自然学的態度から生活世界への還帰をおこなったと理解しています。彼が引用するのは『危機書』のなかに現われる次の文章です。

 

生活世界の主観的性格と、「客観的で」「真の」世界との対比は、後者が理論的‐論理的構築物であり、原理的にはけっして知覚することができず、また原理的にその固有の自体存在について経験することのできないものの世界であるのに対して、生活世界的に主観的なものは、まさしくすべての点で現実に経験しうるという特徴をもつ、というところにある*8

 

われわれは自然主義的態度にとらわれているため、われわれが体験しうる世界は主観的であいまいであり、これに対して自然科学がえがき出す世界こそが客観的で正確だと思い込んでいますが、これは転倒した見方であり、じつは生活世界のほうが自然科学的世界観を基礎づけていると考えなければなりません。

 

それでは、生活世界はどのようなしかたでわれわれにあたえられているのでしょうか。木田の著書では、フッサールが「受動的綜合」という概念を用いて、生活世界がわれわれにあたえられるしかたを解き明かそうとしていたことが解説されていました。

 

これに対して、竹田のあたえる説明はどのようなものだったのでしょうか。彼は、フッサールの次の文章を引用しています。

 

世界は、目覚めつつつねになんらかの仕方で実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれに、たまたまある時に与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍的領野として、地平として、あらかじめ与えられている。生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界とその世界のうちに生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に体験し、現に遂行しているということである*9

 

木田がこうしたフッサールの思想から取り出したのは、「つねにすでに」遂行しつつある受動的綜合の次元への着目でした。しかし、竹田がこの引用のなかで重要視しているのは「実践的な関心」ということばです。生活世界は、われわれ自身の「実践的関心」におうじて組織されているのです。

 

 いま〈私〉の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミ、タバコ、灰皿、コーヒーカップなどがある。さらに〈私〉はひとつの部屋の中にいて、また部屋の中には本棚やコピー機、ソファー、窓、ドアなどが〈私〉と共に存在している。
 ところでこれらの事物は、“〈私〉にとっては”、けっして単に「たまたまあるときに与えられ」ている事物存在なのではない。原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという〈私〉の“関心”に応じて〈私〉にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているのである。
 もしもペンの調子が悪ければ、〈私〉は新しいペンを机の引き出しから取り出して使おうとするだろう。予備のペンやそれを入れておく机の引き出しは、そのとき、調子よく書くためのペン、それをしまっておくための引き出しというそれぞれの意味と価値を孕んで存在する。〔・・・〕このように、〈私〉のまわりに存在する一切の事物は、〈私〉の生の実践的関心に応じてだけさまざまな意味‐価値の秩序の「地平」をそのつど形成しているのだ*10

 

ここに語られているのは、フッサールの思想の解説というよりも、ハイデガーの「道具的連関」の解説というべきものです。実際に竹田は「フッサールの生活世界の現象学はそのような問題を提示したが、そういう課題をひきついでよく実践したのは、ハイデガー存在論だったと言える」*11と述べており、彼自身の関心がフッサールからハイデガーのほうへと向かっていることは明らかです。

 

このように、竹田のフッサール解釈と、木田に代表される標準的な現象学の解説のあいだには、若干のへだたりがあるように思います。しかもこのへだたりには、単に強調点の違いだといって片づけるわけにはいかない問題が含まれているのです。

 

標準的な現象学の解説では、中期のフッサールがめざしたのは、「主観-客観」図式の根源にある体験流へと立ち返ることであり、超越論的還元という操作をおこなうことで、意識の志向的構成の働きをつぶさに観察することができる純粋意識という透明な領野を確保することができるとされていました。

 

ところが、後期フッサールの思索は、こうしたプランを方向転換する道へと進んでいきます。フッサールは、自然主義的態度を還元することで到達することになる生活世界においては、「つねにすでに」匿名の総合作用が働きつつあることを認めざるをえなかったのです。こうして、いっさいの志向的意識の構成作用を透明な意識のもとで明らかにするという「厳密学」の理念は変容することを余儀なくされたのでした。木田は、後期フッサールの試みの意義を、次のように説明します。

 

フッサールの中期の思索においては、〔・・・〕超越論的意識の志向的構成作業の連関を反省しさえすれば経験的世界の意味連関はことごとく解明されるはずであった。しかし、もはや哲学的反省にそうした権能は認められない。哲学する「われ」が反省によって見出すのは、その哲学的反省そのものがつねに世界に内属する意識の未反省な生活に依存し、それへの反省としてしかありえないということであり、したがって現象学も経験諸科学の事実認定に依存しつつ、しかもその認識には開示されない事実の意味を解読することにこそ、その使命があることになるのである*12

 

ところが、竹田のフッサール解釈においては、「主観-客観」図式の根源としての体験流に立ち返るということは重要な意味をもっていません。すでに見てきたように、彼は「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*13と述べていました。竹田がフッサール現象学のなかに読み取ったのは、もっぱら主観のうちでどのようなばあいに確信がもたらされるのかを見届けることだけだったのです。

 

竹田はこのような立場に立つことで、さらに「わたしたちのこの世界は、決して単に、ものが客観的に存在するという相で現われているわけではない」*14と考えを進めていきます。なぜなら、われわれの主観のうちで確信される意味は、さまざまな価値を帯びているはずだからです。竹田はこうした事情を、『意味とエロス』のなかで次のように説明します。

 

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 私たちのこの世界は、単なる「事象世界」ではなく、すでに〈私〉の〈欲望〉の諸相によって色づけられ(価値を与えられて)存在している。〈還元〉が理解すべきなのは、まさしくこのような、色づけられた事象の世界でなくてはならないのである*15

 

したがって、フッサールの〈還元〉の方法を、その本来的な意図に置き直そうとすれば、わたしたちは、事物の〈ある‐ない〉という存在妥当とともに、〈快‐苦〉、〈美‐醜〉、〈よい‐わるい〉といった事象の価値妥当を、一貫して理解し得るような道すじを見出さなくてはならないはずなのである。*16

 

こうしてわれわれは、フッサールの独自の解釈をもとに、「竹田欲望論」と呼ばれる思想が成立することを見届けてきました。ただし、竹田がこのような立場を構築するに際して大きな影響を与えた哲学者に、ハイデガーがいることを忘れてはなりません。次回は、竹田のハイデガー解釈について見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』114頁

*2:竹田『現象学入門』115頁

*3:E・フッサール著、細谷恒夫、木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫、1995年)95-96頁

*4:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』94頁

*5:木田元現象学』(岩波新書、1970年)56頁

*6:木田『現象学』64頁

*7:竹田『現象学入門』148頁

*8:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』227頁

*9:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』255頁

*10:竹田『現象学入門』145-146頁

*11:竹田『現象学入門』221頁

*12:木田『現象学』69頁

*13:竹田『現象学入門』80頁

*14:竹田青嗣『意味とエロス』(ちくま学芸文庫、1993年)102頁

*15:竹田『意味とエロス』105‐106頁

*16:竹田『意味とエロス』106頁

自己啓発書を読み解く (1)

谷本真由美の『キャリアポルノは人生の無駄だ』は、自己啓発書にハマる人びとが陥っている問題を鋭く指摘した本です。

 

キャリアポルノは人生の無駄だ (朝日新書)

キャリアポルノは人生の無駄だ (朝日新書)

 

 

この本のなかで谷本は、自己啓発書を「キャリアポルノ」ということばで呼んでいます。「キャリアポルノ」とは、フェミニストの批評家であるロザリンド・カワードらによって用いられた「フードポルノ」にならって谷本がつくったことばで、次のように説明されています。

 

 私が自己啓発書を「キャリアポルノ」と定義した理由は、基本的に自己啓発書が「フードポルノ」と同じだというところに理由があります。
 フードポルノは、食べ物を食べたり健康になることが目的ではなく、食べ物を見ることでストレスを解消したり、自分では作ることができないおいしい食べ物、自分では費用を負担することができない高い食べ物、自分では時間もお金もないので体験することができない外国の珍しくておいしい食べ物を食べたり体験することの代償行為です。代わりに見て楽しむだけなのです。そして、それを見たからといって、自分の生活が豊かになるわけでも、おいしいものが食べられるわけでもありません。おいしいものを食べるには、自分で料理方法を研究したり、実際に作ってみたり、おいしいレストランに行ったりしなければなりません。行動が伴わなければ本当に欲しいものは得られないのです*1

 

 フードポルノと同じように、自己啓発書というのは、目に見えない部分での努力や行動、勉強をすっ飛ばして、読むだけで自分の手に届かないもの、例えばかわいい彼女、素敵な家、もっとやりがいのある仕事、高い給料、楽しい友達などを想像し、自分が求めている欲望を満たすだけの「娯楽」にすぎないのです。読むだけ、聞くだけ、見るだけでは、自分の欲しいものは手に入りません*2

 

また、キャリアポルノによってもたらされるのは、一時の「精神的な高揚感」*3でしかなく、それらの本を読んだだけではそのひとの生活や仕事の問題の根本的な解決にはつながらないと述べられています。

 

さて、この本で谷本は、「私の偏見および思い込みによる分類です」*4とことわりつつも、自己啓発書の分類をおこなっています。(1) 説教系、(2) 俺自慢系、(3) 変われる系、(4) やればできる系、(5) 儲かる系、(6) 信じる者は救われる系、(7) エンタメ系、(8) ノマド系です。

 

(1)は、松下幸之助稲盛和夫本田宗一郎といった、人生経験を積んだ高齢の経営者が書いた訓話のようなもの、(2)は『カーネギー自伝』やスティーヴ・ジョブズの伝記などを指します。また、(3)の例としてはナポレオン・ヒルやケリー・マクゴニガルの本、(4)の例としては本田健大前研一、奥野宣之らの本があげられています。自己啓発書のジャンルのなかでも、次々に同じような内容の本が出てもっとも目立っているのがこの分類に属する本ではないかと思います。(5)はロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』のような金儲け本、(6)は「引き寄せの法則」のような疑似科学を含む本、(7)は岩崎夏海の『もしドラ』のような本を指します。

 

そして(8)の「ノマド系」に関しては、次のような説明がなされています。

 

 ノマド自己啓発書とは、2010年ぐらいから出てきた新しい分類の自己啓発書です。「ノマド」とは、オフィスではなくカフェや自宅など好きな場所で自由に働くスタイルを実践する人、という意味と、会社や役所など組織に雇用されず個人事業朱として働く人、という二つの意味があります。景気が悪いために希望の組織に就職できなかったり、就職できても私生活がほとんどないほど厳しい就労環境にうんざりしたサラリーマンが手に取るのがノマド系の自己啓発書です*5

 

例として、本田直之ノマドライフ 好きな場所に住んで自由に働くために、やっておくべきこと』、高城剛『モノを捨てよ 世界へ出よう』、安藤美冬『冒険に出よう』の3冊があげられています。

 

谷本は、こうしたタイプの自己啓発書のスタイルを「自己啓発2.0」*6と呼んでいますが、このような自己啓発書のあたらしいジャンルの存在をはっきりと指摘したことは大きな意味があるように思います。ところが、どうも彼女は、こうしたあたらしい自己啓発書が登場したことの意味を明確にとらえていないのではないか、と思えてしまいます。

 

ノマド系」の自己啓発書は、従来の仕事のスタイルに不満を感じている読者に、別の選択肢の存在を教えるものであり、そこには従来の働き方に対する懐疑が見られます。そして、こうした「ノマド系」の自己啓発書のスタンスは、従来の自己啓発書の教える働き方を批判する谷本自身の立場とかさなっているように見えてしまうのです。

 

そもそも谷本のこの著書自体、あたらしい働き方を読者に教え諭す内容になっていることは、指摘しておかなければならないでしょう。本書に対する批評のなかには、この本自体が自己啓発書と同じスタイルで書かれているのではないか、という指摘が少なくありませんが、わたくし自身も同じような感想をもちました。

 

谷本はこの本のなかでみずからの来歴についてもくわしく語っており、彼女がビジネスの世界における厳しい競争を生き抜いてきたことと、身内の事故がきっかけでそうした働き方に疑いを抱くようになったこと、そして、イタリアやイギリスで生活をしてみることで、それまでの生き方とは異なるライフ・スタイルがありうるということに気づいた経緯が綴られています。

 

日本だったら店員さんがお客さんとなじみの感覚でおしゃべりしていたら、店長や同僚に怒られますし、他のお客さんもよい顔をしません。
 イタリアではそんなことはないのです。明るく楽しく会話をするのが当たり前なのです。日本でも個人経営の店や地方の店ではまだまだこういうノリがありますが、イタリアでは会社の社員食堂や大都会でさえもこういうのんびりとした会話があり、人間らしいサービスがあります。とても自然なのです。ユーモアのセンス、愛、人と人との付きあいがあります。〔・・・〕
 最初はあっけにとられていましたが、言葉がだんだんわかるようになると、ちょっとした会話がとても楽しく、なんて人間らしい環境なんだろうと思うようになりました。
 それまで、日本の職場で「クライアントのために働いているのだから一分一秒も無駄にしてはいけない」と教育されていた自分にとっては、この「大人が朝っぱらからおやつを食べて、やあやあ元気ですか、今日はきれいだね、と挨拶する文化がある」というのは衝撃的でした*7

 

分刻みのスケジュールに縛られ、朝から晩まで仕事のこと以外は何一つ考えずせっせと働きづめに働く非人間的なライフ・スタイルを彼女は批判します。

 

さらに、日本人には「仕事をすること」ないし「働くこと」が「自己実現」だと思い込んでいるひとが多いという問題が指摘されます。

 

 そもそも、「自己実現」は、さまざまな活動により実現されるものであって、「広い意味で創造的であること、そして、人間がそのような想像力を発揮できること、自分というものを表現できるもの」という幅広い概念や活動をとらえたものであったにもかかわらず、日本では親の世代も若い人も「自己実現」が「働くこと」に限定されてしまっている感じがします。
 私はこのような考え方が、現代の日本における「不幸」の原因のひとつであると考えています。なぜなら、マズローや神谷氏が提示したように、「自己実現」とは幅広いものであるはずです。その欲求は個人個人違うものであり、違うからこそ、そこに「個性」というものがうまれるわけです。
 ところが、それを「仕事」に限定してしまうと、仕事という狭い範囲の活動においてしか、自分の個性や活動を肯定することができなくなってしまいます*8

 

そのうえで谷本は、「労働こそが自己実現である」という発想はマルクスの思想のなかに見いだせると主張しています。

 

「労働こそが自己実現である」という社会では、勤勉に働いて、仕事の中で自己実現することで、社会的認知を得て、自分の価値を確認し、心の中の不安を払拭するのです。つまり、働かない人というのは不安から自由になれないのです。
 このような考え方は、共産主義体制が考える「労働」に近いものです。
 マルクスは、労働者が自分の労働が肯定されないことで精神的に疲弊し、自分の求める本質(=自己実現)を達成できないことで、精神が退廃化するとも指摘していますが、これも、労働が人間のありかたを決定するという、労働に偏った見方です〔・・・〕
 つまり、社会主義共産主義が大好きな人々が偏愛するマルクス先生は、労働原理主義の「働き者」なのです*9

 

こうした著者のマルクス解釈には、首をかしげざるをえません。初期マルクスは、近代資本主義社会における疎外された労働を克服することで人間の本質としての労働を実現することをめざしていたといえますが、そこで人間の本質としての労働とされているのは、谷本が批判する「労働こそが自己実現である」という発想とはかさなりません。『ドイツ・イデオロギー』のなかから、次の文章を引いておきましょう。

 

これにひきかえ、共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝に狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする―猟師、漁夫、牧人あるいは批評家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである*10

 

さらに『経済学批判要綱』を経て『資本論』へ至る過程で、マルクスは自然必然性にしたがう労働を人間の自由な活動とする考え方を乗り越えていくことになります。

 

谷本がこうした誤りを犯した理由は明らかで、マルクスの「労働」概念自体を検討することを怠り、それを彼女自身が日常的な意味で用いている「労働」と安易に同一視したことにあるといってよいでしょう。

 

もっとも、谷本は最初からマルクスを正確に理解することなど問題にしていないことは承知しているつもりです。彼女自身の労働に対する考えを紹介するに際して、ちょっと寄り道をしただけのことなのでしょう。したがって、この問題にこれ以上拘泥しても得るところはないといってよいと思います。

 

それに、現実の社会主義国家について伝えられているさまざまな事件や出来事を見ると、こうした理解が生じるのもやむをえないという気がします。たとえば、旧ソ連の詩人でノーベル文学賞を受賞したヨシフ・ブロツキーは、「無為徒食」の罪で裁判にかけられました。裁判のなかで次のようなやりとりがおこなわれたことは、よく知られています。

 

裁判官「あなたの職業は?」
「詩を書いています。詩の翻訳もしています。僕の考えでは……」
裁判官「あなたの考えなど聞いていません。ちゃんと立ちなさい! 壁にもたれないで! まっすぐ前を見て、きちんと答えなさい! 定職はもっていますか?」
「それが定職だと思いますが」
裁判官「正確に答えなさい!」
「僕は詩を書いてきました。その詩が出版されると考えていました。僕の考えでは……」
裁判官「あなたがどう考えようと、そんなことに我々は関心ありません。あなたの専門は?」
「詩人です。翻訳家の詩人です」
裁判官「誰があなたを詩人だと言ったのです? 誰があなたを詩人だと認定したのです?」
「誰も。では、誰が僕を人間だと認めたのですか?」
裁判官「で、あなたは専門の勉強をしたのですか?」
「何の?」
裁判官「詩人になるためのです。あなたはそのための教育を受けようとしましたか……」
「教育によって詩人になれるなんて考えてもみませんでした……」
裁判官「では、どうすればなれます?」
「僕の考えでは、それは神から与えられるものです」

 

ここに現われている問題の深淵をのぞき込むことは人びとに戦慄をもたらさずにはおかないはずなのですが、このやりとりがじっさいになされたときの様子を思い浮かべると、どうしても笑いがこみあげてしまいます。裁判の結果、彼には5年の国内流刑と強制労働がいいわたされることになりました。

 

それはさておき、谷本は「労働こそが自己実現である」という考えを抱いていたマルクスを批判する一方で、マルクスの娘婿であるポール・ラファルグが1883年に刊行した『怠ける権利』に肯定的に言及し、「私個人としては、長年ニートマルクス先生よりも、ラファルグ先生の「三時間労働」の方になんとなく魅力を感じます」*11と述べています。

 

そのラファルグは、次のように声高に「三時間労働」の主張を掲げていました。

 

 一日に12時間の労働、これが18世紀の博愛主義者、モラリストたちの理想であるとは。なんとわれらは最後の一線を踏み越えてしまったことか! 現代の工場は労働大衆を幽閉し、男のみならず女子供にも、12時間から14時間の強制労働を課する理想的な懲役施設になったのである。《恐怖政治》を担った英雄の息子たちが、1848年のあと、生産工場内での労働を12時間に限る法令を、革命の一成果として受諾するまでに、労働の宗教で堕落させられてしまったとは。革命の一原則として、彼らは労働の権利を祭り上げたのである。フランスのプロレタリアートよ、恥を知れ! おもうに奴隷だけが、このような下賤な地位に耐えうるというものだ*12

 

 自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない*13

 

しかし、こうした谷本のラファルグ賛美は、彼女の陥った決定的な問題を浮き彫りにしているといわなければなりません。今度はマルクスの場合とはちがい、彼女のラファルグ解釈に拘泥しても仕方がないといって見すごすわけにはいかないのです。

 

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』のなかで、次のようにラファルグを批判しています。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

 ラファルグは、「資本主義文明」が大嫌いである。だから、労働者階級が労働を賛美することで、それとは気づかずに資本の論理に取り込まれていることが許せない。怠惰の賛美はそこから出てくる。労働をもとめるのではなく、余暇をもとめること。それこそが資本の論理の外に出ることだとラファルグは信じている。
 しかし、実はそれは完全に間違っているのだ。ラファルグの能天気な思い込みは、20世紀に木っ端みじんに砕け散ったと言ってよい。なぜなら、余暇は資本の外部ではないからだ*14

 

國分はアメリカの自動車王ヘンリー・フォードの業績に触れながら、このことを説明していきます。自動車の組み立てラインにはじめてベルト・コンベアを導入した彼は、労働者がみずから歩いたり身体をかがめたりする必要がないように配慮して、機器や部品を配置するということをおこないました。さらに彼は、労働者に高賃金を約束し、十分な余暇をとることができるように配慮しました。このように見てくると、フォードは労働者思いのすばらしい経営者のように思えてきます。しかし國分は次のように指摘します。

 

 だが、こうした思いやり、労働者に対するケアが、すべて生産性の向上という経済原理にもとづいていることを忘れてはならない。フォードは生産性を向上させるために労働者をおもんぱかっているのであって、その逆ではない。したがって、生産性を向上させるためであれば何でもするし、生産性を低下させる要素があればそれを断固として排除するだろう*15

 

さらに、労働者が仕事から解放されて自由に享受することのできる余暇までもが、資本の内部に組み込まれているといいます。

 

 フォードは、自社の労働者たちがフォードの車を買い、自分たちの足として、そして余暇のためにそれを用いることを望んでいた。フォードが労働者たちに十分な賃金と休暇を与えたのは、労働者に抜かりなく働いてもらうだけではない。そうして稼いだお金で労働者たちに自社製品を買ってもらうためでもあった。フォードで働いてもらい、フォードの車を買ってもらう。そしてレジャーを楽しんでもらう。
 十九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転化する術を見出した。20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのだ*16

 

こうした見方に立つとき、労働の中での「自己実現」へとわれわれを駆り立てているものが、われわれを余暇における「自己実現」へと駆り立てているのと同じ資本の力学だということが見えてくるのではないでしょうか。

 

谷本の本のなかで「ノマド系」の自己啓発書として分類されていたのは、従来の組織にとらわれた働き方や、生産至上主義的な価値観から脱却し、より自由なライフ・スタイルを提唱する本でした。それは、従来の自己啓発書に対するアンチ・テーゼを含んでいるとはいえ、そこに描かれているあたらしい働き方、自由なライフ・スタイルに憧れる人びとが、それらの本を読んだだけで何か有益なことをしたつもりになるとすれば、従来の自己啓発書と何も変わらないというべきでしょう。これらの本も、それを消費する人びとに一時の高揚感をもたらすものでしかないという意味では、まさしく「キャリアポルノ」と呼ばれるにふさわしいものでした。「ノマド」という言葉に象徴される新しい働き方や自由なライフ・スタイルによって「自己実現」を図るという考えがわれわれを呪縛し、一時の快感を求めてキャリアポルノを買いつづける読者を生んでいるのだとすれば、何かがおかしいといわざるをえません。

 

くり返しになりますが、谷本がこうした自己啓発書のジャンルの存在をはっきりと指摘したことは、やはり慧眼だったと思います。ところが、これらの自己啓発書にハマる人びとの労働に対する意識を批判していたはずの谷本自身のことばが、まさに彼女が批判していたはずのものに似てきてしまうところに、この問題の本質があります。

 

そしてこうした彼女の身振りが、労働を神聖視する人びとの意識を批判し、余暇を称揚することで資本の外部への脱出を果たしたと思い込んだラファルグの誤りの再演であることは、もはや明らかなのではないでしょうか。

 

われわれは、同じ罠に三度も引っかかってしまうほど愚かではないはずです。自己啓発書を「キャリアポルノ」と呼んで批判する谷本自身の言葉が自己啓発書に似ていると指摘することで、みずからはこうした陥穽から免れていると信じることほど、滑稽なことはないでしょう。

 

「働くこと」について考えるということは、このメカニズムの外部に立って、それを批評することであってはなりません。われわれに課されているのは、このようなメカニズムのなかに身を置きつつ、みずからを巻き込んでいるこのメカニズムに目を凝らすことなのではないでしょうか。

 

次回は、実際にいくつかの自己啓発書を参照しながら、このメカニズムが働く様子を叙述していきたいと思います。

*1:谷本真由美『キャリアポルノは人生の無駄だ』(朝日新書、2013年)52頁

*2:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』53頁

*3:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』57頁

*4:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』30頁

*5:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』42頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*6:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』44頁

*7:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』145-146頁

*8:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』162頁

*9:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』177-178頁

*10:マルクスエンゲルス著、廣松渉編訳『新編輯版ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫、2002年)66-67頁

*11:谷本『キャリアポルノは人生の無駄だ』182頁

*12:ポール・ラファルグ『怠ける権利』田淵晋也訳(平凡社ライブラリー、2008年)21-22頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*13:ラファルグ『怠ける権利』37頁

*14:國分功一郎『暇と退屈の倫理学〔増補新版〕』(太田出版、2015年)122頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*15:國分『暇と退屈の倫理学』125頁

*16:國分『暇と退屈の倫理学』130頁、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。