しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (5)

「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれている思想の構築にもっとも大きな影響のあった哲学者はいうまでもなくフッサールですが、ハイデガーもそれに劣らず重要な哲学者です。竹田は「フッサールが示した認識論上の限界点という現象学のモチーフを、最も深いところで受けとったのは、メルロ=ポンティでもなくサルトルでもなく、マルチン・ハイデガーである」*1と述べており、とりわけ「エロス」や「欲望」といった彼の思想の中心的な概念は、フッサール以上にハイデガーからの影響のもとで作りあげられていったといってもよいと思われます。そこで今回は、前回も参照した『意味とエロス』の他、『ハイデガー入門』を参照しながら、竹田がハイデガーの思想をどのように受けとったのかを見ていきたいと思います。

 

まずは、竹田がフッサールからハイデガーへと考察の対象を移していく経緯をたどっていくことにしましょう。フッサールは還元という操作によって意識現象へと目を向け、そのなかでわれわれが抱くさまざまな確信の根拠となっているものを見いだそうとします。竹田によれば、それはわれわれの意識のうちで了解される〈意味〉にほかなりません。

 

 『イデーン』における「純粋自我」の概念が明らかにしたことは、存在妥当は〈意味志向‐意味充実〉という構造の中で成立するが、それは同時に、意識現象は〈意味〉という認識上のつきあたり(限界点)を持つ、ということだった。だがこのとき、ひとつひとつの事象の〈意味〉がどのように構成されるのかと考えるならば、「純粋意識」の内側からはそのことについて何ひとつ導き出すことができない。ひとつの〈意味〉は、ひとりの人間が具体的に生きて(生活して)いることの意味連関からしか現われ得ないからである*2

 

しかしながら、〈意味〉は単に客観的な事実に関するわれわれの確信を支えているだけではなく、同時にさまざまな実践的価値を含んでいるはずだと竹田は主張します。われわれの眼前に開かれているこの世界は、単なる「事象世界」ではなく、同時に「価値世界」であり「財貨世界」であり「実践世界」でもあるのです。この世界に存在するさまざまな事物は、事象性と同時に、「美しい/醜い」「気に入る/気に入らない」「快適な/不快な」といった価値性をそなえているのです。しかし竹田によれば、フッサールはこうした世界の実践的な価値性にかかわるような側面についての探究を十分に展開してはいません。そして、フッサールに代わってこうした課題を追求したのが、ハイデガーだったのです。

  

竹田は『ハイデガー入門』のなかで、こうした事態を「欲望相関図式」*3と呼ばれる枠組みによって説明しています。この点に関する竹田の議論を簡単にたどってみましょう。

 

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

 

 

竹田によれば、近代哲学の最大のアポリアは「主観‐客観」問題でした。これは、人間の認識能力は、はたして客観的現実を正しくとらえているといえるのかという問題です。この問題に対してカントは、人間の認識能力は「物自体」をとらえることができず、みずからの感性と悟性によって規定された「現象界」しか認識することができないと結論づけました。竹田は次のように説明しています。

 

 カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在」は、それぞれの“身体性”(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望能力の形式)に応じて違ったものになるはずだ。
 人間にとっては、それは「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在」でしかない。トンボには、丸い形だけは認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバにとってそれは、“丸いもの”ですらなく、もっと他の「存在」だろう*4

 

f:id:tsunecue01:20170226180017j:plain

(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

竹田はカントの認識論のポイントを2点にまとめています。一つ目は、「人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であるということ」*5であり、もう一つは「世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されていない)だけだということ」*6です。

 

こうした認識問題における「カント図式」に大きな転換をもたらしたのが、ニーチェでした。竹田は次のようにその意義を説明します。

 

 ニーチェは当然神を認めない。すると、つまり、存在するさまざまな生き物の数だけ多様な経験される「世界」が存在する、ということになる(これは要するにさまざまな「生きられている世界」が存在するだけだ、ということでもある)〔・・・〕
 カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために、「客観世界」を認識できない。これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「背理」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。「客観世界」というものは存在しない。もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在」を受け取っているだけである……*7

 

f:id:tsunecue01:20170226180231j:plain

(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

ニーチェによって発見されたこうした新しい見方が、「欲望相関図式」です。そして、フッサールから受け継いだ現象学的な問題設定を、ニーチェと同じような欲望相関的な観点から新しくとらえなおしたのがハイデガーだったと、竹田は理解しているのです。

 

竹田は、ハイデガーの「気遣い」という概念の意義を、こうした観点から理解しています。『存在と時間』では「気遣い」について次のように述べられていました。

 

現存在の存在が意味しているのは、(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈自分に先だって存在していること〉なのである。このように存在していることによって、気づかいという名称の意義が充たされるのであって、その名称はそのさい純粋に存在論的‐実存論的に使用されている*8

 

竹田によればこの「気遣い」という概念は、フッサールの問題を欲望相関的観点からとらえなおしたものにほかなりません。

 

 〈意識〉の「根本性格」を、すでに見たようにフッサールは、「志向性」として示した〈意識〉は本質的に〈志向体験〉としてのみ捉え得る。この構造は、〈意味志向‐意味充実〉(ノエシスノエマ)という相関構造である。これはまた、〈意識〉の内部でのみ、〈私〉(主観)と〈世界〉(事物)という公が成立することをよく示している。
 ハイデガーは、この〈私〉と〈世界〉の本質的相関を、「気遣い」という概念で言いあてようとする。
〔・・・〕
 「気遣い」とは、さしあたって言えば、人間が「つねにすでに」〈世界〉(対象世界)に対して、さまざまなレベルでの関心、心配、希望、欲求、意志、感情等を向けて生きているというあり方を指している*9

 

欲望相関図式に基づくこうした竹田のハイデガー解釈は、ユクスキュルやシェーラーからハイデガーへの影響を重視する木田元の解釈に基づいているといってよいと思います*10

 

ハイデガーの思想 (岩波新書)

ハイデガーの思想 (岩波新書)

 

 

木田は、ハイデガーにおけるユクスキュルやシェーラーからの影響について、さまざまな著作のなかでくり返し述べています*11が、それらの議論をまとめると、おおむね次のように述べることができます。

 

ユクスキュルの「環世界」論によれば、ダニやミツバチといった動物は、外部からの刺激に因果的・機械的な仕方で反応しているのではなく、それぞれの種にとって有効な刺激の総体からなる固有の環境を生きているとされます。つまり、ダニにはダニの環境があり、ミツバチにはミツバチの環境があると考えられています。生体が種に固有の環境に適応して生きていることを、シェーラーは「環境繋縛性」と呼んでいます。これに対して人間は、そのときどきの具体的な状況から自由であるとシェーラーは考え、こうしたあり方を「世界開放性」と呼びました。そして木田によれば、ハイデガーの「世界内存在」という概念には、シェーラーのこうした考えからの影響が認められるとされています*12

 

竹田は、こうした木田の議論を念頭に置きながら、「欲望相関図式」に基づくみずからのハイデガー解釈を描き出そうと試みています。『意味とエロス』では、言語哲学者である丸山圭三郎の『文化のフェティシズム』の次の文章を参照しています。

 

文化のフェティシズム

文化のフェティシズム

 

 

動物たちにとっても、意味以前の裸のデータともいうべき客体が存在するわけではないのだ。ダニにはダニ固有の、イヌにはイヌ固有の〈意味=現象〉群が存在していて、それらがその種独自の世界を形成しているのであるが、いずれの世界がより客観的でも物理的でもなく、これまた彼らの〈生への関与性〉次第で存在もし、非在化もする。多くの動物は、何らかの音を聞いた際それを一定の視覚対象に帰属させる構成をもっているという、ユクスキュルJ. von Uexkuellが挙げた例を一つだけひこう。トカゲは枯葉の音ならどんなにかすかなものであれひどくびくつくのに、そばでピストルを発射されても全く反応しない。何故なら、そのような音響と結びついているような危険の要素は、トカゲ本来の環境には存在しない、つまりこの物音はトカゲにとって〈意味=現象〉ではなく、彼の刺激閾の向う側にしか存在しないからである*13

 

丸山は市川浩から「身分け」という概念を受け継いでおり、その説明をおこなう際にユクスキュルの「環世界」の考えに触れているのですが、竹田はここから「欲望相関図式」という発想を導こうとしています。たとえば次の文章が、こうした竹田の考えの筋道をよく示しているように思われます。

 

 「身体」として存在すること、それはつまり、世界とその諸対象を常に快苦原理によって区分(分節)している、ということである。「身体」として存在することはまた、「欲望」や「関心」や「配慮」として存在することでもあり、それはつまり、世界とその諸対象の中につねに何らかの目標を見出し、またある可能性の意味連関としてそれらを把握し、秩序づけている、ということだ。すなわち、世界とその諸対象が、たえずそのつどそのつどの「欲望=関心」の相関者として存在していること、このことが、世界やその諸対象がさまざまなレベルでの「意味」を帯びて現われることの“根拠”なのである*14

 

ダニやミツバチが、それぞれの種に固有の身体ないし器官に応じて周囲の環境を分節し秩序づけているように、人間はそのつどの「身体」や「欲望」、「関心」、「配慮」のあり方に応じて、この世界を「意味」づけています。あるいは端的に、「「意味」の受け取りが可能であるのは、人間がつねにすでに「身体・欲望・関心・配慮」として存在しているからだ」*15とも述べられています。

 

竹田はこのように欲望相関的な観点から、ハイデガーの「道具的連関」についての説明を解き明かしていきます。「人間がつねにすでに「配慮的な気遣い」として「存在」していること、言い換えれば、身体・欲望・関心といった原理で存在していること、このことが事物存在を道具性、道具連関、有意義連関という「存在」として現出させる」*16のです。

 

ハイデガーはハンマーを例に道具的連関性の説明をしていますが、竹田はテレビを例にとりあげます。部屋にあるテレビは、客観的な「存在」としては「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」としてとらえられていると彼はいいます。ところが、「配慮的な気遣い」に基づいてテレビを理解するとき、それは映りが悪くて見づらいテレビであったり、部屋の割りに大きすぎてうっとうしい調度だったりします。さらに、夜中に物音で目を覚まし、家の中に泥棒が忍び込んでいるのではないか、と考えているときには、テレビは身を守るための武器としての「存在意味」を露わにします。竹田はこのような例によって説明したうえで、「テレビは、まさしく〈私〉の「配慮的な気遣い」から、言い換えれば、〈私〉の実存的な「いまここ」の地点から見られた「道具存在」だと言えるのである」*17と述べています。ここで竹田は「実存」ということばを用いていますが、彼がハイデガーを評価する最大の理由となったのが、この「実存」の立場を確立したことだといってよいと思います*18

 

ハイデガーの「実存」について、竹田は次のように理解しています。

 

 事物存在は、いつも必ずそれが人間にとって持つ〈意味〉の連関として、つまり「道具連関」としてのみ捉え(規定され)得る。〔・・・〕ところで人間存在は、むろん〈意味〉連関として捉えることも可能だが、むしろ本質的にこの〈意味〉連関を生み出し、秩序づける原因である。この事態をどう言い表わせばいいか。ハイデガーはそれを〈実存〉と呼ぶ*19

 

つまり、みずからの身体や欲望、関心、配慮に基づいてこの世界におけるさまざまな事物を意味づけ秩序づけているわれわれの存在のあり方が、「実存」という言葉で理解されているのです。竹田の「欲望」や「エロス」という言葉には、意味や価値を付与する審級という意味が込められているといえるでしょう。たとえば『意味とエロス』の中には、「〈欲望〉という概念の最も中心の狙いは、それが、個別的な〈意識〉、〈意味〉、〈身体〉の現象学的考察にとどまらず、それらの領域を底で支えている諸価値(審級性)の問題を明らかにする点にある」*20といった説明が見られます。よりくわしい説明として、次の文章を引用しておきます。

 

〈欲望〉とは、簡単に言って、そこにおいてはじめて、さまざまな「存在者」の存在が問題となるような境位である。ものの世界が現存在にとって「道具連関」として現われるのは、人間が、さまざまなレベルで〈欲望〉を持つからだ。この欲望をメルロ=ポンティ流に〈知覚〉と呼ぼうと〈身体〉と呼ぼうと、ハイデガーのように「気遣い」と呼ぼうと同じことである。ただこの分析不可能な中心を〈意識〉と呼べばコギト主義を孕むし、また単に〈身体〉というとフッサールの言う“志向性”のニュアンスが削がれてしまう。それは、「事物』一般が客観的に存在するという、ごく普通の世界像(これはいわば人間の原信憑なのだ)を現象学的に「還元」することによって得られるものであって、逆に言えば、なんらかの固有の〈欲望〉がはじめて「事物」に固有の〈ある〉という規定を与え、さらに、この固有の〈欲望〉にとっての固有の〈ある〉が、客観化され、共同化され、普遍化されることによって、「事物一般の客観的存在」という「世界像」が人間のうちに形成されることになるのである*21

 

このように、竹田の「欲望」の概念は、フッサールの「志向性」と同様、客観的世界という描像の根底に位置づけられています。しかし、それは単にわれわれの客観的世界の理解を可能にしているだけではなく、この世界のなかでわれわれが出会うさまざまな事物が意味や価値を帯びて見いだされることの根拠にもなっているのです。竹田は、「人間の〈欲望〉は〈意味〉への欲望であり、しかもそれは〈快苦〉、〈美醜〉、〈よいわるい〉といった情動性をつきまとわせている」*22と述べています。「欲望」とともに、竹田欲望論の中核となっている「エロス」という概念も、このような意味をもっています。

 

 わたしがエロス性という言葉で示したいのは、〈世界〉が、〈私〉にとって単なる実在やその関係としてではなく、快苦、美醜、倫理性の価値関係として、つまり、つねにすでに色づけられて現われてくるようなそういった〈私〉と〈世界〉の関係上の原理にほかならない。この原理は、人間の「経験」が必ず〈意味〉として現われ出ることの根本的な基礎をなしているとともに、〈実存〉という概念のいちばん重要な土台でもある*23

 

ここまでわれわれは、フッサールの「志向性」からハイデガーの「実存」への展開をたどりながら「竹田欲望論」と呼ばれる立場を確立していく竹田の考察を概観してきました。竹田はフッサール現象学を学ぶことで、この世界についてのさまざまな確信が成り立つ条件について考察しました。さらにハイデガーの「実存」に関する思想から、「快苦」「美醜」「善悪」といった価値によってわれわれを取り巻いている世界が彩られていることを発見しました。こうして彼は、フッサール現象学の窮屈さを脱して、エロス的な価値に色づけられた豊饒な世界を切り開くことになったのです。

 

〈欲望〉という概念は、ロジカルには、フッサールの「超越論的主観」という言葉を言い換えたものにすぎない。この言い換えはふたつの契機を持っている。ひとつはこの言葉が持っている、純粋でアプリオリな自我という、カント的な色彩を脱色するということ。そしてもうひとつは、〈主観〉は、世界と知的に関係しているのではなく、エロス的に関係しているということである。だから、わたしの言う超越論的欲望は、フッサールの超越論的主観を、認識論から実存論にそのまま位相変容したものにほかならない*24

 

彼はまた、「超越論のつきあたりを、単なる〈意識〉ではなく〈欲望〉として捉えるとき、私たちは、ロマン、エロス、美としての世界、という領域を、純粋理性、実践理性という二分法に陥ることなく、一貫して了解するような展望にはじめて踏み込むことができるはずである」*25と述べていますが、この文章の意味も、われわれがこれまでたどってきた竹田の思索の道筋を顧みれば明らかであるように思います。

 

*1:竹田『意味とエロス』77頁

*2:竹田『意味とエロス』97頁

*3:竹田『ハイデガー入門』45頁

*4:竹田青嗣ハイデガー入門』(講談社選書メチエ、1995年)63-64頁

*5:竹田『ハイデガー入門』64頁

*6:竹田『ハイデガー入門』64頁

*7:竹田『ハイデガー入門』64-65頁

*8:ハイデガー存在と時間』第2巻、390頁

*9:竹田『意味とエロス』82頁

*10:とはいえ、竹田はこうした木田の解釈に全面的にしたがっているわけではありません。『ハイデガー入門』には、次のように述べられています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、この「配慮的な気遣い」の観点とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」(あるいはM・シェーラーの「環境繋縛性」)の概念との近親性と影響関係を指摘している。時代的にもその影響関係はあるに違いない。ただ、ユクスキュルの「環境世界」は、動物の身体構造と自然世界との存在相関性を説いたもので、人間の場合、身体性も欲望もいわばそのつど性を持っていて固定的ではない。そういう意味で、ハイデガーの「気遣い」はニーチェフッサール的な観点において理解するのがいっそう適切だと私は思う」(竹田『ハイデガー入門』61頁)。

*11:木田元ハイデガーの思想』(岩波新書、1993年)82頁以降、『ハイデガー』(岩波現代文庫、2001年)52頁以降、『ハイデガー存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)45頁以降など

*12:木田は、1925年から26年にかけておこなわれた講義『論理学―真理への問い」や、1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本問題―世界・有限性・孤独』などに、ユクスキュルやシェーラーからの影響があったことがたしかめられるとしています。

*13:丸山圭三郎著作集』第2巻(岩波書店、2013年)298頁

*14:竹田『ハイデガー入門』174-175頁

*15:竹田『ハイデガー入門』174頁

*16:竹田『ハイデガー入門』71頁

*17:竹田『ハイデガー入門』60頁

*18:ハイデガー本人はみずからの思想を「実存哲学」として理解されるのを拒否していましたが、竹田はこの点について次のように述べています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、ハイデガーが『存在と時間』が当初「実存思想」の」原典のように受け取られたことに拒否感を示し、自分の狙いはあくまで「存在一般の意味の究明」にあったと力説している点を指摘している。たしかにその通りだが、ただハイデガー自身の見解とその思想の影響とは必ずしも一致しないので、『存在と時間』における実存論が圧倒的に実存思想として影響を与えたことは疑えないと思う」(竹田『ハイデガー入門』11頁)。また竹田はこの本の中で、ハイデガーの後期思想を「実存」の立場からの後退だとして、批判的な立場から解釈をおこなっています。

*19:竹田『意味とエロス』78頁

*20:竹田『意味とエロス』85頁

*21:竹田『意味とエロス』200-201頁

*22:竹田『意味とエロス』157-158頁

*23:竹田『意味とエロス』124頁

*24:竹田『意味とエロス』165-166頁

*25:竹田『意味とエロス』167-168頁

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (4)

前回の最後で、竹田がフッサールに対する「先構成的批判」への反論を試みていたことに触れました。「先構成的批判」とは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉なのではなく、それを可能にしている先行条件が存在するはずだというものでした。

 

しかし、標準的なフッサール解釈においては、「先構成的批判」への第一歩を記しづけたのもまた、フッサールそのひとだったとされています。それが、「生活世界の現象学」と呼ばれる、後期のフッサールの思索です。

 

そこで今回は、生活世界の現象学に対する竹田の解釈を見ていきたいと思います。なお、前回と同様、標準的なフッサール解釈との違いについても触れることにします。前回は谷徹の『これが現象学だ』を参照しましたが、今回は現象学入門のロング・セラーともいうべき木田元の『現象学』(岩波新書)を利用することにします。

 

さて、フッサールの後期思想への歩みにおいて重要な意味をもっているのが、「自然的態度」と「自然主義的態度」の区別です。中期においては、現象学的還元によって自然的態度の定立にエポケーが施され、それによってわれわれは超越的世界から現象学的残余としての「純粋意識」の領野に立ち返り、そこで働く意識の構成作用を明らかにすることができると考えられていました。ところがフッサールは『イデーン』第2巻において、還元によって超えられるべきだったのは「自然的態度」ではなく、それとは区別される「自然主義的態度」だったと主張するようになります。こうした見通しに基づいて、自然主義的世界観に対する批判的検討をおこなったのが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でした。竹田の『現象学入門』も、おおむねこうした解釈にしたがっているといってよいと思います。

 

ここから、竹田の議論を追っていくことにします。フッサールは、近代の合理主義的な世界観はガリレイの測定術に端を発すると考えていました。「測定術はもともとは、たとえば、丸の内から新宿まで行くのにどう歩けばいちばん近いかとか、この土地とあの土地とどっちが広いかなどをしらべるための、経験的、実践的な動機を持っている」*1と竹田は言います。このように測定術は、もともと人間の生活上の必要から生まれたものです。

 

 測定すること、それは本来は、人間の生活上の必要から出たものだ。ここにリンゴの樹を何本植えられるかとか、どの土地が羊を飼うのに適しているか、といったことが測定術の根にはあった。だから測定術がはじめに求めたのは、生活上の〈~のために〉という目的にかなうような測定基準を見出すことだった*2

 

ところが、やがて人びとの間に正確な測定という技術上の理念が生じ、この理念化されたものだけをあつかう「幾何学者」が登場するようになると、そこで第一の逆転が生まれることになります。すなわち、理念化された測定の「基準」によって、自然を数学的に正確に測定するという企てがおこなわれるようになるのです。さらに近代自然科学の進展は、数学的に記述できる自然現象を因果系列のもとに整理・統合していくことになります。これによって、たとえば「熱い/冷たい」「柔らかい/固い」「明るい/暗い」「つるつる/ざらざら」といった、ロックのいわゆる第二性質までもが、自然科学的な「基準」によって測定できるという考えが生じます。「熱い/冷たい」という感覚的性質は、熱によって一定の仕方で膨張したり収縮したりするアルコールや水銀などの物質の振る舞いを客観的な「基準」とすることで、正確に測定することができると考えられるようになるのです。それどころか、日常的な感覚的経験は主観的で相対的な世界にすぎず、自然科学的な基準によって測定される客観的な世界のほうが確実だという信憑が人びとのあいだに広まっていきます。

 

よく知られているように、フッサールは始まる自然科学的世界観の礎を築いたガリレイについて、次のように述べています。

 

 物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ〔中略〕は、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもあるのだ。彼は、数学的自然、また方法的理念を発見し、無限の物理学的発見者と発見のために道を切り拓いた。彼は、直観的世界の普遍的因果性(世界の不変の形式としての)に対して、それ以後端的に因果法則と呼ばれるようになったもの、すなわち「真の」(理念化され数学化された)世界の「アプリオリな形式」を発見し、また理念化された「自然」のあらゆる出来事が精密な法則に従わねばならないとする「精密な法則性の法則」を発見した。これらはすべて、発見であるとともに隠蔽であるのに、われわれはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受けとってきた*3

 

近代の自然科学的世界観によって、その端緒であったはずの具体的な生活世界が隠い隠されることになったとフッサールは主張します。もともと測定術は、生活の必要上から生まれたものであったにもかかわらず、そのことがすっかり忘れ去られてしまい、自然法則によって記述される世界のほうが確実であり、日常の世界は相対的であいまいだと考えられるようになったのです。「「数学と数学的自然科学」という理念の衣〔・・・〕は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をなし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる」*4フッサールは述べています。

 

フッサールは、こうした「理念の衣」にすぎないものを払いのけることで、根源的な生活世界に立ち返り、そこから逆にこうした理念が生じてくる仕組みを明らかにすることをめざします。

 

さて、ここまでのところでは、竹田のフッサール解釈は標準的な解釈にくらべて大きなへだたりはありません。しかしここから、両者のあいだにへだたりが生じはじめます。まずは木田元の解説を見てみることにしましょう。

 

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

 

 

中期のフッサールは、超越論的還元という操作によって純粋意識の領野に立ちもどることをめざしていました。そこでは、自然的態度における世界定立は停止され、それらが意識の構成作用によってわれわれにもたらされるプロセスが、透明な意識のもとで明晰に把握されることになると考えられていました。

 

しかし、いまや還元によって排除されるのは、自然的態度ではなく、客体化された自然主義的世界観だとされることになります。そして還元を経ることでわれわれが立ち返ることになるのも、純粋意識の領野ではなく、自然な日常的経験において生きられる世界、すなわち「生活世界」だと考えられるようになります。

 

木田は、こうした後期フッサールの企図について、次のように解説しています。

 

 ここにきてフッサールの考え方は、大きな転回を示しているように思われる。現象学的還元つまり哲学的反省とは、もはや無世界的な純粋意識、すべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことではなく、われわれの素朴な日常的経験、ふだんは反省されることもない自然的態度を振りかえることにほかならないことになる。つまり、ここでは―メルロ=ポンティの表現をかりれば―「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ちもどることであり」、「真の哲学とは、世界を見ることを学びなおすこと」と考えられているのである*5

 

では、この生活世界のなかで、われわれはどのような対象に出会うことになるのでしょうか。われわれはもはや、志向作用によって対象が構成されるプロセスを純粋意識という透明な意識の領野において明晰に把握することはできません。なぜなら、生活世界における個々の対象は、それだけで経験されるのではなく、それを取り巻くさまざまな事物との関係のなかで規定されているからです。個別的な対象は、かならず一定の「地平」のうちであたえられることになります。この「地平」には、個々の対象と同時にその背景に現われてくる諸対象からなる「外的地平」だけでなく、主題となっている対象のもつ性質や部分的な諸契機など、それについてさらにくわしい経験をわれわれにあたえてくれる「内的地平」も含んでいます。

 

とにかくすべての対象はつねに、無限に開けた外的および内的地平をともなって経験される。そして、この地平は経験においてさしあたっては潜在的に匿名でしか与えられないが、われわれは注意を向けなおすことによってそれをどこまでも顕在化してゆくことができるのである。しかもこの地平は相互に錯綜し、多層的に含蓄し基礎づけ合いながら一つの全体的地平をなすが、これこそが「世界」とよばれるものにほかならない。したがって、すべての対象は世界のなかで経験され、またすべての個別的な経験において世界はともに経験されている*6

 

つまり、世界は個々の対象を定立する能動的な活動に先立って「つねにすでに」あたえられていると考えられるのです。

 

後期のフッサールは、こうした志向性の働きを「受動的綜合」という概念によって説明し、意識の能動的な意味の構成に先立って発動しつつある、受動的な「意味の発生」に注目するようになります。これが「発生的現象学」と呼ばれる試みにほかなりません。

 

ここに見られるように、中期思想で経験的世界の定立を透明な意識のもとに反省的にとらえようとしたフッサールの企図が断念され、生活世界や受動的構成といった問題圏が新たに浮上してきたというのが、標準的な現象学理解として受けれられているといってよいように思います。

 

それでは、竹田はフッサールの中期思想と後期思想の関係を、どのように理解していたのでしょうか。そのことを端的に示しているのが次の引用文です。

 

イデーン』での「素朴な世界像」〔自然的態度において把握されている世界―引用者〕の還元と、『危機』における「生活世界」の〈還元〉の違いは、ただ一点である。『イデーン』では、事象存在の妥当を意識の構造として解明することに主眼があった。『危機』で問題になっているのは、人間の生活上の「実践的関心」という点であり、したがって、人間にとっての事象の意味や価値の“与えられ方”が中心のテーマなのである*7

 

竹田の後期フッサール解釈の中核をなしているのは、「実践的関心」というキーワードです。まずは、竹田がこのことばを登場させる経緯を簡単に見てみることにしましょう。

 

竹田もまた、後期のフッサールが自然学的態度から生活世界への還帰をおこなったと理解しています。彼が引用するのは『危機書』のなかに現われる次の文章です。

 

生活世界の主観的性格と、「客観的で」「真の」世界との対比は、後者が理論的‐論理的構築物であり、原理的にはけっして知覚することができず、また原理的にその固有の自体存在について経験することのできないものの世界であるのに対して、生活世界的に主観的なものは、まさしくすべての点で現実に経験しうるという特徴をもつ、というところにある*8

 

われわれは自然主義的態度にとらわれているため、われわれが体験しうる世界は主観的であいまいであり、これに対して自然科学がえがき出す世界こそが客観的で正確だと思い込んでいますが、これは転倒した見方であり、じつは生活世界のほうが自然科学的世界観を基礎づけていると考えなければなりません。

 

それでは、生活世界はどのようなしかたでわれわれにあたえられているのでしょうか。木田の著書では、フッサールが「受動的綜合」という概念を用いて、生活世界がわれわれにあたえられるしかたを解き明かそうとしていたことが解説されていました。

 

これに対して、竹田のあたえる説明はどのようなものだったのでしょうか。彼は、フッサールの次の文章を引用しています。

 

世界は、目覚めつつつねになんらかの仕方で実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれに、たまたまある時に与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍的領野として、地平として、あらかじめ与えられている。生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界とその世界のうちに生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に体験し、現に遂行しているということである*9

 

木田がこうしたフッサールの思想から取り出したのは、「つねにすでに」遂行しつつある受動的綜合の次元への着目でした。しかし、竹田がこの引用のなかで重要視しているのは「実践的な関心」ということばです。生活世界は、われわれ自身の「実践的関心」におうじて組織されているのです。

 

 いま〈私〉の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミ、タバコ、灰皿、コーヒーカップなどがある。さらに〈私〉はひとつの部屋の中にいて、また部屋の中には本棚やコピー機、ソファー、窓、ドアなどが〈私〉と共に存在している。
 ところでこれらの事物は、“〈私〉にとっては”、けっして単に「たまたまあるときに与えられ」ている事物存在なのではない。原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという〈私〉の“関心”に応じて〈私〉にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているのである。
 もしもペンの調子が悪ければ、〈私〉は新しいペンを机の引き出しから取り出して使おうとするだろう。予備のペンやそれを入れておく机の引き出しは、そのとき、調子よく書くためのペン、それをしまっておくための引き出しというそれぞれの意味と価値を孕んで存在する。〔・・・〕このように、〈私〉のまわりに存在する一切の事物は、〈私〉の生の実践的関心に応じてだけさまざまな意味‐価値の秩序の「地平」をそのつど形成しているのだ*10

 

ここに語られているのは、フッサールの思想の解説というよりも、ハイデガーの「道具的連関」の解説というべきものです。実際に竹田は「フッサールの生活世界の現象学はそのような問題を提示したが、そういう課題をひきついでよく実践したのは、ハイデガー存在論だったと言える」*11と述べており、彼自身の関心がフッサールからハイデガーのほうへと向かっていることは明らかです。

 

このように、竹田のフッサール解釈と、木田に代表される標準的な現象学の解説のあいだには、若干のへだたりがあるように思います。しかもこのへだたりには、単に強調点の違いだといって片づけるわけにはいかない問題が含まれているのです。

 

標準的な現象学の解説では、中期のフッサールがめざしたのは、「主観-客観」図式の根源にある体験流へと立ち返ることであり、超越論的還元という操作をおこなうことで、意識の志向的構成の働きをつぶさに観察することができる純粋意識という透明な領野を確保することができるとされていました。

 

ところが、後期フッサールの思索は、こうしたプランを方向転換する道へと進んでいきます。フッサールは、自然主義的態度を還元することで到達することになる生活世界においては、「つねにすでに」匿名の総合作用が働きつつあることを認めざるをえなかったのです。こうして、いっさいの志向的意識の構成作用を透明な意識のもとで明らかにするという「厳密学」の理念は変容することを余儀なくされたのでした。木田は、後期フッサールの試みの意義を、次のように説明します。

 

フッサールの中期の思索においては、〔・・・〕超越論的意識の志向的構成作業の連関を反省しさえすれば経験的世界の意味連関はことごとく解明されるはずであった。しかし、もはや哲学的反省にそうした権能は認められない。哲学する「われ」が反省によって見出すのは、その哲学的反省そのものがつねに世界に内属する意識の未反省な生活に依存し、それへの反省としてしかありえないということであり、したがって現象学も経験諸科学の事実認定に依存しつつ、しかもその認識には開示されない事実の意味を解読することにこそ、その使命があることになるのである*12

 

ところが、竹田のフッサール解釈においては、「主観-客観」図式の根源としての体験流に立ち返るということは重要な意味をもっていません。すでに見てきたように、彼は「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*13と述べていました。竹田がフッサール現象学のなかに読み取ったのは、もっぱら主観のうちでどのようなばあいに確信がもたらされるのかを見届けることだけだったのです。

 

竹田はこのような立場に立つことで、さらに「わたしたちのこの世界は、決して単に、ものが客観的に存在するという相で現われているわけではない」*14と考えを進めていきます。なぜなら、われわれの主観のうちで確信される意味は、さまざまな価値を帯びているはずだからです。竹田はこうした事情を、『意味とエロス』のなかで次のように説明します。

 

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 私たちのこの世界は、単なる「事象世界」ではなく、すでに〈私〉の〈欲望〉の諸相によって色づけられ(価値を与えられて)存在している。〈還元〉が理解すべきなのは、まさしくこのような、色づけられた事象の世界でなくてはならないのである*15

 

したがって、フッサールの〈還元〉の方法を、その本来的な意図に置き直そうとすれば、わたしたちは、事物の〈ある‐ない〉という存在妥当とともに、〈快‐苦〉、〈美‐醜〉、〈よい‐わるい〉といった事象の価値妥当を、一貫して理解し得るような道すじを見出さなくてはならないはずなのである。*16

 

こうしてわれわれは、フッサールの独自の解釈をもとに、「竹田欲望論」と呼ばれる思想が成立することを見届けてきました。ただし、竹田がこのような立場を構築するに際して大きな影響を与えた哲学者に、ハイデガーがいることを忘れてはなりません。次回は、竹田のハイデガー解釈について見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』114頁

*2:竹田『現象学入門』115頁

*3:E・フッサール著、細谷恒夫、木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫、1995年)95-96頁

*4:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』94頁

*5:木田元現象学』(岩波新書、1970年)56頁

*6:木田『現象学』64頁

*7:竹田『現象学入門』148頁

*8:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』227頁

*9:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』255頁

*10:竹田『現象学入門』145-146頁

*11:竹田『現象学入門』221頁

*12:木田『現象学』69頁

*13:竹田『現象学入門』80頁

*14:竹田青嗣『意味とエロス』(ちくま学芸文庫、1993年)102頁

*15:竹田『意味とエロス』105‐106頁

*16:竹田『意味とエロス』106頁