しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

サブカルチャー批評を読み解く (3)

前回につづいて、東浩紀の『動物化するポストモダン』の議論を簡単にたどっていきます。この本の第二章で東は「二つの疑問」を提出していました。今度は(2)の問いをめぐる東の議論を見ていくことにします。

 

前回も引用しましたが、ここでもう一度、東の掲げた問いを引いておきます。

 

(2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか? 近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間性はどうなってしまうのか?*1

 

この問いに対するこたえとして提出されているのが、「データベース消費」とならぶ本書のもう一つの重要概念である「動物化」です。東は「動物化」という概念を、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』から引いています。コジェーヴのこの本は、彼がヘーゲルの『精神現象学』についておこなった講義に基づいていますが、そのなかの一つの注で、戦後アメリカの消費者の姿を「動物」と呼んでいます。

 

ただし東の「動物化」の概念は、コジェーヴの議論に依拠してはいますが、そこにラカンジジェクなどの思想をかさねあわせており、それを解きほぐすのはわたくしの手に余ります。しかたがないので、東がオタクとコギャルの類似性を指摘している議論を手がかりにして、(2)の問いに対する東の考えにアプローチすることにします。「コギャル」とは、1990年代にジャーナリズムを賑わせていたストリート系の少女たちのことを指します。ただし東は、彼女たちについては「ほとんど細かい動向を知らず、考察は一般的な報道に頼らざるをえない」*2と述べており、コギャルについてのくわしい考察をおこなった社会学者の宮台真司の著作に依拠して議論を進めています。

 

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

 

 

東の議論の前提には、現代の日本が「輝かしい未来」を約束してくれるような「大きな物語」を喪失してしまったという時代診断があります。そして宮台も、こうした認識を共有しているように思えます。宮台は著書『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房)のなかで、サブカルチャーのなかに現われた二つの終末観に触れています。「終わらない日常」と「核戦争後の共同性」です。

 

まずサブカルチャーで主流の地位を獲得したのは、「終わらない日常」のほうでした。高橋留美子の『うる星やつら』は、既成の「大きな物語」が有効性をうしなった時代にふさわしく、輝かしい未来もおぞましい破滅もない「終わりなき日常」が延々とくり返される世界を描きました。他方、「核戦争後の共同性」を代表するのは、大友克洋の『AKIRA』と宮崎駿の『風の谷のナウシカ』、そして『美少女戦士セーラームーン』のような、「前世の転生戦士」という設定をもつファンタジー作品です。これらの作品は、もはや有効性を喪失してしまった「大きな物語」を、一種のフェイクとして構築しています。

 

しかし90年代に入って、この二つの終末観の対立は、サブカルチャーから現実へと飛び出すことになります。現実にまで浸透しはじめた「終わりなき日常」にいち早く適応したのが、90年代を席巻した「コギャル」だったと宮台は見ています。

 

 そして90年代。ブルセラや女子高生デートクラブが世をにぎわす。かつて、都市は光と闇のコントラストで定義され、性の売買は闇の世界に属していた。ところがところがブルセラショップもデートクラブも白昼堂々営業し、学校帰りの制服少女たちが誘い合わせて集まってくる。彼女たちはあらゆる場所に学校的作法を持ち込み、都市は白々とした光に包まれたユートピアになった*3

 

先日、元ブルセラの聴講生が「ブルセラ世代の自分らには(終わらない日常は)キツくない」と言ってきた。クラブ(ディスコ風のたまり場)やデートクラブで「待ったりと」脱力して生きる彼ら・彼女らは、「終わらない日常」を生きる術に長けている。〔・・・〕たとえば、彼ら世代の多くは茶髪だが、今年はじめに『朝日新聞』の「声」欄で論議されたような「西欧コンプレックス」など、微塵もない。もちろん、かつてのツッパリの脱色髪ともぜんぜん違う。ブルセラ世代の茶髪は、そうした背伸びやつっぱりではなく、むしろ「脱力」の象徴なのだ。茶髪にするとラクになれる―もう長い間茶髪にしている私自身が言うのだから間違いない*4

 

しかし、こうした「終わらない日常」を生きることが「キツイ」と感じる男の子たちは、どうすればよいのでしょうか。宮台は、「終わらない日常」はユートピアであると同時にディストピアでもある」といいます。そこは、「モテない奴は永久にモテず、さえない奴は永久にさえない」日常が、ただ延々とつづくだけの世界です*5。この「終わらない日常」のなかで追いつめられた男の子たちの脳裡に、「大きな物語」のフェイクにすぎない「ハルマゲドンによる救済」を現実化することで、起死回生の巻き返しを図るという考えが浮かんだとしたら。オウム真理教は、そうした期待に答えてくれるものとして、彼らの前に現われたのでした。

 

宮台は、オウム真理教事件サブカルチャーの影響のせいで「メディアと現実の区別がつかなくなった者たちの犯罪」という図式に回収してしまうことに反対します。サブカルチャー的な想像力によって捏造された「擬似現実」を捨て去ったところで、「大きな物語」によって正統性を付与された「現実」などもはや存在しないからです。むしろわれわれが帰るべき「大きな物語」があるはずだという主張が、「終わらない日常」に耐えられない者たちを「ハルマゲドンによる救済」の物語へと駆り立てていったのではないかと、考えなければなりません。宮台は次のように述べています。

 

 結論を言おう。私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。その知恵を探るために、私は「終わらない日常」に適応したブルセラ世代を調べてきた。その私を「不道徳だ、非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた。あなたのような知恵のない人たちが、「偽者の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ*6

 

さて、東も宮台と同様に、1995年に起こったオウム真理教事件によって、「大きな物語」が凋落した後の空隙を虚構の物語によって埋めようとする試みが無効であることが証明されたと見ています。そして、95年以降のオタク文化においては、「データベース」における「萌え要素」の組みあわせによって無限に生成されるシミュラークルの戯れに身を浸すような消費行動が支配的になったと主張します。このことは、かつて国家や宗教が提供していた「大きな物語」にのっとることで「人間性」を陶冶するという発想が、もはや無効になったということを意味しています。われわれは、「大きな物語」によって指し示される「人間性」の実現に向かっていくことをとっくにやめて、シミュラークルの戯れのなかで、そのつどの「動物的」な欲求を充足しているにすぎません。そして東は、このようなオタクたちの消費行動が、宮台が注目した、「記号化され、匿名化された都市文化のなかで〔・・・〕まったりと生きている90年代のブルセラ少女たち」*7の戦略に近いと主張します。

 

ここまでの議論から、東の「動物化」の概念には、「大きな物語」によって保証されていた「人間性」への志向からの離脱という意味が含まれているといってよいのではないかと思います。東の掲げる第二の問いは、「大きな物語」が凋落したポストモダンにおける人間のありかたに向けられていました。「動物化」というのがそのこたえなのですが、すでにことわっておいたように、わたくしには東の「動物化」の概念の詳細な内実について検討を加えていくことはかないませんので、このあたりで議論を切りあげて次に進みたいと思います。

 

宮台は「終わらない日常」をまったり過ごすコギャルたちの生きかたについて考察していました。それでは東は、データベース消費をおこなうオタクたちの生きかたについて、どのように論じていたのでしょうか。ここで登場するのが「解離的」という概念です。東はこの概念を、「小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただばらばらに共存させていく」ことであり、「分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく」*8ことだと説明しています。

 

「解離的」と呼ばれるオタクの特徴について考察するにあたり、東は美少女ゲームを手がかりにしています。多くのノベルゲームでは、ゲームが進行していくなかでプレイヤーに選択肢が示され、どの選択肢をえらんだかによって、それぞれ異なったシナリオが展開していくマルチストーリーおよびマルチエンディングの構成になっています。ゲームには複数のヒロインが登場しますが、プレイヤーによって選択されたシナリオのなかでは、主人公は一人のヒロインとの「純愛」を経験することになります。こうしたノベルゲームのシステムについて、東は次のように解説します。

 

作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入し、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾だと感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している*9

 

東は、このような二つの水準のあいだに矛盾を感じることなく美少女ゲームを享受するオタクたちのありかたを「解離的」と形容したのです。

 

こうした美少女ゲームのなかでも、東がとくに注目しているのが、剣乃ひろゆきが監修しelfから発売された『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』という作品です。『YU-NO』のストーリーは大きく「現世編」と「異世界編」に分かれていますが、ここでは「現世編」にかんする東の議論を見ていきます。

 

主人公の父親で歴史学者の有馬広大(ありま・こうだい)は、外国での研究中に落石事故に遭って行方不明となり、1か月後に死亡認定がくだります。ところがその後、主人公のもとに、行方不明になった父親からの小包が届きます。父親がまだ生存していることが記された手紙とともに小包のなかに入っていたのは、「リフレクターデバイス」という装置でした。この装置には八つの宝玉を嵌めることのできる仕掛けになっており、その宝玉を使用すると、その時間、その空間に、いつでも舞いもどることができるようになります。

 

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リフレクターデバイス(『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf、1996年)

 

主人公の父親は二人の共同研究者とともに、この世界は無数の「並列世界」によって構成されているという説を主張して、歴史学者のあいだでは異端視されていました。しかしついに彼は、「並列世界」の存在を裏づける装置である「リフレクターデバイス」を手に入れ、それを息子である主人公に託したのです。

 

プレイヤーは通常の美少女ゲームとおなじように、ストーリーが進展していくなかでいくつかの分岐点に遭遇し、プレイヤーが選んだ選択肢におうじて、異なるヒロインとの交流をえがいたシナリオをたどっていくことになります。いうまでもなく、この複数のシナリオこそ、主人公の父親の主張した「並列世界」にほかなりません。シナリオは複雑に分岐しますが、おおまかに分けると、波多乃神奈・朝倉香織ルート、一条美月・武田絵里子ルート、島津澪ルート、有馬亜由美ルートの四つに分かれており、プレイヤーは六人のヒロインたちのいずれかを「攻略」していくことになります。

 

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並列世界画面(『YU-NO』)

 

しかし、『YU-NO』が通常の美少女ゲームと異なるのは、主人公が「リフレクターデバイス」を手にしているということです。彼はこの装置を使うことで「並列世界」のあいだをわたり歩き、アイテムを集めることで、失踪した父親とこの世界の真実に近づいていくことになります。

 

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メタ並列世界画面(『YU-NO』)

 

ここで、東がこの作品に注目した理由が明らかになります。彼によれば美少女ゲームは、特定のヒロインとの交流をえがいたドラマが展開される「表層」と、主人公の複数の運命(分岐)を用意しているシステムの水準である「深層」から成り立っており、「解離的」なオタクたちは、この二つのレヴェルのあいだに矛盾を感じることなく、作品を享受しています。そして『YU-NO』という作品は、プレイヤーのこうした「解離的」な志向それ自体を、作品世界のなかに取り込んでしまっているのです。

 

『痕』や『Air』のようなノベルゲームのプレイヤーは、それぞれのプレイのあいだは、システムが作り出した個々のドラマを素直に受容している。その背後の構造が解析され、シナリオやイラストが吸い出され、さらにそのまわりに情報交換や二次創作のコミュニケーションが張り巡らされるのは、あくまでもプレイの外側においてである。言い換えればそこでは、小さな物語への欲求は作品内で孤独に満たし、大きな非物語への欲望は作品外で社交的に満たす、という明確な分割が成立している。
 ところが『YU-NO』は、そのドラマの外で生じるはずのコンプリートへの欲望すらドラマのうちに組み込み、両方の情熱をともに作品内で満たすことを目指して作られている。ノベルゲームではドラマは見えるが、それを生み出すシステムは見えない。しかし『YU-NO』では、その両者がともに見えるかのような錯覚が作り出されているのだ*10

 

東は、プレイヤーが表層と深層の両者に向けている「解離的」な欲望それ自体を、物語世界の不可欠な要素として組み込んだ『YU-NO』という作品に見られる「メタギャルゲー的な二重性」*11に注目しています。

 

ドラマの消費とシステムの消費のこの二層化は、コンピュータ・ゲームの前提となる条件であり、この作品も決してそれを逃れているわけではない。しかしとはいえ、『YU-NO』が、そのような条件のなかにいながら、同時にその条件の自覚を目指したアクロバティックな試みであり、きわめて重要な作品であることは疑いない*12

 

以上、東の掲げる「二つの疑問」とそれをめぐる考察を、ごくおおまかにではありますがたどってみました。

*1:東『動物化するポストモダン』46頁

*2:東『動物化するポストモダン』132頁

*3:宮台真司『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房、1995年)87頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります。

*4:宮台『終わりなき日常を生きろ』96頁

*5:宮台『終わりなき日常を生きろ』86頁参照

*6:宮台『終わりなき日常を生きろ』113頁

*7:東『動物化するポストモダン』135頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります。

*8:東『動物化するポストモダン』122頁

*9:東『動物化するポストモダン』123-124頁

*10:東『動物化するポストモダン』165頁

*11:東『動物化するポストモダン』162頁

*12:東『動物化するポストモダン』166頁