しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

サブカルチャー批評を読み解く (4)

現在から振り返ってみるとき、東浩紀の『動物化するポストモダン』はその後のサブカルチャー批評の隆盛の礎を築いた記念碑的な著作といえるのではないかと、わたくしは考えています。しかし、その後のサブカルチャー批評のなかで突っ込んで論じられることになった主題のうち、東があえて正面からあつかうことを避けていたと思われるものがあります。サブカルチャーにおける「セクシュアリティ」の問題です。

 

まずは『動物化するポストモダン』における東の文章から、サブカルチャーにおける「セクシュアリティ」の問題について彼がどのようなスタンスをとっていたのかをたしかめておきましょう。

 

動物的な欲求と人間的な欲望が異なるように、性器的な欲求と主体的な「セクシュアリティ」は異なる。そして、成人コミックやギャルゲーを消費する現在のオタクたちの多くは、おそらく、その両者を切り離し、倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっている。彼等は10代の頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、いつのまにか、少女のイラストを見、猫耳を見、メイド服を見ると性器的に興奮するように訓練されてしまっているのだ。しかしそのような興奮は、本質的には神経の問題であり、訓練を積めばだれでも掴めるものでしかない。それに対して、小児性愛や同性愛、特定の服装へのフェティシズムを自らのセクシュアリティとして引き受けるという決断には、またまったく異なった契機が必要とされる。オタクたちの性的自覚は、ほとんどの場合、とてもそのような水準に到達していない*1

 

また別の箇所でも、オタクたちの行動原理はフェティッシュに耽溺する性的な主体ではなく、「もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いように思われる」*2と説明されています。

 

このような東のスタンスは、その後におこなわれた東と斎藤環小谷真理の鼎談「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」のなかで、いっそう明瞭に語られています。

 

東はこの鼎談の目論見について、「ぶっちゃけて言えば、小谷さんが斎藤さんと僕を糾弾し、我々がそれをディフェンスするという展開を期待しているわけです」*3と語っていました。ところが、じっさいに鼎談が進んでいくと、東における「セクシュアリティ」というテーマの不在を斎藤と小谷が「糾弾」するという構図が見られるようになっていきます。とくに小谷は、「私には、どうも東さんは性差の問題とかセクシュアリティの問題に話が行くのを避けようとしているように思うんだけど」*4と、東における「セクシュアリティ」の不在をはっきりと指摘します。

 

斎藤も、サブカルチャーにおける「セクシュアリティ」の問題、端的にいえば「抜き」の問題を避けてはならないという立場から、東を批判しています。

 

斎藤 しかし、岡田斗司夫大塚英志もあえて抑圧してきた「抜き」の問題を、私が身も蓋もなく暴露したという歴史的経緯から逆戻りするべきじゃないと思うんですけど。
東 それで僕の『動物化するポストモダン』は反動的に見えるわけですね(笑)。それはわかりましたが、しかしやはり、現実にギャルゲーで抜いていようが抜いていまいが僕の意見は変わらないな。それは単に身体的快楽の問題であって、セクシュアリティのレベルにまで行かないでしょう。
小谷 でもやっぱり、彼等はこれで抜きましたっていうカミングアウトはしているわけだから。
東 そういうことを言いたい人もいるでしょうから。
小谷 カミングアウトしたというのは、自分のセクシュアリティをこうですと人前で公表しちゃったわけじゃない。
東 しかし、そもそも、絵でオナニーしてもなんでもないでしょ。
斎藤 なんでもなくはないだろう(笑)。
東 なんでもないでしょう。自慰行為と実際の性行為の間には無限の差がある。それに較べれば、写真を見て自慰行為をしようが、絵を見て自慰行為をしようが、大して変わらんですよ*5

 

けっきょくこのやりとりは、東の「そんなことを言っているからラカン派はおかしくなったんですよ(笑)。いずれにせよ、こんなことを話していても仕方がない気がするな」*6という発言で打ち切られることになりますが、その後のサブカルチャー批評において「セクシュアリティ」の問題は主要なテーマの一つとなっていきます。

 

たとえば更科修一郎は、「『雫』の時代、青の時代。」(東浩紀編『美少女ゲームの臨界点』(波状言論、2004年)所収)において、美少女ゲームのシナリオを、家父長制を補完するような「零落したマッチョイズム」にほかならないと指摘しました。またササキバラ・ゴウも『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』(講談社現代新書、2004年)において、サブカルチャーにおける美少女キャラクターの歴史をたどり、そこにひそむセクシュアリティの問題をあぶりだしています。そして、2008年に刊行された宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(早川書房)では、オタク文化にかぎらずサブカルチャー文化の動向を広く渉猟しながら、包括的な観点から東の立場に対する批判が提出されました。これに対して東も、「萌えの手前、不可能性に止まること―『Air』について」(東編『美少女ゲームの臨界点』所収、その後東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)に再録)などを通して応答をおこなっています。

 

そこで次に、サブカルチャー批評における「セクシュアリティ」の問題の中身に多少立ち入ってみることで、東の特異なスタンスをたしかめることにしたいと思います。上にあげた論者のなかでは、提出している問題の包括性という点で宇野の仕事がもっとも重要ではないかと考えますが、宇野の議論の検討はしばらく後回しにして、ここではササキバラの『〈美少女〉の現代史』を手がかりに、サブカルチャー批評がどのような観点から「セクシュアリティ」についての問題を考えてきたのかを見ていくことにしましょう。

 

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

 

 

この本でササキバラは、美少女キャラクターの歴史のはじまりを1979年に設定するとともに、このころに発表された吾妻ひでお宮崎駿高橋留美子の三人の仕事についての考察を展開しています。

 

それ以前の少年マンガに登場するヒロインたちは、「エッチ」な関心の対象にとどまっていました。ササキバラがそうしたヒロインの例にあげているのが、永井豪の作品に登場する少女たちです。『ハレンチ学園』に登場する女の子たちは、スカートをめくられたり服を剥ぎとられたりするような「お色気コード」にしたがうキャラクターにすぎません。『キューティーハニー』は「美少女を主人公にした男の子向け作品としては先駆的なもの」とされていますが、しかしその主人公である如月ハニーは「男のエッチな視線をストレートに反映した身体を持ち、そういう期待に応えるような展開の中で活躍するキャラクターでした」*7ササキバラは述べています。

 

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永井豪キューティーハニー』第1巻(1995年、中公文庫コミック版)10頁

 

美少女キャラクターは、こうした「お色気コード」からの脱却によって誕生します。その一例が、宮崎駿が監督を務めた映画『ルパン三世カリオストロの城』に登場するヒロインのクラリスです。同じく『ルパン三世』に登場する峰不二子が、「お色気コード」に則ったセクシーな外見のキャラクターであるのに対して、クラリスは未成熟な少女の外見をしています。峰不二子に対しては性的な欲望を向けるルパンですが、この映画のなかでの彼は、「お姫様」であるクラリスに愛される「王子様」の役割を演じています。ここでササキバラは、「お姫様」であるクラリスから愛されることによってはじめて、泥棒のルパンが「王子様」の役割を獲得することができることに注目します。つまり「美少女」は、男性の根拠をあたえてくれる存在として登場するのです。

 

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ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督、1979年)

 

このことは、高橋留美子の『うる星やつら』においてもたしかめられています。スケベでお調子者の諸星あたるは、ヒロインのラムとしのぶとのあいだの三角関係のなかに置かれることで、主人公の役割をあたえられ、物語の中心に位置づけられることになります。「あたるの主人公としての「根拠」は女性キャラクターによって支えられている」*8のです。少年は、少女によって「選ばれる」ことではじめて、みずからの実存的な根拠をあたえられることになるということができるでしょう。

 

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高橋留美子うる星やつら』第1巻(少年サンデーコミックス、1980年)133頁

 

このことに関連してササキバラが触れているのは、『機動戦士ガンダム』の原作と総監督を務めた富野由悠季です。富野はこの作品のなかで、戦う根拠をうしなっていく少年を執拗にえがきつづけました。『マジンガーZ』以来のロボットアニメは、少年がロボットを操縦し、敵をやっつけるというパタンを踏襲してきました。しかし、『ガンダム』の主人公のアムロ・レイは、物語が進んでいくなかでしだいに戦闘拒否の姿勢を示すようになり、ついには脱走を図るに至ります。

 

このような富野の問題意識の背景に、東の指摘する「大きな物語の凋落」を見ることができるかもしれません。崇高な価値がうしなわれた時代の少年たちは、もはや「戦い」や「勝利」のドラマのなかにみずからの生きる目的や根拠を見いだすことができなくなったのです。

 

宇宙戦艦ヤマト』は、かつての主人公にとって戦う理由が明白だったことを示しています。しかし冨野由悠季が原作と総監督を務めた『機動戦士ガンダム』の主人公アムロは、戦うことを拒否する姿勢を見せます。また、『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユは、周囲に憎悪の感情をぶつけたあげくに精神の破綻を迎え、『機動戦士Vガンダム』の主人公ウッソは「いかにも子供らしい」キャラクターをあえてつらぬくことで、みずからにあたえられている役割を遂行して見せたのです。ササキバラは、戦う理由をうしなった主人公が行き着くのは、脱走するか、破滅して見せるか、あるいは覚悟をきめて「嘘」のなかで生きるしかないといい、「ガンダム」シリーズではこの三つの道がすべてえがかれたことになります。

 

こうした傾向は、「大きな物語の凋落」がつづくかぎり、加速することはあれ、けっしてとどまることはありません。やがて庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』において、徹底的に戦うことに背を向けつづける主人公をえがくことになるでしょう。

 

こうして、少年たちが自分自身の生きる根拠をうしなったとき、彼に根拠をあたえてくれる存在として登場することになったのが「美少女」キャラクターだったのです。ササキバラはこうした観点から、あだち充の『タッチ』に注目しています。70年代までの野球マンガでは、「甲子園」や「野球」それ自体が、少年たちの戦う理由となっていました。しかし、『タッチ』の主人公の上杉達也が高校球児となって甲子園をめざすのは、ヒロインの浅倉みなみがそれを望んだからです。「「タッチ」のヒロインは、この作品世界の中で最大の価値として君臨し、その恩寵によって主人公は全力で戦うことが可能になるのです」*9ササキバラは論じています。

 

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あだち充『タッチ』第14巻(少年サンデーコミックス1984年)6頁

 

ところで、こうした美少女キャラクターの誕生の背後には、ヒロインに対して「お色気コード」を期待するマッチョイズムに気づき、みずからが「傷つける性」であることを自覚した少年たちの姿がありました。みずからのマッチョイズムに気づいた彼らは、「傷つきやすい存在」としての「美少女」を発見したのです。こうして少年たちは、傷つきやすい女の子たちの細やかな「内面」を理解しようと努めることになります。そしてこのような少年たちの態度のうちに、サブカルチャーにおける「セクシュアリティ」の中核的な問題が見いだされていくことになるのですが、その点に関する検討は次回以降におこないたいと思います。

*1:東『動物化するポストモダン』130-131頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります。

*2:東『動物化するポストモダン』129頁

*3:東編『網状言論F改』131頁

*4:東編『網状言論F改』133頁

*5:東編『網状言論F改』185-186頁

*6:東編『網状言論F改』186頁

*7:ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』(講談社現代新書、2004年)146頁

*8:ササキバラ〈美少女〉の現代史』66頁

*9:ササキバラ〈美少女〉の現代史』91頁