しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (1)

現象学入門』(NHKブックス、1989年)や『ニーチェ入門』(ちくま新書、1994年)など、数多くの哲学の入門書を執筆している竹田青嗣は、難解な哲学の議論をわかりやすいことばに噛み砕いて説明することで多くの読者の支持を得ています。その一方で、彼の現象学の理解は間違っているという指摘や、彼のポストモダン思想に対する批判は的を射ていないという声も少なくありません。そこで、竹田の主張内容をたどり、その議論の妥当性についてしばらく考えていきたいと思います。


竹田がもっとも大きな影響を受けた哲学者は、何と言ってもフッサールだといってよいでしょう。「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれる彼の立場は、フッサール現象学を独自の仕方で読み替えることで構築されています。そのフッサールとの出会いについて、竹田は次のように語っています。

 

 そもそもわたしが現象学に引かれたのは、それまで絶対的に正しいと信じていたある強力な世界理論が自分の中で完全に崩壊するという奇妙な体験があったからだ。この強力な理論とはマルクス主義のことである*1

 

 自分が強く信じていた思想や世界観が誤っていたと感じられたとき、ひとはさまざまな態度をとるだろう。思想的な懐疑主義ニヒリズムに陥ったり、それが誤っていたのはここがおかしかったからだという修正主義もある。またひとつの強力な理論(物語)の代わりに、さらに強力な理論(物語)を見出して、そちらに依拠するという態度もあるだろう。しかしわたしの場合は、そもそも人がさまざまな理論の中からあるひとつの理論を確信し、それに依拠して生きるということの「意味」が何であるのか、ということが最も大きな疑問として生き残った。
 現象学は、このやっかいな問いにひとつのはっきりした解を与えてくれるものとしてわたしにやってきたのである*2


若き日の竹田がマルクス主義に出会う経緯は、『自分を知るための哲学入門』のなかにくわしく書かれています。

 

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 

 

高校から大学に入った頃、わたしはごくフツーの真面目で純朴な青年だったと思う。大学を出て放送局に入り、フツーの立派なサラリーマンになることが夢だった。
〔・・・〕
 ところが、大学に入ってみるとすぐに、むずかしい議論と大義名分のついた“闘争”に巻き込まれてしまった。
 「社会を変革し、人間らしさを取り戻そう」という命題がやってきて、わたしはその天の声にわしづかみにされてしまった。青天の霹靂である。どんなことでも知っている(と思えた)ステキな先輩たちが「大学解体」「造反有理」などと言うのを聞いて、素朴で真面目なフツーの青年だったわたしにその「正しさ」が疑えるわけがなかった*3

 

その後、竹田たちのような若者をとらえた「大学闘争」の情熱はしだいに冷めていきます。さらに1972年の連合赤軍事件にショックを受けた彼は、文学や思想の世界にロマンを求めていくことになりました。しかしやがて、「現実」から乖離した「ロマン」や「理想」を求めつづけて生きることにともなう疲労感が彼を襲ってきます。

 

 わたしは進むことも引くこともできない生活の関係の中で困り果てていた。何とか自分の不安な状態を救いたかったのだが、文学や思想の世界は自分を救うためには全く無力なものだった。キルケゴールが言ったとおり、そのことに思い当ってわたしは“絶望”した。自分の「心の義」の世界が、まったく独我論の世界にすぎないことに、ようやく気づいたのである*4

 

彼がフッサールの『現象学の理念』という本に出会ったのは、そんな日のことでした。そして以後、彼はフッサールの思想に引き込まれていきます。

 

では、フッサールの何が、それほど深く竹田の関心を引いたのでしょうか。この出会いについて、彼は次のように語っています。

 

 たとえば現象学は、人間の世界像の一切を主観の意識内容、意識表象に「還元」する。自分にとって疑えぬ「現実」と思えていたものが、自分の内の観念、表象にすぎないと突然感じられたこの体験は、「還元」という概念の核を容易に受け入れさせたのである。
 現象学は、繰り返し言うように方法的独我論をとる。それは、一見リアルなものとして現われている世界の風景の一切を意識に生じた表象にすぎないものと見なす。あらゆる現実的な確信をドクサ(臆見)と見なすのである。そういう手続きを取った上で、この現実性がどのように成立するかを吟味する。
 わたしが体験したのは、要するに、それまで疑えない現実感を伴って存在していた自分の世界像が徐々にその現実性を削ぎ落され、やがてその一切が自分だけのドクサでないかと思える場所にまで退行するという事態だった。現象学はいわば方法的にこのような「還元」を行なうのだが、わたしの場合、自分のロマン的世界像と現実世界とのせめぎ合いが、自分にそういった「還元」をもたらしたのである*5

 

マルクス主義の世界観への信頼が失われてしまったことで途方に暮れていた竹田に、彼の置かれていた実存的状況をうまく解き明かすためのヒントをもたらしたのが、フッサール現象学だったのです。他方で彼は、1980年代の日本の思想界を席巻したポストモダン思想は、そうした問題にうまく答えていないのではないかという疑問を抱くようになりました。そしてこのことが、竹田のポストモダン思想に対する批判の核心にあるといえるように思います。

 

それでは、近代的な認識論の枠組みを継承するフッサール現象学と、上で見たような竹田の直面していた実存的な悩みという、一見したところまったく性格の異なるように思える2つの問題は、いったいどのようにして結びついているのでしょうか。

 

竹田はそのことを説明するに当たって、フッサールの『現象学の理念』から、次の文章を引用しています。

 

 認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?*6

 

竹田は、ここでフッサールが提出している「主観-客観」問題こそ、「近代哲学の認識論の根本問題」*7にほかならないと述べています。

 

同じ問題を竹田がみずからのことばで説明している箇所も、引用しておきましょう。

 

 いま目の前に、何でもいいが、たとえばコップがあるとする。〈私〉はこのコップを見ている。しかしこれをよく考えると奇妙な問題が生じる。〈私〉がいま見ているコップは、〈私〉の視角を通して自分の中に入ってきたコップの像である。ところでこの〈私〉が見ているコップの像と、このコップそれ自体はまったく同じものと言えるだろうか。この疑問が、哲学上主観-客観の難問と言われるものだ。
 青いメガネをかけてものを見ると赤いリンゴも青く見える。人間の視覚(あるいは認識)も完全なものであるという保証はどこにもない。すると、人間の認識があるがままの現実(=客観)と一致しているという保証もないのである*8

 

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竹田青嗣現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫、1992年)169頁

 

竹田は、近代以降のあらゆる哲学者たちがこの問題に立ち向かっていたと考えます。たとえば、「デカルトの「神の存在証明」は、単にひとびとにどう神への信仰を取り戻させるかということを超えて、この主-客の難問に対する彼なりの解答だったのだ」*9とされます。デカルトは神の存在証明をおこなった後、神が欺瞞者ではありえないのだから、私たちが神から与えられた認識能力にしたがってとらえられるものは、客観的実在だと考えてよいと主張しました*10。竹田は、こうしたデカルトの主張の意義を、次のように理解します。

 

 つまりデカルトにおいては、〈主観〉と〈客観〉のあいだを架橋するのは〈神〉にほかならない。これは逆に言えば、〈神〉のような存在をもち出さなければ、〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確証することは原理的に不可能だということを、彼も認めていたという事を示している*11

 

もちろん竹田は、「この「神の存在証明」を聞いて、なるほどそのとおりだと思うひとは、いまではほとんどいないだろう」*12と述べており、〈主観〉と〈客観〉の一致はデカルト哲学においてもうまく解き明かされていないと考えています。そして、フッサール現象学によってはじめて、この難問は見事に解き明かされることになったと考えられています。

 

ところで、こうした近代哲学の認識論上の難問と、竹田の直面していた実存的な悩みとは、彼の中で次のような仕方で結びついていたのでしょうか。この点についての竹田の説明を見ておきましょう。

 

 この西洋哲学の主-客「一致」問題は、わたしがたどってきたようなロマン的世界の経験と何の関係もないと見えるかも知れない。しかし、自分が内側に抱え込んでいる世界像が、回りの現実から全く孤立した自分だけの観念にすぎないのではないかという感覚は、まさしくこの難問と重なり合っているように思えた。自分の世界像(=自分の認識)は、はたして回りの現実(=客観)に「一致」しているのか。もしこの「一致」が成立していないとすれば、自分の内の世界像とはいったい何であるのか。フッサールの問題設定は、そういうかたちでわたしが抱えていた問題に強く響いたのである*13

 

若き日の竹田は、マルクス主義がこの現実を正しく説明していると信じていました。しかし、やがてそれは誤りであったことが明らかになっていきます。全共闘運動の挫折から連合赤軍事件へとつづいていく歴史のなかで、竹田はそうした事実を受け入れ、文学や思想といった自我のうちのロマン的世界に逃げ込んでいくことになりました。

 

むろん竹田以外にも、このような挫折を経験した若者は数多くいたはずです。しかし、彼が同時代をすごした多くの若者たちと異なっていたのは、みずからが抱えていた問題を、「自分の世界像(=自分の認識)は、はたして回りの現実(=客観)に「一致」しているのか」というかたちで理解していたことです。そしてさらにこの問題は、われわれの主観的な認識が客観的な世界と一致しているのかという、近代哲学の根本問題と重ねあわされていたのです。

 

他方、80年代の日本において流行したポストモダン思想も、マルクス主義の凋落という時代背景を反映していたということができるでしょう。しかし竹田は、ポストモダン思想は近代哲学の根本問題であった「主観-客観」の一致をめぐる謎を解き明かしていないと断じます。竹田によれば、近代哲学の根本問題である「主観-客観」の一致をめぐるアポリアは、フッサール現象学によって完全に解き明かされたのであり、だからこそ彼は、フッサールに出会うことによって、それまで彼を苦しめていた実存的な悩みからの脱出口を見いだすことになったのです。

 

ところで、竹田はフッサール現象学によって「主観-客観」の一致をめぐる近代哲学の根本問題に解決がもたらされたと考えていましたが、そのことは十分に理解されていないと述べています。ふつうフッサール現象学は、われわれの表象の外部に対象が客観的に実在しているはずだという「自然的態度」にエポケーを施し、「超越論的主観性」の領域に立ち返ることだと理解されています。そして現象学独我論であるという批判がくり返しなされてきたと竹田はいいます。しかし竹田によれば、こうした批判は現象学に対する誤解にほかなりません。竹田はこうした誤解に対し、フッサールを弁護して次のように述べています。

 

 現象学は方法的な独我論である。それはフッサールも自認している。しかしそれはちょうど、デカルトが方法的懐疑を行なったのと同じ意味においてである。そのことでいま「デカルト懐疑主義者である」などと言うひとがいたら、てんで判っちゃいないと誰でも言うだろう。現象学独我論だといって非難するひとは、これと同じなのである*14

 

デカルトは、真正の懐疑論者以上に懐疑を徹底し、あらゆるものに疑いを向けていきました。その結果、彼はもはやどうしても疑うことのできない「考える私」の存在を証明し、かえって懐疑論者たちの主張を掘り崩すことに成功しました。竹田は、フッサール独我論に対する関係は、これと同じだというのです。つまり、フッサールは真正の独我論者以上に独我論の立場を徹底して掘り下げていくことによって、独我論がひそかに前提していた底板を掘り抜くことになったのです。竹田はフッサールの戦略をこのように理解しており、これに「方法的独我論」と呼んで、次のように主張します。

 

デカルトの方法的懐疑がわざと懐疑論を徹底したように、フッサールはわざと独我論を徹底するのである。この「わざと独我論を徹底して世界を見る」という方法が、現象学では「還元」と呼ばれる*15

 

次回は、こうした竹田のフッサール解釈についてもう少しくわしく見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田青嗣『意味とエロス―欲望論の現象学』(ちくま学芸文庫、1993年)315頁

*2:竹田『意味とエロス』316頁

*3:竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫、1993年)48-49頁

*4:竹田『自分を知るための哲学入門』56頁

*5:竹田『自分を知るための哲学入門』58-59頁

*6:立松弘孝訳『現象学の理念』(みすず書房、1965年)34-35頁

*7:竹田『自分を知るための哲学入門』64頁

*8:竹田『自分を知るための哲学入門』144頁

*9:竹田『自分を知るための哲学入門』145頁

*10:ただし、このような竹田のデカルト解釈には、若干の勇み足があるように思われます。たしかにデカルトは、神の存在証明を経ることによって、数学的対象のように人間がみずからの知性によって明晰判明に理解できるものが、神によって物質的世界に創造されて存在することが可能だと主張しました。ただし、人間が数学的観念にしたがって明晰判明に理解したものが単に存在可能だというだけでなく、現実に存在すると主張することはできません。それは、永遠真理ですらも自由に創造するというデカルトの神の理解に矛盾することになります(小林道夫デカルト哲学体系―自然学・形而上学・道徳論』(勁草書房、1995年)第6章参照)。「第六省察」において改めて、外的世界の存在証明をおこなう必要があったのはそのためです。

*11:竹田青嗣現象学入門』(NHKブックス、1989年)27頁

*12:竹田『自分を知るための哲学入門』143頁

*13:竹田『自分を知るための哲学入門』65頁

*14:竹田『自分を知るための哲学入門』47頁

*15:竹田『自分を知るための哲学入門』182頁