読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (2)

雑考 IV

今回は、主として『現象学入門』(NHKブックス、1989年)によりつつ、彼の現象学解釈、とくに「現象学的還元」についての解釈を概観していくことにします。

 

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

 

 

竹田は、「ふつうわたしたちが常識的にものを考えるときには、暗黙のうちに〈主観/客観〉図式を前提としている」と言い、「私たちは暗黙のうちに身につけている「ものの見方」を捨て去って、まったく違った視線で事態を見なければならない」*1と主張します。これは端的に言えば、「〈主-客〉図式をとり払うこと」*2にほかなりません。

 

「主観-客観」図式を取り払うという発想は、竹田の独創的解釈ではなく、標準的なフッサール解釈をそのままなぞっているように思えます。しかし竹田の議論を少し詳しく見てみるならば、標準的なフッサール解釈と竹田のそれとでは、かなりの違いがあることが明らかになります。

 

谷徹は、現象学の入門書として定評のある『これが現象学だ』(講談社現代新書、2002年)の中で、フッサールに重要な着想を与えた思想家であるマッハの現象論に言及しています。そこで彼は、マッハの『感覚の分析』にある有名な絵を参照しつつ、「フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた」*3と述べています。ただし、急いで付け加えなければなりませんが、谷がここで「主観的」と呼んでいるのは、「主観-客観」図式の片方の項を意味しているのではありません。彼は、「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」*4と説明しています。

 

f:id:tsunecue01:20170107175552j:plain

Ernst Mach, Die Analyse der Empfindungen, 1992, Jena, Gustav Fischer

 

同様のことを、マッハの『感覚の分析』の翻訳を手がけた廣松渉も述べています。

 

 マッハのいう要素は、普通には感覚と呼ばれているもの―色、香、音、温冷の感覚、圧覚、空間感覚(つまり形や大きさの諸感覚)、時間感覚、等々―にほかならない。それが要素と呼ばれるわけは、それが存在者の構成要素であり、しかも、現在のところもはやそれ以上分解することも他に還元することもできない元素だからである。
 ところで、この要素=感覚は、「頭のなかにある」主観的な心像として理解されてはならない。「要素」は、もしそのような云いかたが許されるならば、頭のそとにある感覚なのである。それは第二次的な所産ではなく、第一次的・根源的な所与であり、それ自身としては主観的でも客観的でもない。いわば中性的な構成要素である*5

 

マッハは、ふだん私たちが当たり前だと考えている「主観-客観」図式から離れ、その前提をなしている「直接経験」の領野に立ち返るべきだと主張しました。フッサール現象学にも、こうしたマッハの思想から影響を受けているとされています。

 

ところが、竹田の「〈主-客〉図式をとり払うこと」*6という言葉は、これとは違う意味で用いられているように思われます。例えば次のような文章に、竹田の考えがよく示されています。

 

 どんな認識も〈主観〉だが、しかし〈主観〉は自分の認識能力の正しさを判定できない。ゆえに認識は決して〈客観〉に達しえない。これが〈主-客〉問題の謎である。
 この問題を考えるとき、論理上はふたつの方法しかない。〈主観〉から出発して〈客観〉が何であるかを説くか、〈客観〉から出発して〈主観〉の何であるかを説くかのどちらかの道である。事実、近代の認識論は必ずどちらかの方法をとってきた*7

 

彼によれば、認識論には主観から出発するか、客観から出発するかという2つの方法しかなく、「主観-客観」図式の前提に立ち返るという方法は考慮されていません。そして彼は、フッサールの立場を次のように解釈します。

 

 フッサールが言うのはこういうことだ。〈主-客〉の「一致」が可能かどうかと問う限り、問題は〈主観〉の認識能力の是非を問うほかない〔中略〕
 というのは、〈客観〉から説明するという限り、〈客観〉が何であるかという規定が必要だが、この問題ではまさしくこの何であるかこそ求めるべきXであるからだ。ゆえにこの問題は〈主観〉から説明するほかにないのだ、と*8

 

もしフッサールの立場がこのようなものであるとするならば、それは独我論ではないかという批判を招くことは避けられないように思われます。しかし竹田は、このような批判は「ナンセンス」だと主張します。

 

 さて、現象学にたいするもうひとつの大きな非難は、それが「独我論」であるというものだ。現象学は人間の〈主観〉から一切を説明するので、それは一見、「世界」などどこにも存在しない、あるのはただ〈私〉に現われた「世界」像だけだ、という「独我論」の言い方にひどく似ている。だからその面だけ見ると、この批判はたしかに当たっているように見えるかも知れない。
 現象学独我論に似ているのは、まず〈私〉の場面から考えようとする点だ。しかし現象学独我論であるという批判は、まったくナンセンスと言うほかないものである。というのは、現象学は、主観-客観の問題を“解決する”ためには、むしろ「独我論の立場を“出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」と主張しているからだ*9

 

フッサールは、独我論の立場から議論を開始することを「戦略的に」選んだのだと、竹田は考えます。彼は、「現象学独我論だという批判は、したがって、寿司屋で刺身を注文した人が刺身にくっついたうろこを見て、「なんだ、これは魚じゃないか」と文句をつけているのに似ていると言えるだろう」*10と述べています。

 

では、「戦略的に」独我論の立場に立ってみることで、フッサールは何を得ることになったのでしょうか。それは、〈主観〉から出発して〈客観〉に達することは不可能であるにもかかわらず、私たちは「真理に到達した」という確信を抱くことがある、ということにほかなりません。竹田は次のように述べています。「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」*11フッサール現象学の最大の意義は、主観と客観の一致から確信成立の条件へと問題を組み替えたことにあるという、竹田のフッサール解釈のもっとも重要な考えが、ここに示されることになりました。

 

ここで、私たちがたどってきた議論を簡単に振り返っておきましょう。竹田によれば、フッサールは「〈主-客〉図式をとり払うこと」を主張したとされていますが、それは「主観-客観」図式の前提となっているより根源的な領野に立ち返ることを意味してはいません。それはただ、「〈主観〉は自分の外に出て〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確かめることができない」*12という帰結を受け入れることだと言ってよいでしょう。そして、それにもかかわらず私たちが主観のうちで「真理に到達した」という確信を抱くということに目を向け、主観の内における確信成立の条件を考察することが新たな課題として立ち現われてくることになります。

 

竹田はフッサールの立場をこのように理解した上で、それに「方法的独我論」という名称を与えていました。その理由は、おそらく次のようなことではないかと思われます。すなわち、従来の独我論は「主観-客観」図式から脱却しているとは言えず、この枠組みの中で、私たちはしょせん主観的な意識の内部に閉じ込められていて客観に至ることができないと主張しているにすぎません。それはいまだ懐疑主義的な立場にとどまっていると言うべきでしょう。「方法的独我論」はこうした懐疑主義的な立場とは異なり、主観の立場から出発して客観に到達することはできないということを承認した上で、主観の内における確信成立の条件という新たな問題圏へと抜け出ることに成功しています。竹田はこのような理解に基づいて、フッサールの立場を「方法的独我論」と呼んだのだと思われます。

 

次に問題となるのは、主観の内における確信成立の条件に関する竹田の議論ですが、それについて立ち入って見ていくのは次回以降に譲ることにして、今回はこれまで見てきた竹田のフッサール解釈について、少しだけ検討を加えて、後論のための布石をおこなっておきたいと思います。

 

まず考えてみたいのは、こうした竹田のフッサール解釈がほんとうに「〈主-客〉図式をとり払うこと」になっているのか、という問題です。すでに引用した文ですが、竹田は「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」と述べていました。しかし、「主観-客観」図式を取り払ってしまったのであれば、「〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件」という言葉は意味をなさないはずです。それとも谷のように、ここでの〈主観〉とは「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」といった意味で理解するべきなのでしょうか。

 

おそらく竹田は、標準的なフッサール解釈とは異なり、「主観-客観」図式が成立する以前の体験流にまで立ち返るという発想は抱いていないと思われます。こうした竹田のフッサール解釈の特徴がはっきりと現われているのが、「現象学的還元」の解釈です。フッサールの「現象学的還元」とは、自然的態度における定立作用を「括弧に入れ」「判断停止」することで「現象学的剰余」としての「純粋意識」を確保することを意味します。このような操作を経ることで、私たちは純粋意識に示された志向的構成作業を分析し、世界定立が形成されていく仕組みを明らかにすることができるようになると考えられています。まずはフッサール自身による「判断停止」の説明を見てみましょう。

 

 眼前に与えられている客観的な世界についてどんな態度決定をすることも、したがってさしあたり(存在、仮象、可能的存在、蓋然的存在、等々といった)存在について態度決定することも、このようにすべて差し控えること(「禁止すること」、「働かせないこと」)―あるいは、よく言われて来たように、客観的世界の「現象学的な判断停止」あるいは「括弧入れ」―は、私たちを無の前に立たせるわけではない。私たちにとって、あるいはもっと正確に言えば、省察する者である私にとって、むしろまさにそのことによって、あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる。判断停止とは、いわば根本的で普遍的な方法であり、これによって私は自分を自我として、しかも自分の純粋な意識の生をもった自我として純粋に捉えることになる*13

 

他方、竹田による「現象学的還元」の解釈は、次のようになっています。

 

 ここで読者に注意を促しておきたいのは『イデーン』などを読むと、〈還元〉という概念はあたかも厳密な学問的方法のように受けとられるのだが、じつは、〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎないということだ。またしたがって、そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で〈世界〉を見直してみることができる。このことを了解することが〈還元〉という概念をつかむ唯一の道なのである*14

 

竹田によれば、還元とは「独我論的に考えをすすめる」ことであり、このことを理解することが「〈還元〉という概念をつかむ唯一の道」だとされています。しかし、そのために必要なことは、単なる「視線の変更」だけなのです。ここには、「主観-客観」図式の前提にまで遡ってこの図式を解体しようという意図はなく、ただ主観と客観の一致を求めることはやめて、もっぱら主観の内の確信について考察することにしようという提案がなされているにすぎません*15

 

さて、ここまで竹田の「方法論的独我論」に関する議論をたどってきましたが、じつは私自身にとって関心があるのは、こうした竹田の解釈がフッサールの理解として妥当なのかどうかということには向かってはいません。むしろ私が考えたいのは、「フッサール現象学」から「竹田現象学」において何が受け継がれたのか、あるいは、「竹田現象学」は何を本質的な問題としているのか、といったことです。

 

なお、標準的なフッサール解釈に基づいて、現象学を基礎づけ主義だとする批判がなされていることはよく知られています。「主観-客観」図式の根源としての体験流にまで立ち返り、そこから「主観-客観」図式という枠組みのもとで把握される世界定立がどのようにして生まれてきたのか、ということを見届けることがめざされていると、言ってよいのではないかと思います。こうした立場に対しては、根源としての「体験流」という概念の内に「主観-客観」図式がひそかに紛れ込んでいるのではないかという厳しい検証にさらされることになります。反基礎づけ主義の立場を標榜するポストモダンの陣営からは、根源としての「体験流」なるものも、じっさいのところ何らかの来歴を持って形成されてきたものだと批判するでしょう。後期フッサールの生活世界への還帰は、彼がこうした問題に踏み込んでいったことの証左だと考えられます。またメルロ=ポンティの次のような言葉も、彼がこうした問題に参入していったことを教えています。

 

徹底的な反省は自分自身が非反省的生活に依存していることを意識しており、この非反省的生活こそ反省の端緒的かつ恒常的かつ終局的な状況である、ということでもある。現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の定式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、それゆえハイデガーの〈世界=内=存在〉も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである*16

 

ところで、竹田のフッサール解釈では、このような問題を考慮する必要がありません。なぜなら、そこでは「主観-客観」図式の根源にまで立ち返るといったことはおこなわれていないからです。私たちは、ただ主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届け、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察をおこなっていけばよいのです。いずれ詳しく検討したいと思っているのですが、ポストモダン陣営からのフッサール批判に対する竹田の反批判は、実存的な意味や価値がこのような仕方で確かめられうる最後の根拠となっているということに依拠しています。

 

ただし、現時点での見通しをあらかじめ手短に述べておくと、こうした現象学解釈に基づく竹田自身の立場には、やはり問題が残されているように思います。竹田の解釈の問題は、経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルの区別が哲学史の中で問題とされるようになった経緯を踏まえないまま、現象学を理解しようとしていることに集約されます。このことは一方で、フッサール現象学における意識の志向性をエロス的原理に拡張し、「竹田欲望論」と呼ばれる豊穣な世界を切り開いていくことを可能にしました。しかし他方で、無視することのできない問題を「竹田現象学」の内に招き入れることになったのではないか、という疑念を抱かざるをえないようにも思うのです。竹田のポストモダン批判に対する私自身の疑問は、主にこうした点に関わっているのですが、それについて論じるためには、もう少し彼のフッサール解釈を見ていく必要があります。

 

竹田がフッサールを参照しながら「〈主-客〉図式をとり払う」べきだと主張するとき、彼は何をめざしていたのでしょうか。ここまでの検討を経て明らかになったのは、いまだ主観でも客観でもない中性的な所与に立ち返るということを竹田はめざしているのではなかったということです。しかし、これだけでは竹田の主張の消極的な規定にとどまっており、彼の現象学解釈の重点がどこに置かれているのかということは、まだはっきりしていません。次回は、この点についてさらに詳しく竹田の議論を検討していきたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』36頁

*2:竹田『現象学入門』42頁

*3:谷『これが現象学だ』47-48頁

*4:谷『これが現象学だ』47頁

*5:廣松渉「マッハの哲学―紹介と解説に代えて」(『廣松渉著作集 第3巻』(岩波書店、1997年)500頁

*6:竹田『現象学入門』42頁

*7:竹田『現象学入門』177頁

*8:竹田『現象学入門』178頁

*9:竹田『現象学入門』13頁

*10:竹田『現象学入門』13頁

*11:竹田『現象学入門』42頁

*12:竹田『現象学入門』42頁

*13:浜渦辰二訳『デカルト省察』(岩波文庫、2001年)48頁

*14:竹田『現象学入門』80頁

*15:竹田の『完全解読フッサール現象学の理念」』(講談社選書メチエ、2012年)や『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』(講談社現代新書、2012年)では、現象学的な「私」と心理学的な「私」を区別する議論がなされています。ただしそこで竹田が述べているのは、心理学的な「私」が客観的な時間の中でのリアルな現実存在であるのに対し、現象学的な「私」はリアルな現実存在であることを意味しないということであって、哲学的認識論における「主観-客観」図式を解体するような議論ではありません。たとえば竹田は次のように述べています。「この〈内在意識〉の領域は、いわゆる心理学的な意味での「心」や「自我」の内側ということではない。心理学では、心や自我の存在自体を自明のものとしており、あくまで「自然的な見方」を前提しているのだ」(『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』、48頁)。ここで語られているのは、コップや太陽が一定の空間を占める物理的な意味で現実存在であるように、心理学における「私」も一定の時間を占める心理学的な意味での現実存在と考えられるということでしょう。しかし、物理学的な対象であれ心理学的対象であれ、自然的態度のもとで把握される対象である以上、それらはともに「主観-客観」図式の「客観」の側に位置づけられるものです。竹田が主張しているのは、そうした「客観」に位置づけられるような心理学的な「私」と、現象学的な「私」は異なっているということであって、やはり、「主観-客観」図式を超えていっそう根源的な領野へと立ち返ろうとする意図は見られません。

*16:モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎、小木貞孝訳『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967年)13頁