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竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (3)

前回は、竹田のフッサール解釈について、とくにその「方法的独我論」という規定について、簡単に見てきました。今回も引き続いて、竹田のフッサール解釈を概観することにします。なおその際、従来の現象学理解はひどい誤解に覆われていると竹田が繰り返し主張していることを鑑みて、竹田のフッサール解釈の独自性はどこにあるのかということについても、多少立ち入って考えたいと思います。


竹田は『現象学入門』の中で、フッサールの『イデーン』における「原的に与える働きをする直観」に関する文章を引用しています。

 

さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである*1


ここでフッサールは、いっさいの認識、判断のいちばん底にあり、その源泉となる「原的に与える働きをする直観」があると主張しています。そして竹田は、「原的に与える働きをする直観」とは「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」*2であり、「知覚直観」と「本質直観」の二つがそれに当たると言います。


なぜ、知覚直観と本質直観は、それを疑うことが無意味だとされるのでしょうか。竹田は次のような例をあげて説明しています。いま目の前に、一つのリンゴがあるとします。私はそれを一瞥して、赤いもの、丸いもの、つやつやしたものという感覚で捉え、「リンゴだ」と考えます。しかし、それが本物のリンゴだということは確かなことなのでしょうか。もしかするとそれは、本物そっくりに作られたロウ細工のリンゴかもしれません。それを手に取り、香りを嗅ぎ、食べてみて、「やはりリンゴだ」と考えたとしても、なお、それが最新科学で作り上げられた本物そっくりの合成のリンゴかもしれないと疑うことは可能です。


しかし、このとき私が「丸い感じ」「つやつやした赤い感じ」を受けたということ、この体験それ自身は、ひょっとしたら「赤く」感じたのではなかったかもしれない、とか、「丸く」感じたのではなかったのかもしれない、といった疑いを抱くことはできません。「知覚直観」とは、「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」のような知覚における内在的な感覚体験のことを意味しています。そして竹田は、このような知覚直観は世界の諸事象に対する人間の確信のいちばん底を支える条件をなしていると言います。


これと同じこととが、「本質直観」についても言われています。竹田はまず、「現象学で言う「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい」*3と簡単な解説を加えた上で、リンゴに関して私たちが抱く「本質」も、けっして心の恣意的な生産物として現われるのではないとしています。たとえば、ひとはリンゴを見て、それをミカンだと確信することはできません。また腐ったリンゴを見て、このリンゴはじつにうまそうで価値があるなどと確信することも不可能です。こうして、私たちの意識にとって自由にならず、どうしても退けることのできないようなものとして現われてくる「知覚直観」と「本質直観」が、「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」だと竹田は論じています。


ここで注意しなければならないのは、竹田の理解するフッサール現象学の場合、「知覚直観」と「本質直観」を疑いえないものだとされるのは、それが「主観-客観」図式の成立する以前の「純粋意識」の領野に見いだされるからではなく、「世界の諸事象に対する人間の自然な信憑(=確信)の、いちばん底を支える条件」*4を意味しているからだ、ということです。おそらくこの点に、竹田がフッサールを評価する最大の理由が存するように思われます。


多くの現象学の解説書では、還元によって「主観-客観」図式の根底にある「純粋意識」の領野に立ち返り、志向的意識による「構成」の働きを明らかにすることが現象学の課題だと説明されます。ここでは、前回も取り上げた谷徹の『これが現象学だ』における「構成」の解説を見てみましょう。

 

これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)

 

 

谷はまず、「私たちはマッハ的光景(表象)の外には出られない」*5と言い、「フッサールはマッハに近い考えを持っていた」*6ことを確認しています。しかし他方でフッサールは、直接経験の領野に見いだされるはずの「志向性」をマッハが見落としていることに批判的だったと述べています。


マッハ的光景の中で、サイコロはパースペクティヴ的に現出しています。「たとえば、五の目の面が正面に見えている。少し右に首を動かすと、三の目の面が見える。さらに右に首を動かすと、(期待したとおり)二の目の面が見えてくる」*7。しかし私たちは、そのつどのサイコロの見え方をバラバラに知覚・経験しているのではなく、一つのサイコロの多様な現出として把握しています。「私たちは、「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験している」*8のです。

 

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谷徹『これが現象学だ』57頁

 

ここで「現出」と呼ばれている、五の目の面や二の目の面などは、『イデーンⅠ』では「射影」と呼ばれており、「こうした現出/射影は(直接経験における)「ノエマ的意味」を含んでいる」*9と谷は解説しています。

 

ここで重要なのは、もろもろのノエマ的意味がバラバラになっていないということである。それらは、ひとつの「基体」に収斂している。だからこそ、それは、ひとつのサイコロ(対象/現出者)の多様な意味(あるいは現出)とみなされるのである。サイコロは、もろもろのノエマ的意味とひとつの基体から成り立っている*10


そしてここから、志向的体験におけるノエシスノエマの相関関係が説明されることになります。まず、もろもろのノエマ的意味が一つの基体に収斂しているという一体的な構造が「ノエマ」と呼ばれます。あるいは、「これは、要するに、諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである」*11とも述べられています。他方ノエシスについては、次のように解説されています。

 

 ひとつのノエマは、もろもろのノエマ的意味が(ひとつの)基体に収斂させられることによって、構成されている。〔中略〕この構成を遂行しているのは、直接経験=志向的体験の働きである。この意識の働き(志向性)は、ノエマと対比されるときには、ノエシスと呼ばれる。ノエシスノエマはいつも必ず一体である。ノエシスのないノエマとか、ノエマのないノエシスなどは、ない*12


私たちは、マッハ的な表象の世界の外に出ることはできません。それにもかかわらず、私たちには、表象の外に実在的な対象が存在すると思い込んでしまう傾向がそなわっています。このような傾向は「自然的態度」に基づくとされますが、現象学ではこうした自然的態度の傾向にストップをかけ、マッハ的光景へと立ち返り、そこで実在的な対象という「存在=超越」がどのように構成されるのかを明らかにしようとします。これが「超越論的現象学」の課題にほかなりません。

 

 しかし、繰り返すが、私たちはマッハ的光景(表象)の外には出られない。存在=超越は、私たちがマッハ的光景(表象)の内部で構成したもの、今も構成しつづけているものである。かくして、「超越論的」とは、こうした「存在=超越」を、その構成にまで引き戻して、学問的に問うときに用いられる言葉である。すなわち、超越を学問的に問うから、超越論的である*13


しかしこのような説明は、ともすれば次のように受け取られかねないところがあるのではないでしょうか。すなわち、超越論的還元によって確保される純粋意識の内容が私たちの認識を構成している「素材」であり、志向的意識における「構成」作用とは、それらを適切な意味を付与することで、自然的態度における「世界定立」を作り上げることを意味している、といった理解です。しかし竹田は、こうした「組み立て工場」*14のような志向性の解釈を、はっきりと退けています。標準的な現象学解釈に対する竹田の批判は、おそらくこの点に向けられているのではないかと思います*15

 

確認しておくと、竹田の理解する現象学とは、主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届けた上で、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察を集中することを意味していました。だから、知覚直観と本質直観について「それを疑うことが無意味である」とされるのも、それが「主観-客観」図式の根源である純粋意識の領野に存するからではなく、主観の内における確信成立の「底板」をなしているからだと理解しなければなりません。このことがよく分かるのは、竹田が提出している次のような例です。

 

 〈私〉は昨日誰かと、「今日の六時、新宿駅西口で」という待ち合わせの約束をしたと思っていたが、ちょっと記憶があいまいなので約束した時の記憶を思い起こしてみる。すると六という数字がはっきり浮かんできたのでまず間違いないと思う〔中略〕。このとき、六時とともに五時とか、七時という言葉が入りまじって浮かんできたら、〈私〉は「六時」に約束したことの確実性を“疑う”だろう。そういう場合、自分の記憶が少し怪しいのでもう一度思い返してみるだろう。すると「六日(今日の日付)の六時に」と同じ六並びで約束したのだったという記憶がはっきり生じ、何度思い直しても、この明瞭さが反復されたとしよう。
 さて、このようなとき、〈私〉はもはや「六時の約束」の確実性を“疑えなく”なる。たとえあえて疑おうと意志しようとしても、〈私〉にはこれを疑う動機がなくなってしまうのである。論理的には、いくら明朗な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対に正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上「疑えなく」なる。たしかに六時だったという確信がいやでもやってくる。だから「明証性」とは、〈私〉がさまざまなものごとを「正しい」とか「ほんとうだ」とか思うことの、絶対的で「必然的な」根拠である。そういうことをフッサールは言っているにすぎない。そしてこういう「明証性」の状態をどのように記述できるかを試みているにすぎない。*16


先に取り上げたリンゴの例を、ここでもう一度考えてみましょう。私たちは、目の前にあるリンゴが、本物のリンゴであるかどうかということを、いくらでも疑うことができます。それは精巧に作られたロウ細工かもしれず、あるいは最先端の科学によって作られたリンゴそっくりの化学食品かもしれません。しかし、「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」といった知覚における内在的な感覚体験は、けっして疑うことができませんでした。そしてこのような知覚直観が、世界の諸事象について私たちが抱いている確信の底板をなしているというのが、竹田の現象学解釈なのです。


私たちが抱く「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」をけっして疑うことができないのは、それが「主観-客観」図式の根源にある「純粋意識」の領野に存するからではありません。そして、「目の前にリンゴが置かれている」といった世界の諸事象についての私たちの確信が成立するのは、私たちの意識が「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」といった知覚直観を「素材」として、そこから世界についての信憑を作り上げるからではありません。竹田は、こうした「組み立て工場」のような「構成」の理解をはっきりと退けています。


リンゴの例について、竹田は次のように述べています。

 

 このリンゴを食べてみてまったく“違い”を見出せなかった。その後身体がおかしいということもない。そういう場合、わたしたちはリンゴの怪しさを疑う動機を失う。このとき「明証性」はいやでもやってくるのである。*17


知覚直観が世界の諸事象に関する私たちの確信の「底板」をなしているということは、このようなことを意味しています。私たちは、じっさいにリンゴを手に取り、味わってみることで、もはやそれが本物のリンゴではないかもしれない、という疑いの動機を失うことになるのです。


もちろん、知覚直観が信憑の底板をなすと言っても、条件が変われば信憑の条件となる知覚も変わります。竹田は次のように説明しています。

 

ひとは、たとえばニセの金貨が流通すれば、「金色に光るものが金だ」というそれまでの判断基準を捨ててそれを歯で噛んで験してみる。本ものの金貨は柔らかいからだ。だがもしもニセ金貨作りが金と同じ固さの合金を作ったとしたら、また新しい確かめの方法が探しだされなくてはならない。〔中略〕
 だがここで肝要なのは、わたしたちはなんらかの基準でものを確かめる場合、原理的に、自分の〈内在的知覚〉を最後の頼りにするということである。
 輝きも硬さも同じようなニセ金貨が現われて手軽な確かめの方法が見つからないとき、ひとは科学の力を使って金の組成を検証する方法をとるかもしれない。しかしこの場合でもひとは、試薬や計器、またそれが表示する数値のまちがいなさを、自分の目で確かめたときはじめてこれは金だと納得(同定)する。論理的にはこの同定は、最終的な確証ではない。しかし何ぴとといえども、その方法が最上のものと認められているときには、もはやこの金貨をそれ以上疑い続ける動機を持ちつづけることができないのである。*18


現象学は確信成立の条件についての学問であるという竹田の解釈の大筋が、そろそろはっきりしてきたのではないでしょうか。


現象学が解明しなければならない問題は、「主観-客観」図式を超えた純粋意識の領野に立ち返り、そこに見いだされる体験流を「素材」として、どのように世界定立が「組み立て」られてきたのかを見届けることではありません。


竹田は、「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*19と主張していました。しかし、当然のことながら竹田は、単に独我論の立場に立って、客観的認識は不可能性だと開きなおるべきだと主張しているわけではありません。現象学的還元が「発想の転換」や「視線の変更」と呼ばれているのは、ここで主観と客観の一致をどのようにして確かめることができるか、という従来の認識論の問題を考えるのではなく、「いかに「超越」(いわゆる客観的な対象)が、われわれの〈内在意識〉のうちで“妥当な認識”として成立するのか」*20という問題を考察の対象とすることを意味しているのです。このことは、『超解読! はじめてのフッサール現象学の理念』』(講談社現代新書)の中で、より詳しく説明されています。

 

 

私の考えでは、そもそも認識を「主観」と「客観」の関係としてみなす考え自体に誤りがあるのだ。
 この問題を解明するには、「主観-客観」という概念を棄て、その代わりに、「内在-超越」という概念でこれを考えるべきである。〔中略〕
 「超越」には、本質的に「可疑性」がつきまとっている。これに対して、「内在」は、意識に“直接与えられている所与”だから、決して疑わしさがない。「主観-客観」の概念の代わりに、われわれは問題を、「内在」と「超越」という概念で考えよう。このことで、認識問題の「謎」はよく解明されるはずである。*21


さらに竹田は、「内在」と「超越」の関係について、次のように解説しています。

 

「これはこれこれのリンゴだ」という対象意識は、それが「内在」に与えられている、という点では、やはり“疑えない”。しかしそれを、「ここにリンゴが存在する」という実在についての信憑としてみると、それは「超越」的な認識となる。*22


竹田は、「これはこれこれのリンゴだ」といった対象意識が「内在」において捉えられるとき、それは「対象意識」ではなく「対象についての確信の意識」と理解するべきだと述べています。現象学の立場に立つとき、自然的態度において「超越」すなわち客観的存在だとみなされていたものは、じつは「内在」において構成された「対象の確信像」にほかならないということが明瞭になると言うのです。その上で、「内在における「世界の構成」のありようを観取するとは、われわれが「内在」でいかにさまざまな「対象の確信像」を構成しているかを解明すること、すなわち、「確信成立の条件」を解明すること」*23であり、これこそが現象学の課題にほかならないと主張します。


こうして、現象学が取り組むべき問題は、次のように整理されることになります。

 

現象学的な「認識の妥当性」の根拠づけとは、「認識」が客観認識=真理であることの根拠づけではまったくない。ある「認識」が妥当な認識、つまり「普遍的な認識」と呼べることの条件の解明、ということなのである。*24


フッサールがめざしたのは、実在についての信憑に「エポケー」(判断停止)を施すことで「主観-客観」図式の根源にある体験流の領野に至り、そこにあらゆる認識の源泉を見いだすことではありません。従来のフッサール解釈ではこのことが正しく理解されていないために、さまざまな批判を招くことになったと竹田は言います。その中でも彼がとくに詳しく検討し反論を試みているのが、「先構成的批判」と呼ばれる批判です。これは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉であるとフッサールは考えていたが、じつはそれを可能にしている先行条件が存在するのではないか、という考えに基づいています。

 

 われわれの「意識」が、「身体」や「情動」といった下位の層から支えられていることは誰もが感じていることであり、ある意味で自明である。そこで、一般的な表象としては、誰も、「意識」を支えそれを“可能にしているもの”としての「先構成的」諸相、つまり「身体」「情動」「言葉」「無意識」「関係」「制度」などを指摘することができる。このような根拠関係の表象から、〈内在意識〉こそ絶対的な根源であるという主張に対して、否、「身体」「情動」「無意識」「時間」「言葉」こそ、「意識」を“可能”にするののであり、したがって、「身体」「情動」「無意識」「言葉」といった根源性を、「意識」が絶対的に内省し把握することはできない、と主張することはむしろ容易である。*25


竹田は、フィンクやラントグレーベといったフッサールの高弟、さらに新田義弘や谷徹といったわが国の代表的な現象学研究者もまた、こうしたフッサール批判を正当なものとして受け入れていることを指摘し、彼らに対して厳しい批判を述べています。


さて、こうした竹田のフッサール解釈や、従来の解釈に対する批判については、なお慎重に検討するべき事柄が残っているように思われます。しかしそれらの検討にはなお準備が不足しているので、今は竹田によって理解されたフッサールの思想を概観したところで、ひとまず満足したいと思います。次は、彼がこうしたフッサール解釈に依拠しながら「竹田欲望論」と呼ばれる彼自身の独創的な思想をどのように展開していったのかを見ていくことにします。

 

*1:渡辺二郎訳『イデーン I-1』(みすず書房、1979年)117頁

*2:竹田『現象学入門』50頁

*3:竹田『現象学入門』59頁

*4:竹田『現象学入門』214頁

*5:谷『これが現象学だ』51頁

*6:谷『これが現象学だ』55頁

*7:谷『これが現象学だ』132-133頁

*8:谷『これが現象学だ』56頁

*9:谷『これが現象学だ』133頁

*10:谷『これが現象学だ』133頁

*11:谷『これが現象学だ』132頁

*12:谷『これが現象学だ』135頁

*13:谷『これが現象学だ』51頁

*14:竹田『現象学入門』106頁

*15:谷は「構成」という言葉について、「この言葉は、対象が私たちの側からの働きかけから独立に存在すると認めることを拒絶するものであり、逆に、対象は(その存在=超越すらも)、私たちのなんらかの働きかけによってこそ成立するということを意味している」(谷『これが現象学だ』51頁)と述べて、注意を促しています。また、「この言葉は、日常的に理解すると、誤解を招きやすい」と述べていますが、それは「日常語の構成は作ることを意味するから、構成とは、ペガサスのような実在しない空想対象を作ることだけを意味すると考えやすいからである」(谷『これが現象学だ』51-52頁)として、現象学では、富士山のような実在するとみなされる対象もまた、志向的意識によって構成されたものだとみなされると説明しています。

*16:竹田『現象学入門』157頁

*17:竹田『現象学入門』164頁

*18:竹田『現象学入門』97頁

*19:竹田『現象学入門』80頁

*20:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念』』39頁

*21:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』36頁

*22:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』46頁

*23:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』113頁

*24:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』158頁

*25:竹田『完全解読フッサール現象学の理念」』234頁