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竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (4)

雑考 IV

前回の最後で、竹田がフッサールに対する「先構成的批判」への反論を試みていたことに触れました。「先構成的批判」とは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉なのではなく、それを可能にしている先行条件が存在するはずだというものでした。

 

しかし、標準的なフッサール解釈においては、「先構成的批判」への第一歩を記しづけたのもまた、フッサールその人だったとされています。それが、「生活世界の現象学」と呼ばれる、後期のフッサールの思索です。

 

そこで今回は、生活世界の現象学に対する竹田の解釈を見ていきたいと思います。なお、前回と同様、標準的なフッサール解釈との違いについても触れることにします。前回は谷徹の『これが現象学だ』を参照しましたが、今回は現象学入門のロング・セラーとも言うべき木田元の『現象学』(岩波新書)を利用することにします。

 

さて、フッサールの後期思想への歩みにおいて重要な意味を持っているのが、「自然的態度」と「自然主義的態度」の区別です。中期においては、現象学的還元によって自然的態度の定立にエポケーが施され、それによって私たちは超越的世界から現象学的残余としての「純粋意識」の領野に立ち返り、そこで働く意識の構成作用を明らかにすることができると考えられていました。ところがフッサールは『イデーン』第2巻において、還元によって超えられるべきだったのは「自然的態度」ではなく、それとは区別される「自然主義的態度」だったと主張するようになります。こうした見通しに基づいて、自然主義的世界観に対する批判的検討をおこなったのが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でした。竹田の『現象学入門』も、おおむねこうした解釈に従っていると言ってよいと思います。

 

ここから、竹田の議論を追っていくことにします。フッサールは、近代の合理主義的な世界観はガリレイの測定術に端を発すると考えていました。「測定術はもともとは、たとえば、丸の内から新宿まで行くのにどう歩けばいちばん近いかとか、この土地とあの土地とどっちが広いかなどをしらべるための、経験的、実践的な動機を持っている」*1と竹田は言います。このように測定術は、もともと人間の生活上の必要から生まれたものです。

 

 測定すること、それは本来は、人間の生活上の必要から出たものだ。ここにリンゴの樹を何本植えられるかとか、どの土地が羊を飼うのに適しているか、といったことが測定術の根にはあった。だから測定術がはじめに求めたのは、生活上の〈~のために〉という目的にかなうような測定基準を見出すことだった*2

 

ところが、やがて人びとの間に正確な測定という技術上の理念が生じ、この理念化されたものだけを扱う「幾何学者」が登場するようになると、そこで第一の逆転が生まれることになります。すなわち、理念化された測定の「基準」によって、自然を数学的に正確に測定するという企てがおこなわれるようになるのです。さらに近代自然科学の進展は、数学的に記述できる自然現象を因果系列のもとに整理・統合していくことになります。これによって、たとえば「熱い/冷たい」「柔らかい/固い」「明るい/暗い」「つるつる/ざらざら」といった、ロックのいわゆる第二性質までもが、自然科学的な「基準」によって測定できるという考え方が生まれます。「熱い/冷たい」という感覚的性質は、熱によって一定の仕方で膨張したり収縮したりするアルコールや水銀などの物質の振る舞いを客観的な「基準」とすることで、正確に測定することができると考えられるようになるのです。それどころか、日常的な感覚的経験は主観的で相対的な世界にすぎず、自然科学的な基準によって測定される客観的な世界の方が確実だという信憑が人びとの間に広まっていきます。

 

よく知られているように、フッサールは始まる自然科学的世界観の礎を築いたガリレイについて、次のように述べています。

 

 物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ〔中略〕は、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもあるのだ。彼は、数学的自然、また方法的理念を発見し、無限の物理学的発見者と発見のために道を切り拓いた。彼は、直観的世界の普遍的因果性(世界の不変の形式としての)に対して、それ以後端的に因果法則と呼ばれるようになったもの、すなわち「真の」(理念化され数学化された)世界の「アプリオリな形式」を発見し、また理念化された「自然」のあらゆる出来事が精密な法則に従わねばならないとする「精密な法則性の法則」を発見した。これらはすべて、発見であるとともに隠蔽であるのに、われわれはこれらを、今日まで掛け値のない真理として受けとってきた*3

 

近代の自然科学的世界観によって、その端緒であったはずの具体的な生活世界が隠い隠されることになったとフッサールは主張します。もともと測定術は、生活の必要上から生まれたものであったにも関わらず、そのことがすっかり忘れ去られてしまい、自然法則によって記述される世界の方が確実であり、日常の世界は相対的であいまいだと考えられるようになったのです。「「数学と数学的自然科学」という理念の衣〔中略〕は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をなし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる」*4フッサールは述べています。

 

フッサールは、こうした「理念の衣」にすぎないものを払いのけることで、根源的な生活世界に立ち返り、そこから逆にこうした理念が生じてくる仕組みを明らかにすることをめざします。

 

さて、ここまでのところでは、竹田のフッサール解釈は標準的な解釈に比べて大きな隔たりはありません。しかしここから、両者の間に隔たりが生じ始めます。まずは木田元の解説を見てみることにしましょう。

 

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

 

 

中期のフッサールは、超越論的還元という操作によって純粋意識の領野に立ち戻ることをめざしていました。そこでは、自然的態度における世界定立は停止され、それらが意識の構成作用によって私たちにもたらされるプロセスが、透明な意識のもとで明晰に把握されることになると考えられていました。

 

しかし、いまや還元によって排除されるのは、自然的態度ではなく、客体化された自然主義的世界観だとされることになります。そして還元を経ることで私たちが立ち返ることになるのも、純粋意識の領野ではなく、自然な日常的経験において生きられる世界、すなわち「生活世界」だと考えられるようになります。

 

木田は、こうした後期フッサールの企図について、次のように解説しています。

 

 ここにきてフッサールの考え方は、大きな転回を示しているように思われる。現象学的還元つまり哲学的反省とは、もはや無世界的な純粋意識、すべての意味を根源的に産出する超越論的主観性の立場に身を置くことではなく、われわれの素朴な日常的経験、ふだんは反省されることもない自然的態度を振りかえることにほかならないことになる。つまり、ここでは―メルロ=ポンティの表現をかりれば―「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ちもどることであり」、「真の哲学とは、世界を見ることを学びなおすこと」と考えられているのである。*5

 

では、この生活世界の中で、私たちはどのような対象に出会うことになるのでしょうか。私たちはもはや、志向作用によって対象が構成されるプロセスを純粋意識という透明な意識の領野において明晰に把握することはできません。なぜなら、生活世界における個々の対象は、それだけで経験されるのではなく、それを取り巻くさまざまな事物との関係の中で規定されているからです。個別的な対象は、必ずある「地平」の中で与えられることになります。この「地平」には、個々の対象と同時にその背景に現われてくる諸対象から成る「外的地平」だけでなく、主題となっている対象の持つ性質や部分的な諸契機など、それについてさらに詳しい経験を私たちに与えてくれる「内的地平」も含んでいます。

 

とにかくすべての対象はつねに、無限に開けた外的および内的地平をともなって経験される。そして、この地平は経験においてさしあたっては潜在的に匿名でしか与えられないが、われわれは注意を向けなおすことによってそれをどこまでも顕在化してゆくことができるのである。しかもこの地平は相互に錯綜し、多層的に含蓄し基礎づけ合いながら一つの全体的地平をなすが、これこそが「世界」とよばれるものにほかならない。したがって、すべての対象は世界のなかで経験され、またすべての個別的な経験において世界はともに経験されている。*6

 

つまり、世界は個々の対象を定立する能動的な活動に先立って「つねにすでに」与えられていると考えられるのです。

 

後期のフッサールは、こうした志向性の働きを「受動的綜合」という概念によって説明し、意識の能動的な意味の構成に先立って発動しつつある、受動的な「意味の発生」に注目するようになります。これが「発生的現象学」と呼ばれる試みにほかなりません。

 

ここに見られるように、中期思想で経験的世界の定立を透明な意識のもとに反省的に捉えようとしたフッサールの企図が断念され、生活世界や受動的構成といった問題圏が新たに浮上してきたというのが、標準的な現象学理解として受けれられていると言ってよいように思います。

 

それでは、竹田はフッサールの中期思想と後期思想の関係を、どのように理解していたのでしょうか。そのことを端的に示しているのが次の引用文です。

 

イデーン』での「素朴な世界像」〔自然的態度において把握されている世界―引用者〕の還元と、『危機』における「生活世界」の〈還元〉の違いは、ただ一点である。『イデーン』では、事象存在の妥当を意識の構造として解明することに主眼があった。『危機』で問題になっているのは、人間の生活上の「実践的関心」という点であり、したがって、人間にとっての事象の意味や価値の“与えられ方”が中心のテーマなのである。*7

 

竹田の後期フッサール解釈の中核をなしているのは、「実践的関心」というキーワードです。まずは、竹田がこの言葉を登場させる経緯を簡単に見てみることにしましょう。

 

竹田もまた、後期のフッサールが自然学的態度から生活世界への還帰をおこなったと理解しています。彼が引用するのは『危機書』の中に現われる次の文章です。

 

生活世界の主観的性格と、「客観的で」「真の」世界との対比は、後者が理論的‐論理的構築物であり、原理的にはけっして知覚することができず、また原理的にその固有の自体存在について経験することのできないものの世界であるのに対して、生活世界的に主観的なものは、まさしくすべての点で現実に経験しうるという特徴をもつ、というところにある。*8

 

私たちは自然主義的態度に囚われているため、私たちが体験しうる世界は主観的であいまいであり、これに対して自然科学が描き出す世界こそが客観的で正確だと思い込んでいますが、これは転倒した見方であり、じつは生活世界の方が自然科学的世界観を基礎づけていると考えなければなりません。

 

それでは、生活世界はどのような仕方で私たちに与えられているのでしょうか。木田の著書では、フッサールが「受動的綜合」という概念を用いて、生活世界が私たちに与えられる仕方を解き明かそうとしていたことが解説されていました。

 

これに対して、竹田の与える説明はどのようなものだったのでしょうか。彼は、フッサールの次の文章を引用しています。

 

世界は、目覚めつつつねになんらかの仕方で実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれに、たまたまある時に与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍的領野として、地平として、あらかじめ与えられている。生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界とその世界のうちに生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に体験し、現に遂行しているということである。*9

 

木田がこうしたフッサールの思想から取り出したのは、「つねにすでに」遂行しつつある受動的綜合の次元への着目でした。しかし、竹田がこの引用の中で重要視しているのは「実践的な関心」という言葉です。生活世界は、私たち自身の「実践的関心」に応じて組織されているのです。

 

 いま〈私〉の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミ、タバコ、灰皿、コーヒーカップなどがある。さらに〈私〉はひとつの部屋の中にいて、また部屋の中には本棚やコピー機、ソファー、窓、ドアなどが〈私〉と共に存在している。
 ところでこれらの事物は、“〈私〉にとっては”、けっして単に「たまたまあるときに与えられ」ている事物存在なのではない。原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという〈私〉の“関心”に応じて〈私〉にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているのである。
 もしもペンの調子が悪ければ、〈私〉は新しいペンを机の引き出しから取り出して使おうとするだろう。予備のペンやそれを入れておく机の引き出しは、そのとき、調子よく書くためのペン、それをしまっておくための引き出しというそれぞれの意味と価値を孕んで存在する。〔中略〕このように、〈私〉のまわりに存在する一切の事物は、〈私〉の生の実践的関心に応じてだけさまざまな意味‐価値の秩序の「地平」をそのつど形成しているのだ。*10

 

ここに語られているのは、フッサールの思想の解説というよりも、ハイデガーの「道具的連関」の解説と言うべきものです。実際に竹田は「フッサールの生活世界の現象学はそのような問題を提示したが、そういう課題をひきついでよく実践したのは、ハイデガーの存在論だったと言える」*11と述べており、彼自身の関心がフッサールからハイデガーの方へと向かっていることは明らかです。

 

このように、竹田のフッサール解釈と、木田に代表される標準的な現象学の解説との間の間には、若干の隔たりがあるように思います。しかもこの隔たりには、単に強調点の違いだと言って片付けるわけにはいかない問題が含まれているのです。

 

標準的な現象学の解説では、中期のフッサールがめざしたのは、「主観-客観」図式の根源にある体験流へと立ち返ることであり、超越論的還元という操作をおこなうことで、意識の志向的構成の働きをつぶさに観察することができる純粋意識という透明な領野を確保することができるとされていました。

 

ところが、後期フッサールの思索は、こうしたプランを破綻へと導くことになりますす。フッサールは、自然主義的態度を還元することで到達することになる生活世界においては、「つねにすでに」匿名の総合作用が働きつつあることを認めざるをえなかったのです。こうして、いっさいの志向的意識の構成作用を透明な意識のもとで明らかにするという「厳密学」の理念は挫折を余儀なくされたのでした。木田は、後期フッサールの試みの意義を、次のように説明します。

 

フッサールの中期の思索においては、〔中略〕超越論的意識の志向的構成作業の連関を反省しさえすれば経験的世界の意味連関はことごとく解明されるはずであった。しかし、もはや哲学的反省にそうした権能は認められない。哲学する「われ」が反省によって見出すのは、その哲学的反省そのものがつねに世界に内属する意識の未反省な生活に依存し、それへの反省としてしかありえないということであり、したがって現象学も経験諸科学の事実認定に依存しつつ、しかもその認識には開示されない事実の意味を解読することにこそ、その使命があることになるのである。*12

 

ところが、竹田のフッサール解釈においては、「主観-客観」図式の根源としての体験流に立ち返るということは重要な意味を持っていません。すでに見てきたように、彼は「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*13と述べています。竹田がフッサール現象学の中に読み取ったのは、もっぱら主観のうちでどのような場合に確信がもたらされるのかを見届けることだけだったのです。

 

竹田はこのような立場に立つことで、さらに「わたしたちのこの世界は、決して単に、ものが客観的に存在するという相で現われているわけではない」*14と考えを進めていきます。なぜなら、私たちの主観のうちで確信される意味は、さまざまな価値を帯びているはずだからです。竹田はこうした事情を、『意味とエロス』の中で次のように説明します。

 

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 私たちのこの世界は、単なる「事象世界」ではなく、すでに〈私〉の〈欲望〉の諸相によって色づけられ(価値を与えられて)存在している。〈還元〉が理解すべきなのは、まさしくこのような、色づけられた事象の世界でなくてはならないのである*15

 

したがって、フッサールの〈還元〉の方法を、その本来的な意図に置き直そうとすれば、わたしたちは、事物の〈ある‐ない〉という存在妥当とともに、〈快‐苦〉、〈美‐醜〉、〈よい‐わるい〉といった事象の価値妥当を、一貫して理解し得るような道すじを見出さなくてはならないはずなのである。*16

 

こうして私たちは、フッサールの独自の解釈をもとに、「竹田欲望論」と呼ばれる思想が成立することを見届けてきました。ただし、竹田がこのような立場を構築するに際して大きな影響を与えた哲学者に、ハイデガーがいることを忘れてはなりません。次回は、竹田のハイデガー解釈について見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』114頁

*2:竹田『現象学入門』115頁

*3:E・フッサール著、細谷恒夫、木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫、1995年)95-96頁

*4:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』94頁

*5:木田元現象学』(岩波新書、1970年)56頁

*6:木田『現象学』64頁

*7:竹田『現象学入門』148頁

*8:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』227頁

*9:E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』255頁

*10:竹田『現象学入門』145-146頁

*11:竹田『現象学入門』221頁

*12:木田『現象学』69頁

*13:竹田『現象学入門』80頁

*14:竹田青嗣『意味とエロス』(ちくま学芸文庫、1993年)102頁

*15:竹田『意味とエロス』105‐106頁

*16:竹田『意味とエロス』106頁