しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (9)

前回は、小浜とフェミニズムのあいだでなされた議論を手がかりにして、彼の実存的な立場が抱え込むことになる問題点を見定めてきました。そこでわれわれは、小浜の主張する実存的なエロス原理は、論議的な(diskursiv)意味における〈妥当性〉をもつことはできないのではないかという疑問を提出しました。そのうえで、竹田のフッサール解釈にも、これと同種の問題がひそんでいるのではないかということを示唆しておきました。今回はもう一度竹田の議論に立ち返って検討を加え、前回示唆していた問題を具体的に考察してみたいと思います。

 

すでにわれわれは竹田の『現象学入門』をはじめとする著作の検討を通して、彼のフッサール解釈が標準的なフッサール解釈とどのように異なっているかということを明らかにしてきました。まずは、そこでたしかめられた竹田のフッサール解釈の特色を、簡単に振り返っておくことにしましょう。

 

竹田は、「フッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」*1と述べていました。彼の解釈では、「現象学的還元」も次のようなシンプルな「視線の変更」のことを意味するにすぎないとされます。

 

〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない*2

 

そして、こうした独我論的な立場に立つことで、「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」*3が見いだされると竹田は主張します。それが、フッサールのいう「原的に与える働きをする直観」*4であり、竹田によれば「知覚直観」と「本質直観」の二種類があるとされます。ただし、ここで竹田の考えている「不可疑性」*5は、主観と客観の〈一致〉を保証するものと解されてはなりません。彼は次のように述べています。

 

 問題の核心は、「一致」の保証はありえないのに、なぜ人間は客観の実在を疑いえないものとして受けとっているのかということに答える点にある。このとき可能な答え方はただひとつだけだ。人間は自己のうちに、自己の「外側に」あるものを確信せざるをえない条件を持っている。この条件が「原的な直観」なるものだ。これらはいずれも自己の自由にはならない対象として人間に現われ、まさしくそのことで、人間に「外部」にあるものの存在、実在を確信させるのである*6

 

こうして竹田は、「現象学の課題は、世界や事物が実在することの確実性を証明しようとするのではなく、ただ、この確実性の信念がなぜ生じるのかを〈意識〉の構造として明らかにする点にある」*7と述べます。つまり、世界や事物といった意識を「超越」する客観的な実在を証明するのではなく、そうした信念ないし信憑を支えている「内在」的な条件を解明することが、現象学の課題だとされるのです*8

 

では、「知覚直観」や「本質直観」といった「内在」的な条件は、どのような仕方で「超越」的な実在についての確証を支えていると竹田は考えていたのでしょうか。以下では、この点について少し立ち入って検討を加えてみたいと思います。

 

ここでは題材として、新美南吉の童話『手袋を買いに』をとりあげることにします。わたくしと同じく、小学校の教科書でこの物語を知ったというひとも多いと思われますが、まずは簡単にこの作品のあらすじを紹介しておきましょう。

 

 

この作品に登場するのはきつねの母子です。ある日のこと、山に雪が降り積もり、子ぎつねは喜んで一面の銀世界を駆け回ります。その後、子ぎつねの手にしもやけができては可愛そうだと心配するかあさんぎつねは、人間たちの暮らす町で毛糸のてぶくろを買ってあげることにします。

 

かあさんぎつねは、子ぎつねの片方の手を人間の子どもの手に変えて、町の「ぼうし屋」へ買い物に行かせます。かあさんぎつねは子ぎつねに2枚の白銅貨をにぎらせ、町の「ぼうし屋」で人間の手を差し出して、その手に合ったてぶくろを買ってくるようにと言い聞かせます。こうして子ぎつねは、夜の町へと出かけ、目的の「ぼうし屋」を発見します。ところが子ぎつねは間違って、きつねの方の手を、ドアの隙間から差し入れてしまいます。

 

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新美南吉『てぶくろをかいに』(金の星社、2005年)22頁) 

 

「このおててにちょうどいいてぶくろ、ください。」
 すると、ぼうし屋さんは、おやおやと思いました。きつねの手です。
きつねの手が、てぶくろをくれというのです。これはきっと、
木の葉で買いにきたんだなと思いました。そこで、
「さきにお金をください。」
といいました。子ぎつねはすなおに、にぎってきた白銅貨をふたつ、
ぼうし屋さんにわたしました。ぼうし屋さんはそれを、
人さし指の先にのっけて、カチあわせてみると、チンチンと
よい音がしましたので、これは木の葉じゃない、
ほんとのお金だと思いましたので、たなから子ども用の
毛糸のてぶくろをとりだしてきて、子ぎつねの手にもたせてやりました。
子ぎつねは、おれいをいって、また、もときた道を帰りはじめました*9

 

その後、一軒の家から漏れ聞こえてくる人間の親子の語りあいを耳にした子ぎつねは、にわかにかあさんぎつねが恋しくなり、急いで山へ帰っていきます。心配していたかあさんぎつねは子ぎつねをあたたかく迎え、物語は締めくくりとなります。

 

さて、ここで注目したいのは「ぼうし屋」についてのエピソードです。ドアの隙間から差し出されたきつねの手を見た彼は、手渡された2枚の白銅貨が、じつは木の葉であるかもしれない、という疑いの動機をもつことになりました。そこで彼は、2枚の硬貨を打ちつけてたしかめることを思いつきます。そして、「チンチン」と音がするのを聞き、「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」と考え、子ぎつねにてぶくろを手渡します。

 

「ぼうし屋」が子きつねから手渡された白銅貨をたがいに打ちつけたのは、「ほんものの白銅貨であれば、打ち合わせたときに金属音が聞こえるはずだ」と考えたからです。そして、じっさいに硬貨を打ちあわせたときに鳴り響いた「チンチン」という音の知覚は、硬貨がまさしく金属だという彼の確信を条件づけることになります。このような事態を、竹田は次のように説明していました。

 

ひとはさまざまなものを疑いうるが、しかし自分の〈内在的知覚〉によって最終的な確かめを行なったとき、もはやそれ以上事象を疑う術を全く持たないことになる。そしてそうなったときには、疑いの動機そのものが自然に消滅してしまうのである。
 こうして、〈内在的知覚〉こそは、わたしたちがいろいろなものを疑いかつ確かめられることの根拠でもあり〔・・・〕、またそこで確かめの手だてが尽きたなら、疑う動機が生き続けられなくなってしまうような場所だということがわかるだろう*10

 

もう少し考察をつづけることにしましょう。「ぼうし屋」は、白銅貨を打ちあわせるのではなく、噛んでみることによっても、本物の硬貨なのか木の葉なのかをたしかめることもできたはずです。カチリと歯に当たったときに硬さを感じたばあい、やはり彼は「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」と考えるに足る、十分な理由をもつことになったと考えられます。このばあい、硬貨を噛んでみたときに内在的に生じる「硬さ」の感覚は、けっして疑うことができません。そしてこの内在的な知覚が、「これ(=硬貨)は硬い」という「超越」についての信憑を支えていると説明されることになるでしょう。

 

竹田の解釈する「現象学的還元」とは、「これは硬い」のような「超越」に関する信憑をいったん停止し、戦略的に独我論的な立場に身を置いて、「硬さ」の感覚という「内在」的なものだけを認めることを意味していました。それは、「これは硬い」という判断を保留して、「これは硬いように私には感じられる」という内在的に知覚される事実の場所へと立ち戻ることだといってよいでしょう。そのうえで竹田は、内在的知覚は不可疑的であると主張し、同時に、内在的知覚は「超越」に関するわれわれの信憑の根拠となると主張します。

 

しかしながら、この二つの主張は両立不可能であるように思われます。というのは、「これは硬いように私には感じられる」という内在的な知覚の不可疑性は、「これは硬い」という超越的な判断を保留し、いわばそれが本当に硬貨であるかどうかという客観的な事実を問わないことによってはじめて獲得されたものだからです*11。竹田の解釈する「現象学的還元」の手続きは、まさにこのことを意味していました。それにもかかわらず竹田は、「これは硬いように私には感じられる」という内在的な知覚に基づいて、「これは硬い」「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」という信憑が条件づけられていると主張しています。つまり、客観的実在に関する問題にはかかわらないと表明することによって内在的知覚の「不可疑性」を獲得しておきながら、後になって、内在的知覚に基づいて客観的実在についての信憑を条件づけようとしているのです。しかしこれは、空手形を振り出すようなものだといわなければなりません。

 

 「これは机だ」、「これは友人何某だ」、「ここは私の家だ」、「私は東京に住んでいる」。これらの確定は先に見たように現象学的にはすべて〈超越〉である。こういう現実の認識はしかし、ふだんは自明のものだ。ただ、なんらかの理解でそれを疑う必要が生じたとき、わたしたちはいつも必ず〈内在〉に立ち戻ってこれを確かめうる可能性をもっているわけだ*12

 

竹田はこのように述べていますが、こうした彼の目論見は、けっして成功することはありません。すでにわれわれがたしかめたように、彼の「現象学的還元」の解釈は、「超越」についての判断を保留し、独我論的な立場へと立ち戻ることを意味していました。それは、「内在」から「超越」を根拠づける〈権原〉を放棄することで、「内在」の不可疑性を確保する手続きにほかなりません。したがって、還元を経て「内在」の立場に到達した後で、「内在」をもとにして「超越」を条件づけることはもはや許されないことになります。というのも、「これは机のように私には見える」という内在の不可疑性は、「これは机だ」という客観的実在についての真偽とはかかわりをもたないことの代償として獲得されたものだからです*13。このようにして獲得された「これは机のように私には見える」という〈主観的確信の内における正しさ〉は、「これは机だ」といった〈正しさ〉を条件づけることはできないといわなければなりません。

 

ところで、こうした疑義に対して、次のような反論が提出されるかもしれません。すなわち、現象学的還元を経た後には、もはや「これは硬い」あるいは「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」といった〈正しさ〉はそれ自体としては問題とはならない、むしろ問題となっているのは「これは硬いように私には感じられる」という内在的な知覚に基づいて、「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ、と私には感じられる」という内在的な確信を条件づけることであるはずだ、という意見です。「現象学の課題は、世界や事物が実在することの確実性を証明しようとするのではなく、ただ、この確実性の信念がなぜ生じるのかを〈意識〉の構造として明らかにする点にある」*14という竹田のことばも、こうした理解を支持していると考えることができるでしょう。つまり現象学の課題は、還元によって「内在」の領域へと立ち戻り、複数の「内在」がたがいにどのように条件づけあっているかを見定めることだと理解できるように思われるのです。しかしこうした反論は、上で述べたような困難を少しも解決するものではありません。次にこのことを明らかにすることにしましょう。

 

ドアの隙間からきつねの手が差し出されているのを見た「ぼうし屋」は、自分はきつねに化かされているのではないかという疑いのなかへと投げ込まれます。そこで彼は、(竹田の解釈に基づく)現象学的還元を遂行し、「内在」の領域へと立ち返ることで、「これは硬いように私には感じられる」という内在的な知覚を見いだします。そして、この内在的な知覚に基づいて、「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ、と私には感じられる」という内在的な確信へと至ります*15。上で想定した反論を「ぼうし屋」のエピソードに当てはめてみると、おおよそこのようになると思われます。

 

ところで、「ぼうし屋」が還元という手続きによって「内在」の領域に立ち返ったということは、彼は「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」という客観的実在に関する判断を断念し、そのことの代償として、「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ、と私には感じられる」という不可疑的な確信を獲得したことを意味します。ところが、このように考えるならば、彼が子ぎつねにてぶくろを手渡すという行為は、まったく合理性を欠くものになってしまうのです。というのは、彼は還元によって、子ぎつねの差し出した白銅貨が本物かどうかという客観的実在についての真偽は問題にしないことをみずから認め、しかも同時に、本物の白銅貨の場合にのみ交換におうじるのでなければならないはずのてぶくろを、子ぎつねに引き渡してしまっているからです。

 

ひとは、何らかの信念に基づいてべつの信念を根拠づけるのみならず、何らかの信念に基づいて行為する存在でもあります。「これは(=硬貨)硬い」という信念は、「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」というべつの信念を根拠づけるとともに、客にてぶくろを引き渡すという合理的な行為を支えています。ある信念の〈正しさ〉に拠ることで、われわれはこの世界に参与し、実践的に振る舞っているのです。子ぎつねにてぶくろを手渡すという「ぼうし屋」の行為が合理的であるのは、彼が「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ」という客観的実在に関する判断の〈正しさ〉に拠って行為しているからにほかなりません。これに対して、「これは木の葉じゃない、ほんとのお金だ、と私には感じられる」という〈主観的確信の内における正しさ〉が、子ぎつねにてぶくろを手渡すという「ぼうし屋」の行為の合理的な〈権原〉にはなりえないことは明らかです。

 

竹田もまた、われわれがこの世界と実践的なかかわりをもって存在していることについて、十分な注意を払っていました。彼が、いまだ主知主義的な立場にとどまっていたフッサールの思想に満足せず、独自の「欲望論」の構築へと踏み出したのは、われわれにとって世界が単に事象的な側面をもっているだけでなく、同時に実践的な価値をもって現われていることに注目したことによります。彼は、「超越論的主観性」を「エロス的原理」へと拡張することでフッサールが論じ残した問題の解明を果たそうとしたのです。しかし、彼はこうした拡張をおこなう前に、われわれが実践的にこの世界にかかわっていくに際して、みずからの信念の〈正しさ〉に拠っているということに、いま一度反省の眼を向けてみるべきではなかったでしょうか。そして、「超越論的主観性」を「エロス原理」へと拡張することは、こうしたわれわれの実践的な世界とのかかわり方を明らかにするよりもむしろ曇らせてしまうのではないかと疑ってみるべきではなかったでしょうか。

 

竹田は、「現象学的還元」とは方法論的に独我論の立場をとることだと解釈しています。それは、こうした〈正しさ〉から退却して、単なる表象の〈主観的確信の内における正しさ〉を守ろうとする試みだといえます。しかし、まさにそのことによって彼は、みずからの信念の〈正しさ〉に依拠して世界に参与する〈権原〉を、みずから放棄しているといわなければなりません*16。竹田の「現象学的還元」の解釈に含まれているとわたくしが考えている問題は、このことにほかなりません。

 

そしてこの問題は、竹田のポストモダン思想に対する批判に対しても当てはまります。彼は、デリダをはじめとするポストモダンの立場の思想家たちによるフッサール現象学批判を「先構成的批判」と呼び、それに対する反論をおこなっていました。「先構成批判」とは、簡単にいうと次のような主張を意味します。すなわち、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉であるとフッサールは考えていたが、じつはそれを可能にしている先行条件が存在するのではないか、というものです。次の文章は以前も引用したものですが、もう一度竹田の主張をたしかめておくことにします。

 

 われわれの「意識」が、「身体」や「情動」といった下位の層から支えられていることは誰もが感じていることであり、ある意味で自明である。そこで、一般的な表象としては、誰も、「意識」を支えそれを“可能にしているもの”としての「先構成的」諸相、つまり「身体」「情動」「言葉」「無意識」「関係」「制度」などを指摘することができる。このような根拠関係の表象から、〈内在意識〉こそ絶対的な根源であるという主張に対して、否、「身体」「情動」「無意識」「時間」「言葉」こそ、「意識」を“可能”にするののであり、したがって、「身体」「情動」「無意識」「言葉」といった根源性を、「意識」が絶対的に内省し把握することはできない、と主張することはむしろ容易である*17

 

たとえば彼は、『声と現象』においてデリダが展開したフッサール批判を、次のように要約しています。

 

デリダ的な言い方では論理上〈主観-客観〉図式がどのように処理されていることになるかを考えてみよう。
 彼の論理の基本骨格はこのようになる。「現前がなければその再現前(=さっきの表象)は生じない。しかし再現前がなければ現前も成立しない」。これを〈主‐客〉図式に翻訳してみる。「主観がなければ客観は認識できない、しかしそもそも客観が存在しなければ主観は成立しない」。
 なかなかうまい言い方だが、この言い方に含まれている前提はただひとつなのである。その前提とはつまり、まず(=あらかじめ)〈主観〉と〈客観〉が存在している、ということである。要するに彼は、〈主観と客観〉の問題を、「ニワトリが先かタマゴが先か、誰にも言えない」というかたちで論理上処理しているにすぎないのだ*18

 

このように竹田は、デリダの「先構成批判」はレトリック上の問題にすぎないと指摘したうえで、フッサールを擁護しつつ次のような主張を展開します。

 

 これに対して、フッサールの考えを突きつめて言うとこうなる。〈主観〉と〈客観〉という二項対立の問題は、ニワトリが先かタマゴが先かというレトリック上の先構成の問題ではありえない。現象学ははっきりと、〈客観〉から〈主観〉を説明することはできないが、〈主観〉から〈客観〉を説明することは可能であることを明らかにする。その理由はつぎの点にある。
 〈主観〉と〈客観〉という二項は、ニワトリとタマゴのような等価的=対称的関係をなしているのではなく、むしろ非連続的=非対称的な関係であり、かつあくまでひとつの不可逆的な(つまり〈主観〉→〈客観〉という一方通行的な)〔中略〕関係として存在するからである。
 〈主観〉は、自分の認識が〈客観〉と一致する証拠をつかむことで〈客観〉の実在を確信するのではない。〈主観〉は自己の外に出られないから原理的にこの証拠を得られない。とすれば、むしろ〈主観〉は自己のうちに、自己の自由にならないある対象(=「原的な直観」)を見出し、これによって自己の「外側に」自己ならざる何ものかの存在(実在)を信じないわけにいかなくなるのだ。これがフッサールの謎解きの骨子だった*19

 

しかし、こうした竹田の主張が問題を孕んでいることは、上で見てきた通りです。むしろわれわれは、みずからの抱く信念の〈正しさ〉に拠ることで、この世界に実践的に参与しています。竹田は、彼の解釈する「現象学的還元」という手続きによってそうした〈正しさ〉から退却すると表明し、そのことと引き換えに〈主観的確信の内における正しさ〉を手にしました。こうして彼は、「内在」の領域不可疑性を主張しうるようになります。しかしそれは、「超越」の〈正しさ〉から手を引くことによって得られたものであることが忘れられてはなりません。不可疑的な「内在」の領域へと立ち戻り、同時に「内在」に基づいて「超越」を条件づけようとする竹田現象学のプロジェクトは、破綻をきたしているといわざるをえないように思います。

 

*1:竹田『現象学入門』42頁

*2:竹田『現象学入門』80頁

*3:竹田『現象学入門』50頁

*4:渡辺二郎訳『イデーン I-1』(みすず書房、1979年)117頁

*5:竹田は、「現象学がめざすのは、確信一般の「不可疑性」の根を求めることである」と述べています(『現象学入門』94頁)。

*6:竹田『現象学入門』73頁

*7:竹田『現象学入門』215頁

*8:フッサールが〈内在〉と呼ぶのは、〈知覚〉におけるこの“内在”的な感覚体験、ひとがそのように感じたという初源的な事実性のことである」(竹田『現象学入門』93頁)と竹田は述べてます。たとえばわれわれは、目の前の赤いものを見て、「リンゴだ」と考えます。しかしそれが疑いの余地なく本物のリンゴであるかどうかはわかりません。本物のリンゴにそっくりにつくられた、プラスチック製のオモチャかもしれないからです。しかし、私がそれを見て「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」を体験したことは、けっして疑いえないと竹田はいいます。そして、われわれの日常的な体験のなかには「可疑的」な側面と「不可疑的」な側面があり、前者を「超越」、後者を「内在」と呼んでいます。

*9:新美南吉『てぶくろをかいに』(金の星社、2005年)24頁

*10:竹田『現象学入門』97頁

*11:『経験論と心の哲学』において、感覚与件に依拠する経験論の立場に見いだされる「所与の神話」を批判したウィルフリッド・セラーズは、「……である」という言明と「……に見える」という表象に関する言明について検討をおこない、後者は前者に含まれている是認を保留することでもたらされたものであることを明らかにしています。

*12:竹田『現象学入門』101頁

*13:こうした竹田の現象学的還元の解釈は、黒田亘がA・J・エアを批判しつつ論じている「現象論的エポケー」(黒田亘『経験と言語』(1975年、東京大学出版会)8頁)の問題が、そのまま当てはまるように思われます。

*14:竹田『現象学入門』215頁

*15:ここでは、内包的文脈に固有の問題について一般的なかたちで議論をおこなうことは差し控えることにします。

*16:なおわれわれは、竹田の「現象学的還元」の解釈にターゲットを絞って批判的検討をおこなってきました。ここで見てきたような問題がフッサールそのひとの思想に当てはまるのでしょうか。この問題に関しては、論者によって見解が分かれています。たとえば倫理学者の加藤尚武は、フッサールを基礎づけ主義者とみなし、批判をおこなっています。彼の現象学理解の要諦は、次の文章に示されています。「心の内側に入ってくるものを調べることによって、知識の組み立てを明らかにすることが出来るかもしれない。だから内観という方法で、外からくる感覚的な知識と前からいるアプリオリの知識と、それぞれの本質を明らかにすればいいという考え方が出てくる。これはしばしば現象学的方法と呼ばれる」(加藤尚武『進歩の思想 成熟の思想』(講談社学術文庫、1997年)286-287頁)。加藤はフッサール現象学を「方法的独我論」と特徴づけているわけではありませんが、フッサール現象学を基礎づけ主義と理解している点は、竹田と同様です。しかし、竹田がこのように理解されたフッサールの思想を肯定的に評価するのに対して、加藤は「基礎づけという形の哲学のあり方は、不可能だという学説には強い説得力があるのに、いまでも基礎づけをするのだと「基礎づけ」という観念に居座っているのが現象学である」(加藤『進歩の思想 成熟の思想』288頁)という批判的な評価をくだしています。他方、現象学の研究者である門脇俊介は次のように述べて、こうしたフッサール解釈に反論しています。「フッサール現象学についての最大の誤解の一つは、いわゆる「純粋意識」への「現象学的還元(phänomenologische Reduktion)によって外界の実在からの混じりけなしの意識への現れや表象が獲得され、それによって基礎づけ主義の20世紀的なプロジェクトが完成されたとするものである。〔・・・〕フッサール自身が、自らを基礎づけ主義のプロジェクトの推進者の一人だとみなしていたことを、否定するつもりはない。しかし、知覚的経験とその志向性についてフッサールが探究した跡を追うことによって分かるのは、フッサール現象学が表象語法の強力な反対者であり、むしろ知覚的経験における真理と誤謬の両価性の現象を積極的に認め、知覚をそれ独自の規範的な「理由の空間」に位置づけようとする試みだということである」(門脇俊介『理由の空間の現象学―表象的志向性批判』(創文社、2002年)34頁)。

*17:竹田『完全解読フッサール現象学の理念」』234頁

*18:竹田『現象学入門』180-181頁

*19:竹田『現象学入門』181-182頁