しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (2)

前回は、竹田の現象学解釈の問題を哲学史的な背景のもとでとらえなおすことをめざして、カント哲学における超越論的な問題領域の発見についての考察を開始しました。今回は、前回の議論を引き継ぎつつ、主として『純粋理性批判』の第二版におけるカントの議論をたどることで、純粋悟性認識にかんするカントの考えを見ていくことにします。

 

カントの批判哲学の立場が、従来の独断的形而上学を克服するものであったことは、よく知られています*1。そこで、われわれはまず、『純粋理性批判』における「超越論的論理学」の構想を概観することで、カントが従来の独断的形而上学からどのようにして脱却していったのかを見てみたいと思います。

 

カントの「独断論」ということばは、主としてライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことを意味していますが、カント自身の前批判期の思想も同様の問題点を含んでおり、それゆえ『純粋理性批判』によって批判されなければなりませんでした。ここでは、1770年の教授就任論文『可感界と可想界の形式と原理について』によって、前批判期における彼の思想を簡単に見てみることにしましょう。

 

この論文のなかでカントは、感性(sensualitas)と知性(intelligentia)をはっきりと区別することをめざしています。そしてこうした試みは、形而上学の「予備学」に当たると位置づけられることになります。

 

純粋知性の用法の第一原理を含む哲学は形而上学である。この形而上学への予備学は知性的認識からの感性的認識の区別を教える学問である。われわれはこの論考でその例を示す*2

 

それでは、感性的認識と知性的認識は、どのようなしかたで区別されているのでしょうか。カントは、「感性とは主観の受容性であり、この受容性のゆえに、何らかの対象〔客観〕の現前によって特定の仕方で主観の表象が刺激されうる」*3と述べています。しかしこのことは、感性的認識は主観の受容性に依存しているということを意味しており、そのために感性的認識は主観的条件をまぬかれることはできないと考えられることになります。カントは、こうした性格をもつ感性的認識を知性的認識と対比しつつ、次のように述べます。

  

 こうして主観は対象の現前によって変容を受け、〔・・・〕そのかぎり認識において感性的なものに属するものは何であれ、主観の特殊な本来的性質に依存している。しかしまた他方で、そのような主観的条件を免れた認識は何であれもっぱら対象にだけ関わる。したがって以上からも明らかなように、感性的に認識されたものは、現れるがままのものごとの表象であり、知性的なものはあるがままのものごとの表象である*4

 

感性的認識の対象である「可感界」は、主観的条件をまぬかれることができません。これに対して、知性的認識の対象である「可想界」は、客観そのものであるとカントは考えます。彼は、「ある厳密な意味での知性的なものに関していえば、対象や関係についての概念は知性の本性そのものによって与えられ、感官のどのような使用からも抽象されたのではなく、また感性的認識そのもののいかなる形式も含んでいない」*5といい、知性は「その特質ゆえに感官のなかに入ってこられないものを表象することができる」*6と述べています。そして、具体的には「可能性、現実存在、必然性、実体、原因」*7などが、感性的な規定をいっさい含まない、純粋に知性的な概念の例にあげられています。

 

では、こうした知性的な概念についての探究は、どのようなしかたでなされうるのでしょうか。カントは「知性によって言明されたいかなる判断にあっても、述語は、それなくしては主語が思惟されえない条件である」と同時に、「述語が認識の原理」としての役割を果たすことができると主張します*8。たとえば、「SはPである」という判断について考えてみると、「PでなければSではない」という意味で、Sが思考されるための条件としてPがなければならないということを意味していると同時に、このような原理にもとづいて、われわれは知性的な概念についての認識を推し進めていくことができるというのです。

 

知性的な概念は、感性的表象の内容に依存しないとされている以上、経験を通じてその内容を明らかにするような道は存在しません。それにもかかわらず、知性的概念にかんする探究が可能だと考えられて考えられていたのは、判断における主語と述語の論理的関係が、事象的関係と相即していると考えられていたからにほかなりません。

 

こうした考えは、『純粋理性批判』において明確に否定されることになります。彼は『純粋理性批判』の第二版で次のように述べています。

 

論理学においてはしたがって、悟性は自己自身と自己自身の形式とのほかには、それ以上何ものをも取扱う必要がない。〔・・・〕したがって論理学はまた予備学として、いわば単に諸学の玄関をなすものであり、知識が問題となる場合には、もちろん論理学は知識評定のために前提されはするが、しかし知識の獲得は、本来的客観的にいわゆる学と称されているもののうちに求められねばならないのである*9

 

前批判期の思想は、論理学にこうした制限を越える役割をあたえていたのであり、それゆえ否定されなければならなかったのです。就任論文においてカントは、論理学に事象的な性格を認めており、それゆえ論理学によって感性的な規定をいっさい含まない「客観そのもの」としての知性的概念についての探究をおこなうことができるという立場に立っていました。これは、論理学を形而上学的探究のための方法、すなわち「オルガノン」とみなすことにほかなりません*10。批判哲学は、このような考え方が否定されることによってはじめて成立したのだということができます。

 

認識の内容についてはまだ非常に空虚貧弱であるのに、われわれの一切の認識に悟性の形式を与えるという、まことに外見だけの技術を持つと、そこに何かきわめて魅惑的なものがあるために、単に認識批判のための規準(Kanon)にすぎないあの一般論理学が、いわば客観的な主張を実際にもたらすための、少なくとも客観的な主張という幻影のための機関(Organon)のように用いられ、したがって実際にはそのために誤って用いられるのである。このように誤って機関と考えられた一般論理学は、今や弁証論と名づけられるのである*11

 

カントは『純粋理性批判』の超越論的弁証論において、四つのアンチノミーを提示することで、経験的内容をもたない純粋理性の空転によって生じる困難を示し、かつての彼自身もそのなかでまどろんでいたとされる独断的形而上学の誤謬を、白日のもとにさらしたのでした。

 

ここまで見てきたようにカントは、一般論理学はそれ自身のうちに対象をもたず、思考が思考として成立するための単なる論理的形式を示していると考えていました*12。しかし、いまやこうした一般論理学の事象性は否定されなければなりません。このことを忘れて知性の空転を引き起こしたのが独断的形而上学であり、その誤りを避けるためには、われわれの認識の対象が直観において与えられるということを認めなければなりません。「けだし直観を欠いてはわれわれの一切の認識は客観を持たず、かくてはわれわれの認識はまったく空虚のままだからである」*13とカントは述べています。

 

そのうえでカントは、いっさいの感性的な規定を含まない「客観そのもの」としての知性的概念を明らかにする「オルガノン」ではなく、純粋悟性概念の単なる経験的使用のための「規準」(カノン)としての役割を明らかにする「超越論的論理学」の構想を打ち出します*14。われわれの悟性はそれ自体単独で対象を獲得することはできず、直観において与えられる経験的対象に対してのみ使用されなければなりません。しかし、悟性の〈使用〉が経験的対象に依存するからといって、悟性と感性を混同することは許されないとカントは考えます*15。これこそが、経験的なものの認識における非経験的な条件としての純粋悟性概念の役割を解明する「超越論的論理学」の課題だということができるでしょう*16。彼は「超越論的論理学」を、次のように定義しています。

 

 かくて純粋直観としてでもなく感性的直観としてでもなく、もっぱら純粋思惟の行為としてア・プリオリに対象に関与できるような、したがって概念ではあるがしかし経験的起源のものでもなければ感性的起源のものでもないような概念が、おそらく存在しうるであろうという期待のもとに、われわれがそれによって対象を完全にア・プリオリに思惟するところの、純粋悟性認識及び純粋理性認識の学の理念をわれわれはあらかじめ構想する。このような認識の起源、範囲及び客観的妥当性を規定するような学は、超越論的論理学と称されねばならないであろう*17

 

では、われわれの認識が成立するに際して、悟性はいったいどのような寄与をおこなっているのでしょうか。カントはまず、思考の能力である悟性は「非感性的な認識能力」*18であり、「概念」による認識の能力だといいます。おなじことですが、「そもそもこれらの概念に関しては、悟性はこれによって判断するということよりほかに、何らこれを使用することはできない」*19とも述べられています。

 

そしてこのことから、「悟性の機能はしたがって、もしわれわれが判断における統一の機能を完全に示すことができれば、すべてこれを見いだすことができる」*20という主張がみちびかれることになります。これが、超越論的分析論のなかで「形而上学的演繹」*21と呼ばれている議論にほかなりません。

 

カントは、経験に起源をもたず、しかも「対象が考えられるためには欠くことのできない諸原理」(A62/B87 高峯訳『カント純粋理性批判』91頁)の役割を果たしている純粋悟性概念を解明するために、悟性が判断という仕方でのみ表象を統一する機能を果たしうるということに注目しました。そして判断の機能の分類を手がかりにすることで、判断を通じて諸表象を統一する機能であり、それなくしてはいかなる認識も成り立たないような「カテゴリー」*22を発見するにいたったのでした。判断表からカテゴリー表を導出するという「形而上学的演繹」の議論の背後は、このような見通しがあったのです。

 

それでは、こうしたカントの議論は、前回われわれが見てきた「超越論的統覚」にかんする議論とどのような関係にあるのでしょうか。

 

前回紹介したように、そもそもカントは「「私は考える」という意識が、あらゆる私の表象に伴わなければならない」*23と考えていました。第一版におけるカントの議論は、こうした統覚の根源的な総合・統一によってわれわれの認識が可能となっていることを解明することをめざしています。直観を通じてわれわれに与えられるものは単なる表象の多様にすぎません。そこで、こうした直観の多様を統一することでわれわれの認識を成立させている条件が解明されなければならないのです。

 

カントは、直観の多様を統一することでわれわれの認識を成立させている条件を追い求めて、「直観における覚知の総合」「構想力における再生の総合」「概念における再認の総合」という三重の総合作用が存在していると考えなければならないと主張しました。もし、一瞬ごとにそれぞれ異なった表象がわれわれに与えられているという経験的事実のみが存在するのであれば、われわれはそれらの表象を再認することもできず、私はなにごとかを認識しているということは不可能になってしまいます。そしてこのことからカントは、「私は考える」という超越論的統覚のはたらきにもとづく私の意識の同一性が、われわれの認識を可能にする超越論的な条件であることを認めなければならないと主張したのです。

 

他方でカントは、判断の機能について次のように述べています。

 

 一つの判断における種々なる表象に統一を与えるのと同じ機能が、一つの直観における種々なる表象の単なる総合にも統一を与えるものであり、この機能は一般的にいえば、純粋悟性概念と呼ばれるのである。したがって同じ悟性が、しかも自分が概念において、まず分析し、次にそれらを統一することにより、判断の論理的機能を完成したのとちょうど同じ行為によって、直観一般における多様を総合的に統一して、自己の表象中へ超越論的内容をもたらす働きをなすのである*24

 

われわれは判断を通じて、直観に与えられる表象の多様に統一を与えているのであり、この統一をもたらすのが純粋悟性概念の役割だと考えられていました。つまり純粋悟性概念は、われわれの認識を可能にする「超越論的統覚」が具体的に表象の多様を統一するさまざまな仕方を示しているのです。

 

カントは、「私は考える」という働きは、「各悟性判断一般の形式を含むものであり、あらゆるカテゴリーにこれを支えるものとして伴うもの(Vehikel)」*25であると説明しています。これは、「私は考える」という超越論的統覚の働きが、そのつどわれわれの直観に与えられる表象の多様を統一し種々の判断を構成しているカテゴリーの機能の担い手としての役割を果たしているということにほかなりません。『純粋理性批判』における形而上学的演繹の議論によって果たされたのは、判断表を手がかりとして、「私は考える」という超越論的統覚が直観の多様を統一している〈機能〉のさまざまなあり方を解明し、その全体像をカテゴリー表として明示することだったということができるのです*26

  

しかし、超越論的統覚による統一の〈機能〉の具体的なありようを示すカテゴリーを、判断表を手引きとすることによって枚挙し分類する「形而上学的演繹」の議論だけが、批判哲学の課題だったのではありません。表象の多様を統一する〈機能〉としての「私は考える」という超越論的統覚には、どのような〈権能〉が認められているのかという問題を考察し、それによってカテゴリーが客観的妥当性をもつことを明らかにしなければなりません。こうした課題に取り組んだのが、『純粋理性批判』の中核をなすと考えられている「超越論的演繹」の議論でした。これは、心理学主義と論理学主義の隘路をくぐり抜けることでフッサールが到達した「超越論的現象学」がカント哲学から継承した主題であり、そうでありながら竹田のフッサール解釈において見落とされている主題でもあります。そこで次回は、カントの超越論的演繹の議論が切り開いた問題の地平がどのようなものだったのかを明らかにしたいと思います。

*1:カントは1798年に書かれた書簡のなかで、「このアンチノミーこそが、私を独断のまどろみから目覚めさせ、理性批判そのものへと駆り立て、こうして理性の見かけ上の自己矛盾というスキャンダルを取り除いたのです」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 12, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1902, S. 257-258 木阪ほか訳『カント全集 22』(2005年、岩波書店)381頁)と述べていました。他方で『プロレゴーメナ』では、カントを「独断のまどろみ」から目覚めさせたのは、ヒュームの因果律批判だったと述べられています。「私は率直に告白するが、上に述べたデーヴィド・ヒュームの警告こそが、何年も前にはじめて私の独断的まどろみを破って、思弁的哲学の領野における私の諸研究に一つのまったく別の方向を与えた当のものであった」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 260 久呉訳『カント全集 6』194頁)。ただしここでは、この二つの証言がどのような関係にあるのかということには立ち入りません。

*2:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1902, S. 395 山本道雄訳『カント全集 3』(2001年、岩波書店)346-347頁

*3:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 392 山本訳『カント全集 3』342頁

*4:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 392 山本訳『カント全集 3』342-343頁

*5:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 394 山本訳『カント全集 3』345頁

*6:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 392 山本訳 『カント全集 3』342頁

*7:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 395 山本訳『カント全集 3』347頁

*8:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 411 山本訳『カント全集 3』374頁

*9:B IX 高峯訳『カント純粋理性批判』26-27頁

*10:アリストテレスの論理学が、編集者によって『オルガノン』と名づけられたのは、それが単なる思考の法則の学である形式論理学ではなく、同時に存在の論理学として把握されていたということを意味しているということができます。

*11:A60-61/B85 高峯訳『カント純粋理性批判』90頁

*12:「一般論理学は、すでに度々述べたように、認識の一切の内容を捨てさり、自己に、それがどこからであろうと、外から、表象が与えられることを期待」(A76/B102 高峯訳『カント純粋理性批判』98頁)すると述べられています。

*13:A62/B87 高峯訳『カント純粋理性批判』91頁

*14:山口修二は、1964年に書かれた『自然神学と道徳の諸原則の判明性についての研究』と、1770年の教授就任論文に検討をくわえ、前者が「内包的論理学」を採用していたのに対し、後者では「外延的論理学」が採用されていると指摘したうえで、両者がともに「オルガノン」として用いられていたという点では共通していたことを明らかにしています(山口修二『カント超越論的論理学の研究』(2005年、渓水社)第1章参照)。

*15:純粋悟性概念が経験から生じるのであれば、それはけっして客観的妥当性を有することはありません。この点については、次回カントの「超越論的演繹」の議論を概観する際に、多少くわしく考察をおこなうことにしたいと考えています。

*16:「したがって超越論的論理学のうちで、純粋悟性概念の要素を叙述し、対象が考えられるためには欠くことのできない諸原理を論述する部門は、超越論的分析論であり、同時に真理の論理学である」(A62/B87 高峯訳『カント純粋理性批判』91頁)とカントは述べています。

*17:A57/B81 高峯訳『カント純粋理性批判』88頁

*18:A67/B92 高峯訳『カント純粋理性批判』93頁

*19:A68/B93 高峯訳『カント純粋理性批判』94頁

*20:A69/B94 高峯訳『カント純粋理性批判』94頁

*21:B159 高峯訳『カント純粋理性批判』125頁

*22:なお、カテゴリーについてカントは、「カテゴリーは多様を一つの概念の下に包摂する論理的機能以外の何ものをも含みえない」(A245/B303 高峯訳『カント純粋理性批判』212頁)と述べています。

*23:B131-132 高峯訳『カント純粋理性批判』112-113頁

*24:A79/B104-105 高峯訳『カント純粋理性批判』99頁

*25:A348/B406 高峯訳『カント純粋理性批判』264頁

*26:「統覚」と「悟性」の関係について、カントは次のように説明しています。「〔・・・〕統覚の総合的統一は、あらゆる悟性使用が、のみならず全論理学すら、そして後には超越論哲学が、それに結びつけられねばならないところの、最高点である。実にこの能力は悟性そのものである」(B134 高峯訳『カント純粋理性批判』114頁)。