しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

サブカルチャー批評を読み解く (1)

2001年に刊行された東浩紀の『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)は、刊行から14年が経った現在、どのように読まれうるのかということを、何回かに分けて考えてみたいと思っています。

 

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 

 

この書は、それ自体が優れたサブカルチャー批評であるばかりでなく、アニメやゲームなどのオタク文化に関する批評的な言説の舞台そのものを構築したという意味でも画期的な仕事とされています。その後の活発なサブカルチャー批評は、この本によって整えられた枠組みを踏まえることなしには成り立たなかったといえるでしょう。

 

東は、斎藤環、小谷真里との鼎談「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」のなかで、この本に関して次のように述べています。

 

たとえば僕はこの本では、岡田斗司夫大塚英志中島梓宮台真司大澤真幸斎藤環といったオタク論の系譜を強引に作り上げている。でも実際には、あんな系譜すら、僕が書くまでほとんど意識されていなかったはずです。そういう歴史認識がないまま、ただ単発のレビューや感想ばかりが消費されていく状況があった。僕はそれを変えたかった*1

 

ここで東は、『動物化するポストモダン』以後のサブカルチャー批評の枠組みをつくりあげただけではなく、『動物化するポストモダン』以前のサブカルチャー批評の系譜を「強引に作り上げ」たと語っています。サブカルチャー批評は、『動物化するポストモダン』へと収斂したあと、ふたたび『動物化するポストモダン』から流れ出ていくといえるかもしれません。

 

そういうわけで『動物化するポストモダン』はサブカルチャー批評の〈起源〉であり、現在でもなお、オタク文化について批評的にかかわろうとする者がまっさきに参照するべき仕事でありつづけています。しかし、刊行から14年が経ったいま、この本の読まれかたも刊行当時と変わってきているのではないか、という気がします。

 

ここで考えてみたいのが、オタクの世代分類です。東は『動物化するポストモダン』の中で、オタクを三つの世代に分けています。彼が「第一世代」と呼ぶのは、1960年前後生まれで『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』を十代で見た世代を指します。次の「第二世代」は、1970年代前後生まれで、第一世代がつくりあげた爛熟し細分化したオタク系文化を十代で享受した世代とされます。そして、1980年前後生まれで『エヴァンゲリオン』ブームのときに中高生だったのが、「第三世代」です。このような区分をおこなったうえで東は、「本書の議論は、そのなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動きに焦点を当てて組み立てられている」*2と述べています。

 

この分類によると、1971年生まれの東は第二世代ということになります。また、彼よりも若い世代で、彼の影響をなんらかのかたちで受けつつ、現在のサブカルチャー批評の中核を担っている思想家たち、たとえば宇野常寛(1978年生まれ)、濱野智史(1980年生まれ)、福嶋亮大(1981年生まれ)は、第三世代にあたります。

 

一方、「オタキング」として有名な岡田斗司夫も、2008年に刊行された『オタクはすでに死んでいる』(新潮選書)の中で、オタクの世代分類をおこなっています。ただし、東の分類と岡田の分類のあいだには、けっして無視できない齟齬があります。

 

岡田本人もそこに含まれる「第一世代」にかんしては、あまり問題はありません。齟齬が存在しているのは、「第二世代」と「第三世代」の境界です。岡田の考える「第二世代」は、2008年当時「二十代終わりから三十代半ば過ぎくらいの人たち」で、「大体、80年代後半から、オウム真理教地下鉄サリン事件を起こした1995年までが青春期だった人たち」とされています。「宮崎勤のせいで、親に「あんたもそうじゃないの」と思われ、宅八郎さんが出てきたときに、「あれと一緒にされたらかなわん」と思った」*3世代だと、岡田は説明しています。

 

これにつづくのが、岡田の分類における「第三世代」です。この世代については、次のように述べられています。

 

 彼等は子供の頃から『エヴァンゲリオン』も『セーラームーン』も『ウテナ』もまったく同列に存在した世代です。第二世代が受けた『エヴァ』ショックというものを経験していない。『エヴァンゲリオン』がものすごくセンスのいいアニメだということは認識できても、今の三十代の人たちが受けたような衝撃は受けていない。
 すべての作品について「その作品を生んだ歴史的な流れ」よりも「自分が感じたインパクト」を重視している。そのためか、感動した作品のスタッフや、前作などとの関連性にはあまり興味がない。それよりも「同じような感動を与えてくれるほかの作品」に興味が走る傾向があります*4

 

ここに見られるように、1995年に放映されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の衝撃をリアル・タイムで体験した世代は、岡田の分類では「第二世代」にあたります。上にあげた宇野、濱野、福嶋らもこの世代に含まれます。そして岡田は、この後にやってきた「第三世代」のオタクたちが、それまでのオタクとはまったく異なるメンタリティをもっていることを発見します。

 

他方、東の『動物化するポストモダン』では、『エヴァ』ショックを体験したひとたちは「第三世代」にあたります。つまりこの本は、『エヴァ』以降のオタク文化をひとつづきのものとみなして、その考察をおこなっているのです。

 

あらためて考えてみると、東がこの本を刊行したのは、『エヴァ』放映からわずか6年後のことです。14歳で『エヴァ』を見た少年が、ようやく20歳を迎えた頃なのです。したがって、それよりも若い世代のメンタリティの変化についての記述を『動物化するポストモダン』のなかにさがし求めることができないのも、当然だといえそうです。

 

そこで気になってくるのが、岡田のいう「第三世代」のメンタリティをもつ若いオタクたちにとって、14年前に刊行された『動物化するポストモダン』を読むことの意義はどこにあるのか、ということです。この問いについて、これからすこしずつ考えてみたいと思っているのですが、ここでいったん区切りを入れて、次は『動物化するポストモダン』の内容を簡単にまとめてみることにします。

 

*1:東浩紀編『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』(青土社、2003年)135-136頁

*2:東浩紀動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)14頁

*3:岡田『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書、2008年)76-77頁参照、なお横書き表示に合わせて、一部漢数字をアラビア数字に改めた箇所があります。

*4:岡田『オタクはすでに死んでいる』78-79頁