しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (4)

竹田は、2000年以上におよぶ哲学の歴史を概観した『欲望論』(2019年3月現在、第2巻まで刊行)で、「本体」の観念が解体されたことが、哲学史上におけるもっとも重大な事件だったと論じています。そして、とくに重要な役割を果たした哲学者として、ニーチェフッサール、それに一定の留保をつけたうえではありますがハイデガーを加えた三人があげられています。その一方で、彼らの果たした役割の意味は現在でも十分に理解されておらず、ポストモダン思想や分析哲学はふたたび混迷のなかに陥ってしまっていると竹田は述べます。今回は、こうした竹田の哲学史観のなかでカント哲学がどのように評価されているのかをたしかめるとともに、彼のカント解釈を検証することにしたいと思います。

 

竹田は『プラトン入門』のなかで、「哲学のはじまり」について考察をおこなっています。哲学は宗教とおなじく、この世界のありかたについての説明ですが、「宗教が物語(=神話)によって世界を説明するのに対して、哲学は抽象概念を使ってこれを行なう」*1ところにちがいがあります。さらに、宗教が特定の共同体のなかでしか通用せず、その共同体から一歩外に踏み出してしまえば、たちまち多くの物語のなかのひとつにすぎないとみなされることになるのに対して、哲学は共同体の限界を越えて「普遍的」なものをめざしていくと考えられています。

 

プラトン入門 (ちくま学芸文庫)

プラトン入門 (ちくま学芸文庫)

 

 

 タレスの残した言葉は、「万物の原理は水である」というものだ。なぜこれが哲学的思考のはじまりといえるのか。世界の全体を、「原理」(アルケー)とか起源といった概念によって考えようとしたこと。つまり物語を使用せず「抽象概念」を使用することによって世界説明を試みたことによるのである。
 人間がどのような契機で、世界を一つの「普遍的な対象」として把握するようになるのかは興味深い問題だ。しかし、さしあたって重要なのは、哲学の思考が、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行なうという「ルール」を設定したとき、それははじめて共同体を超える言語ゲームとして広がる条件を得た、ということである*2

 

哲学が誕生したことで、人類は「世界の「起源」や「限界」、「魂は不滅か(=死んだらどうなるか)」、「世界の根本動因(=神のような存在がいるか)」、「自由な存在の根拠」」*3といった、従来宗教や神話によって説明されてきた問題を、普遍的なしかたで説明することが可能になったのです。

 

しかしその一方で、竹田は哲学による説明にも、固有の「弱点」が存在するといいます。それをはっきりと示しているのが、ゼノンのパラドクスです。竹田は、「アキレスは亀をけっして追い越せない。なぜなら、有限の時間のうちに無限の点を通過することは不可能だから」という問題を例に、このことを説明しています。このパラドクスの核心は、「「有限のもの」の中に「無限のもの」は入りきらない」*4といい表わすことができると彼はいいます。

 

 われわれは、足の速い人間が足の遅い人間を追い抜くことをよく知っている。これはいわば「有限の時間のうちに無限の点が通過されている」ということだ。しかし、なぜわれわれは、この事実を「アキレスと亀」の論理でいい表わすと解きがたい「パラドクス」と考えるのだろうか。日常的に自明のことがらが、論理的にこれを表現すると「有限>無限」ということになると考え、これを矛盾だと考えるからである*5

 

抽象概念を用いて世界を説明する哲学において、ひとは「有限」や「無限」といった概念を実体化してしまうという誤りに陥ってしまい、そのときパラドクスが出現すると竹田は考えるのです。

 

 ともあれ、こうして哲学は、抽象概念を使用し「原理」を取りだすという新しいルールによって、共同体を越えるより“普遍的”な言語ゲームとして登場したが、抽象概念の使用は、また同時に哲学的思考の独自の難点を作り出した。〔・・・〕哲学の思考は、ただ「原理」を探究するという努力だけでなく、同時に、つねに概念の実体化による論理の空洞化に抗いつつこの作業を行う、という課題を負うものとなった。というのも、もしこの課題を怠れば、哲学は必ず、論理に論理を重ねて難問だけを作り出すような空虚な言語ゲームとなり、そのことで、その試行の本質を腐らせることになるからである*6

 

多くの哲学者たちは、「概念の実体化」の誤りを犯して、「この世界の起源」や「不滅の魂」、「世界の根本原因としての神」、「絶対に自由な存在」といった概念の意味するものがどこかに存在しているはずだと考え、独断的な形而上学を築き上げてきました。たとえばヘーゲル哲学は、「絶対精神」という原理にもとづく独断的形而上学だと考えられています。また他方では、われわれにはそうした実体を認識することはできないという懐疑論に身を任せる者たちも登場しました。竹田によれば、現代のポストモダン思想や分析哲学がそうした懐疑論に陥っているとされます。

 

竹田は『欲望論』のなかで、このような思考方式を「本体論」と呼んでおり、それを解体することが必要だと主張します。独断的形而上学は、概念を実体化することで、「この世界の起源」や「世界の根本原因としての神」などの「本体」がどこかに存在しているはずだと主張します。他方、独断的形而上学を否定する懐疑論の立場も、「本体」の観念の解体に成功していないと竹田はいいます。なぜなら懐疑論が主張するのは、われわれがけっして「本体」に到達することができないということであり、そのかぎりでなお「本体」の観念に依拠していると考えられるからです。それは「「本体」の観念を養分として認識の理論に居すわる寄生樹であって、それゆえ「本体」の解体にたどりつくことができない」*7と述べられています。

 

欲望論 第1巻「意味」の原理論

欲望論 第1巻「意味」の原理論

 

 

竹田は、このような考えにもとづいて、カントが『純粋理性批判』のなかでおこなった「二律背反」(アンチノミー)にかんする議論の意義を説明しようと試みています。

 

 哲学は「普遍的認識」をこととする。しかしこの「認識の普遍性」の概念が「本体」の観念に結びついているかぎり、すべての哲学的試みは認識論上の迷宮に入り込む。問題を追いつめたあげく最後に残されるのは、形而上学独断論かこれへの対抗としての懐疑論相対主義という両極の地点である。そして両極の立場は、互いに相手を否定しあって共にいっそう頑迷な“独断論”に陥る。この問題にはじめに本質的な照明を当てたのはカントのアンチノミーの議論だったが、彼の議論の本質もまたほとんど理解されていない*8

 

まずは、カントの議論を簡単に確認しておくことにしましょう。『純粋理性批判』の冒頭には、次のようなことばが置かれていました。

 

 人間の理性はその認識のある種類において奇妙な運命をもっている。すなわちそれが理性に対して、理性そのものの本性によって課せられるのであるから拒むことはできず、しかもそれが人間の理性のあらゆる能力を超えているからそれに答えることができない問いによって、悩まされるという運命である*9

 

このような人間理性の運命をもっともあざやかに示しているのが、「純粋理性の二律背反」と呼ばれる議論です。

 

カントによると、悟性のカテゴリーは、量、質、関係、様相という四つの種類に分類されます。これらのカテゴリーが現象界に適用されることによってわれわれの認識が成立しているというのがカントの考えでした。しかしわれわれの理性は、それぞれのカテゴリーにおいて、現象界を超えて絶対的統一としての「理念」を求めようとします。このような試みは「合理的宇宙論」と呼ばれており、カテゴリーの種類におうじて「理念」にも四つの種類が存在することになります*10。すなわち、「あらゆる現象の、与えられた全体の合成の絶対的完全性」「現象における与えられた全体の分割の絶対的完全性」「現象一般の生起の絶対的完全性」「現象における変易的なものの現実的存在の依存性の絶対的完全性」*11です。

 

純粋理性の二律背反は、これらの四種類の理念から導出されることになります。たとえば第一の二律背反は、「世界は時間において始まりを有し、空間に関しても限界の内に囲まれている」*12というテーゼと、「世界は始まりを持たず、空間においても限界を有せず、かえって時間に関しても空間に関しても無限である」*13というアンチテーゼの対立として現われます。また第二の二律背反は、「世界における各複合的実体は、単純な部分からなり、かつ実際に存在するものはいずれも単純体か、もしくは単純体から合成されたものにほかならない」*14というテーゼと、「世界におけるいかなる複合物も単純な部分からはつくられない。世界には一般に単純体なるものは実際に存在しない」*15というアンチテーゼの対立として現われます。

 

テーゼのほうは、世界の時間的な始まりや、空間の限界、世界の単純な構成要素といった「本体」が存在すると主張し、アンチテーゼのほうはそうした「本体」をわれわれは認識することができないと主張します。前者が独断論の立場であり、後者が懐疑論の立場です。ところがカントは、帰謬法によって、つまりおたがいに相手の主張が矛盾に陥ることを示すことによって、双方の立場の証明をしてみせました。これによって、われわれの理性が二律背反の運命に陥っているということが、白日のもとにさらされたのです。

 

竹田は『完全解読カント「純粋理性批判」』のなかで、「カント思想の核心は、「アンチノミー」の議論に集約的に現われている」*16と述べて、こうしたカントの業績を高く評価します。

 

完全解読 カント『純粋理性批判』 (講談社選書メチエ)

完全解読 カント『純粋理性批判』 (講談社選書メチエ)

 

 

 一般に、カント哲学は、キリスト教の世界像に代わる、新しい世界説明として現われた、スピノザの合理論とヒュームの経験論という両極の対立を調停するものと見なされている。
 世界は「永遠にして無限かつ一なるものとしての神である」、これがスピノザの世界観。これに対して、ヒュームは、どんな世界理論もそれぞれ異なった経験から編み上げられた「世界像」にすぎず、決して絶対的な真に達することはない、と主張した。つまり、一方は、人間理性は合理的推論によって世界の完全な認識に達しうると言い、他方は、これに対して、すべての認識は相対的であり絶対的認識はありえないと反駁する。
 カントは、きわめて独創的な新しい認識論をおいて、この両者の対立を調停、あるいは克服しようとした。その中心をなすのが「アンチノミー」である*17

 

 

そして竹田は、「この議論によって、カントは哲学史上はじめて、認識論的独断論と徹底的懐疑論相対主義)との長い対立に、一つの決定的な解答をおいたといえる」*18と述べます。独断的形而上学は、理性的な推論によって「この世界の起源」や「世界の根本原因としての神」などの「本体」を到達することをめざしました。他方、懐疑論の立場は形而上学が独断的な議論を展開していることを批判しますが、世界の客観的認識が不可能性だということを認めるにとどまっており、そのかぎりで「懐疑論の主張は、ただ論理上他を相対化するだけであって、その論理の本性からして、自分自身の主張の正しさを証明することもまたできない」*19と竹田はいいます。こうしてカントは、「本体」の観念が孕んでいるアポリアをはっきりと示すことによって、「本体」の観念の解体が必要だという考えに到達します。われわれの認識の対象となるのは現象界のみだというカントの立場には、このような哲学史的意義が込められていると竹田は考えます。

 

ただし竹田は、カントの「純粋理性の二律背反」の議論が果たした大きな役割を認めつつも、カントが現象界を越えた「物自体」という発想を切り捨てることができなかったことを指摘し、なお「本体」の観念の完全な解体にはいたっていないと批判していました。「本体」の観念を完全な解体は、現象学の登場によってようやく果たされることになります。フッサールは、「カントの本質的モチーフ」*20を受け継ぎつつ、認識の問題を「確信成立の条件」という発想で考えなおすことで、近代哲学の「主観‐客観」のアポリアを廃棄することに成功したのです。竹田はこうしたフッサール現象学の意義を、次のように説明しています。

 

フッサール認識論の根本のアイディアは、そういう誤解が広まっているが、絶対的、客観的な認識の基礎づけということとは無関係である。現象学的還元の本義は、「共通認識」が成立するための認識論的な条件を取り出すという方法にある。つまり、カントが、感性、悟性、理性、カテゴリー、図式、原則、といった諸概念を人間の認識装置の枠組として独自の仕方で構想したのに対して、フッサールは、誰もが同じ仕方で取り出せる「確信成立」の条件の共通構造だけを記述するという方法でこれをやり直している。
 このアイディアによって、フッサールは(通説とは異なって)、客観認識、あるいは普遍的認識の可能性を、「人間間の共通確信の成立の可能性の条件」として定義しなおしたのである*21

 

フッサール現象学は一切の認識を「確信形成」(「超越」の内的形成)の構造として解明し、そのことで認識の「普遍性」の概念を伝統的な「本体認識」の観念と完全に分離したかたちで理解することを可能にする。現象学による認識論的解明によって、はじめて、ヨーロッパの「形而上学」と一切の独断論は、どんな思想的相対主義を解することなく解体されるが、まさしくそのことでこの解体は、一切の懐疑論相対主義の終焉をももたらすのである*22

 

さて、竹田はこうした現象学の立場を継承しますが、フッサールがなお主知主義的な立場にとどまっていたことを批判し、フッサールを乗り越えていかなければならないと考えます。彼は、ニーチェハイデガーの思想をもとに「欲望相関図式」の発想を提示し、これにもとづいて人間の実存的なありようを「エロス的原理」として理解しようとします。そのうえで彼は、このような観点からカントの認識論に対する批判をおこないます。

 

 たとえばカントでは、人間悟性が「原因‐結果」というアプリオリなカテゴリーを内在しているのでなければ、自然科学の広範な客観性が現われることを説明できないことになる。しかし現在の哲学的知見からは、「原因‐結果」という概念は、生活の中でたえず不安を縮減しエロス的合理性を追求しようとする、人間的身体の普遍的な共通性という点から十分に説明できるので、人間の観念の「アプリオリな形式」であるとする必要はなくなる。カテゴリーがこの四つであるというカントの“先験的”証明(先験的演繹)も、十分に成功しているとは言いがたいかも知れない*23

 

ここで竹田は、カントの考察したカテゴリーの超越論的な機能は、エロス的原理へと還元することができると主張しています。しかしこのような理解は、ほんとうにカントの超越論哲学の意義を正しくとらえたものといえるのでしょうか。

 

カントの考えにもとづくならば、カテゴリーをエロス的原理へと還元するべきだという竹田の主張は、けっして認められないものといわざるをえません。そのことが明確に述べられているのが、『判断力批判』における次の文章です。

 

 快ないし不快の感情のある規定が感覚と呼ばれる場合、この表現は、私がある事物の表象(認識能力に属する受容性としての感官による)を感覚と呼ぶ場合とは、まったく別のことを意味している。というのも、後者の場合、表象は客観に関係づけられるが、前者の場合では、表象はもっぱら主観へと関係づけられ、認識にはまったく役立たず、また主観がそれによってみずからを認識するようなものにも役立たないからである。
 〔・・・〕草原の緑色は、感官の対象の知覚としての客観的感覚に属する。しかしこの緑色の快適さは主観的感覚に属し、これによってはどのような対象も表象されない*24

 

草原のあざやかな緑の色彩がわれわれにあたえる快適さは、「主観的感覚」以外のなにものでもありません。しかし、「私は考える」という超越論的統覚の働きにもとづいて「この草原は緑である」という判断が成立するとき、われわれは経験的な地平からカテゴリーの存在する論議的(diskursiv)な地平に参入していることになります。そしてこのときはじめて、われわれはみずからの〈権能〉にもとづいて、みずからの判断の客観的妥当性を要求することができるようになるのです。これに対して、エロス原理にもとづく快・不快の感情にはそうした客観的妥当性を要求する〈権能〉を認めることはできず、どこまでも「主観的感覚」でしかないといわなければなりません。

 

先に見たように竹田は、カテゴリーの超越論的機能をエロス的原理に還元するべきだと主張していました。しかしこうした主張は、カントの超越論哲学によって切り開かれた客観的妥当性の成立する論議的な問題領域を、ふたたび閉ざしてしまうものだといわなければならないでしょう。

 

竹田は、「カントの「形而上学的問い」の根拠の解体にもかかわらず、その意義が十分に理解されているとは言えないために、哲学における形而上学的な独断論相対主義懐疑論の対立は現代哲学においても続いている」*25と述べていました。そのような例として、竹田はデリダの「差延」にかんする議論をあげています。そこでは、「認識の形式化を意識的におし進め、それを論理的なパラドックスに追い込んで、むしろ積極的にその不可能性を証し立てる」*26ということがおこなわれています。しかし竹田によれば、こうした議論は「客観的認識の不可能性を「論理の不可能性」によって示すのだが、決してそれ以上を言うことができない」*27といわれており、懐疑論の立場にとどまっていると批判されることになります。こうして竹田は、ポストモダン思想は「本体」の観念の解体に成功していないと結論づけています*28

 

竹田は、カントの『純粋理性批判』における「純粋理性の二律背反」の議論を高く評価し、これによって独断的形而上学の立場とヒュームのような懐疑論の立場との相克が乗り越えられたと述べていました。そのうえで、デリダに代表されるようなポストモダン思想においてはカント哲学の意義が十分に理解されておらず、懐疑論の立場にとどまっているという批判がなされていました。しかし、前回われわれががカントの議論の検討を通じて明らかにしたように、カントの批判していた懐疑論とは、われわれの判断における客観的妥当性に目を向けず主観的妥当性しか認めない、ヒュームのような立場のことを意味していました。経験される事象のあいだには因果関係のような必然的な絆などどこにも存在していないというヒュームの主張に対してカントは、経験の可能性の条件を問い尋ねるという方法によって、悟性のうちに因果性のカテゴリーが存在していることを明らかにし、ヒュームの立場をしりぞけたのです。そしてこのような批判は、客観的な〈正しさ〉を〈主観的確信の内における正しさ〉に切り縮めてしまう竹田現象学の立場に対しても向けられなければならないでしょう。

 

カントの批判の対象となっていた懐疑論の立場は、竹田の批判するポストモダン思想よりもむしろ竹田自身の立場にこそ当てはまるといわなければなりません*29。竹田は、「本体」の観念の解体という彼自身の哲学史観にもとづいて、カントの「純粋理性の二律背反」の議論に高い評価をあたえていましたが、こうした竹田の解釈はカント哲学の全体像を踏まえたものとはいいがたいように思われます。

*1:竹田青嗣プラトン入門』(2015年、ちくま学芸文庫)25頁

*2:竹田『プラトン入門』28頁

*3:竹田『プラトン入門』46-47頁

*4:竹田『プラトン入門』39頁

*5:竹田『プラトン入門』40頁

*6:竹田『プラトン入門』43-44頁

*7:竹田青嗣『欲望論 第1巻 「意味」の原理論』(2017年、講談社)20-21頁

*8:竹田『欲望論』第1巻、18頁

*9:A I 高峯訳『カント純粋理性批判』17頁

*10:ただし岩崎武雄は、『カント『純粋理性批判』の研究』のなかで、「二律背反の二つの立場は、理性が宇宙論的理念を求めて二つの仕方で理性統一を行うということからではなく、理性統一を認めるか認めないかということから生ずるものと言うべきである。定立の立場と反定立の立場との相反は決して無制約者を求める理性自身の二つの立場の相反ではなく、理性の立場と反理性の立場との相反、あるいは、あくまでも絶対的統一を求めようとする理性の立場と、それに反対してこのような絶対的統一を認めずどこまでも被制約者の領域を越え出まいとする悟性の立場との相反であると言わねばならない」(『岩崎武雄著作集』第7巻(1982年、新地書房)413頁)と批判しています。じっさいカント自身も、二律背反の生じる理由について、次のような説明をしています。「このような弁証的理説は経験概念における悟性統一に関するものでなく、単なる理念における理性統一に関するものである。そしてこれらの理念の制約は、それらがまず規則に従う場合としては悟性に合致すべきであり、しかも同時に総合の絶対的統一としては理性に合致すべきことであるから、それらが理性統一に適応する場合には悟性にとって大に過ぎ、また悟性に適当する場合には理性にとって小に過ぎることとなろう」(A422/B450 高峯訳『カント純粋理性批判』313-314頁)。

*11:A415/B443 高峯訳『カント純粋理性批判』310頁

*12:A426/B454 高峯訳『カント純粋理性批判』315頁

*13:A427/B455 高峯訳『カント純粋理性批判』315頁

*14:A434/B462 高峯訳『カント純粋理性批判』320頁

*15:A435/B463 高峯訳『カント純粋理性批判』320頁

*16:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』282頁

*17:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』387-388頁

*18:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』388頁

*19:竹田『欲望論』第1巻、145頁

*20:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』391頁

*21:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』392頁

*22:竹田『欲望論』第1巻、25-26頁

*23:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』82頁

*24:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 5, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1913, S. 206 牧野英二訳『カント全集 8』(1998年、岩波書店)59-60頁

*25:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』287頁

*26:竹田『意味とエロス』15頁

*27:竹田『意味とエロス』16頁

*28:他方、ドゥルーズ中沢新一の思想については、「一種のカント主義」(竹田『意味とエロス』16頁)だという断定がなされています。ただしこのばあいの「カント主義」は、物自体という「本体」の観念を抱え込んでいるという、悪しき意味で用いられていることに注意しなければなりません。ドゥルーズや中沢の思想を簡潔にまとめると、「自然が常に無限な多様体として、人間の認識を越え出る形で生成変化する」(竹田『意味とエロス』18-19頁)ということができると竹田はいいます。しかしこれは、「一方に「あるがままの現実」(=物自体)が存在し、もう一方に、制約された人間の認識形式があり、この両者は〈一致〉しない」(竹田『意味とエロス』19頁)という主張であり、けっきょくのところ「「あるがままの現実」が客観存在するという前提から考えはじめている」(竹田『意味とエロス』20頁)と竹田は批判します。

*29:石川輝吉は著書『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』において、竹田からの思想的影響のもとでカント哲学の解釈をおこなっています。そこでは、「経験論の完成者としてよく知られているヒュームは、〈ひとそれぞれ〉の主観以外にはなにも確かなものを認めない」(石川輝吉『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』(2009年、NHKブックス)50頁)としたうえで、カントの試みを「〈ひとそれぞれ〉の主観を認めながらも、同時に、だれにも共通なもの、普遍的なものを探ろうとする努力だと考えたほうがいい」(石川『カント 信じるための哲学』109頁)と主張します。さらに彼は、カントの超越論哲学について、次のような説明をおこなっています。「カントが「超越論的哲学」と言う場合、それは、ただたんに主観だけを確実とする哲学を意味しない。むしろ、その主観のなかに人びととの共通のものを探る態度のことなのだ」(石川『カント 信じるための哲学』109頁)。しかしこうした解釈は、カントがヒュームを批判する際に、主観的妥当性と客観的妥当性を明瞭に区別していたことを見落としており、超越論哲学の意義そのものを否定するものだといわなければならないでしょう。石川は「厳密に言えば、カントが取りだす認識の共通構造とは、あくまでも、カントにとって、共通にもっている「と思われる」構造にすぎない。だから、このカントの試みは、〈ひとそれぞれ〉のなかに〈普遍性〉を探るひとつの「努力」と考えたほうがいいのだ」(石川『カント 信じるための哲学』110-111頁)と述べていますが、ここには竹田と同様に〈正しさ〉を〈主観的確信の内における正しさ〉へと切り縮めてしまう誤りがあるように思います。