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竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (5)

雑考 IV

「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれている思想の構築にもっとも大きな影響のあった哲学者は言うまでもなくフッサールですが、ハイデガーもそれに劣らず重要な哲学者です。竹田は「フッサールが示した認識論上の限界点という現象学のモチーフを、最も深いところで受けとったのは、メルロ=ポンティでもなくサルトルでもなく、マルチン・ハイデガーである」*1と述べており、とりわけ「エロス」や「欲望」といった彼の思想の中心的な概念は、フッサール以上にハイデガーからの影響のもとで作り上げられていったと言ってもよいのではないかと思います。そこで今回は、前回も参照した『意味とエロス』の他、『ハイデガー入門』を参照しながら、竹田がハイデガーの思想をどのように受け取ったのかを見ていきたいと思います。

 

まずは、竹田がフッサールからハイデガーへと考察の対象を移していく経緯をたどっていくことにしましょう。フッサールは還元という操作によって意識現象へと目を向け、その中で私たちが抱くさまざまな確信の根拠となっているものを見いだそうとします。竹田によれば、それは私たちの意識のうちで了解される〈意味〉にほかなりません。

 

 『イデーン』における「純粋自我」の概念が明らかにしたことは、存在妥当は〈意味志向‐意味充実〉という構造の中で成立するが、それは同時に、意識現象は〈意味〉という認識上のつきあたり(限界点)を持つ、ということだった。だがこのとき、ひとつひとつの事象の〈意味〉がどのように構成されるのかと考えるならば、「純粋意識」の内側からはそのことについて何ひとつ導き出すことができない。ひとつの〈意味〉は、ひとりの人間が具体的に生きて(生活して)いることの意味連関からしか現われ得ないからである*2

 

しかしながら、〈意味〉は単に客観的な事実に関する私たちの確信を支えているだけではなく、同時にさまざまな実践的価値を含んでいるはずだと竹田は主張します。彼が参照しているのは、フッサールの次のような言葉です。

 

この世界は、私にとって、一つの単なる事象世界として現にそこに存在しているのではなく、同じ直接性において、価値世界、財貨世界、実践的世界として、現にそこに存在している。私の眼前の所持物が、事象としての諸性情を具えているのと同様に、価値の諸性格をも具え、つまり、美しいとか醜いとか、気に入るとか気に入らないとか、快適なとか不快なとか等々といった価値の諸性格をも具えていることを私が見出すのは、造作ないことである。直接的には諸事物は、実用品として現にそこにある。例えば、「書物」を載せた「机」とか、「コップ」とか、「花瓶」とか、「ピアノ」とか等といったようにである*3

 

竹田は『ハイデガー入門』の中で、こうした事態を「欲望相関図式」*4と呼ばれる枠組みによって理解しています。この点に関する竹田の説明を簡単にたどってみましょう。

 

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

 

 

竹田によれば、近代哲学の最大のアポリアは「主観‐客観」問題でした。これは、人間の認識能力は、果たして客観的現実を正しく捉えていると言えるのかという問題です。この問題に対してカントは、人間の認識能力は「物自体」を捉えることができず、みずからの感性と悟性によって規定された「現象界」しか認識することができないと結論づけました。竹田は次のように説明しています。

 

 カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在」は、それぞれの“身体性”(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望能力の形式)に応じて違ったものになるはずだ。
 人間にとっては、それは「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在」でしかない。トンボには、丸い形だけは認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバにとってそれは、“丸いもの”ですらなく、もっと他の「存在」だろう*5

 

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(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

竹田はカントの認識論のポイントを2点にまとめています。一つ目は、「人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であるということ」*6であり、もう一つは「世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されていない)だけだということ」*7です。

 

こうした認識問題における「カント図式」に大きな転換をもたらしたのが、ニーチェでした。竹田は次のようにその意義を説明します。

 

 ニーチェは当然神を認めない。すると、つまり、存在するさまざまな生き物な生き物の数だけ多様な経験される「世界」が存在する、ということになる(これは要するにさまざまな「生きられている世界」が存在するだけだ、ということでもある)〔中略〕
 カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために、「客観世界」を認識できない。これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「入り」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。「客観世界」というものは存在しない。もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在」を受け取っているだけである……*8

 

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(竹田『ハイデガー入門』63頁)

 

ニーチェによって発見されたこうした新しい見方が、「欲望相関図式」です。そして、フッサールから受け継いだ現象学的な問題設定を、ニーチェと同じような欲望相関的な観点から新しく捉えなおしたのがハイデガーだったと、竹田は理解しているのです。

 

竹田は、ハイデガーの「気遣い」という概念の意義を、このような観点から理解しています。『存在と時間』では「気遣い」について次のように述べられていました。

 

現存在の存在が意味しているのは、(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈自分に先だって存在していること〉なのである。このように存在していることによって、気づかいという名称の意義が充たされるのであって、その名称はそのさい純粋に存在論的‐実存論的に使用されている*9

 

竹田によればこの「気遣い」という概念は、フッサールの問題を欲望相関的観点から捉え返したものにほかなりません。

 

 〈意識〉の「根本性格」を、すでに見たようにフッサールは、「志向性」として示した〈意識〉は本質的に〈志向体験〉としてのみ捉え得る。この構造は、〈意味志向‐意味充実〉(ノエシスノエマ)という相関構造である。これはまた、〈意識〉の内部でのみ、〈私〉(主観)と〈世界〉(事物)という公が成立することをよく示している。
 ハイデガーは、この〈私〉と〈世界〉の本質的相関を、「気遣い」という概念で言いあてようとする。
〔中略〕
 「気遣い」とは、さしあたって言えば、人間が「つねにすでに」〈世界〉(対象世界)に対して、さまざまなレベルでの関心、心配、希望、欲求、意志、感情等を向けて生きているというあり方を指している*10

 

欲望相関図式に基づくこうした竹田のハイデガー解釈は、ユクスキュルやシェーラーからハイデガーへの影響を重視する木田元の解釈に基づいていると言ってよいと思います*11

 

ハイデガーの思想 (岩波新書)

ハイデガーの思想 (岩波新書)

 

 

木田は、ハイデガーにおけるユクスキュルやシェーラーからの影響について、さまざまな著作の中で繰り返し述べています*12が、それらの議論をまとめると、おおむね次のように述べることができます。

 

ユクスキュルの「環世界」論によれば、ダニやミツバチといった動物は、外部からの刺激に因果的・機械的な仕方で反応しているのではなく、それぞれの種にとって有効な刺激の総体から成る固有の環境を生きているとされます。つまり、ダニにはダニの環境があり、ミツバチにはミツバチの環境があると考えられています。生体が種に固有の環境に適応して生きていることを、シェーラーは「環境繋縛性」と呼んでいます。これに対して人間は、そのときどきの具体的な状況から自由であるとシェーラーは考え、こうしたあり方を「世界開放性」と呼びました。そして木田によれば、ハイデガーの「世界内存在」という概念には、シェーラーのこうした考えからの影響が認められるとされています*13

 

竹田は、こうした木田の議論を念頭に置きながら、「欲望相関図式」に基づくみずからのハイデガー解釈を描き出そうと試みています。『意味とエロス』では、言語哲学者である丸山圭三郎の『文化のフェティシズム』の次の文章を参照しています。

 

文化のフェティシズム

文化のフェティシズム

 

 

動物たちにとっても、意味以前の裸のデータともいうべき客体が存在するわけではないのだ。ダニにはダニ固有の、イヌにはイヌ固有の〈意味=現象〉群が存在していて、それらがその種独自の世界を形成しているのであるが、いずれの世界がより客観的でも物理的でもなく、これまた彼らの〈生への関与性〉次第で存在もし、非在化もする。多くの動物は、何らかの音を聞いた際それを一定の視覚対象に帰属させる構成をもっているという、ユクスキュルJ. von Uexkuellが挙げた例を一つだけひこう。トカゲは枯葉の音ならどんなにかすかなものであれひどくびくつくのに、そばでピストルを発射されても全く反応しない。何故なら、そのような音響と結びついているような危険の要素は、トカゲ本来の環境には存在しない、つまりこの物音はトカゲにとって〈意味=現象〉ではなく、彼の刺激閾の向う側にしか存在しないからである*14

 

丸山は市川浩から「身分け」という概念を受け継いでおり、その説明をおこなう際にユクスキュルの「環世界」の考えに触れているのですが、竹田はここから「欲望相関図式」という発想を導こうとしています。たとえば次の文章が、こうした竹田の考えの筋道をよく示しているように思われます。

 

 「身体」として存在すること、それはつまり、世界とその諸対象を常に快苦原理によって区分(分節)している、ということである。「身体」として存在することはまた、「欲望」や「関心」や「配慮」として存在することでもあり、それはつまり、世界とその諸対象の中につねに何らかの目標を見出し、またある可能性の意味連関としてそれらを把握し、秩序づけている、ということだ。すなわち、世界とその諸対象が、たえずそのつどそのつどの「欲望=関心」の相関者として存在していること、このことが、世界やその諸対象がさまざまなレベルでの「意味」を帯びて現われることの“根拠”なのである*15

 

ダニやミツバチが、それぞれの種に固有の身体ないし器官に応じて周囲の環境を分節し秩序づけているように、人間はそのつどの「身体」や「欲望」、「関心」、「配慮」のあり方に応じて、この世界を「意味」づけています。あるいは端的に、「「意味」の受け取りが可能であるのは、人間がつねにすでに「身体・欲望・関心・配慮」として存在しているからだ」*16とも述べられています。

 

竹田はこのように欲望相関的な観点から、ハイデガーの「道具的連関」についての説明を解き明かしていきます。「人間がつねにすでに「配慮的な気遣い」として「存在」していること、言い換えれば、身体・欲望・関心といった原理で存在していること、このことが事物存在を道具性、道具連関、有意義連関とおいう「存在」として現出させる」*17のです。

 

ハイデガーはハンマーを例に道具的連関性の説明をしていますが、竹田はテレビを例に取り上げます。部屋にあるテレビは、客観的な「存在」としては「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」として捉えられていると彼は言います。ところが、「配慮的な気遣い」に基づいてテレビを理解するとき、それは映りが悪くて見づらいテレビであったり、部屋の割りに大きすぎてうとうしい調度だったりします。さらに、夜中に物音で目を覚まし、家の中に泥棒が忍び込んでいるのではないか、と考えているときには、テレビは身を守るための武器としての「存在意味」を露わにします。竹田はこのような例によって説明した上で、「テレビは、まさしく〈私〉の「配慮的な気遣い」から、言い換えれば、〈私〉の実存的な「いまここ」の地点から見られた「道具存在」だと言えるのである」*18と結論しています。ここで竹田は「実存」という言葉を用いていますが、彼がハイデガーを評価する最大の理由となったのが、この「実存」の立場を確立したことだと言ってよいと思います*19

 

ハイデガーの「実存」について、竹田は次のように理解しています。

 

 事物存在は、いつも必ずそれが人間にとって持つ〈意味〉の連関として、つまり「道具連関」としてのみ捉え(規定され)得る。〔中略〕ところで人間存在は、むろん〈意味〉連関として捉えることも可能だが、むしろ本質的にこの〈意味〉連関を生み出し、秩序づける原因である。この事態をどう言い表わせばいいか。ハイデガーはそれを〈実存〉と呼ぶ*20

 

つまり、みずからの身体や欲望、関心、配慮に基づいてこの世界におけるさまざまな事物を意味づけ秩序づけている私たちの存在のあり方が、「実存」という言葉で理解されているのです。竹田の「欲望」や「エロス」という言葉には、意味や価値を付与する審級という意味が込められていると言えるでしょう。たとえば『意味とエロス』の中には、「〈欲望〉という概念の最も中心の狙いは、それが、個別的な〈意識〉、〈意味〉、〈身体〉の現象学的考察にとどまらず、それらの領域を底で支えている諸価値(審級性)の問題を明らかにする点にある」*21といった説明が見られます。より詳しい説明として、次の文章を引用しておきます。

 

〈欲望〉とは、簡単に言って、そこにおいてはじめて、さまざまな「存在者」の存在が問題となるような境位である。ものの世界が現存在にとって「道具連関」として現われるのは、人間が、さまざまなレベルで〈欲望〉を持つからだ。この欲望をメルロ=ポンティ流に〈知覚〉と呼ぼうと〈身体〉と呼ぼうと、ハイデガーのように「気遣い」と呼ぼうと同じことである。ただこの分析不可能な中心を〈意識〉と呼べばコギト主義を孕むし、また単に〈身体〉というとフッサールの言う“志向性”のニュアンスが削がれてしまう。それは、「事物』一般が客観的に存在するという、ごく普通の世界像(これはいわば人間の原信憑なのだ)を現象学的に「還元」することによって得られるものであって、逆に言えば、なんらかの固有の〈欲望〉がはじめて「事物」に固有の〈ある〉という規定を与え、さらに、この固有の〈欲望〉にとっての固有の〈ある〉が、客観化され、共同化され、普遍化されることによって、「事物一般の客観的存在」という「世界像」が人間のうちに形成されることになるのである*22

 

このように、竹田の「欲望」の概念は、フッサールの「志向性」と同様、客観的世界という描像の根底に位置づけられています。しかし、それは単に私たちの客観的世界の理解を可能にしているだけではなく、この世界の中で私たちが出会うさまざまな事物が意味や価値を帯びて見いだされることの根拠にもなっているのです。竹田は、「人間の〈欲望〉は〈意味〉への欲望であり、しかもそれは〈快苦〉、〈美醜〉、〈よいわるい〉といった情動性をつきまとわせている」*23と述べています。「欲望」とともに、竹田欲望論の中核となっている「エロス」という概念も、このような意味を持っています。

 

 わたしがエロス性という言葉で示したいのは、〈世界〉が、〈私〉にとって単なる実在やその関係としてではなく、快苦、美醜、倫理性の価値関係として、つまり、つねにすでに色づけられて現われてくるようなそういった〈私〉と〈世界〉の関係上の原理にほかならない。この原理は、人間の「経験」が必ず〈意味〉として現われ出ることの根本的な基礎をなしているとともに、〈実存〉という概念のいちばん重要な土台でもある*24

 

私たちは、フッサールの「志向性」からハイデガーの「実存」への展開をたどりながら「竹田欲望論」と呼ばれる立場を確立していく竹田の考察をたどってきました。竹田はフッサール現象学を学ぶことで、この世界についてのさまざまな確信が成り立つ条件について考察しました。さらにハイデガーの「実存」に関する思想から、「快苦」「美醜」「善悪」といった価値によって私たちを取り巻いている世界が彩られていることを発見しました。こうして彼は、フッサール現象学の窮屈さを脱して、エロス的な価値に色づけられた豊饒な世界を切り開くことになったのです。

 

〈欲望〉という概念は、ロジカルには、フッサールの「超越論的主観」という言葉を言い換えたものにすぎない。この言い換えはふたつの契機を持っている。ひとつはこの言葉が持っている、純粋でアプリオリな自我という、カント的な色彩を脱色するということ。そしてもうひとつは、〈主観〉は、世界と知的に関係しているのではなく、エロス的に関係しているということである。だから、わたしの言う超越論的欲望は、フッサールの超越論的主観を、認識論から実存論にそのまま位相変容したものにほかならない*25

 

彼はまた、「超越論のつきあたりを、単なる〈意識〉ではなく〈欲望〉として捉えるとき、私たちは、ロマン、エロス、美としての世界、という領域を、純粋理性、実践理性という二分法に陥ることなく、一貫して了解するような展望にはじめて踏み込むことができるはずである」*26と述べていますが、この文章の意味も、私たちがこれまでたどってきた竹田の思索の道筋を顧みれば明らかであるように思います。

 

*1:竹田『意味とエロス』77頁

*2:竹田『意味とエロス』97頁

*3:竹田『意味とエロス』105頁より孫引

*4:竹田『ハイデガー入門』45頁

*5:竹田青嗣ハイデガー入門』(講談社選書メチエ、1995年)63-64頁

*6:竹田『ハイデガー入門』64頁

*7:竹田『ハイデガー入門』64頁

*8:竹田『ハイデガー入門』64-65頁

*9:ハイデガー存在と時間』第2巻、390頁

*10:竹田『意味とエロス』82頁

*11:とはいえ、竹田はこうした木田の解釈に全面的に従っているわけではありません。『ハイデガー入門』には、次のように述べられています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、この「配慮的な気遣い」の観点とヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」(あるいはM・シェーラーの「環境繋縛性」)の概念との近親生徒影響関係を指摘している。時代的にもその影響関係はあるに違いない。ただ、ユクスキュルの「環境世界」は、動物の身体構造と自然世界との存在相関性を説いたもので、人間の場合、身体性も欲望もいわばそのつど性を持っていて固定的ではない。そういう意味で、ハイデガーの「気遣い」はニーチェフッサール的な観点において理解するのがいっそう適切だと私は思う」(竹田『ハイデガー入門』61頁)。

*12:木田元ハイデガーの思想』(岩波新書、1993年)82頁以降、『ハイデガー』(岩波現代文庫、2001年)52頁以降、『ハイデガー存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)45頁以降など

*13:木田は、1925年から26年にかけておこなわれた講義『論理学―真理への問い」や、1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本問題―世界・有限性・孤独』などに、ユクスキュルやシェーラーからの影響があったことが確かめられるとしています。

*14:丸山圭三郎著作集』第2巻(岩波書店、2013年)298頁

*15:竹田『ハイデガー入門』174-175頁

*16:竹田『ハイデガー入門』174頁

*17:竹田『ハイデガー入門』71頁

*18:竹田『ハイデガー入門』60頁

*19:ハイデガー本人はみずからの思想を「実存哲学」として理解されるのを拒否していましたが、竹田はこの点について次のように述べています。「木田元は『ハイデガーの思想』で、ハイデガーが『存在と時間』が当初「実存思想」の」原典のように受け取られたことに拒否感を示し、自分の狙いはあくまで「存在一般の意味の究明」にあったと力説している点を指摘している。たしかにその通りだが、ただハイデガー自身の見解とその思想の影響とは必ずしも一致しないので、『存在と時間』における実存論が圧倒的に実存思想として影響を与えたことは疑えないと思う」(竹田『ハイデガー入門』11頁)。また竹田はこの本の中で、ハイデガーの後期思想を「実存」の立場からの後退だとして、批判的な立場から解釈をおこなっています。

*20:竹田『意味とエロス』78頁

*21:竹田『意味とエロス』85頁

*22:竹田『意味とエロス』200-201頁

*23:竹田『意味とエロス』157-158頁

*24:竹田『意味とエロス』124頁

*25:竹田『意味とエロス』165-166頁

*26:竹田『意味とエロス』167-168頁