竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (8)

前回は、竹田がフェミニズムからの問題提起に対してどのようなスタンスを取っていたのかということを見てきました。そこでの狙いは、具体的な局面を設定することで、ポストモダン思想などによる「先構成批判」に対して竹田がおこなっている反批判の問題点を明らかにするための準備をすることでした。また、同じような意図から、竹田と同様に実存的な立場からフェミニズム批判をおこなっている小浜逸郎の議論を概観しておきました。今回は、小浜とフェミニズムの間でなされた論争を見ていくことで、彼の実存主義的な思想が抱え込んでいるのではないかと思われる問題について考えてみたいと思います。

 

社会学者の浅井美智子は、小浜の「エロス的関係」*1という概念が吉本隆明の「対幻想」を現象学的な観点から捉え返したものだと指摘し、これに対する批判をおこなっています。彼女は、「結局、「エロス的関係」というのも、母性幻想に収斂するような彼個人の「実感」でしかないことがわかる」*2と言い、小浜の「実感信仰」を批判するのですが、まずは、彼女が批判の対象にしている小浜の議論を確認しておきましょう。

 

小浜は、「たとえば家庭内で、妻が家事・育児にてんてこまいをしているかたわら、夫がなすこともなくタバコをふかしていたりぼんやりテレビを見ていたりする場合、あるいは共稼ぎなのに家事・育児の負担が妻の方に過重にかかってしまうような場合、それを〈差別〉と呼ぶべきだろうか」*3と問いかけ、次のように述べています。

 

可能性としての家族

可能性としての家族

 

 

しかしエロス的な生活過程というのは、対の関係の特殊な相互了解によって作りあげられるさまざまな局面の永い一連の過程の全体であるから、そこだけをとりだして現象的不平等をあげつらってみても、どうもそういう一般的定式で片づくものでもないという気持ちがはたらく。家では何もしない亭主というのがいても、もし女房が別にそれで自分たちの関係はいい(あるいはしかたない)と思っているのだったらいいではないか、と言いたくなるのである*4

 

また別のところでは、小浜は次のような例をあげています。

 

 古い言いぐさに、男は三人の「ママ」をもつというのがある。母親、女房、そしてバーのママである。日本の男のマザコン性や甘ったれ根性やだらしなさを嘲笑するために作られたようなこの表現は、それだけで男に対して、「もっとしっかりしなくちゃ」という強迫観念や、逆に「しょうがねえもんだな」というあきらめ感を喚起する。〔中略〕
 しかし、よくよく考えてみると、ある男が社会的にきちんと一人前でありつつ、男であるがゆえに「母性」をどこかで求めているとしたら、その事実は、性愛関係にとってそれほど悪いことであろうか。私はそう思わない。相手の女が男のこの求めを無意識的によく察知して、いわゆる「母性本能」をくすぐられ、それを媒介として性愛関係のうまいかみ合いが成立するなら、この〔中略〕関係のあり方それ自体は、祝福されるべきことでありこそすれ、何ら非難されるべきことではない。闘い疲れて女の元にやってきた男が女の優しいねぎらいによって癒しを得られ、そのことに感謝して男のほうもその女の人格を尊重する感情を高め、かつ優しく振る舞うことを忘れないとすれば、それはいい関係ではないか*5

 

浅井はこうした小浜の議論に対して、「個別男女の対の関係において、女が男の母親をやってしまうのは勝手だが、この論の行き着く先が「女性が甘え、男性がミエをはる」というような男女関係の容認であ」*6るということを指摘した上で、次のように述べます。

 

このような言説にフェミニストが怒るのは当然としても、一男性の抱く個別対幻想の一般化は、現にある抑圧(女は社会で男にいばられ、家庭で夫という子どものわがままに抑圧される。そして、男は社会で「男である」というミエに脅迫され、家庭においては母性を幻想するがゆえに妻に搾取される)を保持強化することに加担するのである*7

 

浅井は、主観的な確信にすぎない「実感」を思想的な足場にする小浜の主張に対して、上野千鶴子吉本隆明批判*8を参照しながら、「「実感」自体は歴史的・文化的につくられたものであり、それはゆがめられたものであるかもしれない」*9ことを指摘します。その上で、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」*10ことが必要だと主張しています。

 

こうした浅井の小浜に対する批判は、果たして的確なものと言えるでしょうか。なるほど小浜は、みずからのエロス的な心の感得のありようを見つめることで、男女のあり方の〈本質〉的な差異を明確な言葉にもたらそうとしているという意味では、「実感信仰」の立場だと言えなくもありません。たとえば小浜は、「産む性」としての女の〈本質〉について、次のように語っています。

 

 子どもを産むということは、私の想像では、自分のエロス的な生活の時間の目盛りを、うんと長い未来にまで延長し、しかも同時にその性的な行動の領域をきわめて具体的な形で限定して見せることにつながってくると思う。自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受け取ってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である、長い物語を与えられたのである*11

 

だから、「女は自分が女であることのアイデンティティの危機を経験することが相対的に少ない」*12と小浜は言います。これは、子を産み育てていく長い時間が、「女」であることのアイデンティティを規定しているということにほかなりません。

 

これに対して、「男には、自分の未来時間の長い射程を、自分のエロス的な身体のあり方を軸として、一定の分節をもって物語化していけるような条件が与えられていない」*13と小浜は言い、次のように論じています。

 

 彼にとって、個別愛が成立する可能性は、自然なものよりも、むしろ後から観念として作られる倫理性のほうに大きくかかっている。男が一人の女のまえで、長い間彼女にとっての男であるためには、それこそ「男のなんとか」とか、「それでこそ男だ」などと形容されるような、一種気取った意識的な「決意」のようなものが要求されてくるのである。
 これらの「決意」のようなものは、本当は時間的空虚の穴埋めにほかならない。つまりそれらは、長い人生時間を通じて男であることのアイデンティティを保持することがいかに危ういものであるかという事実を逆説的に証明する材料以外の何ものでもない。もともと女との濃密なエロス的時間を共有していないときの男というのは、自分が男であることを確認する手立てなどもっていないのである*14

 

その上で小浜は、長い人生時間を通じて「男」としてのアイデンティティを保持することのできない男性が、彼の人生のとぎれた時間を埋め合わせようとして、社会的な領域におけるアイデンティティの獲得へと向かったのではないかと主張します。つまり、「男のセクシュアリティの特性と、彼が社会的な(それゆえある場合には権力的な)生き方を人生の主要部分としてしまうこととの間には、なかなかに超え難い関連性がある」*15というのです。

 

自己の内における実感に基づいて男女のあり方の〈本質〉を決めつけるような言説に対して、フェミニズムは繰り返し批判をおこなってきました。その際、現在の社会において当然視されている実感は、じつは特定の社会や文化の中で構成されたものにすぎず、動かすことのできない〈本質〉ではないということが指摘されます。しかし小浜は、そうした批判について、「私は常々、こういう論理の出し方にうさんくさいものを感じてきた」*16と述べます。

 

もしも小浜が、彼の個人的な実感を無反省に人類にとって普遍的なものであるかのように論じているのであれば、そうした実感が歴史的に「作られた」ものにすぎず、けっして普遍的なものではないと指摘することは、有効な反論になりえたでしょう。しかし小浜の立場は、こうした素朴な実感信仰とは一線を画しています。彼の著作の中には、たとえば次のような文章を見出すことができます。

 

 一般に、フェミニズムに象徴される現代の知性の一つのパターンとして、これこれのあり方は、歴史的に作られ、仕組まれてきたにすぎないといったことをことさらに強調するやり方がある。たとえば、「専業主婦」は近代になって初めて登場した、といったたぐいの指摘がそれである。
 しかし、この種の認識はたかだか相対的にしか正しさをもっていない。それを、絶対の真実であるかのように思い込ませるものは、現在の枠組を是が非でも変えなくてはならないと思っている実践的な関心と欲望である。つまり、現在自然と思われていることがいかに根拠の浅いものであるかということを証明して見せなくてはならない、というように、この実践的知性は働くのである。真実がまずあるのではなく、関心と欲望にしたがって真実らしいものがセレクトされ、絶対的真実のアクセントを打たれるにすぎないのだ*17

 

研究者たちはこれまで、従来私たちが当たり前だと思っていた男女のあり方が、じつは一定の歴史的・社会的な条件のもとで形成された、特殊な「制度」にすぎないということを、次々に明らかにしてきました。しかし人びとは、ただそれらの研究成果を知っただけでは、これまで疑うこともなく当然視してきた「制度」を問い直し新たな「制度」の実現に向けて積極的に活動をおこなうようになるわけではありません。実証的な研究の成果は、ただの歴史的な事実の提示にすぎないのです。人がそれらの研究において従来の社会のあり方に反省を迫るようなインパクトを認めるとき、彼は実存的な主体である自己の内に見出される「実践的な関心と欲望」に依拠しているはずだと小浜は主張します。

 

 私たちを驚かす歴史的文化人類学的な現実がまず厳然として存在するのではない。私たち自身の現実に対する私たちのある感情的負荷をともなった視線が、歴史的文化人類学的な実証成果を取り巻き、そのことによって初めてそれらは実践意志的な言説のなかに、ある拡大率をかけられ、またそれらがともなっていたに違いないひどさ、体験的辛さ、他のきつい掟などとの不可分の連関性などを捨象されて引き入れられるのである*18

 

こうした小浜の立場を「素朴な実感信仰」と呼ぶことは、適切ではありません。確かに彼は、実存の内において見出されるエロス的な感得、すなわち実感に依拠しています。しかし、そうした実感は歴史的・社会的に「構成」されたものだという批判によって、彼の立場を否定し去ることはできません。そのような批判に対して小浜は、既存の制度は歴史的・社会的に「構成」されたものにすぎず、変更することができるし、また変更するべきだと主張する者たちも、彼ら/彼女らの「実感」に基づいて、そうした主張をおこなっているはずだと切り返すことでしょう*19。このような小浜の立場を、「素朴な実感信仰」と区別して、「反省的・自覚的な実感信仰」と呼ぶことができるかもしれません。

 

すでに見たように浅井は、実感に依拠する小浜の立場を批判して、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」ことを求めていました。しかし、「素朴な実感信仰」ではなく「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ小浜は、こうした反省をおこなうことの必要性を認めたとしても、みずからの立場を修正する必要はないと考えるでしょう。

 

いかなる学問的な言説であっても、その妥当性を認めたり、そこに何らかの意味を見出すのは、私たちの実践的な欲望や関心なのであって、あらゆる言説はそうした実存的な地盤の上においてのみ成り立つはずだ、というのが小浜の主張でした。およそ誠実な思想家であれば、他者からの批判を受けた際に、改めてみずからの主張を検討しなおそうとする実存的な動機を持つはずです。浅井は小浜に対して、みずからの実感を徹底的に問い直すことを要求していますが、このことは彼女に指摘されるまでもなく、思想家としての小浜自身の実存的な動機に基づいておこなわれているはずだと考えられるでしょう。

 

また、仮に小浜が、自身のこれまでの主張よりも批判の方に妥当性を認めざるを得ないと判断したとすれば、今度もやはり彼自身の実存的な動機に基づいて、これまでの主張を改めることになるでしょう。そしてこのことは、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ彼にとっては、「転向」でも「変節」でもありません。彼がみずからの実存的な地盤に基づいて発言をおこなっているという点には、いささかの変更も加えられていないからです。フェミニズムからの批判の妥当性を認めた彼は、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場を少しも変更することなく、みずからの実存的な感得に依拠して、この社会のさまざまなところで目にする男女の非対称的な関係性を告発し、そうした差別をみずからの「実感」に基づいて温存しようとする論者たちに対して抗弁することになるでしょう。

 

さて、小浜の「反省的・自覚的な実感信仰」の立場をこのように理解できるとして、私たちは彼のフェミニズム批判の正しさを認めなければならないのでしょうか。確かに彼の立場は単なる「素朴な実感信仰」の問題点を克服しており、その主張には相当な説得力があるように感じられます。しかし、ここにはなお、一つの重要な問題がひそんでいるように思えます。それは、みずからの実存的な核心に依拠して既存の社会制度に対する抗議の声を上げるというとき、彼の「実感」はその抗弁を支えるような〈権原〉となることができるのか、という問題です。

 

たとえば、何らかの差別がおこなわれている場面に直面したとき、人は許せないという実感を抱くことがあります。しかし、ここで考えておかなければならないのは、差別に対して抗議の声を上げるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依って抗議の声を上げるのであって、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依って抗議の声を上げるのではないということです。彼は、「差別をなくすことが正しいから、この社会は変革されなければならない」と主張するのであって、「差別をなくすことが正しいと私が確信しているから、この社会は変革されなければならない」と主張するのではありません。

 

しかし、あまり先を急がず、ここで提出しようとしている問題が、どのような問題「ではない」のか、少し検討しておくことにしましょう。まず確認しておかなければならないのは、小浜や竹田の考えるエロス原理は純粋に個人的な快/不快に限定されるものではなく、むしろ社会的な人と人とのつながりの中にエロス的な満足を見出すことを積極的に論じていたということです。だから、もし私の感じている疑問が、「エロス原理は個人的な快/不快にすぎず、社会的な連帯の根拠とはなりえないのではないか」ということであったとすれば、それはまったく当たらないということになるでしょう。

 

また私は、「社会的な連帯をエロス原理に帰着させる小浜らの主張は、人は誰しもエゴイストであるという、人間性の本質を矮小化するような考え方なのではないか」といったことを問題にしたいのでもありません。たとえば、マザー・テレサキング牧師といった偉人たちが、その活動の中で大いなる使命感とともにある種の充実感を感じていたということは、ありそうに思えます。しかしだからといって、彼らは個人的な快を求めて活動していただけだ、と言うべきではないでしょう。そして、竹田も小浜も、けっしてこのような主張をしていたわけではないように思われます。彼らの提唱するエロス原理は、偉人たちの崇高な理念に基づく活動を利己的な欲望に帰着させるものではありません。むしろ彼らの考えるエロス原理は、まったくの利己的な欲望から、崇高な理念に基づく使命感まで、広くカヴァーする概念だと理解するべきです。だから、もし竹田や小浜のような実存の立場に依拠する論者が、差別を撤廃しようとする人々はみずからの実存的なエロス原理に基づいてそうした活動をおこなっていると述べたとしても、彼らを卑小なエゴイストに貶める発言だと理解してはならないでしょう。

 

しかし、実存的なエロス原理に依拠する小浜の立場がこれらの問題を見事にクリアしていることを認めたとしても、なお彼に対して向けられるべき問題が残っているように思われます。それは一言でいえば、実存的なエロス性が論議的な(diskursiv)意味における〈妥当性〉を持ちえるのか、ということです。小浜のような立場においても、他者とのつながりの内に実存的なエロス性を感得することは認められるでしょう。この社会は変革されなければならないと主張する人は、必ずしも彼/彼女の利己心の満足を追求してそうした主張をおこなっているわけではありません。しかし、そうした彼/彼女のエロス的な感受性を見つめそれを明確に言葉へともたらすことができたとしても、それによって社会を変革し差別をなくすべきだという主張の〈妥当性〉の根拠が示されたと考えることはできません。単なる主観的な事実としての彼/彼女のエロス的な感得は、当の主張を他の人々に説き彼らを納得させるための〈権原〉になりえないのです。

 

小浜のような「反省的・自覚的な実感信仰」の立場では、あらゆる言説の妥当性や意義はみずからの実存的な地盤の内にその根拠を持っていると考えられていました。したがって、彼が何らかの差別に対して抗議の声を上げるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依拠することはできず、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依拠するのだと考えなければなりません。しかし、〈主観的確信の内における正しさ〉は、他者に向けてその主張をおこない他者を説得する力を持つような、論議的な場面においての〈権原〉とはなりえないのではないでしょうか。

 

なお上の議論では、〈主観的確信の内の正しさ〉と〈正しさ〉を区別しました。しかしこのことは、私たちの実存とはまったく無関係にそれ自体として存在する〈正しさ〉をイデア的な実体として認める形而上学的独断に身を委ねることではありません。このことは、超越論哲学の創始者であるカントの言い回しを借りて、〈正しさ〉は主観的確信〈とともに〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではないと説明することができるように思われますが、その詳細は今後の考察を通じて明らかにしていきたいと思います。

 

さて、今回は小浜とフェミニズムの間の論争を手がかりにしながら、彼の実存的な思想的立場が抱え込んでいる問題を指摘しました。そして私の考えるところでは、この問題はフッサールの超越論的現象学の構想とけっして無関係ではありません。フッサール心理主義と論理主義の隘路を潜り抜けようと格闘していたときに彼が直面していたのは、単なる〈主観の内における妥当性〉に尽きることのない超越論的な〈妥当性〉をどのようにしてみずからの哲学の中に位置づけるのかという問題でした。竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題は、こうしたフッサールの意図を捉え損ねてしまっていることにあります。とくに彼の超越論的還元の解釈は、論議的(diskursiv)な意味における〈妥当性〉を主観の領域の内に閉じ込めてしまっているように思われます。

 

そこで次回以降は、今回の議論を踏まえた上でフッサールの議論についての検討をおこない、竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題に、さらに踏み込んで検討を加えていくことにします。

 

*1:小浜は『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)の中で、「エロス的関係とは、特定の人間個体をまさに特定の人間個体として気にかける関わりのあり方のことである」(小浜逸郎『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)と定義し、特定性に依存しない人間関係である「社会的関係」と対立する概念だと述べています。こうした小浜の「エロス的関係」は、人間相互の関係はもちろん人間以外の対象への「気遣い」をも含むような竹田の「エロス的原理」に比べると非常に狭い範囲においてのみ適用されるものだと言うことができるように思えます。ただし詳細に小浜の主張を検討すると、必ずしもそのように断言することができないのも事実です。小浜は、竹田との対談の中でみずからのエロス概念と竹田のそれとの違いに触れて、「たとえば、ここに美しい茶碗があり、それに美的に魅かれエロスを感じる場合にも、それは本当は対人的な、対人関係として捉えられたエロスからのひとつの派生形態である、という考えかたをしたくてしようがないところがぼくにはあるんです」(竹田・小浜『力への思想』68頁)と述べています。この発言は、小浜の考えるエロス的関係が、実存のうちで人間関係を基礎とする発生的なプロセスを経て、より広範な範囲にまでその影響が及んでいくようなものとして理解されていることを示しているように思われます。ただここでは、ともに実存的な関心に基づくという点で、竹田と小浜の立場が極めて近いところに位置していることを確かめるにとどめ、これ以上両者のエロス概念の差異に立ち入ることは控えることにします。

*2:浅井美智子「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」(江原由美子編『フェミニズム論争―70年代から90年代へ』(勁草書房、1990年)所収)111頁

*3:小浜『可能性としての家族』249頁

*4:小浜『可能性としての家族』249頁

*5:小浜『エロス身体論』177-178頁

*6:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111-112頁

*7:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」112頁

*8:なお、浅井が批判するように、この対談における吉本隆明の主張には、確かにみずからの「実感」に基づいて発言しているところが見られますが、彼を立場を小浜のような実存主義的な立場と同一視することはできないし、吉本に対する上野の批判も、小浜に対する浅井の批判と同一視することはできません。この論文における浅井の吉本への批判的言及には、そうした点が見落とされており、吉本の思想はもちろん、それに対する上野の批判の射程も適切に捉えているとは言えないように思います。もっとも、竹田や小浜らが吉本の思想をみずからの実存主義的な立場に引き付けて理解しようとしていたことは事実であり、また、竹田や彼に近い立場に立つ加藤典洋ポストモダンの立場に立つ思想家たちの間でなされた論争では、吉本の思想をどのように評価するかということが重要な焦点の一つになっています。ここでは、この論争に立ち入ることは控えますが、いずれ詳しく論じてみたいと考えています。

*9:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111頁

*10:吉本隆明全対談集 第9巻』(春秋社、1988年)154頁

*11:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*12:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*13:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』128頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』107頁

*17:小浜『男はどこにいるのか』26-27頁

*18:小浜『男はどこにいるのか』107-108頁

*19:とはいえ小浜の著作の中には、「力ある存在としての「男」、優美な存在としての「女」という文化象徴的な差異は、ちゃんと自然的根拠を持っているのであり、その基本線は今後も転倒するような変化を被ることはないし、解消させるべきでもない」(小浜逸郎『「男」という不安』(PHP新書、2001年)22頁)、あるいは「男がより多く社会で仕事をし、女がより多く家庭のことにかかわるという歴史的なパターンは、壊さなければならない「旧弊」ではなく、男女の自然的、生理的な相違に見合った意義深い基本形であると考えられる」(小浜『「男」という不安』49頁)といった、生物学的決定論に与していると見られるような言葉があることも事実です。ただしここでは、小浜の議論の細部に立ち入って検討することが目的ではないので、これらの発言について論じることは控えます。