しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (8)

前回は、竹田がフェミニズムからの問題提起に対してどのようなスタンスをとっていたのかということを見てきました。そこでのねらいは、具体的な局面を設定することで、ポストモダン思想などによる「先構成批判」に対して竹田がおこなっている反批判の問題点を明らかにするための準備をすることでした。また、同じような意図から、竹田と同様に実存的な立場に立ってフェミニズム批判をおこなっている小浜逸郎の議論を概観しておきました。今回は、小浜とフェミニズムの間でなされた論争を見ていくことで、彼の実存主義的な思想が抱え込んでいるのではないかと思われる問題について考えてみたいと思います。

 

社会学者の浅井美智子は、小浜の「エロス的関係」*1という概念が吉本隆明の「対幻想」を現象学的な観点からとらえなおしたものだと指摘し、これに対する批判をおこなっています。彼女は、「結局、「エロス的関係」というのも、母性幻想に収斂するような彼個人の「実感」でしかないことがわかる」*2といい、小浜の「実感信仰」を批判するのですが、まずは、彼女が批判の対象にしている小浜の議論を確認しておきましょう。

 

小浜は、「たとえば家庭内で、妻が家事・育児にてんてこまいをしているかたわら、夫がなすこともなくタバコをふかしていたりぼんやりテレビを見ていたりする場合、あるいは共稼ぎなのに家事・育児の負担が妻の方に過重にかかってしまうような場合、それを〈差別〉と呼ぶべきだろうか」*3と問いかけ、次のように述べています。

 

可能性としての家族

可能性としての家族

 

 

しかしエロス的な生活過程というのは、対の関係の特殊な相互了解によって作りあげられるさまざまな局面の永い一連の過程の全体であるから、そこだけをとりだして現象的不平等をあげつらってみても、どうもそういう一般的定式で片づくものでもないという気持ちがはたらく。家では何もしない亭主というのがいても、もし女房が別にそれで自分たちの関係はいい(あるいはしかたない)と思っているのだったらいいではないか、と言いたくなるのである*4

 

またべつのところでは、小浜は次のような例をあげています。

 

 古い言いぐさに、男は三人の「ママ」をもつというのがある。母親、女房、そしてバーのママである。日本の男のマザコン性や甘ったれ根性やだらしなさを嘲笑するために作られたようなこの表現は、それだけで男に対して、「もっとしっかりしなくちゃ」という強迫観念や、逆に「しょうがねえもんだな」というあきらめ感を喚起する。〔・・・〕
 しかし、よくよく考えてみると、ある男が社会的にきちんと一人前でありつつ、男であるがゆえに「母性」をどこかで求めているとしたら、その事実は、性愛関係にとってそれほど悪いことであろうか。私はそう思わない。相手の女が男のこの求めを無意識的によく察知して、いわゆる「母性本能」をくすぐられ、それを媒介として性愛関係のうまいかみ合いが成立するなら、この〔・・・〕関係のあり方それ自体は、祝福されるべきことでありこそすれ、何ら非難されるべきことではない。闘い疲れて女の元にやってきた男が女の優しいねぎらいによって癒しを得られ、そのことに感謝して男のほうもその女の人格を尊重する感情を高め、かつ優しく振る舞うことを忘れないとすれば、それはいい関係ではないか*5

 

浅井はこうした小浜の議論に対して、「個別男女の対の関係において、女が男の母親をやってしまうのは勝手だが、この論の行き着く先が「女性が甘え、男性がミエをはる」というような男女関係の容認であ」*6るということを指摘したうえで、次のように述べます。

 

このような言説にフェミニストが怒るのは当然としても、一男性の抱く個別対幻想の一般化は、現にある抑圧(女は社会で男にいばられ、家庭で夫という子どものわがままに抑圧される。そして、男は社会で「男である」というミエに脅迫され、家庭においては母性を幻想するがゆえに妻に搾取される)を保持強化することに加担するのである*7

 

浅井は、主観的な確信にすぎない「実感」を思想的な足場にする小浜の主張に対して、上野千鶴子吉本隆明批判*8を参照しながら、「「実感」自体は歴史的・文化的につくられたものであり、それはゆがめられたものであるかもしれない」*9ことを指摘します。そのうえで、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」*10ことが必要だと主張しています。

 

こうした浅井の小浜に対する批判は、はたして的確なものといえるでしょうか。なるほど小浜は、みずからのエロス的な心の感得のありようを見つめることで、男女のあり方の〈本質〉的な差異を明確なことばにもたらそうとしているという意味では、「実感信仰」の立場だといえなくもありません。たとえば小浜は、「産む性」としての女の〈本質〉について、次のように語っています。

 

 子どもを産むということは、私の想像では、自分のエロス的な生活の時間の目盛りを、うんと長い未来にまで延長し、しかも同時にその性的な行動の領域をきわめて具体的な形で限定して見せることにつながってくると思う。自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受け取ってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である、長い物語を与えられたのである*11

 

だから、「女は自分が女であることのアイデンティティの危機を経験することが相対的に少ない」*12と小浜はいいます。これは、子を産み育てていく長い時間が、「女」であることのアイデンティティを規定しているということにほかなりません。

 

他方で小浜は、「男には、自分の未来時間の長い射程を、自分のエロス的な身体のあり方を軸として、一定の分節をもって物語化していけるような条件が与えられていない」*13といい、次のように論じています。

 

 彼にとって、個別愛が成立する可能性は、自然なものよりも、むしろ後から観念として作られる倫理性のほうに大きくかかっている。男が一人の女のまえで、長い間彼女にとっての男であるためには、それこそ「男のなんとか」とか、「それでこそ男だ」などと形容されるような、一種気取った意識的な「決意」のようなものが要求されてくるのである。
 これらの「決意」のようなものは、本当は時間的空虚の穴埋めにほかならない。つまりそれらは、長い人生時間を通じて男であることのアイデンティティを保持することがいかに危ういものであるかという事実を逆説的に証明する材料以外の何ものでもない。もともと女との濃密なエロス的時間を共有していないときの男というのは、自分が男であることを確認する手立てなどもっていないのである*14

 

そのうえで小浜は、長い人生時間を通じて「男」としてのアイデンティティを保持することのできない男性が、彼の人生のとぎれた時間を埋めあわせようとして、社会的な領域におけるアイデンティティの獲得へと向かったのではないかと主張します。つまり、「男のセクシュアリティの特性と、彼が社会的な(それゆえある場合には権力的な)生き方を人生の主要部分としてしまうこととの間には、なかなかに超え難い関連性がある」*15というのです。

 

自己のうちにおける実感に基づいて男女のあり方の〈本質〉をきめつけるような言説に対して、フェミニズムはくり返し批判をおこなってきました。その際、現在の社会において当然視されている実感は、じつは特定の社会や文化のなかで構成されたものにすぎず、動かすことのできない〈本質〉ではないということが指摘されます。しかし小浜は、そうした批判について、「私は常々、こういう論理の出し方にうさんくさいものを感じてきた」*16と述べます。

 

もしも小浜が、彼の個人的な実感を無反省に人類にとって普遍的なものであるかのように論じているのであれば、そうした実感が歴史的に「作られた」ものにすぎず、けっして普遍的なものではないと指摘することは、有効な反論になりえたでしょう。しかし小浜の立場は、こうした素朴な実感信仰とは一線を画しています。彼の著作のなかには、たとえば次のような文章を見いだすことができます。

 

 一般に、フェミニズムに象徴される現代の知性の一つのパターンとして、これこれのあり方は、歴史的に作られ、仕組まれてきたにすぎないといったことをことさらに強調するやり方がある。たとえば、「専業主婦」は近代になって初めて登場した、といったたぐいの指摘がそれである。
 しかし、この種の認識はたかだか相対的にしか正しさをもっていない。それを、絶対の真実であるかのように思い込ませるものは、現在の枠組を是が非でも変えなくてはならないと思っている実践的な関心と欲望である。つまり、現在自然と思われていることがいかに根拠の浅いものであるかということを証明して見せなくてはならない、というように、この実践的知性は働くのである。真実がまずあるのではなく、関心と欲望にしたがって真実らしいものがセレクトされ、絶対的真実のアクセントを打たれるにすぎないのだ*17

 

研究者たちはこれまで、従来われわれが当たり前だと思っていた男女のあり方が、じつは一定の歴史的・社会的な条件のもとで形成された、特殊な「制度」にすぎないということを、次々に明らかにしてきました。しかし人びとは、ただそれらの研究成果を知っただけでは、これまで疑うこともなく当然視してきた「制度」を問いなおし新たな「制度」の実現に向けて積極的に活動をおこなうようになるわけではありません。実証的な研究の成果は、ただの歴史的な事実の提示にすぎないのです。ひとがそれらの研究において従来の社会のあり方に反省を迫るようなインパクトを認めるとき、彼は実存的な主体である自己のうちに見いだされる「実践的な関心と欲望」に依拠しているはずだと小浜は主張します。

 

 私たちを驚かす歴史的文化人類学的な現実がまず厳然として存在するのではない。私たち自身の現実に対する私たちのある感情的負荷をともなった視線が、歴史的文化人類学的な実証成果を取り巻き、そのことによって初めてそれらは実践意志的な言説のなかに、ある拡大率をかけられ、またそれらがともなっていたに違いないひどさ、体験的辛さ、他のきつい掟などとの不可分の連関性などを捨象されて引き入れられるのである*18

 

こうした小浜の立場を「素朴な実感信仰」と呼ぶことは、適切ではありません。たしかに彼は、実存のうちにおいて見出されるエロス的な感得、すなわち実感に依拠しています。しかし、そうした実感は歴史的・社会的に「構成」されたものだという批判によって、彼の立場を否定し去ることはできません。そのような批判に対して小浜は、既存の制度は歴史的・社会的に「構成」されたものにすぎず、変更することができるし、また変更するべきだと主張する者たちも、彼ら/彼女らの「実感」に基づいて、そうした主張をおこなっているはずだと切り返すことでしょう*19。このような小浜の立場を、「素朴な実感信仰」と区別して、「反省的・自覚的な実感信仰」と呼ぶことができるかもしれません。

 

すでに見たように浅井は、実感に依拠する小浜の立場を批判して、「自分が何故そう感じてしまうのかということと、相手が自分と違う感じ方をしているときに相手が何故そう感じてしまうのかということを、徹底的に問い直す」ことを求めていました。しかし、「素朴な実感信仰」ではなく「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ小浜は、こうした反省をおこなうことの必要性を認めたとしても、みずからの立場を修正する必要はないと考えるでしょう。

 

いかなる学問的な言説であっても、その妥当性を認めたり、そこに何らかの意味を見いだすのは、私たちの実践的な欲望や関心なのであって、あらゆる言説はそうした実存的な地盤のうえにおいてのみ成り立つはずだ、というのが小浜の主張でした。およそ誠実な思想家であれば、他者からの批判を受けた際に、改めてみずからの主張を検討しなおそうとする実存的な動機をもつはずです。浅井は小浜に対して、みずからの実感を徹底的に問いなおすことを要求していますが、このことは彼女に指摘されるまでもなく、思想家としての小浜自身の実存的な動機に基づいておこなわれているはずだと考えられるでしょう。

 

また、仮に小浜が、自身のこれまでの主張よりも批判のほうに妥当性を認めざるをえないと判断したとすれば、今度もやはり彼自身の実存的な動機に基づいて、これまでの主張を改めることになるでしょう。そしてこのことは、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場に立つ彼にとっては、「転向」でも「変節」でもありません。彼がみずからの実存的な地盤に基づいて発言をおこなっているという点には、いささかの変更も加えられていないからです。フェミニズムからの批判の妥当性を認めた彼は、「反省的・自覚的な実感信仰」の立場を少しも変更することなく、みずからの実存的な感得に依拠して、この社会のさまざまなところで目にする男女の非対称的な関係性を告発し、そうした差別をみずからの「実感」に基づいて温存しようとする論者たちに対して立ち向かっていくことになるでしょう。

 

さて、小浜の「反省的・自覚的な実感信仰」の立場をこのように理解できるとして、われわれは彼のフェミニズム批判の正しさを認めなければならないのでしょうか。たしかに彼の立場は単なる「素朴な実感信仰」の問題点を克服しており、その主張には相当な説得力があるように感じられます。しかし、ここにはなお、一つの重要な問題がひそんでいるように思えます。それは、みずからの実存的な確信に依拠して既存の社会制度に対する抗議の声をあげるというとき、彼の「実感」はその抗弁を支えるような〈権原〉となることができるのか、という問題です。

 

たとえば、何らかの差別がおこなわれている場面に直面したとき、ひとは許せないという実感を抱くことがあります。しかし、ここで考えておかなければならないのは、差別に対して抗議の声をあげるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依って抗議の声をあげるのであって、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依って抗議の声をあげるのではないということです。彼は、「差別をなくすことが正しいから、この社会は変革されなければならない」と主張するのであって、「差別をなくすことが正しいと私が確信しているから、この社会は変革されなければならない」と主張するのではありません*20

 

しかし、あまり先を急がず、ここで提出しようとしている問題が、どのような問題「ではない」のか、少し検討しておくことにしましょう。まず確認しておかなければならないのは、小浜や竹田の考えるエロス原理は純粋に個人的な快/不快に限定されるものではなく、むしろ社会的なひととひととのつながりのなかにエロス的な満足を見いだすことを積極的に論じていたということです。だから、もしわたくしの感じている疑問が、「エロス原理は個人的な快/不快にすぎず、社会的な連帯の根拠とはなりえないのではないか」ということであったとすれば、それはまったく当たらないということになるでしょう。

 

またわたくしは、「社会的な連帯をエロス原理に帰着させる小浜らの主張は、ひとは誰しもエゴイストであるという、人間性の本質を矮小化するような考え方なのではないか」といったことを問題にしたいのでもありません。たとえば、マザー・テレサキング牧師といった偉人たちが、その活動のなかで大いなる使命感とともにある種の充実感を感じていたということは、ありそうに思えます。しかしだからといって、彼らは個人的な快を求めて活動していただけだ、というべきではないでしょう。そして、竹田も小浜も、けっしてこのような主張をしていたわけではないように思われます。彼らの提唱するエロス原理は、偉人たちの崇高な理念に基づく活動を利己的な欲望に帰着させるものではありません。むしろ彼らの考えるエロス原理は、まったくの利己的な欲望から、崇高な理念に基づく使命感まで、広くカヴァーする概念だと理解するべきです。だから、もし竹田や小浜のような実存の立場に依拠する論者が、差別を撤廃しようとする人びとはみずからの実存的なエロス原理に基づいてそうした活動をおこなっていると述べたとしても、彼らを卑小なエゴイストに貶める発言だと理解してはならないでしょう。

 

しかし、実存的なエロス原理に依拠する小浜の立場がこれらの問題を見事にクリアしていることを認めたとしても、なお彼に対して向けられるべき問題が残っているように思われます。それは一言でいえば、実存的なエロス性が論議的な(diskursiv)意味における〈妥当性〉をもちうるのか、ということです。

 

小浜のような立場においても、他者とのつながりのなかで実存的なエロス性を感得することは認められるでしょう。この社会は変革されなければならないと主張するひとは、必ずしも彼/彼女の利己心の満足を追求してそうした主張をおこなっているわけではありません。しかし、そうした彼/彼女のエロス的な感受性を見つめそれを明確にことばへともたらすことができたとしても、それによって社会を変革し差別をなくすべきだという主張の〈妥当性〉の根拠が示されたと考えることはできません。単なる主観的な事実としての彼/彼女のエロス的な感得は、当の主張を他の人びとに説き彼らを納得させるための〈権原〉になりえないのです*21

 

小浜のような「反省的・自覚的な実感信仰」の立場では、あらゆる言説の妥当性や意義はみずからの実存的な地盤の内にその根拠をもっていると考えられていました。したがって、彼が何らかの差別に対して抗議の声をあげるとき、彼はみずからの主張の〈正しさ〉に依拠することはできず、みずからの主張の〈主観的確信の内における正しさ〉に依拠するのだと考えなければなりません。しかし、〈主観的確信の内における正しさ〉は、他者に向けてその主張をおこない他者を説得する力をもつような、論議的な場面においての〈権原〉とはなりえないように思われます*22

 

さて、今回は小浜とフェミニズムの間の論争を手がかりにしながら、彼の実存的な思想的立場が抱え込んでいる問題を指摘しました。そしてわたくしの考えるところでは、この問題はフッサールの超越論的現象学の構想とけっして無関係ではありません。フッサールが心理学主義と論理学主義の隘路をくぐり抜けようと格闘していたときに直面していたのは、単なる〈主観の内における妥当性〉に尽きることのない超越論的な〈妥当性〉をどのようにしてみずからの哲学のなかに位置づけるのかという問題でした。竹田のフッサール解釈が孕んでいる問題は、こうしたフッサールの意図をとらえそこねてしまっていることにあります。とくに彼の超越論的還元の解釈は、論議的な意味における〈妥当性〉を主観の領域の内に閉じ込めてしまっているように思われます*23

 

そこで次回は、今回の議論を踏まえたうえで竹田のフッサール解釈を検討し、そこに含まれている問題について考察をおこなうことにします。

 

*1:小浜は『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)のなかで、「エロス的関係とは、特定の人間個体をまさに特定の人間個体として気にかける関わりのあり方のことである」(小浜逸郎『可能性としての家族』(ポット出版、2003年)と定義し、特定性に依存しない人間関係である「社会的関係」と対立する概念だと述べています。こうした小浜の「エロス的関係」は、人間相互の関係はもちろん人間以外の対象への「気遣い」をも含むような竹田の「エロス的原理」に比べると非常に狭い範囲においてのみ適用されるものだということができるように思えます。ただし詳細に小浜の主張を検討すると、必ずしもそのように断言することができないのも事実です。小浜は、竹田との対談のなかでみずからのエロス概念と竹田のそれとの違いに触れて、「たとえば、ここに美しい茶碗があり、それに美的に魅かれエロスを感じる場合にも、それは本当は対人的な、対人関係として捉えられたエロスからのひとつの派生形態である、という考えかたをしたくてしようがないところがぼくにはあるんです」(竹田・小浜『力への思想』68頁)と述べています。この発言は、小浜の考えるエロス的関係が、実存のうちで人間関係を基礎とする発生的なプロセスを経て、より広範な範囲にまでその影響が及んでいくようなものとして理解されていることを示しているように思われます。ただここでは、ともに実存的な関心に基づくという点で、竹田と小浜の立場がきわめて近いところに位置していることをたしかめるにとどめ、これ以上両者のエロス概念の差異に立ち入ることは控えることにします。

*2:浅井美智子「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」(江原由美子編『フェミニズム論争―70年代から90年代へ』(勁草書房、1990年)所収)111頁

*3:小浜『可能性としての家族』249頁

*4:小浜『可能性としての家族』249頁

*5:小浜『エロス身体論』177-178頁

*6:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111-112頁

*7:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」112頁

*8:なお、浅井が批判するように、この対談における吉本隆明の主張には、たしかにみずからの「実感」に基づいて発言しているところが見られますが、彼を立場を小浜のような実存主義的な立場と同一視することはできないし、吉本に対する上野の批判も、小浜に対する浅井の批判と同一視することはできません。この論文における浅井の吉本への批判的言及には、そうした点が見落とされており、吉本の思想はもちろん、それに対する上野の批判の射程も適切にとらえているとはいえないように思います。もっとも、竹田や小浜らが吉本の思想をみずからの実存主義的な立場に引き付けて理解しようとしていたことは事実であり、また、竹田や彼に近い立場に立つ加藤典洋ポストモダンの立場に立つ思想家たちのあいだでなされた論争では、吉本の思想をどのように評価するかということが重要な焦点の一つになっています。ここでは、この論争に立ち入ることは控えますが、いずれくわしく論じてみたいと考えています。

*9:浅井「〈近代家族幻想〉からの解放をめざして」111頁

*10:吉本隆明全対談集 第9巻』(春秋社、1988年)154頁

*11:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*12:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*13:小浜『男はどこにいるのか』122頁

*14:小浜『男はどこにいるのか』123頁

*15:小浜『男はどこにいるのか』128頁

*16:小浜『男はどこにいるのか』107頁

*17:小浜『男はどこにいるのか』26-27頁

*18:小浜『男はどこにいるのか』107-108頁

*19:とはいえ小浜の著作のなかには、「力ある存在としての「男」、優美な存在としての「女」という文化象徴的な差異は、ちゃんと自然的根拠を持っているのであり、その基本線は今後も転倒するような変化を被ることはないし、解消させるべきでもない」(小浜逸郎『「男」という不安』(PHP新書、2001年)22頁)、あるいは「男がより多く社会で仕事をし、女がより多く家庭のことにかかわるという歴史的なパターンは、壊さなければならない「旧弊」ではなく、男女の自然的、生理的な相違に見合った意義深い基本形であると考えられる」(小浜『「男」という不安』49頁)といった、生物学的決定論に与していると見られるようなことばがあることも事実です。ただしここでは、小浜の議論の細部に立ち入って検討することが目的ではないので、これらの発言について論じることは控えます。

*20:むろんわたくしも、フェミニズムが「自由」や「平等」といった、近代において普遍的な価値とされてきた理念に対する鋭い問題提起をおこなってきたことを知らないわけではありません。とくにラディカル・フェミニズムと呼ばれる潮流においては、こうした理念が女性たちの解放のための武器を提供する一方で、女性たちを抑圧する装置として働いてきたことを暴き出してきました。たとえば江原由美子は次のように述べています。「問題なのは、「自由」や「平等」という言葉ではなく、その言葉を使用して、人びとが行なう行為なのであり、その言葉の使用法なのである。一つ一つの理念としては女性たちもその価値の正当性を認め、自己の権利を主張するために使用可能ですらある理念は、その理念の使用法において暗黙に女性主体を適用外においたり、考慮しないことによって、結果的に男性中心主義的使用になってしまうことがありうる」(江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』(1991年、勁草書房)27頁)。それゆえ、ここでわたくしが〈主観的確信のうちにおける正しさ〉と区別して用いた〈正しさ〉についても、そうした普遍的な理念を個人が標榜し、それを盾にとって社会の変革を導こうとすること自体が、ある種の政治的な振る舞いであることを冷静に見抜くような視線が求められることになるでしょう。しかしながら、小浜のフェミニズム批判に応答するためには、いったん防御ラインを引き下げて、彼が〈正しさ〉と〈主観的確信のうちにおける正しさ〉を混同していることを指摘するという仕方で迎え撃つことが有効なのではないかと考えます。なお江原は、「自己定義権と自己決定権―脱植民地化としてのフェミニズム」という論文のなかで、「近代」を「未完のプロジェクト」ととらえるハーバーマスの立場と、彼の主張するコミュニケーション的合理性のような近代性そのものに問題を見いだそうとするドロシー・スミスやキャロル・ギリガンの立場のあいだに横たわる矛盾を解きほぐそうとする試みをおこなっています。そこで彼女がくだす結論は、次のようなものです。「スミスやギリガンが問題化したのは、意図における普遍性や合理性や客観性や公正性などの価値ではなく、そうした価値に基づく実践としてなされる発話や行為がもつ、具体的な場に対する具体的効果であった。彼女たちの普遍主義批判は、このような効果のレヴェルにおいてなされているのであり、普遍主義に基づくとされる判断や認識が、実際に具体的な場においていかなる結果をもたらすのかを問題にしたのである。だからこそ、彼女たちは、感情的・具体的・主観的なものの擁護の側にたったのだ。フェミニズムの知識批判は、確かに近代性批判としての側面をもっていた。けれどもそれは、意図あるいは価値観のレヴェルにおける近代主義批判としてよりもむしろ、それらの意図あるいは価値観に基づくとされる行為が、具体的な場にもたらす効果のレヴェルにおけるものとして、展開されているのである」(江原由美子フェミニズムパラドックス―定着による拡散』(2000年、勁草書房)147頁)。こうした江原の考察は、小浜のフェミニズム批判にひそむ問題を明らかにするための重要な視点を示しているように思います。

*21:現代のドイツの哲学者であるカール=オットー・アーペルは、フッサールの哲学をデカルト以来の「方法的独我論」の系譜に含めたうえで、彼の提唱する「超越論的語用論」の立場から、その問題を指摘しています。「このことをさらに徹底して考えると、このように言うことすらできよう。すなわち、(デカルトの場合でもすでにそうであったが)、フッサールは彼の自我意識が不可疑的なものであるということを、理解可能であり彼にとっては妥当と思われる形で意識化する。しかし、フッサールがこのようなことを彼の意識のうちで行なうことすら、それが可能であるのは次の場合だけである、と。つまり、彼が右の洞察を、常に超越論的言語ゲームの枠組みの中での論証としてあらかじめ定式化し、それによって右の洞察を、理想的なコミュニケーション共同体の代表としての自分に対して妥当するものにすることができる、という場合だけである、と。」(カール=オットー・アーペル著、宗像恵、伊藤邦武訳「知識の根本的基礎づけ―超越論的遂行論と批判的合理主義」(ガーダマー、アーペルほか著、竹市明弘編『哲学の変貌』(2000年、岩波書店))242-243頁)。

*22:なおここでは、〈正しさ〉と〈主観的確信の内における正しさ〉を区別して議論をおこなってきました。しかしこのことは、われわれの実存とはまったく無関係にそれ自体として存在する〈正しさ〉をイデア的な実体として認める形而上学的独断に身を委ねることを意味するわけではありません。ここではその詳細に立ち入って議論を展開することはできませんが、超越論哲学の創始者であるカントの言い回しを借りて、〈正しさ〉は主観的確信〈をもって〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではないと簡単に述べておきます。

*23:竹田現象学におけるこうした問題は、廣松渉が竹田との対談のなかで指摘しています。 

竹田 超越という概念はぼくの理解では、外に何かがあるという信憑が内に生じるということなんですね。つまり、外に出てそこにあるものを確認するということではないわけです。だから、意識の外に何かがあるという確証は主観・客観の一致ですけども、そういうことを言わないということです。
廣松 竹田さんの本にも書いてあることで分かります。だけどね、その信憑だけだったら妥当と言えないと思うんですよ、先ほどのゲルテンという意味での妥当ですが。〔・・・〕自分の意識のなかでこれは対象だと見なすというのがいくらあっても、それは超越的対象にかかわってないですから。信じるということでもって独我論でないという立場宣言をしている、それはそうだと思うんですよ。だけども、ただ信じてるだけでは独我論の外に出たことにはならないわけです。
竹田 ぼくは信憑とか確信の条件というかたちで問題を解いたからそれを妥当と呼ぶのだと思います。そうでなければ、妥当は外と内の一致だということになりますね。するとどういうかたちになると、独我論の外に出たことになるかよく分からないわけです。
廣松 ぼくが主観・客観図式を廃絶せよと言っているのは、そういう問題が出てくるような地平的パラダイムを超克せよということなんでしてね。(『竹田青嗣コレクション4 現代社会と「超越」』288-289頁)