しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (1)

これまで、「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く」というタイトルのもとで議論をおこなってきましたが、そこでわたくしがかねてより竹田現象学に対して抱いていた疑問の一端をごく簡単に示してみました。ただしそこでの議論は、具体的な例にそくしてなされており、わたくしの抱いている疑問の意味を十分に明らかにすることはできませんでした。また、竹田のポストモダン思想に対する批判には疑問が付されるべきではないかというわたくしの意見もあわせて提出したのですが、そこでの議論は竹田現象学に内在的な立場からの批判というかたちでなされており、ポストモダン思想の立場から竹田の批判に対する反論がどのような仕方で可能なのかということについても、いまだ語ることができていません。そこで今回から何度かにわたって、より広い哲学史的な視野のもとで、わたくしの抱いている竹田現象学への疑問についての考察をおこなってみたいと考えています。

 

わたくしは以前、竹田現象学の問題について、次のように述べたことがありました。

 

竹田の解釈の問題は、経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルの区別が哲学史のなかで問題とされるようになった経緯を踏まえずに、現象学を理解しようとしていることに集約されます。このことは一方で、フッサール現象学における意識の志向性をエロス的原理に拡張し、「竹田欲望論」と呼ばれる豊穣な世界を切り開いていくことを可能にしました。しかし他方で、無視することのできない問題を「竹田現象学」の内に招き入れることになったのではないか、という疑念を抱かざるをえないようにも思うのです*1

 

またべつのところでは、〈主観的確信の内における正しさ〉と〈正しさ〉を区別し、超越論哲学の創始者であるカントの言い回しを借りて、「〈正しさ〉は主観的確信〈をもって〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではない」*2という説明をおこなったこともあります。

 

竹田現象学は、カントによって切り開かれフッサール現象学においても継承されている「超越論的」な問題領域に関して、やや無頓着なところがあるのではないかと、わたくしには思えます。そこで、まずはカントによってはじめて明瞭なかたちで議論の対象となった「超越論的」な問題の性格について考察をおこなうことにします。とはいえ、汗牛充棟のカント研究に加わってなにごとかを申し述べる能力は、もとよりわたくしにはありません。以下の議論はカント哲学の解釈ではなく、あくまでカントによって切り開かれフッサールへと継承された超越論的な問題の地平の片隅を、たどたどしくもみずからの足で歩んでみることで、竹田現象学の問題を多少なりとも明瞭なかたちで理解できるようにしたいという意図にもとづくものであることを、あらかじめご了承いただきたいと思います。

 

さて、フッサールの生きた十九世紀後半において、学問の世界で起こった特筆するべき出来事の一つに、経験科学としての心理学の誕生があります。近代という時代において、デカルト以来の「自然」と「心」の二分法が定着し、まずは自然科学が旧来のアリストテレス主義からの脱却に成功しました。これにつづいて、人間の心についての探究もようやく自然科学的な手法によっておこなわれるべきだという主張がなされるようになり、いわゆる行動主義心理学実験心理学などの動きが広がっていきました*3

 

こうしたなかで、哲学においても「心理学主義」という立場が提唱されるようになります。「心理学主義」とは、心理学が対象とする「心」の研究によってあらゆる学問を基礎づけることができるとする立場を意味しています。これに対して、カントの批判哲学を継承する「新カント派」と呼ばれる立場に立つ哲学者たちは、経験科学としての心理学が対象としているのは、どこまでも経験的・個別的なものにすぎず、たとえば数学的な真理のような理念的・普遍的なものを基礎づけることはできないと批判しました。彼らの立場は「論理学主義」と呼ばれ、フッサールはこの二つの立場のはざまで独自の現象学の立場を築いていくことになります。

 

ところで、論理学主義の立場を標榜する哲学者たちが心理学主義に対しておこなった批判の根拠を提供することになったカントの哲学とは、いったどのようなものだったのでしょうか。ここでは、両陣営の議論の内容に立ち入ることは差し控えて、カント哲学によって切り開かれた超越論的な問題の次元をわたくしなりに論じてみることを通して、心理学主義の立場に含まれている問題を浮き彫りにしたいと思います。まず考えてみたいのは、経験科学的なしかたで記述される「心」についての研究は、はたしてわれわれの認識の説明だといえるのかという問題です。

 

ある種の心理学主義の立場では、われわれの心の状態は、内観によってとらえることができると考えます*4。われわれがある対象を見て視覚的な認識をおこなうとき、われわれの心のスクリーンに映じた像を、内観によって把握し記述することができるとされるのです。しかしながら、心の内にあるスクリーンになんらかの像が映じているという心理学的な事実が、ただちに私がなにごとかを認識していることだと結論づけることはできないのではないでしょうか。

 

内観という独特のしかたでとらえられる出来事が、一つの心理学的な事実であることはたしかでしょう。しかし、この内観によってとらえられる一つの心理学的な事実が「すなわち」私が何ごとかを認識していることだ、というのは自明だとはいえません。経験科学的なしかたで記述される事実であるという点では、たとえば会議室の前方の白いスクリーン上にパワーポイントの映像が映し出されているという物理学的な事実と、心の内のスクリーンにある像が映じているという心理学的な事実とのあいだには、本質的な違いはありません。それにもかかわらず、後者の心理学的な事実が「すなわち」私がなにごとかを認識しているということだと主張することができるのは、いったいどのような条件に基づいているのでしょうか。その条件が明らかにされないかぎり、心理学的な事実が私の認識であることが明らかにされたとはいえません。つまり、ここにはなお、なんらかの説明によって架橋されなければならないギャップが存在しているのです。

 

このギャップを埋めるものが、カントの批判哲学における「超越論的統覚」という概念でした。われわれがなにごとかを認識しているといえるためには、単なる心理学的な事実が存在しているだけでは十分ではありません。われわれがなにごとかを認識しているといえるためには、感性において受容される直観の多様が、「私は考える」という超越論的統覚の働きによって総合・統一されていなければならないと、カントは主張します。

 

ここで注意しなければならないのは、「私が考える」という超越論的統覚の働きを、直観の多様に随伴するもう一つの心理学的な事実だと考えてはならないということです。そうした経験的な事実としての随伴意識は、心の内のスクリーンに映し出されているもう一つの像であるにすぎず、そうした像が存在していることを指摘しただけでは、ふたたび「なぜそのような像が映じているという事実が、私がなにごとかを認識していることだといえるのか」という問いを招くことになるからです。カントはこうした超越論的統覚のはたらきを、「経験的統覚」と区別して「純粋統覚」あるいは「根源的統覚」と呼んでいます*5

 

 「私は考える」という意識が、あらゆる私の表象に伴わなければならない。〔・・・〕あらゆる思惟に先立って与えられうる表象は直観と呼ばれる。この多様がそこに見いだされるところの主観における「私は考える」という意識と必然的関係を有する。しかしこの表象は自発性の働きである。すなわちそれは感性に属するものと見ることはできない。わたくしはこれを経験的統覚と区別するために、純粋統覚と名づける。あるいはまたこの統覚を、根源的統覚とも名づける。この統覚は、「私は考える」という、あらゆる他の表象に伴わざるをえず、かつあらゆる意識において同一である表象を生み出す自覚であり、決してさらに他の統覚からは導き出せないような自覚であるからである。わたくしはまた、この統覚の統一に基づいてア・プリオリな認識が可能となることを示すために、この統覚の統一を自覚の超越論的統一と名づける。けだしある直観中に与えられる多様な表象は、もしそれがすべてをあげて一つの自覚に属しないとすれば、そのことごとくが私の表象であるということにはならないであろうからである*6

 

純粋理性批判

純粋理性批判

 

 

カントの「超越論哲学」は、こうした統覚の根源的な総合・統一によってわれわれの認識が可能となっていることを解明することをめざしています*7。次の文章では、「超越的」(transzendent)と区別して用いられるカントの「超越論的」(transzendental)ということばは、まさにこうした問題にかかわるものであることが表明されています*8

 

わたくしは、対象にではなく、対象を認識するわれわれの認識の仕方に、この認識の仕方がア・プリオリに可能であるはずであるかぎりにおいて、これに一般に関与する一切の認識を超越論的と称する。このような概念の体系は超越論的哲学と呼ばれるであろう*9

 

このカントの説明は、正しく理解されなければなりません。すなわち、「超越論的」ということばが、対象を認識するわれわれの認識のしかたにかかわるものであるということだけでなく、それが対象にかかわるもの「ではない」ということをも、正しく理解する必要があるということです。

 

よく知られているように、カントの超越論哲学においては、「人間の認識には二本の幹がある」*10とされ、感性と悟性がその二本の幹に当たるとされていますが、われわれはこの二つの能力が彼の超越論哲学というプランのもとであつかわれていることに十分な注意を払わなければなりません。つまりそれらの能力は、われわれの認識の仕方に関する考察のなかで議論の対象となっているのであって、それらの能力を自然界における対象としてあつかっているのではないということを、明確に認識しておく必要があるのです。

 

カント哲学における感性と悟性は、経験的な心理学の立場から対象として把握されるような二種の能力ではありません。むろん心理学の立場から、われわれがなにごとかを認識しているときに現実に機能している心的能力を解明することは可能でしょう*11。また、こうした実証的な研究の進展によって、われわれの認識が現実に生起するための条件が明らかにされることも、けっして夢ではないと考えることも可能でしょう。しかしそれは、いわば認識の現実化のための条件なのであって、カントが追求しようとしていた認識の可能性の条件の解明は、これとは異なる問題だといわなければなりません。

 

さらにこのことは、『純粋理性批判』の「超越論的分析論」における「事実問題」と「権利問題」の区別にかかわっています。

 

 法律学者は、権限や越権について論ずる場合、一つの訴訟事件のなかで、何が合法的であるかに関する問題(権利問題quid juris)と、事実に関する問題(事実問題quid facti)とを区別する。そして両者について照明を要求するのであるが、権限あるいはまた権利の要求を明らかにすべき前者の証明を、演繹と名づけている*12

 

そこでは、われわれがなにごとかを認識しているときに現に機能している経験的・心理学的な能力が問題にされているのではなく、そもそもわれわれがなにごとかを認識しているといえるために満たさなければならないとされる可能性の条件が問題にされているのです。以下ではこうした観点から、『純粋理性批判』第一版における「純粋悟性概念の演繹」にまつわる議論を、ごく簡単にたどってみることにします。

 

直観を通じてわれわれに与えられるものは単なる表象の多様(das Mannigfaltige)であり、いまだ統一されていないカオスにすぎません。そこでカントは、こうした直観の多様を統一し、われわれの認識を成立させている条件について探究を開始します。

 

直観の多様が統一されるためには、これらの多様が一つにとりまとめられなければなりません。つまり、継起的に与えられる一つ一ひとつの表象を通覧し(durchlaufen)、それを統括する(zusammennehmen)ことが必要となります。これが、われわれの認識が成立するための第一の条件であり、カントはこの働きを「直観における覚知の総合」と呼んでいます。

 

しかし、これだけではなお、われわれの認識が成立する条件が整ったということはできません。次にカントは、この覚知の総合が可能になる条件についてさらなる探究を進め、この総合が成り立つためには、一瞬ごとに消え去っていく継起的な表象を心のうちに保持し再現することが可能でなければならないといいます。ここでクローズ・アップされるのが、心像を形成する構想力(Einbildungskraft)*13の働きです。たとえば、私が一本の線を頭のなかで引いてみるとき、そのつどの表象を忘れ去って次の表象へと進んでいくのであれば、全体としての表象の統一もありえないことになってしまうでしょう。こうしてカントは、われわれの認識が成立するためには、表象の統一の超越論的な条件としての「構想力における再生の総合」がおこなわれているのでなければならないと主張します。

 

さらにカントの探究はつづきます。構想力における再生の総合は、すでに消え去った表象を心のなかに保持し再生する働きでした。しかし、この表象の再生が、以前に私が表象したものと同一であることを再認識できるのでなければならないとカントは主張します。もしそうした働きが存在しなければ、構想力によって再生された表象が、まさに以前の表象の「再生」であるということを理解することはできず、その結果表象の多様を統一することは不可能となり、けっきょくわれわれの認識が成り立たないからです。それゆえ、再生された表象と以前の表象との同一を認識する働きがなければなりません。こうした働きをカントは「概念における再認の総合」と呼んでいます。こうしてカントは、「直観における覚知の総合」「構想力における再生の総合」「概念における再認の総合」という三重の総合作用が、われわれの認識が成立するための条件だと主張します。

 

それでは、こうした三重の総合が成立しているということは、いったいなにを意味しているのでしょうか。それは、私の意識の同一性が存しているということにほかなりません。もし意識の同一性が存在せず、一瞬ごとにそれぞれ異なった表象がわれわれに与えられているだけであれば、それらの表象の再認が不可能になってしまうからです。こうして、私の意識の同一性こそが、感性において与えられる直観の多様を総合し、われわれの認識が成立するための根源的な条件をなしているということができるのです。もちろんわれわれはつねにこのような同一性を明確に意識しているとはかぎりません。しかしこうした同一性が存在しているのでなければ、われわれに与えられた直観の多様が統一されることはなく、私の認識とはなりえません。この意識の同一性こそが、われわれの認識を可能にしている超越論的な条件であり、これをカントは「超越論的統覚」と呼んだのでした。

 

ところでカントは、超越論的統覚の働きに基づいて悟性による概念的思惟がなされると考えていました。そこで次回は、『純粋理性批判』の第二版におけるカントの議論をたどりつつ、概念的思惟についてのカントの考えを見ていくことにします。最後に、われわれが見てきたカントの超越論哲学の意義を、より広い観点からとらえなおしてみたいと思います。

 

すでに見たように、カントは「超越論的」という概念について、「わたくしは、対象にではなく、対象を認識するわれわれの認識の仕方に、この認識の仕方がア・プリオリに可能であるはずであるかぎりにおいて、これに一般に関与する一切の認識を超越論的と称する」*14と説明していました。「超越論的」とは、対象についてではなく、対象を認識するわれわれの認識能力についての「反省」であり*15、それゆえ理性の自己批判を意味しています。またべつの箇所では、「超越論的と経験的との区別はしたがって、単に認識の批判に属することで、認識とその対象との関係には関しないことである」*16と述べられています。このことから明らかなように、超越論哲学は、認識の対象を解明することではなく、対象へとかかわっていくわれわれの認識能力そのものを解明することを目標としています。われわれの対象の認識にかかわるかぎりにおける直観、構想力、統覚、判断力、悟性、理性といった諸能力の区別をおこなうのが「反省」であり、「批判」だということができるでしょう*17

 

カントは『純粋理性批判』のアンチノミーをあつかっている箇所で、「この懐疑的方法はただ超越論哲学にのみ本来独自のものである」*18と述べていますが、彼の「批判」という思索の営みは、「考える私」以外のいっさいを懐疑によってしりぞけるデカルトの方法的懐疑とは、大きく異なります。カントは、われわれの認識に与えられる経験的な所与を否定することはありません。といって、ではそれらをそのまま承認するのかといえば、それも違うといわなければならないでしょう。カントの批判哲学の課題は、われわれの経験的な認識の対象にかかわるのではなく、経験的な認識そのものの可能性を問い、それが認識であるためのア・プリオリな条件にかかわるかぎりにおいて、われわれの認識にまつわる諸能力を吟味しそれらの区別をおこなうことにほかなりません。つまり「超越論哲学」とは、経験的なものの認識における非経験的な条件についての探究だということができるのです。

 

こうしてわれわれは、これから竹田青嗣現象学解釈に検討を加えていくなかでおそらく何度も立ち返ることになるであろう、『純粋理性批判』の「緒言」に記された次のことばにたどり着くことになります。

 

われわれの認識がすべて経験〈をもって〉はじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験〈から〉生ずるのではない*19

 

*1:竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く (2)」を参照

*2:竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く (8)」を参照

*3:この時代における人間の「心」についての議論は、これだけにとどまりません。フッサールの師であるブレンターノは『経験的立場からの心理学』を著し、独自の志向性理論を構築していました。またディルタイは、「自然科学」とは異なる「精神科学」の方法論についての考察をおこなっています。さらにフロイトによって「無意識」の存在が発見されるなど、人間の「心」についての多様な学問が生まれています。

*4:心理学の方法としての「内観」を重視したのは、1879年にライプツィヒ大学に心理実験室を開設し、「心理学の父」と呼ばれたヴィルヘルム・ヴントでした。ただし、その後の実験心理学はヴントの立場を乗り越えて、物理学的な刺激と心理学的な感覚が対応し、両者のあいだに量的な比例関係が成立することをたしかめることで、経験科学としての心理学を確立します。このことについて木田元は、ヨーロッパ世紀末思想史をあつかった著書『マッハとニーチェ』のなかで次のように解説しています。「ヴント自身は分析的内観法を重視したし、意識の統覚作用を連合法則の上位に置く主意説の立場をとり、広範な心理現象に眼を向けたが、彼の指導下に発足した実験心理学は、さしあたり関心をもっぱら感覚研究に向けた。」「この感覚研究の領域では、実験心理学は目覚ましい成果を挙げることができた。ここから出発して、さらに高次の複雑な現象へ研究を推し進めていけば、やがてすべての心理現象を科学的に究明しうるにちがいない、と思わせるものがあった。心理学は哲学の一文科から脱皮して科学として自立することができたように思われたのである。」(木田元『マッハとニーチェ―世紀転換期思想史』(2014年、講談社学術文庫)51頁)

*5:「経験的統覚」についてカントは、次のように説明しています。「内部知覚におけるわれわれの状態の規定に基づく自覚は、単に経験的であり、つねに変異的である。内部現象のこのような流れには常住不変な自我なるものは存しえず、この種の意識は通常内官と呼ばれ、あるいは経験的統覚と名づけられる」(A107 高峯一愚訳『カント純粋理性批判』(1989年、河出書房新社)135頁 なお『純粋理性批判』からの引用箇所の表記は、慣例にしたがっておこなうものとします。また、邦訳からの引用をおこなうにあたって訳語の一部を変更しました。以下も同様とします)。このように、経験的統覚がつねに時間のなかで変異する流れであるのに対して、「超越論的統覚」は「恒常不変な自我」(A123 高峯訳『カント純粋理性批判』143頁)であるとされ、「あらゆる経験に先立って存し、この経験そのものを可能ならしめるところの制約」(A107 高峯訳『カント純粋理性批判』135頁)となっていると述べられています。

*6:B131-132 高峯訳『カント純粋理性批判』112-113頁

*7:純粋理性批判』のなかには、「純粋理性の批判には、超越論哲学を形成する一切のものが属し、それは超越論哲学の完全な構想である。しかしそれはまだ超越論哲学そのものではない。なぜならそれは、ア・プリオリな総合的認識を完全に評価するのに必要なかぎりにおいてのみ、分析を行なうにすぎないからである」(A14/B28 高峯訳『カント純粋理性批判』59頁)というカントのことばを見いだすことができます。これによれば、『純粋理性批判』は「超越論哲学」そのものとは区別され、いわばその予備学をなすと考えられます。しかし他方でカントは、『プロレゴメナ』において「いかにしてア・プリオリな総合的命題は可能であるか」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1911, S. 276 久呉高之訳『カント全集 6』(2006年、岩波書店)217頁)という問題を提出したうえで、「すべての形而上学に必然的に先行する超越論哲学全体は、それ自身、単に、ここに提出された問いの完全な解決、ただ体系的秩序と詳細さとをそなえた解決にほかならない」(S. 279 221頁)述べています。そして、まさにこの課題を果たしたのが『純粋理性批判』であることが明らかである以上、『純粋理性批判』こそがいっさいの形而上学に先行する「超越論哲学」そのものだと理解することができます。ここでは、両者の差異についてこれ以上立ち入ることは差し控え、『純粋理性批判』において「超越論哲学」の取り組むべき問題が解明されているとみなすことにします。

*8:プロレゴメナ』でも、「超越論的」ということばは「決して物に対するわれわれの認識の関係を意味するのではなく、ただ、認識能力に対するわれわれの認識の関係を意味する」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 293 久呉訳『カント全集 6』243頁)と説明されています。

*9:A11-12/B25 高峯訳『カント純粋理性批判』58頁

*10:A15/B29 高峯訳『カント純粋理性批判』60頁

*11:ただしカント自身は、経験科学としての心理学は不可能だと考えていました。カントは『自然科学の形而上学的原理』のなかで、数式による表現と実験が可能であることが科学であるための条件だといい、心理学はこれらの条件を満たさないとして、次のように述べています。「それゆえ経験的心理論はけっして内官の記述的自然論以上のものとはなりえず、また記述的な科学としても、せいぜい体系的な自然論、すなわち心の自然記述となりうるだけであって、心の科学とはなりえない」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1911, S. 471 犬竹正幸訳『カント全集12』(2000年、岩波書店)11頁)。

*12:A84/B116 高峯訳『カント純粋理性批判』104-105頁

*13:カントは『純粋理性批判』の第二版において、「構想力とは、対象が現存していなくとも、対象を直観において表象する能力である」と説明しています(B151 高峯訳『カント純粋理性批判』121頁)。

*14:A11-12/B25 高峯訳『カント純粋理性批判』58頁

*15:カントは『純粋理性批判』のなかで、「反省」という概念について、次のように説明しています。「反省(reflexio)とは、直接に対象について概念をえるために対象そのものに関与するものではなく、われわれが概念に到達できるための主観的条件を見いだすために、まずわれわれが用意する心の状態である。それは与えられた諸表象と、われわれの相異なる認識源泉との関係を意識するものであり、この意識によってのみ、表象相互の関係は正しく規定されることができるのである」(A260/B316 高峯訳『カント純粋理性批判』222頁)。

*16:A56-57/B80-81 高峯訳『カント純粋理性批判』88頁

*17:カントは「わたくしが表象一般を、表象がそこに立てられる認識力と比較対照して総括し、表象が純粋悟性に属するものとして相互に比較されるか、それとも感性的直観に属するものとして相互に比較されるかを識別する働きを、わたくしは超越論的反省と名づける」(A261/B317 高峯訳『カント純粋理性批判』222頁)と述べています。

*18:A261/B317 高峯訳『カント純粋理性批判』314頁

*19:B1 高峯訳『カント純粋理性批判』44頁