しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (5)

前回われわれは、竹田のカント解釈について検討をおこない、〈正しさ〉を〈主観的確信の内における正しさ〉へと斬り縮めてしまう竹田現象学の立場が、カントの思想と相容れないのではないかという考えを提出しておきました。

 

われわれの考える〈正しさ〉は、竹田のいう「本体」ではありません。竹田の批判する「本体」の観念とは、われわれの認識から独立して存在し、けっして到達することのできない「客観的な世界そのもの」のことです。われわれが〈正しさ〉ということばによって言い表わそうとしているのは、こうしたものとは異なります。むしろそれは、われわれが認識活動において〈権能〉の主体として振る舞っているということから導き出された原理を意味しています。〈正しさ〉とは、「客観的な世界そのもの」ではなく、「私は考える」という超越論的統覚が〈権能〉の主体としておこなう判断において普遍的妥当性を要求することの原理として理解されるべきものです。

 

〈正しさ〉は「客観的な世界そのもの」ではありませんが、だからといって、竹田の主張するような主観の内における確信成立の条件へと還元されてしまうものではありません。カントは、『純粋理性批判』の「緒言」において、「われわれの認識がすべて経験〈をもって〉はじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験〈から〉生ずるのではない」*1と述べていますが、このことばを借りるならば、「〈正しさ〉は主観的確信〈をもって〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではない」ということができるでしょう。

 

ただし、カント哲学の「物自体」という概念に対する竹田の批判には、簡単に切り捨てることのできない内容があるように思います。竹田によれば、「物自体」とは「人間の経験世界(=現象)の背後にあって現象一般を可能にしている何ものか、然しそれ自体は決して認識も表現もされえない何ものか」*2だとみなされます。竹田はこれを「本体」の観念の残滓とみなし、批判しています。

 

そこで今回は、カントの超越論哲学において「物自体」の概念がどのように位置づけられているのかということをたしかめ、そのことを通して次回以降フッサール現象学について考察をおこなうための準備をおこなうことにします。

 

「物自体」という概念は、カント哲学を理解しようとする者たちにとって躓きの石となってきました。かつてフリードリヒ・H・ヤコービは、「私は、物自体を前提せずにはその体系の中へと入り込むことができず、また物自体を前提してはその体系の中にとどまることができないということについて、絶えず混乱させられた」と述べています。もし、われわれがけっして物自体を認識することができないのであれば、それについてなにごとかを語ることさえ不可能なのではないだろうかという疑問が生じるからです。

 

そもそもカントは、みずからの哲学的立場について、「超越論的観念論者は経験的実在論者であって、現象としての物質に対し、推論される要なく直接に知覚される現実性を承認するのである」*3と述べていました。ここで彼は、従来の独断的形而上学の立場を「超越論的実在論」と呼んで、みずからの立場とはっきりと区別していたのです。彼は、「われわれの外に存在する独立体」*4を想定する超越論的実在論の立場においては、「これらの事物についてのわれわれの表象をわれわれがどんなによく意識していても、表象が実際に存在するかぎりそれに合致する対象もまた存在するということは、とうてい確実ではない」*5という問題に避けがたく陥ることになり、そのような立場にくみすることはできないとしています。

 

しかしカントは、われわれは超越的な形而上学的実体にけっして到達することはできず、経験的に認識される現象界の内にとどまるべきだという「経験的観念論」ないし「実質的観念論」*6の立場にも、くみすることはありませんでした。

 

対象についてのわれわれの認識が、「われわれの外に存在する独立体」としての対象と一致しているという保証はどこにも存在しません。デカルトの方法的懐疑の議論が示すように、われわれの認識が誤りであるような可能性は、けっして拭い去ることはできないのです。しかし、われわれの認識が誤りであるかもしれないというとき、それはいったいなにについての誤りだといわれているのでしょうか。このときわれわれは、みずからの認識についての〈正しさ〉を前提にして語っているはずです。カントの主張する「経験的実在論」は、経験的な立場において〈正しさ〉が前提されていることを認める立場だということができるでしょう。

 

これに対して、われわれの認識が単なる主観的な現象にすぎないという「経験的観念論」の主張は、経験的な立場においてはまったく無意味な主張だといわなければなりません。なぜなら、もしわれわれが「経験的観念論」の主張を受け入れ、「すべてがわれわれの主観的な表象にすぎない」ということを認めるならば、まさにそのことによって、われわれはもはや「すべてがわれわれの主観的な表象にすぎない」と言い立てる理由をうしなうことになります。いっさいが主観的表象にすぎないときに、なぜそれらを表象にすぎないとことさらに主張する必要があるでしょうか。もし、いっさいがわれわれの主観的な表象にすぎず、われわれがそうした現象の世界のなかで毎日を送っているのであれば、われわれはみずからの認識の対象を、まさにわれわれが哲学以前的な態度においてそうしているように、物自体として呼べばよいのであり、「それはじっさいには、単なる主観的な現象にすぎない」という主張は、実質的にはなんの役割も果たしていないといわなければなりません*7。そこで用いられる「現象」という概念はまったくの冗語にすぎず、「オッカムの剃刀」の原理にもとづいてただちに排除されることになるでしょう。それにもかかわらず、あえてわれわれの経験的認識の対象を「対象についての主観的現象」であるとする主張になんらかの根拠をもとめようとするとき、われわれは現象を超えた実体の世界を考えるほかなく、独断的形而上学に陥ることになります*8

 

われわれは具体的な経験の場において、みずからの認識がそれについて妥当とされるような〈正しさ〉を承認しているのであり、われわれの認識が単なる主観的意識の産物だとする「経験的観念論」の主張はまったく無意味なものと理解されるほかありません。ここでわれわれが承認している〈正しさ〉のことを、カントは「超越論的真理」と呼んでいます。

 

われわれの認識はすべて一切の可能な経験の全体中に存する。そして一切の経験的真理に先行してこれを可能ならしめるところの超越論的真理は、この可能な経験に対して一般的関係を持つところに存する*9

 

「超越論的真理」は、個々の経験的な認識について成り立つような真理ではありません。それは、われわれの個々の認識のありかたを可能にしている「私は考える」という超越論的統覚の働きと表裏一体のものだと考えられます。そうした超越論的真理を承認することが、さまざまな経験的認識が経験的認識として受け取られることの根拠となっているのであり、その意味で超越論的真理は個々の経験的認識が成立するための可能性の条件としての意義をもつということができるでしょう。

 

ところでカントは、超越論的統覚と表裏一体となって〈正しさ〉を可能にしている根拠となるはずのものを「超越論的対象=X」と呼び、「この超越論的対象〔・・・〕という純粋概念は、あらゆるわれわれの経験的概念一般に対して、対象との関係、すなわち客観的実在性を与えうるものをなす」*10と述べています。さらに、超越論的対象は独断的形而上学において想定されていた「われわれの外に存在する独立体」ではなく、「統覚の統一の相関者」(Korrelatum der Einheit der Apperzeption)*11だという説明がなされています。これは、超越論的対象が個々の経験的認識の対象なのではなくて、むしろ統覚とともに個々の経験的認識が成立するための「純粋な地平」(reiner Horizont)*12としての役割を果たしているということを意味しているということができるでしょう。

 

カントの立場は、「経験的実在論」にして同時に「超越論的観念論」であるとされていました。「経験的実在論」の立場においてわれわれは、みずからの認識が単なる主観的意識の産物ではなく、〈正しさ〉をもつことを承認していました。そして、このような認識のありかたを可能にしているのが、われわれの個々の経験的認識の地平をなしているところの超越論的対象にほかなりません*13。こうしたわれわれの認識のありかたを明らかにするカント哲学の立場が、「超越論的観念論」と呼ばれているのです。

 

よく知られているようにカントは、われわれの認識が対象にしたがわなければならないと考えるのではなく、対象がわれわれの認識にしたがわなければならないという「コペルニクス的転回」を主張しました。ただしこのことは、主観と客観の関係を逆転させる認識論的主観主義の主張だと理解するべきではありません。カッシーラーはこのことを、「思考法の革命とは、理性が自分自身を反省し、理性の前提と原則、その問題と課題を反省することから始めるという点に本質がある」*14と解説しています。さらに、「われわれの認識がすべて経験〈をもって〉はじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験〈から〉生ずるのではない」*15というカントのことばも、こうした考えにもとづいて理解できるように思われます。超越論的観念論の立場は、われわれの経験的認識〈とともに〉ありつつ経験的認識を可能にしている地平としての〈正しさ〉の役割を解明することをめざす立場だといってよいでしょう。

 

さて、すでに見たように竹田は、カントの「物自体」を「本体」概念の残滓とみなして批判していました。しかし、経験的実在論にして同時に超越論的観念論の立場に立っていたはずのカントが、独断的形而上学において想定されていたような「われわれの外に存在する独立体」を承認していたと考えることは、不自然ではないでしょうか。むしろ「物自体」は、これまでわれわれが見てきたような経験的認識の可能性の条件をなしている「超越論的対象」になぞらえて理解することが可能であるように思われます。もしそうした解釈が成り立つのであれば、カントの物自体を「本体」概念の残滓とみなす竹田の解釈は当を得ないといわなければなりません。

 

しかし、このように結論づけることを躊躇させるものが、カントのテクストのうちに存在していることも事実です。たとえばカントは『プロレゴーメナ』において、「実際に、もしわれわれが感官の対象を、当然そうすべきように、単なる現象と見なすならば、われわれはこれによってとにかく同時に、現象の根底に物自体そのものが存することを承認するが、もっともわれわれは、当の物がそれ自体どのような性質であるかを識らず、識っているのは、ただその現象、換言すれば、われわれの感官がこの知られぬ或るものから触発される様式にすぎない」*16と述べています。また『純粋理性批判』においても、「超越論的感性論」の冒頭に次のような文章を見いだすことができます。

 

 どういう仕方どういう手段で認識が対象に関係するにしても、いやしくも認識が対象に関係する場合に、両者の直接の媒介をなし、すべての思惟が手段として求めるものは直観である。けれども直観はわれわれに与えられるかぎりにおいてのみ生じるにすぎない。しかしこのわれわれに対象が与えられるということは、これまた、(少なくともわれわれ人間にとっては)対象がわれわれの心を何らかの仕方で触発することによってのみ可能なのである。われわれが対象によって触発される仕方を通して表象を得る能力(感受性)を感性という*17

 

こうした物自体の規定は、「超越論的分析論」において論じられている超越論的対象にかんする説明とは異質であり、両者をただちに同一視することは困難だといわなければなりません。この問題をめぐって、これまで多くの研究者たちが議論をかさねてきました。たとえば岩崎武雄は『カント『純粋理性批判』の研究』という著作において、「物自体」の概念は、独断論に歯止めをかけるための「限界概念」(Grenzbegriff)*18として理解されなければならないと主張しています。

 

カント「純粋理性批判」の研究 新装版

カント「純粋理性批判」の研究 新装版

 

 

感性を触発するものとしての物自体の存在を考えるということは確かに極めて不合理である。物自体の存在を始めから想定し、この物自体と主観との相互の交渉から感覚が生ずると考えるのはいわば独断論的立場であり、独断論を否定しようとするカントの批判主義にはおよそ似合わしからぬことであると言わねばならない。しかしわれわれが先入見をもたずに「先験的〔超越論的―引用者〕感性論」を読めば、そこに感性を触発する物自体が存在すると考えられていることは否定することができないのである。だが私はこの点には余りこだわる必要はないのではないかと考える。〔・・・〕後に見るように、「先験的分析論」においては物自体とは決してその存在を積極的に主張し得ないもの、単なる限界概念〔・・・〕として消極的な意味において用いられるべき概念と考えられているのである。そうであるとすれば、「先験的感性論」においてカントはただ常識的に最も分りやすい意味で物自体の概念を提出したにすぎないのではないであろうか。そしてそのような素朴な立場から出発して『純粋理性批判』においてしだいにより高い立場に進み、物自体の概念もそれに応じて異なった意味に用いられたのではないであろうか*19

 

このほかにも、多くの研究者たちがこの問題についてそれぞれの立場から詳細な研究をおこなっています*20。しかし、わたくしにはそうした研究史を正確に紹介する力はなく、また竹田の現象学解釈の妥当性を検証するわれわれにはそれらに立ち入る必要もないといってよいでしょう*21。いずれにしても、研究者たちがこの問題をめぐってさまざまな議論を戦わせてきたにもかかわらず、いまだ一意的な解釈にたどり着くにいたっていないことからも、カントが「超越論的真理」について十分に明快な議論を提供することに成功していないといってよいのではないかと思われます。

 

すでにわれわれは、カントの超越論的観念論の立場が、われわれの経験的認識とともにありつつ、経験的認識を可能にしている地平を解明することをめざす立場だということを論じてきました。それは、われわれが経験的立場において〈正しさ〉を承認していることを受け止め、その〈正しさ〉がわれわれの経験的認識においてどのような役割を果たしているのかということを解明する立場だということができます。しかし、どこまでも経験にそくしつつ、そのなかで承認されているはずの〈正しさ〉が具体的にどのように機能しているのかということを、カントが十全な仕方で論じていたとはいいがたいように思われるのです。

 

カントが多少とも具体的に、経験にそくしつつそこにおいて機能している〈正しさ〉の具体的な役割について論じているのは、むしろ「超越論的理念」の統制的使用について語っている「超越論的弁証論」での議論だったのではないかと思われます。

 

カントは『純粋理性批判』の第二版「序」において、「われわれを駆って必然的に経験の限界および一切の現象の限界を越え出ようとさせるものは無制約者であり、理性が一切の被制約者に対立せしめてこの無制約者を物自体の中に求め、それによって諸制約の系列を完結したものとして求めるのは、必然にしてかつあらゆる面で当然である」*22と述べていました。しかしわれわれの理性は、現象の内にこうした無制約者の理念に合致する対象を見いだすことはけっしてできません。そのため彼は、「理性はしたがって本来、悟性とその合目的的な任務とのみを対象とし、悟性が客体における多様を概念によって統一するように、理性は理性の立場から概念の多様を統一するのである」(A644/B672 高峯訳『カント純粋理性批判』427頁)と述べることになります。つまり、理性は感性に直接働きかけることはできず、悟性とその合目的的使用を統一することしかできないとされているのです。理性はそうしたしかたで悟性的な認識に体系的統一をあたえると考えられています。

 

われわれの認識の全体という理念は、このような理性による統一によって要請されることになるとカントは考えます。こうした超越論的理念の働きは「統制的使用」と呼ばれています。カントは、われわれがけっして超越論的理念に到達することはできないといい、しかしそれにもかかわらず、われわれの経験にそくしてその客観的妥当性が承認されているということを明らかにしています。

 

理性の経験的使用はこれらの理念に、単にいわば漸進的に、すなわち単に接近しつつ従うことができるのみであって、つねに到達することはできない。とはいえやはりこれらの理念は、ア・プリオリな総合命題として、未限定ではあるが客観的妥当性を有し、可能な経験の規則として役立ち、また実際に経験を形成するのに発見的な原則として、大いに有利に使用される*23

 

しかし、ここでカントが「超越論的理念」として考えているのは、自由・不死・神の三者であり、われわれが経験的立場において〈正しさ〉を承認しているという事実を解明するにはいたっていません。超越論的理念にかんするカントのすぐれた考察にもかかわらず、「超越論的真理」の具体的な機能をわれわれの経験にそくして明らかにするという仕事をカントは十全に果たしていなかったのではないかという非難は、やはり免れないように思われます。

 

竹田は、カントの物自体を「本体」概念の残滓とみなし批判していました。カントの思想全体に照らして考えてみるならば、こうした竹田の批判はやや性急だったのではないかといわざるをえないでしょう。しかし、物自体の位置づけについてのカントの議論にあいまいなところが多分にのこされていたことも、われわれは認めなければなりません。仮に竹田のカント批判が当たらないとしても、その責任の一端はカント自身に帰せられなければならないように思われるのです。

 

そして、カントがのこした問題を引き継ぎ、われわれの経験の時間的構造に注目することで、われわれが経験的立場において承認しているはずの〈正しさ〉の役割を、具体的な経験にそくして解明するという仕事にとりくんだのが、フッサールだったのです。彼の提唱する超越論的現象学の立場は、そうした哲学史的系譜のなかで理解される必要があります。

 

次回からはいよいよフッサールの思想の検討に入っていくことにします。

*1:B1 高峯訳『カント純粋理性批判』44頁

*2:竹田『欲望論』第1巻、137頁

*3:A371 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁

*4:A371 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁

*5:A371 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁

*6:カントは『純粋理性批判』第二版の「観念論論駁」で、こうした立場について次のように述べています。「観念論(ここでは実質的観念論を意味する)とは、われわれの外なる空間における対象の現実的存在を、単に疑わしくかつ証明されないものと説くか、あるいは誤謬であって存在不可能なものと説くものである」(B274 高峯訳『カント純粋理性批判』198頁)。

*7:もちろんこのとき、われわれの認識が誤りうる可能性が存在することを忘れてはなりません。われわれが事実を正しく認識したと思っていたとしても、のちにそれが誤りであったと判明する可能性は、どこまでも消去できずにのこりつづけます。とはいえそのばあいでも、事実についての個々の認識が経験の進行とともに訂正されうるということであり、訂正がそれに照らしあわせてなされるような〈正しさ〉が承認されているということに留意しなければなりません。

*8:カントは、「わたくしの知るかぎりでは、すべて経験的観念論を固執する心理学者は超越論的実在論者であるから、彼らが経験的観念論に対して、これを人間の理性が容易に処理できない問題の一つとして、非常な重要性を認めるのは、いうまでもなくまったく首尾一貫した態度である」(A372 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁)と述べています。

*9:A146/B185 高峯訳『カント純粋理性批判』153頁

*10:A109 高峯訳『カント純粋理性批判』136頁

*11:A250 高峯訳『カント純粋理性批判』217頁

*12:ハイデガーは『カントと形而上学の問題』のなかで、超越論的対象=Xにかんして次のように述べています。「Xとは、われわれが一般にそれについてまったく何も知り得ないものである。しかしそれは、このXが存在者として現象の層の「背後に」隠されてあるから知りえないのではなく、それは端的に知識の、すなわち存在者の認識の所有のいかなる可能的対象ともなり得ないからである。Xがけっしてそのようなものになり得ないのは、それが無であるからである。」「無は存在者を意味しないが、それにもかかわらず「或るもの」を意味する。それは「たんに相関者として役立つにすぎない」、すなわちそれはその本質からして純粋な地平なのである。カントはこのXを「超越論的対象」〔・・・〕とよんでいる。ところでしかし存在論的な認識作用において認識されるXが、もしその本質上、地平であるとすれば、この認識作用はまたこの地平を、その地平的性格において開示し続けるようなものでなくてはならない。しかしその場合この或るものは、まさに直接的にそして唯一的に考えられたものとして把握の主題の中にあることは許されない。地平は非主題的にではあるが、しかもそれにもかかわらずまさに視野の中になくてはならぬ。そのようにしてのみ地平は、その中で遭遇するものをそのようなものとして主題の中に押し出すことができる」(Heidegger, Martin, Gesamtausgabe, Bd. 3, Hrsg. von Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 1991, Vittorio Klostermann, Frankfurt am Main, S. 122-123 門脇卓爾訳『ハイデッガー全集 第3巻 カントと形而上学の問題』(2003年、創文社)125-126頁、ただし訳語の一部を変更しました。以下も同様とします。)。また山崎庸佑は、「超越論的対象は〔・・・〕事物にかかわる経験がまさに事物にかかわる経験として納得されるゆえんの究極にあるもの、つまりは事物経験を事物経験として意味あらしめている超越論的な意味根拠にほかならない」(山崎庸佑『超越論哲学―経験とその根拠に関する現象学省察』(1989年、新曜社)70頁)といい、さらに超越論的対象が「主観の対象措定の作用=能力をすら究極のところで有意味に機能させ、いわば成り立たしめている真に超越論的な根拠の地平」(山崎『超越論哲学』68頁)だとする解釈を提出しています。

*13:「経験一般の可能性の条件は、同時に経験の対象の可能性の条件である」(A158/B197 高峯訳『カント純粋理性批判』159頁)というカントのことばも、こうした考えと軌を一にしているということができます

*14:Cassirer, Kants Leben und Lehre, S. 161 門脇ほか監訳『カントの生涯と学説』158頁

*15:B1 高峯訳『カント純粋理性批判』44頁

*16:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 314 久呉訳『カント全集 6』273頁

*17:A19/B33 高峯訳『カント純粋理性批判』63頁

*18:A255/B310 高峯訳『カント純粋理性批判』219頁

*19:『岩崎武雄著作集』第7巻、78-79頁

*20:カント哲学を継承しつつそれをいっそう合理的な立場からとらえなおすことをめざした新カント学派の哲学者たちも、物自体を超越論的対象と同一視する解釈を提出しました。たとえばヘルマン・コーエンは、物自体とは「課題」(Aufgabe)であると主張します。彼によれば、物自体はわれわれの経験を超越した「未知なるもの」などではなく、経験の全体の把握をめざす学的認識を遂行するなかで解決されなければならない「課題」だと理解されなければなりません。他方、エーリッヒ・アディッケスは『カントと物自体』のなかで、物自体を超越論的対象と同一視する解釈を厳しく批判し、「カントは批判期全体にわたって、われわれの自我を触発する多数の物自体が主観を越えて存在することを、絶対に自明なこととして一度も疑ったことがないと私は確信する」(エーリッヒ・アディッケス著、赤松常弘訳『カントと物自体』(1974年、法政大学出版局)5頁)と主張しています。これらの研究については、牧野英二『カント純粋理性批判の研究』(1989年、法政大学出版局)においてていねいな紹介と検討がおこなわれています。

*21:ただしひとつだけ、大きな問題が存在していることに触れておかなければなりません。それは、われわれが「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く (5)」で検討したように、竹田がカントの認識論の図式とニーチェの欲望相関図式を対照し、後者にもとづいて彼自身のエロス原理を提出していたことです。たしかにニーチェは、カント哲学に対してくり返し厳しい批判をおこなっており、両者の立場は鋭く対立しているということができます。しかし他方で、ニーチェの「力への意志」の思想がショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の批判的継承であり、ショーペンハウアーの「意志」がカントの「物自体」に淵源を有していることにも留意しておく必要があるように思います。こうした思想史的系譜を踏まえたうえでニーチェの思想を理解しようとするならば、ニーチェの遠近法主義を欲望相関図式としてとらえ、単なる主観的なエロス原理をのみそこに見ようとする竹田の解釈は、ニーチェの思想の重要な側面を看過しているといわなければなりません。

*22:B XX 高峯訳『カント純粋理性批判』31-32頁

*23:A663/B691 高峯訳『カント純粋理性批判』437頁