サブカルチャー批評を読み解く (2)
以下では、『動物化するポストモダン』での東浩紀の主張を、簡単に振り返ってみたいと思います。
この本は三つの章で構成されていますが、中心となるのは第二章「データベース的動物」です。この章の冒頭で、東は「二つの疑問」を掲げています。
(1)ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加する。それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか? 近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すのは何ものなのか?
(2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか? 近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?*1
今回は、(1)に関する東の議論を見ていきます。
「ポストモダン」に関する東の議論の出発点にあるのは、ジャン=フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』などで指摘されている、「大きな物語の凋落」です。「大きな物語」とは、18世紀から20世紀半ばまで、近代国家がその成員をまとめあげるために整備したシステムの総称を意味します。より具体的にいうと、思想的には人間や理性の理念であり、政治的には国民国家や革命のイデオロギーであり、経済的には生産の優位の発想などを指しています。そして「ポストモダン」とは、もはや人びとがこのような「大きな物語」の存在を信じることができなくなった時代を意味しています。
かつての連合赤軍は、共産主義という「大きな物語」を信じることができました。しかしオウム真理教の時代には、共産主義のような社会的に認知された物語は存在していませんでした。そこで彼らは、偽史的な想像力を駆り立てて、うしなわれてしまった「大きな物語」の代理物の捏造をおこないました。
しかし、いまやオタクたちは、そうした「大きな物語」のフェイクを必要としなくなってきているのではないかと、東は考えます。
筆者には、〔・・・〕近代からポストモダンへの流れは、進むにつれて、そのような捏造の必要性を薄れさせていくように思われる。というのも、ポトモダンの世界像のなかで育った新たな世代は、はじめから世界をデータベースとしてイメージし、その全体像を見渡す世界視線を必要としない、すなわち、サブカルチャーとしてすら捏造する必要がないからだ。もしそうだとすれば、失われた大きな物語の補填として虚構を必要とした世代と、そのような必要性を感じずに虚構を消費している世代とのあいだに、同じオタク系文化といっても、表現や消費の形態に大きな変化が現れているに違いない*2。
東はこうした変化を、『機動戦士ガンダム』と『新世紀エヴァンゲリオン』を比較することによって説明をおこなっています。彼は、『ガンダム』のファンは架空の大きな物語への情熱をもっていたのに対し、『エヴァ』のファンにはそのような作品世界の全体に対する関心は希薄だったといいます。
『ガンダム』のファンは「宇宙世紀」の年表の整合性やメカニックのリアリティに以上に固執することで知られている。それに対して、『エヴァンゲリオン』のファンの多くは、主人公の設定に感情移入したり、ヒロインのエロティックなイラストを描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ったりすることだけのために細々とした設定を必要としていたのであり、そのかぎりでパラノイアックな関心は示すが、それ以上に作品世界に没入することは少なかったのである*3。
『エヴァ』の制作会社であるガイナックスも、こうした消費者の動向にあわせて、登場人物をつかった麻雀ゲームや、エロティックな図柄のテレフォン・カード、あるいは綾波レイの育成シミュレーション・ゲームといった、「コミケで売られている二次創作にかぎりなく近い発想の関連企画」を展開していったことに、東は注目しています。そして、いまやオタクたちの消費の〈対象〉となっている、これらの「シミュラークル」の背後にあるのは、作品世界という「大きな物語」などではなく、無数の「シミュラークル」を生成する「データベース」だと、東は主張します。
次に、東の「データベース消費」と、彼によって批判的に言及されている大塚英志の「物語消費」とのちがいに触れておきます。
大塚が、「物語消費」を語るときに例としてとりあげているのが、ロッテから発売され、1987年から88年にかけて子どもたちのあいだで流行した「ビックリマンチョコレート」です。
「ビックリマンシール」は、表面に一人のキャラクターが描かれ、裏面にはそのキャラクターに関する「悪魔界のうわさ」と題される情報が記載されています。そして子どもたちは、一枚一枚のシールに記載された断片的な情報である「小さな物語」の背後に存在する、神話的叙事詩のような世界観、すなわち「大きな物語」へ向けての欲望にさそわれることになります。なお付け加えておくと、大塚のいう「大きな物語」ということばには、すくなくとも直接的には、近代的な社会システムの総称といった意味が込められているわけではありません。大塚は2002年におこなわれた東との対談のなかで、「東くんが書いたものに対して感じていた違和感というのは、『物語消費論』はマーケティング理論でしかないのに、それがそのまま社会システム理論に移行しているからなんだよね」*4と語っています。
さて、上の考察につづけて、大塚は次のような議論を展開しています。
しかしこのような〈物語消費〉を前提とする商品は極めて危うい側面を持っている。つまり、消費者が〈小さな物語〉の消費を積み重ねた果てに〈大きな物語〉〔・・・〕を手に入れてしまえば、彼等は自らの手で〈小さな物語〉を自由に作り出せることになる。例えば以下のようなケースが考えられよう。著作権者であるメーカーに無許可で、誰かが〈スーパーゼウス〉に始まる772枚のビックリマンシールのうちの一枚をそっくり模写したシールを作れば、これは犯罪である。こうして作られたシールは〈偽物〉である。ところが同じ人間が、「ビックリマン」の〈世界観〉に従って、これは整合性を持ちしかも772枚のシールに描かれていない773人目のキャラクターを作り出し、これをシールとして売り出したとしたらどうなるのか。これは772枚のオリジナルのいずれを模写したものでもない。したがってその意味では〈偽物〉ではない。しかも、773枚目のシールとして772枚との整合性を持っているわけであるから、オリジナルの772枚とも同等の価値を持っている。〈物語消費〉の位相においては、このように個別の商品の〈本物〉〈偽物〉の区別がつかなくなってしまうケースがでてくるのだ*5。
そして大塚は、「大きな物語」とその断片である「小さな物語」という枠組みを用いて、いわゆる「二次創作」の解明をおこなっています。大塚が例に引いているのは、高橋陽一原作のマンガ『キャプテン翼』です。「二次創作」の作者たちは、原作の『キャプテン翼』から「世界観」という「大きな物語」を抽出し、それにのっとって原作とは異なる「小さな物語」を生みだしていったのです。そして大塚は、こうした「大きな物語」と「小さな物語」の関係を、歌舞伎の「世界」と「趣向」の関係になぞらえて説明します。
「翼」同人誌の作品は、「キャプテン翼」という〈世界〉を定め、これをそれぞれの女の子たちが自分の創意工夫にとんだ〈趣向〉をもって描いたものである。このような〈世界〉-〈趣向〉という軸の中で考えた時、高橋陽一の本家「翼」を含めた無数の「翼」作品を判断する基準として、どれがオリジナルであるかはもはや無意味であり、ただ〈趣向〉の優劣のみが有効となってしまう*6。
世界観と物語の関係(大塚『定本物語消費論』16頁)
まとめると、「ビックリマンシール」を集める子どもたちや『キャプテン翼』の二次創作をおこなっているファンたちは、「小さな物語」を通して、その背後の「大きな物語」を志向しているというのが、大塚の「物語消費」でした。
これに対して、東は「データベース消費」という概念を提唱します。東がとりあげるのは、「キャラ萌え」と呼ばれる、オタクたちの新しい消費行動です。
かつては作品の背後に物語があった。しかしその重要性が低下するとともに、オタク系文化ではキャラクターの重要性が増し、さらに今度はそのキャラクターを生み出す「萌え要素」のデータベースが整備されるようになった。この10年間のオタク系文化はそのような大きな流れのなかにあった*7
ここで例にあげられているのが「萌え要素」です。「萌え要素」には、「アホ毛」「ネコミミ」「メイド服」といったグラフィカルな要素や、特定の口癖、設定、物語の類型的な展開などが存在しています。東のいう「データベース」とは、こうした無数の記号的な要素の集積を意味しています。東は、こうした「萌え要素」を享受しているオタクたちの消費行動について、次のように説明します。
90年代のオタクたちは一般に、80年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に90年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。〔・・・〕そこではオタクたちは、物語やメッセージなどはほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。したがって、この消費行動を分析するうえでは、もはや、それら作品の断片が「失われた大きな物語」を補填している、という図式はあまり適切でないように思われる*8。
オタクたちは「大きな物語」への志向をやめて、個々の作品の設定やキャラクターの背後にある、広大なオタク文化全体のデータベースを消費することへ向かっていると東は主張します。これが、彼の提唱する「データベース消費」という考えかたにほかなりません。
東が掲げた「二つの疑問」のなかの(1)、すなわち「ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加する。それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか? 近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すのは何ものなのか?」という問いに対する東の考察を、これまでたどってきました。この問いに対する東のこたえは、「データベース消費」という考えかたによって示されているといってよいでしょう。
次回は、「二つの疑問」の(2)のほうに目を向けることにしたいと思います。
*1:東『動物化するポストモダン』46頁
*2:東『動物化するポストモダン』57-58頁
*3:東『動物化するポストモダン』59-60頁
*4:大塚英志、東浩紀『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』(講談社現代新書、2008年)33頁
*5:大塚『定本物語消費論』15頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります。
*6:大塚『定本物語消費論』19頁
*7:東『動物化するポストモダン』69-70頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります。
*8:東『動物化するポストモダン』58頁、なお横書き表示にあわせて、一部漢数字をアラビア数字にあらためた箇所があります。
サブカルチャー批評を読み解く (1)
2001年に刊行された東浩紀の『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)は、刊行から14年が経った現在、どのように読まれうるのかということを、何回かに分けて考えてみたいと思っています。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/11/20
- メディア: 新書
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この書は、それ自体が優れたサブカルチャー批評であるばかりでなく、アニメやゲームなどのオタク文化に関する批評的な言説の舞台そのものを構築したという意味でも画期的な仕事とされています。その後の活発なサブカルチャー批評は、この本によって整えられた枠組みを踏まえることなしには成り立たなかったといえるでしょう。
東は、斎藤環、小谷真里との鼎談「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」のなかで、この本に関して次のように述べています。
たとえば僕はこの本では、岡田斗司夫、大塚英志、中島梓、宮台真司、大澤真幸、斎藤環といったオタク論の系譜を強引に作り上げている。でも実際には、あんな系譜すら、僕が書くまでほとんど意識されていなかったはずです。そういう歴史認識がないまま、ただ単発のレビューや感想ばかりが消費されていく状況があった。僕はそれを変えたかった*1。
ここで東は、『動物化するポストモダン』以後のサブカルチャー批評の枠組みをつくりあげただけではなく、『動物化するポストモダン』以前のサブカルチャー批評の系譜を「強引に作り上げ」たと語っています。サブカルチャー批評は、『動物化するポストモダン』へと収斂したあと、ふたたび『動物化するポストモダン』から流れ出ていくといえるかもしれません。
そういうわけで『動物化するポストモダン』はサブカルチャー批評の〈起源〉であり、現在でもなお、オタク文化について批評的にかかわろうとする者がまっさきに参照するべき仕事でありつづけています。しかし、刊行から14年が経ったいま、この本の読まれかたも刊行当時と変わってきているのではないか、という気がします。
ここで考えてみたいのが、オタクの世代分類です。東は『動物化するポストモダン』の中で、オタクを三つの世代に分けています。彼が「第一世代」と呼ぶのは、1960年前後生まれで『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』を十代で見た世代を指します。次の「第二世代」は、1970年代前後生まれで、第一世代がつくりあげた爛熟し細分化したオタク系文化を十代で享受した世代とされます。そして、1980年前後生まれで『エヴァンゲリオン』ブームのときに中高生だったのが、「第三世代」です。このような区分をおこなったうえで東は、「本書の議論は、そのなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動きに焦点を当てて組み立てられている」*2と述べています。
この分類によると、1971年生まれの東は第二世代ということになります。また、彼よりも若い世代で、彼の影響をなんらかのかたちで受けつつ、現在のサブカルチャー批評の中核を担っている思想家たち、たとえば宇野常寛(1978年生まれ)、濱野智史(1980年生まれ)、福嶋亮大(1981年生まれ)は、第三世代にあたります。
一方、「オタキング」として有名な岡田斗司夫も、2008年に刊行された『オタクはすでに死んでいる』(新潮選書)の中で、オタクの世代分類をおこなっています。ただし、東の分類と岡田の分類のあいだには、けっして無視できない齟齬があります。
岡田本人もそこに含まれる「第一世代」にかんしては、あまり問題はありません。齟齬が存在しているのは、「第二世代」と「第三世代」の境界です。岡田の考える「第二世代」は、2008年当時「二十代終わりから三十代半ば過ぎくらいの人たち」で、「大体、80年代後半から、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした1995年までが青春期だった人たち」とされています。「宮崎勤のせいで、親に「あんたもそうじゃないの」と思われ、宅八郎さんが出てきたときに、「あれと一緒にされたらかなわん」と思った」*3世代だと、岡田は説明しています。
これにつづくのが、岡田の分類における「第三世代」です。この世代については、次のように述べられています。
彼等は子供の頃から『エヴァンゲリオン』も『セーラームーン』も『ウテナ』もまったく同列に存在した世代です。第二世代が受けた『エヴァ』ショックというものを経験していない。『エヴァンゲリオン』がものすごくセンスのいいアニメだということは認識できても、今の三十代の人たちが受けたような衝撃は受けていない。
すべての作品について「その作品を生んだ歴史的な流れ」よりも「自分が感じたインパクト」を重視している。そのためか、感動した作品のスタッフや、前作などとの関連性にはあまり興味がない。それよりも「同じような感動を与えてくれるほかの作品」に興味が走る傾向があります*4。
ここに見られるように、1995年に放映されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の衝撃をリアル・タイムで体験した世代は、岡田の分類では「第二世代」にあたります。上にあげた宇野、濱野、福嶋らもこの世代に含まれます。そして岡田は、この後にやってきた「第三世代」のオタクたちが、それまでのオタクとはまったく異なるメンタリティをもっていることを発見します。
他方、東の『動物化するポストモダン』では、『エヴァ』ショックを体験したひとたちは「第三世代」にあたります。つまりこの本は、『エヴァ』以降のオタク文化をひとつづきのものとみなして、その考察をおこなっているのです。
あらためて考えてみると、東がこの本を刊行したのは、『エヴァ』放映からわずか6年後のことです。14歳で『エヴァ』を見た少年が、ようやく20歳を迎えた頃なのです。したがって、それよりも若い世代のメンタリティの変化についての記述を『動物化するポストモダン』のなかにさがし求めることができないのも、当然だといえそうです。
そこで気になってくるのが、岡田のいう「第三世代」のメンタリティをもつ若いオタクたちにとって、14年前に刊行された『動物化するポストモダン』を読むことの意義はどこにあるのか、ということです。この問いについて、これからすこしずつ考えてみたいと思っているのですが、ここでいったん区切りを入れて、次は『動物化するポストモダン』の内容を簡単にまとめてみることにします。