しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (2)

今回は、主として『現象学入門』(NHKブックス、1989年)によりつつ、彼の現象学解釈、とくに「現象学的還元」についての解釈を概観していくことにします。

 

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

 

 

竹田は、「ふつうわたしたちが常識的にものを考えるときには、暗黙のうちに〈主観/客観〉図式を前提としている」といい、「私たちは暗黙のうちに身につけている「ものの見方」を捨て去って、まったく違った視線で事態を見なければならない」*1と主張します。これは端的にいえば、「〈主-客〉図式をとり払うこと」*2にほかなりません。

 

「主観-客観」図式を取り払うという発想は、竹田の独創的解釈ではなく、標準的なフッサール解釈をそのままなぞっているように思えます。しかし竹田の議論を少しくわしく見てみるならば、標準的なフッサール解釈と竹田のそれとでは、かなりの違いがあることが明らかになります。

 

谷徹は、現象学の入門書として定評のある『これが現象学だ』(講談社現代新書、2002年)のなかで、フッサールに重要な着想を与えた思想家であるマッハの現象論に言及しています。そこで彼は、マッハの『感覚の分析』にある有名な絵を参照しつつ、「フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた」*3と述べています。ただし、急いで付け加えなければなりませんが、谷がここで「主観的」と呼んでいるのは、「主観-客観」図式の片方の項を意味しているのではありません。彼は、「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」*4と説明しています。

 

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Ernst Mach, Die Analyse der Empfindungen, 1992, Jena, Gustav Fischer

 

同様のことを、マッハの『感覚の分析』の翻訳を手がけた廣松渉も述べています。

 

 マッハのいう要素は、普通には感覚と呼ばれているもの―色、香、音、温冷の感覚、圧覚、空間感覚(つまり形や大きさの諸感覚)、時間感覚、等々―にほかならない。それが要素と呼ばれるわけは、それが存在者の構成要素であり、しかも、現在のところもはやそれ以上分解することも他に還元することもできない元素だからである。
 ところで、この要素=感覚は、「頭のなかにある」主観的な心像として理解されてはならない。「要素」は、もしそのような云いかたが許されるならば、頭のそとにある感覚なのである。それは第二次的な所産ではなく、第一次的・根源的な所与であり、それ自身としては主観的でも客観的でもない。いわば中性的な構成要素である*5

 

マッハは、ふだんわれわれが当たり前だと考えている「主観-客観」図式から離れ、その前提をなしている「直接経験」の領野に立ち返るべきだと主張しました。フッサール現象学も、こうしたマッハの思想から影響を受けているとされています。

 

ところが、竹田の「〈主-客〉図式をとり払うこと」*6ということばは、これとは違う意味で用いられているように思われます。例えば次のような文章に、竹田の考えがよく示されています。

 

 どんな認識も〈主観〉だが、しかし〈主観〉は自分の認識能力の正しさを判定できない。ゆえに認識は決して〈客観〉に達しえない。これが〈主-客〉問題の謎である。
 この問題を考えるとき、論理上はふたつの方法しかない。〈主観〉から出発して〈客観〉が何であるかを説くか、〈客観〉から出発して〈主観〉の何であるかを説くかのどちらかの道である。事実、近代の認識論は必ずどちらかの方法をとってきた*7

 

彼によれば、認識論には主観から出発するか、客観から出発するかという2つの方法しかなく、「主観-客観」図式の前提に立ち返るという方法は考慮されていません。そして彼は、フッサールの立場を次のように解釈します。

 

 フッサールが言うのはこういうことだ。〈主-客〉の「一致」が可能かどうかと問う限り、問題は〈主観〉の認識能力の是非を問うほかない〔・・・〕
 というのは、〈客観〉から説明するという限り、〈客観〉が何であるかという規定が必要だが、この問題ではまさしくこの何であるかこそ求めるべきXであるからだ。ゆえにこの問題は〈主観〉から説明するほかにないのだ、と*8

 

もしフッサールの立場がこのようなものであるとするならば、それは独我論ではないかという批判を招くことは避けられないように思われます。しかし竹田は、このような批判は「ナンセンス」だと主張します。

 

 さて、現象学にたいするもうひとつの大きな非難は、それが「独我論」であるというものだ。現象学は人間の〈主観〉から一切を説明するので、それは一見、「世界」などどこにも存在しない、あるのはただ〈私〉に現われた「世界」像だけだ、という「独我論」の言い方にひどく似ている。だからその面だけ見ると、この批判はたしかに当たっているように見えるかも知れない。
 現象学独我論に似ているのは、まず〈私〉の場面から考えようとする点だ。しかし現象学独我論であるという批判は、まったくナンセンスと言うほかないものである。というのは、現象学は、主観-客観の問題を“解決する”ためには、むしろ「独我論の立場を“出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」と主張しているからだ*9

 

フッサールは、独我論の立場から議論を開始することを「戦略的に」選んだのだと、竹田は考えます。彼は、「現象学独我論だという批判は、したがって、寿司屋で刺身を注文した人が刺身にくっついたうろこを見て、「なんだ、これは魚じゃないか」と文句をつけているのに似ていると言えるだろう」*10と述べています。

 

では、「戦略的に」独我論の立場に立ってみることで、フッサールは何を得ることになったのでしょうか。それは、〈主観〉から出発して〈客観〉に達することは不可能であるにもかかわらず、われわれは「真理に到達した」という確信を抱くことがある、ということにほかなりません。竹田は次のように述べています。「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」*11フッサール現象学の最大の意義は、主観と客観の一致から確信成立の条件へと問題を組み替えたことにあるという、竹田のフッサール解釈のもっとも重要な考えが、ここに示されることになりました。

 

ここで、われわれがたどってきた議論を簡単に振り返っておきましょう。竹田によれば、フッサールは「〈主-客〉図式をとり払うこと」を主張したとされていますが、それは「主観-客観」図式の前提となっているより根源的な領野に立ち返ることを意味してはいません。それはただ、「〈主観〉は自分の外に出て〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確かめることができない」*12という帰結を受け入れることだといってよいでしょう。そして、それにもかかわらずわれわれが主観の内で「真理に到達した」という確信を抱くということに目を向け、主観の内における確信成立の条件を考察することが新たな課題として立ち現われてくることになります。

 

竹田はフッサールの立場をこのように理解したうえで、それに「方法的独我論」という名称を与えていました*13。その理由は、おそらく次のようなことではないかと思われます。すなわち、従来の独我論は「主観-客観」図式から脱却しているとはいえず、この枠組みのなかで、われわれはしょせん主観的な意識の内部に閉じ込められていて客観に至ることができないと主張しているにすぎません。それはいまだ懐疑主義的な立場にとどまっているというべきでしょう。「方法的独我論」はこうした懐疑主義的な立場とは異なり、主観の立場から出発して客観に到達することはできないということを承認したうえで、主観の内における確信成立の条件という新たな問題圏へと抜け出ることに成功しています。竹田はこのような理解に基づいて、フッサールの立場を「方法的独我論」と呼んだのだと思われます。

 

次に問題となるのは、主観の内における確信成立の条件に関する竹田の議論ですが、それについて立ち入って見ていくのは次回以降に譲ることにして、今回はこれまで見てきた竹田のフッサール解釈について、少しだけ検討を加えて、後論のための布石をおこなっておきたいと思います。

 

まず考えてみたいのは、こうした竹田のフッサール解釈がほんとうに「〈主-客〉図式をとり払うこと」になっているのか、という問題です。すでに引用した文ですが、竹田は「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」と述べていました。しかし、「主観-客観」図式を取り払ってしまったのであれば、「〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件」ということばは意味をなさないはずです。それとも谷のように、ここでの〈主観〉とは「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」といった意味で理解するべきなのでしょうか。

 

おそらく竹田は、標準的なフッサール解釈とは異なり、「主観-客観」図式が成立する以前の体験流にまで立ち返るという発想は抱いていないと思われます。こうした竹田のフッサール解釈の特徴がはっきりと現われているのが、「現象学的還元」の解釈です。フッサールの「現象学的還元」とは、自然的態度における定立作用を「括弧に入れ」「判断停止」することで「現象学的剰余」としての「純粋意識」を確保することを意味します。このような操作を経ることで、私たちは純粋意識に示された志向的構成作業を分析し、世界定立が形成されていく仕組みを明らかにすることができるようになると考えられています。まずはフッサール自身による「判断停止」の説明を見てみましょう。

 

 眼前に与えられている客観的な世界についてどんな態度決定をすることも、したがってさしあたり(存在、仮象、可能的存在、蓋然的存在、等々といった)存在について態度決定することも、このようにすべて差し控えること(「禁止すること」、「働かせないこと」)―あるいは、よく言われて来たように、客観的世界の「現象学的な判断停止」あるいは「括弧入れ」―は、私たちを無の前に立たせるわけではない。私たちにとって、あるいはもっと正確に言えば、省察する者である私にとって、むしろまさにそのことによって、あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる。判断停止とは、いわば根本的で普遍的な方法であり、これによって私は自分を自我として、しかも自分の純粋な意識の生をもった自我として純粋に捉えることになる*14

 

他方、竹田による「現象学的還元」の解釈は、次のようになっています。

 

 ここで読者に注意を促しておきたいのは『イデーン』などを読むと、〈還元〉という概念はあたかも厳密な学問的方法のように受けとられるのだが、じつは、〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎないということだ。またしたがって、そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で〈世界〉を見直してみることができる。このことを了解することが〈還元〉という概念をつかむ唯一の道なのである*15

 

竹田によれば、還元とは「独我論的に考えをすすめる」ことであり、このことを理解することが「〈還元〉という概念をつかむ唯一の道」だとされています。しかし、そのために必要なことは、単なる「視線の変更」だけなのです。ここには、「主観-客観」図式の前提にまでさかのぼってこの図式を解体しようという意図はなく、ただ主観と客観の一致を求めることはやめて、もっぱら主観の内の確信について考察することにしようという提案がなされているにすぎません*16

 

さて、ここまで竹田の「方法論的独我論」に関する議論をたどってきました。こうした竹田の理解が、はたしてフッサール解釈として妥当なのかということは、当然ながら検討されなければならない問題だと思います。しかし、そうした課題に立ち入る前に、もう少し考えておくべきことがあるように思われます。それは、「フッサール現象学」から「竹田現象学」において何が受け継がれたのか、あるいは、「竹田現象学」は何を本質的な問題としているのか、ということです。

 

なお、標準的なフッサール解釈に基づいて、現象学を基礎づけ主義だとする批判がなされていることはよく知られています。「主観-客観」図式の根源としての体験流にまで立ち返り、そこから「主観-客観」図式という枠組みのもとで把握される世界定立がどのようにして生まれてきたのか、ということを見届けることがめざされているといってよいのではないかと思います。これに対して、反基礎づけ主義の立場を標榜するポストモダンの陣営からは、根源としての「体験流」なるものも、じっさいのところ何らかの来歴をもって形成されてきたものだと批判するでしょう。また、後期フッサールの生活世界への還帰は、彼がこうした問題に踏み込んでいったことの証左だと考えられます。メルロ=ポンティの次のことばにも、同じような問題意識が見られます。

 

徹底的な反省は自分自身が非反省的生活に依存していることを意識しており、この非反省的生活こそ反省の端緒的かつ恒常的かつ終局的な状況である、ということでもある。現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の定式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、それゆえハイデガーの〈世界=内=存在〉も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである*17

 

ところで、竹田のフッサール解釈では、このような問題を考慮する必要がありません。なぜなら、そこでは「主観-客観」図式の根源にまで立ち返るといったことはおこなわれていないからです。われわれは、ただ主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届け、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察をおこなっていけばよいのです。いずれくわしく検討したいと思っているのですが、ポストモダン陣営からのフッサール批判に対する竹田の反批判は、実存的な意味や価値がこのような仕方でたしかめられうる最後の根拠となっているということに依拠しています。

 

ただし、現時点での見通しをあらかじめ手短に述べておくと、こうした現象学解釈に基づく竹田自身の立場には、やはり問題が残されているように思います。竹田の解釈の問題は、経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルの区別が哲学史のなかで問題とされるようになった経緯を踏まえずに、現象学を理解しようとしていることに集約されます。このことは一方で、フッサール現象学における意識の志向性をエロス的原理に拡張し、「竹田欲望論」と呼ばれる豊穣な世界を切り開いていくことを可能にしました。しかし他方で、無視することのできない問題を「竹田現象学」の内に招き入れることになったのではないか、という疑念を抱かざるをえないようにも思うのです。竹田のポストモダン批判に対するわたくし自身の疑問は、主にこうした点にかかわっているのですが、それについて論じるためには、もう少し彼のフッサール解釈を見ていく必要があります。

 

竹田がフッサールを参照しながら「〈主-客〉図式をとり払う」べきだと主張するとき、彼は何をめざしていたのでしょうか。ここまでの検討を経て明らかになったのは、いまだ主観でも客観でもない中性的な所与に立ち返るということを竹田はめざしているのではなかったということです。しかし、これだけでは竹田の主張の消極的な規定にとどまっており、彼の現象学解釈の重点がどこに置かれているのかということは、まだはっきりしていません。次回は、この点についてさらにくわしく竹田の議論を検討していきたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』36頁

*2:竹田『現象学入門』42頁

*3:谷『これが現象学だ』47-48頁

*4:谷『これが現象学だ』47頁

*5:廣松渉「マッハの哲学―紹介と解説に代えて」(『廣松渉著作集 第3巻』(岩波書店、1997年)500頁

*6:竹田『現象学入門』42頁

*7:竹田『現象学入門』177頁

*8:竹田『現象学入門』178頁

*9:竹田『現象学入門』13頁

*10:竹田『現象学入門』13頁

*11:竹田『現象学入門』42頁

*12:竹田『現象学入門』42頁

*13:なお廣松渉は、竹田との対談「現象学的方法の可能性」において、竹田のフッサール解釈の特徴を次のようにまとめています。「竹田さんは今回のご本〔『現象学入門』のこと―引用者〕の中でも「オルガン」6号の論文〔・・・〕でも「独我論モナド」という一種独特の概念をお使いになって、わたしのタームで言うと方法論的独我論的な場面を設定して、フッサールはそこから議論を始めているのだと言われる。とくに『イデーン』のⅠにおける現象学的還元、これはある意味からいうとソリプシズム的還元なんだということでフッサールを理解し、そこからフッサールのメリット〔中略〕を見ようとするところに竹田さんのフッサール理解の大きな特徴があると思うんです」(『竹田青嗣コレクション4 現代社会と「超越」』(海鳥社、1998年)271-272頁)。なおこの対談において廣松は、アカデミズムにおけるフッサール解釈の立場から竹田のフッサール解釈に対して投げかけられるであろう主要なポイントを間然するところのないほどの正確さで指摘しています。竹田はその後、新田義弘や谷徹に代表されるアカデミズムにおけるフッサール解釈に対して批判の矢を放っていますが、アカデミズムの側から竹田に対する反批判はこれまでのところほぼ皆無であることを鑑みれば、この対談における廣松の発言は、竹田の解釈を批判的に検討しようとする読者にとって重要であるように思われます。

*14:浜渦辰二訳『デカルト省察』(岩波文庫、2001年)48頁

*15:竹田『現象学入門』80頁

*16:竹田の『完全解読フッサール現象学の理念」』(講談社選書メチエ、2012年)や『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』(講談社現代新書、2012年)では、現象学的な「私」と心理学的な「私」を区別する議論がなされています。ただしそこで竹田が述べているのは、心理学的な「私」が客観的な時間のなかでのリアルな現実存在であるのに対し、現象学的な「私」はリアルな現実存在であることを意味しないということであって、哲学的認識論における「主観-客観」図式を解体するような議論ではありません。たとえば竹田は次のように述べています。「この〈内在意識〉の領域は、いわゆる心理学的な意味での「心」や「自我」の内側ということではない。心理学では、心や自我の存在自体を自明のものとしており、あくまで「自然的な見方」を前提しているのだ」(『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』、48頁)。ここで語られているのは、コップや太陽が一定の空間を占める物理的な意味で現実存在であるように、心理学における「私」も一定の時間を占める心理学的な意味での現実存在と考えられるということでしょう。しかし、物理学的な対象であれ心理学的対象であれ、自然的態度のもとで把握される対象である以上、それらはともに「主観-客観」図式の「客観」の側に位置づけられるものです。竹田が主張しているのは、そうした「客観」に位置づけられるような心理学的な「私」と、現象学的な「私」は異なっているということであって、やはり、「主観-客観」図式を超えていっそう根源的な領野へと立ち返ろうとする意図は見られません。

*17:モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎、小木貞孝訳『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967年)13頁

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (1)

現象学入門』(NHKブックス、1989年)や『ニーチェ入門』(ちくま新書、1994年)など、数多くの哲学の入門書を執筆している竹田青嗣は、難解な哲学の議論をわかりやすいことばに噛み砕いて説明することで多くの読者の支持を得ています。その一方で、彼の現象学の理解は間違っているという指摘や、彼のポストモダン思想に対する批判は的を射ていないという声も少なくありません。そこで、竹田の主張内容をたどり、その議論の妥当性についてしばらく考えていきたいと思います。


竹田がもっとも大きな影響を受けた哲学者は、何と言ってもフッサールだといってよいでしょう。「竹田現象学」ないし「竹田欲望論」と呼ばれる彼の立場は、フッサール現象学を独自の仕方で読み替えることで構築されています。そのフッサールとの出会いについて、竹田は次のように語っています。

 

 そもそもわたしが現象学に引かれたのは、それまで絶対的に正しいと信じていたある強力な世界理論が自分の中で完全に崩壊するという奇妙な体験があったからだ。この強力な理論とはマルクス主義のことである*1

 

 自分が強く信じていた思想や世界観が誤っていたと感じられたとき、ひとはさまざまな態度をとるだろう。思想的な懐疑主義ニヒリズムに陥ったり、それが誤っていたのはここがおかしかったからだという修正主義もある。またひとつの強力な理論(物語)の代わりに、さらに強力な理論(物語)を見出して、そちらに依拠するという態度もあるだろう。しかしわたしの場合は、そもそも人がさまざまな理論の中からあるひとつの理論を確信し、それに依拠して生きるということの「意味」が何であるのか、ということが最も大きな疑問として生き残った。
 現象学は、このやっかいな問いにひとつのはっきりした解を与えてくれるものとしてわたしにやってきたのである*2


若き日の竹田がマルクス主義に出会う経緯は、『自分を知るための哲学入門』のなかにくわしく書かれています。

 

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 

 

高校から大学に入った頃、わたしはごくフツーの真面目で純朴な青年だったと思う。大学を出て放送局に入り、フツーの立派なサラリーマンになることが夢だった。
〔・・・〕
 ところが、大学に入ってみるとすぐに、むずかしい議論と大義名分のついた“闘争”に巻き込まれてしまった。
 「社会を変革し、人間らしさを取り戻そう」という命題がやってきて、わたしはその天の声にわしづかみにされてしまった。青天の霹靂である。どんなことでも知っている(と思えた)ステキな先輩たちが「大学解体」「造反有理」などと言うのを聞いて、素朴で真面目なフツーの青年だったわたしにその「正しさ」が疑えるわけがなかった*3

 

その後、竹田たちのような若者をとらえた「大学闘争」の情熱はしだいに冷めていきます。さらに1972年の連合赤軍事件にショックを受けた彼は、文学や思想の世界にロマンを求めていくことになりました。しかしやがて、「現実」から乖離した「ロマン」や「理想」を求めつづけて生きることにともなう疲労感が彼を襲ってきます。

 

 わたしは進むことも引くこともできない生活の関係の中で困り果てていた。何とか自分の不安な状態を救いたかったのだが、文学や思想の世界は自分を救うためには全く無力なものだった。キルケゴールが言ったとおり、そのことに思い当ってわたしは“絶望”した。自分の「心の義」の世界が、まったく独我論の世界にすぎないことに、ようやく気づいたのである*4

 

彼がフッサールの『現象学の理念』という本に出会ったのは、そんな日のことでした。そして以後、彼はフッサールの思想に引き込まれていきます。

 

では、フッサールの何が、それほど深く竹田の関心を引いたのでしょうか。この出会いについて、彼は次のように語っています。

 

 たとえば現象学は、人間の世界像の一切を主観の意識内容、意識表象に「還元」する。自分にとって疑えぬ「現実」と思えていたものが、自分の内の観念、表象にすぎないと突然感じられたこの体験は、「還元」という概念の核を容易に受け入れさせたのである。
 現象学は、繰り返し言うように方法的独我論をとる。それは、一見リアルなものとして現われている世界の風景の一切を意識に生じた表象にすぎないものと見なす。あらゆる現実的な確信をドクサ(臆見)と見なすのである。そういう手続きを取った上で、この現実性がどのように成立するかを吟味する。
 わたしが体験したのは、要するに、それまで疑えない現実感を伴って存在していた自分の世界像が徐々にその現実性を削ぎ落され、やがてその一切が自分だけのドクサでないかと思える場所にまで退行するという事態だった。現象学はいわば方法的にこのような「還元」を行なうのだが、わたしの場合、自分のロマン的世界像と現実世界とのせめぎ合いが、自分にそういった「還元」をもたらしたのである*5

 

マルクス主義の世界観への信頼が失われてしまったことで途方に暮れていた竹田に、彼の置かれていた実存的状況をうまく解き明かすためのヒントをもたらしたのが、フッサール現象学だったのです。他方で彼は、1980年代の日本の思想界を席巻したポストモダン思想は、そうした問題にうまく答えていないのではないかという疑問を抱くようになりました。そしてこのことが、竹田のポストモダン思想に対する批判の核心にあるといえるように思います。

 

それでは、近代的な認識論の枠組みを継承するフッサール現象学と、上で見たような竹田の直面していた実存的な悩みという、一見したところまったく性格の異なるように思える2つの問題は、いったいどのようにして結びついているのでしょうか。

 

竹田はそのことを説明するに当たって、フッサールの『現象学の理念』から、次の文章を引用しています。

 

 認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?*6

 

竹田は、ここでフッサールが提出している「主観-客観」問題こそ、「近代哲学の認識論の根本問題」*7にほかならないと述べています。

 

同じ問題を竹田がみずからのことばで説明している箇所も、引用しておきましょう。

 

 いま目の前に、何でもいいが、たとえばコップがあるとする。〈私〉はこのコップを見ている。しかしこれをよく考えると奇妙な問題が生じる。〈私〉がいま見ているコップは、〈私〉の視角を通して自分の中に入ってきたコップの像である。ところでこの〈私〉が見ているコップの像と、このコップそれ自体はまったく同じものと言えるだろうか。この疑問が、哲学上主観-客観の難問と言われるものだ。
 青いメガネをかけてものを見ると赤いリンゴも青く見える。人間の視覚(あるいは認識)も完全なものであるという保証はどこにもない。すると、人間の認識があるがままの現実(=客観)と一致しているという保証もないのである*8

 

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竹田青嗣現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫、1992年)169頁

 

竹田は、近代以降のあらゆる哲学者たちがこの問題に立ち向かっていたと考えます。たとえば、「デカルトの「神の存在証明」は、単にひとびとにどう神への信仰を取り戻させるかということを超えて、この主-客の難問に対する彼なりの解答だったのだ」*9とされます。デカルトは神の存在証明をおこなった後、神が欺瞞者ではありえないのだから、私たちが神から与えられた認識能力にしたがってとらえられるものは、客観的実在だと考えてよいと主張しました*10。竹田は、こうしたデカルトの主張の意義を、次のように理解します。

 

 つまりデカルトにおいては、〈主観〉と〈客観〉のあいだを架橋するのは〈神〉にほかならない。これは逆に言えば、〈神〉のような存在をもち出さなければ、〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確証することは原理的に不可能だということを、彼も認めていたという事を示している*11

 

もちろん竹田は、「この「神の存在証明」を聞いて、なるほどそのとおりだと思うひとは、いまではほとんどいないだろう」*12と述べており、〈主観〉と〈客観〉の一致はデカルト哲学においてもうまく解き明かされていないと考えています。そして、フッサール現象学によってはじめて、この難問は見事に解き明かされることになったと考えられています。

 

ところで、こうした近代哲学の認識論上の難問と、竹田の直面していた実存的な悩みとは、彼の中で次のような仕方で結びついていたのでしょうか。この点についての竹田の説明を見ておきましょう。

 

 この西洋哲学の主-客「一致」問題は、わたしがたどってきたようなロマン的世界の経験と何の関係もないと見えるかも知れない。しかし、自分が内側に抱え込んでいる世界像が、回りの現実から全く孤立した自分だけの観念にすぎないのではないかという感覚は、まさしくこの難問と重なり合っているように思えた。自分の世界像(=自分の認識)は、はたして回りの現実(=客観)に「一致」しているのか。もしこの「一致」が成立していないとすれば、自分の内の世界像とはいったい何であるのか。フッサールの問題設定は、そういうかたちでわたしが抱えていた問題に強く響いたのである*13

 

若き日の竹田は、マルクス主義がこの現実を正しく説明していると信じていました。しかし、やがてそれは誤りであったことが明らかになっていきます。全共闘運動の挫折から連合赤軍事件へとつづいていく歴史のなかで、竹田はそうした事実を受け入れ、文学や思想といった自我のうちのロマン的世界に逃げ込んでいくことになりました。

 

むろん竹田以外にも、このような挫折を経験した若者は数多くいたはずです。しかし、彼が同時代をすごした多くの若者たちと異なっていたのは、みずからが抱えていた問題を、「自分の世界像(=自分の認識)は、はたして回りの現実(=客観)に「一致」しているのか」というかたちで理解していたことです。そしてさらにこの問題は、われわれの主観的な認識が客観的な世界と一致しているのかという、近代哲学の根本問題と重ねあわされていたのです。

 

他方、80年代の日本において流行したポストモダン思想も、マルクス主義の凋落という時代背景を反映していたということができるでしょう。しかし竹田は、ポストモダン思想は近代哲学の根本問題であった「主観-客観」の一致をめぐる謎を解き明かしていないと断じます。竹田によれば、近代哲学の根本問題である「主観-客観」の一致をめぐるアポリアは、フッサール現象学によって完全に解き明かされたのであり、だからこそ彼は、フッサールに出会うことによって、それまで彼を苦しめていた実存的な悩みからの脱出口を見いだすことになったのです。

 

ところで、竹田はフッサール現象学によって「主観-客観」の一致をめぐる近代哲学の根本問題に解決がもたらされたと考えていましたが、そのことは十分に理解されていないと述べています。ふつうフッサール現象学は、われわれの表象の外部に対象が客観的に実在しているはずだという「自然的態度」にエポケーを施し、「超越論的主観性」の領域に立ち返ることだと理解されています。そして現象学独我論であるという批判がくり返しなされてきたと竹田はいいます。しかし竹田によれば、こうした批判は現象学に対する誤解にほかなりません。竹田はこうした誤解に対し、フッサールを弁護して次のように述べています。

 

 現象学は方法的な独我論である。それはフッサールも自認している。しかしそれはちょうど、デカルトが方法的懐疑を行なったのと同じ意味においてである。そのことでいま「デカルト懐疑主義者である」などと言うひとがいたら、てんで判っちゃいないと誰でも言うだろう。現象学独我論だといって非難するひとは、これと同じなのである*14

 

デカルトは、真正の懐疑論者以上に懐疑を徹底し、あらゆるものに疑いを向けていきました。その結果、彼はもはやどうしても疑うことのできない「考える私」の存在を証明し、かえって懐疑論者たちの主張を掘り崩すことに成功しました。竹田は、フッサール独我論に対する関係は、これと同じだというのです。つまり、フッサールは真正の独我論者以上に独我論の立場を徹底して掘り下げていくことによって、独我論がひそかに前提していた底板を掘り抜くことになったのです。竹田はフッサールの戦略をこのように理解しており、これに「方法的独我論」と呼んで、次のように主張します。

 

デカルトの方法的懐疑がわざと懐疑論を徹底したように、フッサールはわざと独我論を徹底するのである。この「わざと独我論を徹底して世界を見る」という方法が、現象学では「還元」と呼ばれる*15

 

次回は、こうした竹田のフッサール解釈についてもう少しくわしく見ていくことにしたいと思います。

 

*1:竹田青嗣『意味とエロス―欲望論の現象学』(ちくま学芸文庫、1993年)315頁

*2:竹田『意味とエロス』316頁

*3:竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫、1993年)48-49頁

*4:竹田『自分を知るための哲学入門』56頁

*5:竹田『自分を知るための哲学入門』58-59頁

*6:立松弘孝訳『現象学の理念』(みすず書房、1965年)34-35頁

*7:竹田『自分を知るための哲学入門』64頁

*8:竹田『自分を知るための哲学入門』144頁

*9:竹田『自分を知るための哲学入門』145頁

*10:ただし、このような竹田のデカルト解釈には、若干の勇み足があるように思われます。たしかにデカルトは、神の存在証明を経ることによって、数学的対象のように人間がみずからの知性によって明晰判明に理解できるものが、神によって物質的世界に創造されて存在することが可能だと主張しました。ただし、人間が数学的観念にしたがって明晰判明に理解したものが単に存在可能だというだけでなく、現実に存在すると主張することはできません。それは、永遠真理ですらも自由に創造するというデカルトの神の理解に矛盾することになります(小林道夫デカルト哲学体系―自然学・形而上学・道徳論』(勁草書房、1995年)第6章参照)。「第六省察」において改めて、外的世界の存在証明をおこなう必要があったのはそのためです。

*11:竹田青嗣現象学入門』(NHKブックス、1989年)27頁

*12:竹田『自分を知るための哲学入門』143頁

*13:竹田『自分を知るための哲学入門』65頁

*14:竹田『自分を知るための哲学入門』47頁

*15:竹田『自分を知るための哲学入門』182頁