しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (3)

前回は、竹田のフッサール解釈について、とくにその「方法的独我論」という規定について、簡単に見てきました。今回も引きつづいて、竹田のフッサール解釈を概観することにします。なおその際、従来の現象学理解はひどい誤解に覆われていると竹田がくり返し主張していることを鑑みて、竹田のフッサール解釈の独自性はどこにあるのかということについても、多少立ち入って考えたいと思います。


竹田は『現象学入門』のなかで、フッサールの『イデーン』における「原的に与える働きをする直観」に関する文章を引用しています。

 

さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである*1


ここでフッサールは、いっさいの認識、判断のいちばん底にあり、その源泉となる「原的に与える働きをする直観」があると主張しています。そして竹田は、「原的に与える働きをする直観」とは「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」*2であり、「知覚直観」と「本質直観」の二つがそれに当たるといいます*3


なぜ、知覚直観と本質直観は、それを疑うことが無意味だとされるのでしょうか。竹田は次のような例をあげて説明しています。いま目の前に、一つのリンゴがあるとします。私はそれを一瞥して、赤いもの、丸いもの、つやつやしたものという感覚で捉え、「リンゴだ」と考えます。しかし、それが本物のリンゴだということはたしかなことなのでしょうか。もしかするとそれは、本物そっくりに作られたロウ細工のリンゴかもしれません。それを手にとり、香りを嗅ぎ、食べてみて、「やはりリンゴだ」と考えたとしても、なお、それが最新科学で作られた本物そっくりの合成のリンゴかもしれないと疑うことは可能です。


しかし、このとき私が「丸い感じ」「つやつやした赤い感じ」を受けたということ、この体験それ自身に疑いの目を向けて、ひょっとしたら「赤く」感じたのではなかったかもしれない、とか、「丸く」感じたのではなかったのかもしれない、と考えることはできません。「知覚直観」とは、「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」のような知覚における内在的な感覚体験のことを意味しています。そして竹田は、このような知覚直観は世界の諸事象に対する人間の確信のいちばん底を支える条件をなしているといいます。


これと同じこととが、「本質直観」についてもいわれています。竹田はまず、「現象学で言う「本質」とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の意味のことだと考えていい」*4と簡単な解説を加えたうえで、リンゴに関してわれわれが抱く「本質」も、けっして心の恣意的な生産物として現われるのではないとしています。たとえば、ひとはリンゴを見て、それをミカンだと確信することはできません。また腐ったリンゴを見て、このリンゴはじつにうまそうで価値があるなどと確信することも不可能です。こうして、われわれの意識にとって自由にならず、どうしてもしりぞけることのできないようなものとして現われてくる「知覚直観」と「本質直観」が、「それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきもの」だと竹田は論じています。


ここで注意しなければならないのは、竹田の理解するフッサール現象学のばあい、「知覚直観」と「本質直観」が疑いえないのは、それが「主観-客観」図式の成立する以前の「純粋意識」の領野に見いだされるからではなく、「世界の諸事象に対する人間の自然な信憑(=確信)の、いちばん底を支える条件」*5だからだ、ということです。おそらくこの点に、竹田がフッサールを評価する最大の理由が存するように思われます。


多くの現象学の解説書では、還元によって「主観-客観」図式の根底にある「純粋意識」の領野に立ち返り、志向的意識による「構成」の働きを明らかにすることが現象学の課題だと説明されます。ここでは、前回もとりあげた谷徹の『これが現象学だ』における「構成」の解説を見てみましょう。

 

これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)

 

 

谷はまず、「私たちはマッハ的光景(表象)の外には出られない」*6と言い、「フッサールはマッハに近い考えを持っていた」*7ことを確認しています。しかし他方でフッサールは、直接経験の領野に見いだされるはずの「志向性」をマッハが見落としていることに批判的だったと述べています。


マッハ的光景の中で、サイコロはパースペクティヴ的に現出しています。「たとえば、五の目の面が正面に見えている。少し右に首を動かすと、三の目の面が見える。さらに右に首を動かすと、(期待したとおり)二の目の面が見えてくる」*8。しかしわれわれは、そのつどのサイコロの見え方をバラバラに知覚・経験しているのではなく、一つのサイコロの多様な現出として把握しています。「私たちは、「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験している」*9のです。

 

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谷徹『これが現象学だ』57頁

 

ここで「現出」と呼ばれている、五の目の面や二の目の面などは、『イデーンⅠ』では「射影」と呼ばれており、「こうした現出/射影は(直接経験における)「ノエマ的意味」を含んでいる」*10と谷は解説しています。

 

ここで重要なのは、もろもろのノエマ的意味がバラバラになっていないということである。それらは、ひとつの「基体」に収斂している。だからこそ、それは、ひとつのサイコロ(対象/現出者)の多様な意味(あるいは現出)とみなされるのである。サイコロは、もろもろのノエマ的意味とひとつの基体から成り立っている*11


そしてここから、志向的体験におけるノエシスノエマの相関関係が説明されることになります。まず、もろもろのノエマ的意味が一つの基体に収斂しているという一体的な構造が「ノエマ」と呼ばれます。あるいは、「これは、要するに、諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである」*12とも述べられています。他方ノエシスについては、次のように解説されています。

 

 ひとつのノエマは、もろもろのノエマ的意味が(ひとつの)基体に収斂させられることによって、構成されている。〔・・・〕この構成を遂行しているのは、直接経験=志向的体験の働きである。この意識の働き(志向性)は、ノエマと対比されるときには、ノエシスと呼ばれる。ノエシスノエマはいつも必ず一体である。ノエシスのないノエマとか、ノエマのないノエシスなどは、ない*13


われわれは、マッハ的な表象の世界の外に出ることはできません。それにもかかわらず、われわれには、表象の外に実在的な対象が存在すると思い込んでしまう傾向がそなわっています。このような傾向は「自然的態度」に基づくとされますが、現象学ではこうした自然的態度の傾向にストップをかけ、マッハ的光景へと立ち返り、そこで実在的な対象という「存在=超越」がどのように構成されるのかを明らかにしようとします。これが「超越論的現象学」の課題にほかなりません。

 

 しかし、繰り返すが、私たちはマッハ的光景(表象)の外には出られない。存在=超越は、私たちがマッハ的光景(表象)の内部で構成したもの、今も構成しつづけているものである。かくして、「超越論的」とは、こうした「存在=超越」を、その構成にまで引き戻して、学問的に問うときに用いられる言葉である。すなわち、超越を学問的に問うから、超越論的である*14


しかしこのような説明は、ともすれば次のように受けとられかねないところがあるのではないでしょうか。すなわち、志向的意識とは一種の「組み立て工場」であり、そこに運び込まれた純粋意識の内容という「素材」はベルト・コンベアで運ばれ、意識の「構成」作用によって適切な意味が自動的に付加され、自然的態度にとっての「世界定立」となって出荷される、という理解です*15

 

竹田は、こうした「組み立て工場」*16のような志向性の解釈を、はっきりとしりぞけています。標準的な現象学解釈に対する竹田の批判は、おそらくこの点に向けられているのではないかと思います*17

 

確認しておくと、竹田の理解する現象学とは、主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届けたうえで、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察を集中することを意味していました。だから、知覚直観と本質直観について「それを疑うことが無意味である」とされるのも、それが「主観-客観」図式の根源である純粋意識の領野に存するからではなく、主観の内における確信成立の「底板」をなしているからだと理解しなければなりません。このことがよくわかるのは、竹田が提出している次のような例です。

 

 〈私〉は昨日誰かと、「今日の六時、新宿駅西口で」という待ち合わせの約束をしたと思っていたが、ちょっと記憶があいまいなので約束した時の記憶を思い起こしてみる。すると六という数字がはっきり浮かんできたのでまず間違いないと思う〔・・・〕。このとき、六時とともに五時とか、七時という言葉が入りまじって浮かんできたら、〈私〉は「六時」に約束したことの確実性を“疑う”だろう。そういう場合、自分の記憶が少し怪しいのでもう一度思い返してみるだろう。すると「六日(今日の日付)の六時に」と同じ六並びで約束したのだったという記憶がはっきり生じ、何度思い直しても、この明瞭さが反復されたとしよう。
 さて、このようなとき、〈私〉はもはや「六時の約束」の確実性を“疑えなく”なる。たとえあえて疑おうと意志しようとしても、〈私〉にはこれを疑う動機がなくなってしまうのである。論理的には、いくら明朗な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対に正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上「疑えなく」なる。たしかに六時だったという確信がいやでもやってくる。だから「明証性」とは、〈私〉がさまざまなものごとを「正しい」とか「ほんとうだ」とか思うことの、絶対的で「必然的な」根拠である。そういうことをフッサールは言っているにすぎない。そしてこういう「明証性」の状態をどのように記述できるかを試みているにすぎない*18


先にとりあげたリンゴの例を、ここでもう一度考えてみましょう。われわれは、目の前にあるリンゴが、本物のリンゴであるかどうかということを、いくらでも疑うことができます。それは精巧に作られたロウ細工かもしれず、あるいは最先端の科学によって作られたリンゴそっくりの化学食品かもしれません。しかし、「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」といった知覚における内在的な感覚体験は、けっして疑うことができませんでした。そしてこのような知覚直観が、世界の諸事象についてわれわれが抱いている確信の底板をなしているというのが、竹田の現象学解釈なのです。


われわれが抱く「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」をけっして疑うことができないのは、それが「主観-客観」図式の根源にある「純粋意識」の領野に存するからではありません。そして、「目の前にリンゴが置かれている」といった世界の諸事象についてのわれわれの確信が成立するのは、われわれの意識が「丸い感じ」や「つやつやした赤い感じ」といった知覚直観を「素材」として、そこから世界についての信憑を作りあげるからではありません。竹田は、こうした「組み立て工場」のような「構成」の理解を明確に否定していました。


リンゴの例について、竹田は次のように述べています。

 

 このリンゴを食べてみてまったく“違い”を見出せなかった。その後身体がおかしいということもない。そういう場合、わたしたちはリンゴの怪しさを疑う動機を失う。このとき「明証性」はいやでもやってくるのである*19


知覚直観が世界の諸事象に関するわれわれの確信の「底板」をなしているということは、このようなことを意味しています。われわれは、じっさいにリンゴを手にとり、味わってみることで、もはやそれが本物のリンゴではないかもしれない、という疑いの動機を失うことになるのです。


知覚直観が信憑の底板をなすといっても、自己を取り巻く周囲の状況に変化が生じれば、それにともなって信憑の条件となる知覚も変化することがあります。竹田は次のように説明しています。

 

ひとは、たとえばニセの金貨が流通すれば、「金色に光るものが金だ」というそれまでの判断基準を捨ててそれを歯で噛んで験してみる。本ものの金貨は柔らかいからだ。だがもしもニセ金貨作りが金と同じ固さの合金を作ったとしたら、また新しい確かめの方法が探しだされなくてはならない。〔・・・〕
 だがここで肝要なのは、わたしたちはなんらかの基準でものを確かめる場合、原理的に、自分の〈内在的知覚〉を最後の頼りにするということである。
 輝きも硬さも同じようなニセ金貨が現われて手軽な確かめの方法が見つからないとき、ひとは科学の力を使って金の組成を検証する方法をとるかもしれない。しかしこの場合でもひとは、試薬や計器、またそれが表示する数値のまちがいなさを、自分の目で確かめたときはじめてこれは金だと納得(同定)する。論理的にはこの同定は、最終的な確証ではない。しかし何ぴとといえども、その方法が最上のものと認められているときには、もはやこの金貨をそれ以上疑い続ける動機を持ちつづけることができないのである*20


現象学は確信成立の条件についての学問であるという竹田の解釈の大筋が、そろそろはっきりしてきたのではないでしょうか。


現象学が解明しなければならない問題は、「主観-客観」図式を超えた純粋意識の領野に立ち返り、そこに見いだされる体験流を「素材」として、どのように世界定立が「組み立て」られてきたのかを見届けることではありません。


竹田は、「〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎない」*21と主張していました。しかし、当然のことながら竹田は、単に独我論の立場に立って、客観的認識は不可能だと開きなおるべきだと主張しているわけではありません。現象学的還元が「発想の転換」や「視線の変更」と呼ばれているのは、ここで主観と客観の一致をどのようにしてたしかめることができるか、という従来の認識論の問題を考えるのではなく、「いかに「超越」(いわゆる客観的な対象)が、われわれの〈内在意識〉のうちで“妥当な認識”として成立するのか」*22という問題を考察の対象とすることを意味しているのです。このことは、『超解読! はじめてのフッサール現象学の理念』』(講談社現代新書)の中で、よりくわしく説明されています。

 

 

私の考えでは、そもそも認識を「主観」と「客観」の関係としてみなす考え自体に誤りがあるのだ。
 この問題を解明するには、「主観-客観」という概念を棄て、その代わりに、「内在-超越」という概念でこれを考えるべきである。〔・・・〕
 「超越」には、本質的に「可疑性」がつきまとっている。これに対して、「内在」は、意識に“直接与えられている所与”だから、決して疑わしさがない。「主観-客観」の概念の代わりに、われわれは問題を、「内在」と「超越」という概念で考えよう。このことで、認識問題の「謎」はよく解明されるはずである*23


さらに竹田は、「内在」と「超越」の関係について、次のように解説しています。

 

「これはこれこれのリンゴだ」という対象意識は、それが「内在」に与えられている、という点では、やはり“疑えない”。しかしそれを、「ここにリンゴが存在する」という実在についての信憑としてみると、それは「超越」的な認識となる*24


竹田は、「これはこれこれのリンゴだ」といった対象意識が「内在」においてとらえられるとき、それは「対象意識」ではなく「対象についての確信の意識」と理解するべきだと述べています。現象学の立場に立つとき、自然的態度において「超越」すなわち客観的存在だとみなされていたものは、じつは「内在」において構成された「対象の確信像」にほかならないということが明瞭になるというのです。そのうえで、「内在における「世界の構成」のありようを観取するとは、われわれが「内在」でいかにさまざまな「対象の確信像」を構成しているかを解明すること、すなわち、「確信成立の条件」を解明すること」*25であり、これこそが現象学の課題にほかならないと主張します。


こうして、現象学が取り組むべき問題は、次のように整理されることになります。

 

現象学的な「認識の妥当性」の根拠づけとは、「認識」が客観認識=真理であることの根拠づけではまったくない。ある「認識」が妥当な認識、つまり「普遍的な認識」と呼べることの条件の解明、ということなのである*26


フッサールがめざしたのは、実在についての信憑に「エポケー」(判断停止)を施すことで「主観-客観」図式の根源にある体験流の領野に至り、そこにあらゆる認識の源泉を見いだすことではありません。従来のフッサール解釈ではこのことが正しく理解されていないために、さまざまな批判を招くことになったと竹田はいいます。そのなかでも彼がとくにくわしく検討し反論を試みているのが、「先構成的批判」と呼ばれる批判です。これは、還元によって確保される純粋意識は、いっさいの認識の絶対的な源泉であるとフッサールは考えていたが、じつはそれを可能にしている先行条件が存在するのではないか、という考えに基づいています。

 

 われわれの「意識」が、「身体」や「情動」といった下位の層から支えられていることは誰もが感じていることであり、ある意味で自明である。そこで、一般的な表象としては、誰も、「意識」を支えそれを“可能にしているもの”としての「先構成的」諸相、つまり「身体」「情動」「言葉」「無意識」「関係」「制度」などを指摘することができる。このような根拠関係の表象から、〈内在意識〉こそ絶対的な根源であるという主張に対して、否、「身体」「情動」「無意識」「時間」「言葉」こそ、「意識」を“可能”にするののであり、したがって、「身体」「情動」「無意識」「言葉」といった根源性を、「意識」が絶対的に内省し把握することはできない、と主張することはむしろ容易である*27


竹田は、フィンクやラントグレーベといったフッサールの高弟、さらに新田義弘や谷徹といったわが国の代表的な現象学研究者たちもまた、こうしたフッサール批判を正当なものとして受け入れていることを指摘し、彼らに対して厳しい批判を述べています。


さて、こうした竹田のフッサール解釈や、従来の解釈に対する批判については、なお慎重に検討するべき事柄が残っているように思われます。しかしそれらの検討にはなお準備が不足しているので、今は竹田によって理解されたフッサールの思想を概観したところで、ひとまず満足したいと思います。次は、彼がこうしたフッサール解釈に依拠しながら「竹田欲望論」と呼ばれる彼自身の独創的な思想をどのように展開していったのかを見ていくことにします。

 

*1:渡辺二郎訳『イデーン I-1』(みすず書房、1979年)117頁

*2:竹田『現象学入門』50頁

*3:ただしフッサール自身は、「知覚直観」ということばは用いていません。フッサール自身のことばでは、「感性的知覚」としての「経験的直観」と説明されているものが、ここで竹田のいう「知覚直観」に相当します。

*4:竹田『現象学入門』59頁

*5:竹田『現象学入門』214頁

*6:谷『これが現象学だ』51頁

*7:谷『これが現象学だ』55頁

*8:谷『これが現象学だ』132-133頁

*9:谷『これが現象学だ』56頁

*10:谷『これが現象学だ』133頁

*11:谷『これが現象学だ』133頁

*12:谷『これが現象学だ』132頁

*13:谷『これが現象学だ』135頁

*14:谷『これが現象学だ』51頁

*15:急いで付け加えておくと、谷は「構成」という言葉について、「この言葉は、対象が私たちの側からの働きかけから独立に存在すると認めることを拒絶するものであり、逆に、対象は(その存在=超越すらも)、私たちのなんらかの働きかけによってこそ成立するということを意味している」(谷『これが現象学だ』51頁)と述べて、注意をうながしています。また、「この言葉は、日常的に理解すると、誤解を招きやすい」と述べていますが、それは「日常語の構成は作ることを意味するから、構成とは、ペガサスのような実在しない空想対象を作ることだけを意味すると考えやすいからである」(谷『これが現象学だ』51-52頁)として、現象学では、富士山のような実在するとみなされる対象もまた、志向的意識によって構成されたものだとみなされると説明しています。

*16:竹田『現象学入門』106頁

*17:竹田の盟友ともいうべき西研は、次のように述べています。「しかしこの「構成Konstitution」ということが、〈あることが意識のうちで自体存在として妥当するのはいかにしてか〉という問いを中核にもつものであり、具体的には対象の確証条件を、さらには客観性の意味と根拠を理解しようとするものであることが理解されなかったために、意識が世界に「先立ち」、世界とその対象を「構成」する、という言い方は、しばしば、意識からの世界の“演繹”とか意識による“世界創造”のように考えられることになった。メルロ=ポンティさえも、〈超越論的還元とは、超越論的意識へと還帰し、そこから世界を透明に理解しつくし演繹しようとすることである。しかしそれは世界からその不透明性を奪うことだ〉と述べて、構成ということの意味合いを捉え損なっている」(西研『哲学的思考―フッサール現象学の核心』(筑摩書房、2001年)198頁)。

*18:竹田『現象学入門』157頁

*19:竹田『現象学入門』164頁

*20:竹田『現象学入門』97頁

*21:竹田『現象学入門』80頁

*22:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念』』39頁

*23:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』36頁

*24:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』46頁

*25:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』113頁

*26:竹田『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』158頁

*27:竹田『完全解読フッサール現象学の理念」』234頁

竹田青嗣の現象学と欲望論を読み解く (2)

今回は、主として『現象学入門』(NHKブックス、1989年)によりつつ、彼の現象学解釈、とくに「現象学的還元」についての解釈を概観していくことにします。

 

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

 

 

竹田は、「ふつうわたしたちが常識的にものを考えるときには、暗黙のうちに〈主観/客観〉図式を前提としている」といい、「私たちは暗黙のうちに身につけている「ものの見方」を捨て去って、まったく違った視線で事態を見なければならない」*1と主張します。これは端的にいえば、「〈主-客〉図式をとり払うこと」*2にほかなりません。

 

「主観-客観」図式を取り払うという発想は、竹田の独創的解釈ではなく、標準的なフッサール解釈をそのままなぞっているように思えます。しかし竹田の議論を少しくわしく見てみるならば、標準的なフッサール解釈と竹田のそれとでは、かなりの違いがあることが明らかになります。

 

谷徹は、現象学の入門書として定評のある『これが現象学だ』(講談社現代新書、2002年)のなかで、フッサールに重要な着想を与えた思想家であるマッハの現象論に言及しています。そこで彼は、マッハの『感覚の分析』にある有名な絵を参照しつつ、「フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた」*3と述べています。ただし、急いで付け加えなければなりませんが、谷がここで「主観的」と呼んでいるのは、「主観-客観」図式の片方の項を意味しているのではありません。彼は、「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」*4と説明しています。

 

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Ernst Mach, Die Analyse der Empfindungen, 1992, Jena, Gustav Fischer

 

同様のことを、マッハの『感覚の分析』の翻訳を手がけた廣松渉も述べています。

 

 マッハのいう要素は、普通には感覚と呼ばれているもの―色、香、音、温冷の感覚、圧覚、空間感覚(つまり形や大きさの諸感覚)、時間感覚、等々―にほかならない。それが要素と呼ばれるわけは、それが存在者の構成要素であり、しかも、現在のところもはやそれ以上分解することも他に還元することもできない元素だからである。
 ところで、この要素=感覚は、「頭のなかにある」主観的な心像として理解されてはならない。「要素」は、もしそのような云いかたが許されるならば、頭のそとにある感覚なのである。それは第二次的な所産ではなく、第一次的・根源的な所与であり、それ自身としては主観的でも客観的でもない。いわば中性的な構成要素である*5

 

マッハは、ふだんわれわれが当たり前だと考えている「主観-客観」図式から離れ、その前提をなしている「直接経験」の領野に立ち返るべきだと主張しました。フッサール現象学も、こうしたマッハの思想から影響を受けているとされています。

 

ところが、竹田の「〈主-客〉図式をとり払うこと」*6ということばは、これとは違う意味で用いられているように思われます。例えば次のような文章に、竹田の考えがよく示されています。

 

 どんな認識も〈主観〉だが、しかし〈主観〉は自分の認識能力の正しさを判定できない。ゆえに認識は決して〈客観〉に達しえない。これが〈主-客〉問題の謎である。
 この問題を考えるとき、論理上はふたつの方法しかない。〈主観〉から出発して〈客観〉が何であるかを説くか、〈客観〉から出発して〈主観〉の何であるかを説くかのどちらかの道である。事実、近代の認識論は必ずどちらかの方法をとってきた*7

 

彼によれば、認識論には主観から出発するか、客観から出発するかという2つの方法しかなく、「主観-客観」図式の前提に立ち返るという方法は考慮されていません。そして彼は、フッサールの立場を次のように解釈します。

 

 フッサールが言うのはこういうことだ。〈主-客〉の「一致」が可能かどうかと問う限り、問題は〈主観〉の認識能力の是非を問うほかない〔・・・〕
 というのは、〈客観〉から説明するという限り、〈客観〉が何であるかという規定が必要だが、この問題ではまさしくこの何であるかこそ求めるべきXであるからだ。ゆえにこの問題は〈主観〉から説明するほかにないのだ、と*8

 

もしフッサールの立場がこのようなものであるとするならば、それは独我論ではないかという批判を招くことは避けられないように思われます。しかし竹田は、このような批判は「ナンセンス」だと主張します。

 

 さて、現象学にたいするもうひとつの大きな非難は、それが「独我論」であるというものだ。現象学は人間の〈主観〉から一切を説明するので、それは一見、「世界」などどこにも存在しない、あるのはただ〈私〉に現われた「世界」像だけだ、という「独我論」の言い方にひどく似ている。だからその面だけ見ると、この批判はたしかに当たっているように見えるかも知れない。
 現象学独我論に似ているのは、まず〈私〉の場面から考えようとする点だ。しかし現象学独我論であるという批判は、まったくナンセンスと言うほかないものである。というのは、現象学は、主観-客観の問題を“解決する”ためには、むしろ「独我論の立場を“出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」と主張しているからだ*9

 

フッサールは、独我論の立場から議論を開始することを「戦略的に」選んだのだと、竹田は考えます。彼は、「現象学独我論だという批判は、したがって、寿司屋で刺身を注文した人が刺身にくっついたうろこを見て、「なんだ、これは魚じゃないか」と文句をつけているのに似ていると言えるだろう」*10と述べています。

 

では、「戦略的に」独我論の立場に立ってみることで、フッサールは何を得ることになったのでしょうか。それは、〈主観〉から出発して〈客観〉に達することは不可能であるにもかかわらず、われわれは「真理に到達した」という確信を抱くことがある、ということにほかなりません。竹田は次のように述べています。「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」*11フッサール現象学の最大の意義は、主観と客観の一致から確信成立の条件へと問題を組み替えたことにあるという、竹田のフッサール解釈のもっとも重要な考えが、ここに示されることになりました。

 

ここで、われわれがたどってきた議論を簡単に振り返っておきましょう。竹田によれば、フッサールは「〈主-客〉図式をとり払うこと」を主張したとされていますが、それは「主観-客観」図式の前提となっているより根源的な領野に立ち返ることを意味してはいません。それはただ、「〈主観〉は自分の外に出て〈主観〉と〈客観〉の「一致」を確かめることができない」*12という帰結を受け入れることだといってよいでしょう。そして、それにもかかわらずわれわれが主観の内で「真理に到達した」という確信を抱くということに目を向け、主観の内における確信成立の条件を考察することが新たな課題として立ち現われてくることになります。

 

竹田はフッサールの立場をこのように理解したうえで、それに「方法的独我論」という名称を与えていました*13。その理由は、おそらく次のようなことではないかと思われます。すなわち、従来の独我論は「主観-客観」図式から脱却しているとはいえず、この枠組みのなかで、われわれはしょせん主観的な意識の内部に閉じ込められていて客観に至ることができないと主張しているにすぎません。それはいまだ懐疑主義的な立場にとどまっているというべきでしょう。「方法的独我論」はこうした懐疑主義的な立場とは異なり、主観の立場から出発して客観に到達することはできないということを承認したうえで、主観の内における確信成立の条件という新たな問題圏へと抜け出ることに成功しています。竹田はこのような理解に基づいて、フッサールの立場を「方法的独我論」と呼んだのだと思われます。

 

次に問題となるのは、主観の内における確信成立の条件に関する竹田の議論ですが、それについて立ち入って見ていくのは次回以降に譲ることにして、今回はこれまで見てきた竹田のフッサール解釈について、少しだけ検討を加えて、後論のための布石をおこなっておきたいと思います。

 

まず考えてみたいのは、こうした竹田のフッサール解釈がほんとうに「〈主-客〉図式をとり払うこと」になっているのか、という問題です。すでに引用した文ですが、竹田は「こうしてフッサールは、認識論上の問題を解くためには〈主観-客観〉の「一致」を確かめることに意味はない(それは不可能である)、むしろ〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件を確かめることに問題の核心がある、と主張するのである」と述べていました。しかし、「主観-客観」図式を取り払ってしまったのであれば、「〈主観〉の内部だけで成立する「確信」(妥当)の条件」ということばは意味をなさないはずです。それとも谷のように、ここでの〈主観〉とは「まだ「客観的」ではないという意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提なのである」といった意味で理解するべきなのでしょうか。

 

おそらく竹田は、標準的なフッサール解釈とは異なり、「主観-客観」図式が成立する以前の体験流にまで立ち返るという発想は抱いていないと思われます。こうした竹田のフッサール解釈の特徴がはっきりと現われているのが、「現象学的還元」の解釈です。フッサールの「現象学的還元」とは、自然的態度における定立作用を「括弧に入れ」「判断停止」することで「現象学的剰余」としての「純粋意識」を確保することを意味します。このような操作を経ることで、私たちは純粋意識に示された志向的構成作業を分析し、世界定立が形成されていく仕組みを明らかにすることができるようになると考えられています。まずはフッサール自身による「判断停止」の説明を見てみましょう。

 

 眼前に与えられている客観的な世界についてどんな態度決定をすることも、したがってさしあたり(存在、仮象、可能的存在、蓋然的存在、等々といった)存在について態度決定することも、このようにすべて差し控えること(「禁止すること」、「働かせないこと」)―あるいは、よく言われて来たように、客観的世界の「現象学的な判断停止」あるいは「括弧入れ」―は、私たちを無の前に立たせるわけではない。私たちにとって、あるいはもっと正確に言えば、省察する者である私にとって、むしろまさにそのことによって、あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる。判断停止とは、いわば根本的で普遍的な方法であり、これによって私は自分を自我として、しかも自分の純粋な意識の生をもった自我として純粋に捉えることになる*14

 

他方、竹田による「現象学的還元」の解釈は、次のようになっています。

 

 ここで読者に注意を促しておきたいのは『イデーン』などを読むと、〈還元〉という概念はあたかも厳密な学問的方法のように受けとられるのだが、じつは、〈還元〉とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えをすすめる、という“発想の転換”、視線の変更を意味するにすぎないということだ。またしたがって、そのような発想の転換がなぜ必要なのかが腑に落ちれば、誰でもそのような仕方で〈世界〉を見直してみることができる。このことを了解することが〈還元〉という概念をつかむ唯一の道なのである*15

 

竹田によれば、還元とは「独我論的に考えをすすめる」ことであり、このことを理解することが「〈還元〉という概念をつかむ唯一の道」だとされています。しかし、そのために必要なことは、単なる「視線の変更」だけなのです。ここには、「主観-客観」図式の前提にまでさかのぼってこの図式を解体しようという意図はなく、ただ主観と客観の一致を求めることはやめて、もっぱら主観の内の確信について考察することにしようという提案がなされているにすぎません*16

 

さて、ここまで竹田の「方法論的独我論」に関する議論をたどってきました。こうした竹田の理解が、はたしてフッサール解釈として妥当なのかということは、当然ながら検討されなければならない問題だと思います。しかし、そうした課題に立ち入る前に、もう少し考えておくべきことがあるように思われます。それは、「フッサール現象学」から「竹田現象学」において何が受け継がれたのか、あるいは、「竹田現象学」は何を本質的な問題としているのか、ということです。

 

なお、標準的なフッサール解釈に基づいて、現象学を基礎づけ主義だとする批判がなされていることはよく知られています。「主観-客観」図式の根源としての体験流にまで立ち返り、そこから「主観-客観」図式という枠組みのもとで把握される世界定立がどのようにして生まれてきたのか、ということを見届けることがめざされているといってよいのではないかと思います。これに対して、反基礎づけ主義の立場を標榜するポストモダンの陣営からは、根源としての「体験流」なるものも、じっさいのところ何らかの来歴をもって形成されてきたものだと批判するでしょう。また、後期フッサールの生活世界への還帰は、彼がこうした問題に踏み込んでいったことの証左だと考えられます。メルロ=ポンティの次のことばにも、同じような問題意識が見られます。

 

徹底的な反省は自分自身が非反省的生活に依存していることを意識しており、この非反省的生活こそ反省の端緒的かつ恒常的かつ終局的な状況である、ということでもある。現象学的還元とは、一般に信じられてきたように観念論哲学の定式であるどころか、実存的な哲学の定式なのであって、それゆえハイデガーの〈世界=内=存在〉も、現象学的還元を土台としてのみ現われたのである*17

 

ところで、竹田のフッサール解釈では、このような問題を考慮する必要がありません。なぜなら、そこでは「主観-客観」図式の根源にまで立ち返るといったことはおこなわれていないからです。われわれは、ただ主観と客観の一致を証明することは不可能であることを見届け、もっぱら主観の内の確信成立の条件についてのみ考察をおこなっていけばよいのです。いずれくわしく検討したいと思っているのですが、ポストモダン陣営からのフッサール批判に対する竹田の反批判は、実存的な意味や価値がこのような仕方でたしかめられうる最後の根拠となっているということに依拠しています。

 

ただし、現時点での見通しをあらかじめ手短に述べておくと、こうした現象学解釈に基づく竹田自身の立場には、やはり問題が残されているように思います。竹田の解釈の問題は、経験的なレヴェルと超越論的なレヴェルの区別が哲学史のなかで問題とされるようになった経緯を踏まえずに、現象学を理解しようとしていることに集約されます。このことは一方で、フッサール現象学における意識の志向性をエロス的原理に拡張し、「竹田欲望論」と呼ばれる豊穣な世界を切り開いていくことを可能にしました。しかし他方で、無視することのできない問題を「竹田現象学」の内に招き入れることになったのではないか、という疑念を抱かざるをえないようにも思うのです。竹田のポストモダン批判に対するわたくし自身の疑問は、主にこうした点にかかわっているのですが、それについて論じるためには、もう少し彼のフッサール解釈を見ていく必要があります。

 

竹田がフッサールを参照しながら「〈主-客〉図式をとり払う」べきだと主張するとき、彼は何をめざしていたのでしょうか。ここまでの検討を経て明らかになったのは、いまだ主観でも客観でもない中性的な所与に立ち返るということを竹田はめざしているのではなかったということです。しかし、これだけでは竹田の主張の消極的な規定にとどまっており、彼の現象学解釈の重点がどこに置かれているのかということは、まだはっきりしていません。次回は、この点についてさらにくわしく竹田の議論を検討していきたいと思います。

 

*1:竹田『現象学入門』36頁

*2:竹田『現象学入門』42頁

*3:谷『これが現象学だ』47-48頁

*4:谷『これが現象学だ』47頁

*5:廣松渉「マッハの哲学―紹介と解説に代えて」(『廣松渉著作集 第3巻』(岩波書店、1997年)500頁

*6:竹田『現象学入門』42頁

*7:竹田『現象学入門』177頁

*8:竹田『現象学入門』178頁

*9:竹田『現象学入門』13頁

*10:竹田『現象学入門』13頁

*11:竹田『現象学入門』42頁

*12:竹田『現象学入門』42頁

*13:なお廣松渉は、竹田との対談「現象学的方法の可能性」において、竹田のフッサール解釈の特徴を次のようにまとめています。「竹田さんは今回のご本〔『現象学入門』のこと―引用者〕の中でも「オルガン」6号の論文〔・・・〕でも「独我論モナド」という一種独特の概念をお使いになって、わたしのタームで言うと方法論的独我論的な場面を設定して、フッサールはそこから議論を始めているのだと言われる。とくに『イデーン』のⅠにおける現象学的還元、これはある意味からいうとソリプシズム的還元なんだということでフッサールを理解し、そこからフッサールのメリット〔中略〕を見ようとするところに竹田さんのフッサール理解の大きな特徴があると思うんです」(『竹田青嗣コレクション4 現代社会と「超越」』(海鳥社、1998年)271-272頁)。なおこの対談において廣松は、アカデミズムにおけるフッサール解釈の立場から竹田のフッサール解釈に対して投げかけられるであろう主要なポイントを間然するところのないほどの正確さで指摘しています。竹田はその後、新田義弘や谷徹に代表されるアカデミズムにおけるフッサール解釈に対して批判の矢を放っていますが、アカデミズムの側から竹田に対する反批判はこれまでのところほぼ皆無であることを鑑みれば、この対談における廣松の発言は、竹田の解釈を批判的に検討しようとする読者にとって重要であるように思われます。

*14:浜渦辰二訳『デカルト省察』(岩波文庫、2001年)48頁

*15:竹田『現象学入門』80頁

*16:竹田の『完全解読フッサール現象学の理念」』(講談社選書メチエ、2012年)や『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』(講談社現代新書、2012年)では、現象学的な「私」と心理学的な「私」を区別する議論がなされています。ただしそこで竹田が述べているのは、心理学的な「私」が客観的な時間のなかでのリアルな現実存在であるのに対し、現象学的な「私」はリアルな現実存在であることを意味しないということであって、哲学的認識論における「主観-客観」図式を解体するような議論ではありません。たとえば竹田は次のように述べています。「この〈内在意識〉の領域は、いわゆる心理学的な意味での「心」や「自我」の内側ということではない。心理学では、心や自我の存在自体を自明のものとしており、あくまで「自然的な見方」を前提しているのだ」(『超読解! はじめてのフッサール現象学の理念」』、48頁)。ここで語られているのは、コップや太陽が一定の空間を占める物理的な意味で現実存在であるように、心理学における「私」も一定の時間を占める心理学的な意味での現実存在と考えられるということでしょう。しかし、物理学的な対象であれ心理学的対象であれ、自然的態度のもとで把握される対象である以上、それらはともに「主観-客観」図式の「客観」の側に位置づけられるものです。竹田が主張しているのは、そうした「客観」に位置づけられるような心理学的な「私」と、現象学的な「私」は異なっているということであって、やはり、「主観-客観」図式を超えていっそう根源的な領野へと立ち返ろうとする意図は見られません。

*17:モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎、小木貞孝訳『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967年)13頁