しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (3)

前回は、『純粋理性批判』第二版における「形而上学的演繹」の議論を中心的にとりあげ、純粋悟性認識の〈機能〉を解明するカントの議論をたどってみました。そこでは、純粋悟性認識の〈機能〉のさまざまなあり方を、判断表からの導出によって得られたカテゴリー表に示すことがおこなわれていました。これにつづいて今回は、「形而上学的演繹」につづく「超越論的演繹」の議論を中心的に見ていくことにしたいと思います。

 

しかしながら、『純粋理性批判』の中核をなすともいわれる「超越論的演繹」の議論はきわめて難解であり、正直なところわたくし自身、その議論を理解したといえるにはほど遠い状態にあることを告白しなければなりません。さらに、カントやフィヒテの思想にかんする優れた研究で知られるディーター・ヘンリッヒらによって、「超越論的演繹」の解釈にまつわる問題があらためて提起されて以来、「超越論的演繹」をめぐる研究状況は錯綜しており、おそらく専門家でさえもその全貌を見通すことは容易ではないように見受けられます。そこで、以前もことわっておいたように、カントの思想を正確に解釈し紹介することは断念して、「超越論的演繹」の議論によって切り開かれ、その後フッサールの超越論的現象学の立場にも引き継がれることになった問題の地平を、わたくし自身の観点からごく簡単にスケッチしてみたいと考えています。

 

さて、「超越論的演繹」における「演繹」(Deduktion)という語は、法学上の概念に由来するものであり、「事実問題」ではなく「権利問題」についての説明を意味しています。そこで問われているのは、純粋悟性概念がどのようなしかたで〈機能〉しているのかという事実問題ではなく、それがはたして正当な〈権能〉をもつのかどうかという権利問題なのです*1。もうすこしくわしくいえば、われわれの認識において使用されているカテゴリーは、客観的妥当性を要求することができるのか、できるとすればそれはどうしてなのかということが、超越論的演繹の議論において問題になっているということができるでしょう。

 

こうした問題を考察するにあたって、カントはまず、彼が「まったく懐疑論に没入してしまった」*2と評するヒュームの議論、とりわけ因果性に対するヒュームの批判を検討することからはじめています。

 

カントは形而上学的演繹の議論のなかで、すべてのカテゴリーを判断表から導出するという課題に取り組み、純粋悟性概念のすべての〈機能〉を示すカテゴリー表を提出しました。因果性も、直観に与えられた表象の多様を総合・統一するカテゴリーの一つにあげられています。しかし、そうしたカテゴリーによってわれわれの認識が成立しているということが認められたとしても、それが客観的妥当性を要求しうるのかどうかということについては、まだなにも語られていませんでした。もし、純粋悟性概念に客観的妥当性を要求する権利が認められないのであれば、直観に与えられた表象の多様に因果性のカテゴリーを適応することで成立するわれわれの認識は単なる仮象にすぎないのではないかという疑義を払いのけることはできず、われわれはつねにそうした懐疑のもとにとどめ置かれることになってしまうでしょう。そしてカントによれば、ヒュームの立場はまさにそのようなものだったとされています。

 

ヒュームは、われわれがさまざまな場面において因果性にかんする思考をおこなっているという事実そのものを否定してはいません。ただし、そうした事実はたしかに認められるとしても、それに対して客観的妥当性を要求する権利を認めることはできないと、ヒュームは考えます。つまり、因果性にまつわる思考においてわれわれの思考の単なる主観的な必然性しか見いだすことはできないにもかかわらず、われわれは客観的妥当性を要求する権利があると誤って信じているというのです。彼は、因果性にかんするわれわれの思考が不当にまとっている権利を剥奪することによって、「習慣性」*3だけが残されることになると考えました。

 

カントが超越論的演繹の議論において示そうとしているのは、このような意味での懐疑論に対して、純粋悟性概念の〈権能〉を論証することでした。つまり、因果性のカテゴリーが、単なる「思惟の主観的条件」*4にすぎないのか、それともそこには客観的妥当性を要求する権利を認めることができるのか、ということを明らかにすることが、ここでの課題となります。

 

しかしまずは、カントが因果性を悟性のカテゴリーとして理解しようとしていたことを、彼の議論をたどることでたしかめておくことにしましょう。

 

 けれどもわたくしが各判断における与えられた認識の関係をさらに精密に研究して、この関係を悟性に属するものと見、再生的構想力の法則にしたがう関係(これは単に主観的妥当性を有するにすぎない)と区別するならば、判断とは与えられた認識を統覚の客観的統一へともたらす仕方にほかならないことを見いだすのである*5

 

ここではまず、「再生的構想力の法則にしたがう関係」は、「単に主観的妥当性を有するにすぎない」という主張がなされていることに注意を向けておきたいと思います。

 

カントは、「私が物体を持った場合、私は重さの圧迫力を感ずる」*6という具体例をあげて、いっそう具体的にこのことを説明しています。「私が物体を持つ」ということと、「私が重さの圧迫力を感ずる」ということは、二つの異なる心的表象だということができます。こうした表象は刻一刻と移り変わっていきますが、これらの表象を消え去るにまかせていては、われわれの認識は成立しません。そこでカントは、われわれの認識が成立するためには、一瞬ごとに消え去っていく継起的な表象を心のうちに保持し再現する再生的構想力による総合がなされているのでなければならないと考えます。しかし構想力による諸表象の総合は、「連想の法則」にもとづく関係であるにすぎず、そこに客観的妥当性の要求を認めることはできません。

 

連想の法則にしたがってわたくしのいいうることは、単に、「私が物体を持った場合、重さの圧迫力を感ずる」ということだけであって、「物体は重い」ということではない。「物体は重い」ということは、物体と重さというこれら二つの表象が、対象において、すなわち主観の状態の相違に関係なしに、結合しており、単に知覚において共存するのではないことをいおうとするにほかならないのである*7

 

構想力における再生の総合の働きは、連想の法則にしたがって複数の表象の連鎖を構成します。その結果、「私が物体を持つ」という心的な事実と、それに引き続いて生じる「私は重さの圧迫力を感ずる」という心的な事実が連鎖を構成することになります。しかしそこには、仮に主観のうちにおけるなんらかの妥当性が存することはあるかもしれませんが、主観の状態の相違に関係なく成立する客観的な妥当性を認めることはできません。カントは、客観的妥当性の要求は、超越論的統覚の統一にもとづく判断においてはじめて成立すると主張します。

 

判断における繋辞「である」は、この統覚の客観的統一を目ざすもので、それは、与えられた表象の客観的統一を、主観的統一から区別する〔・・・〕。けだしこの繋辞「である」は、与えられた表象の、根源的統覚に対する関係を示すものであり、かつよしんば判断自体が、「物体は重い」という判断のように経験的、したがって偶然的である場合にしても、表象の必然的統一を示すものであるからである*8

 

「私は重さの圧迫力を感ずる」という感覚は、ある種の主観的な意識状態にすぎず、そこには客観的な妥当性が帰属させられることはありません。これに対して「物体は重い」という命題は、主観の意識状態のありようにかかわりのない客観について、私がくだした判断を表わしています。この両者をただちに同一視することはできません。このギャップを架橋するものが、客観的な妥当性を要求することができる〈権能〉としての認識主体であり、これをカントは超越論的統覚と呼んでいました。統覚の働きによって純粋悟性概念にもとづく綜合統一がおこなわれることで、真もしくは偽のいずれかの真理値をもつ命題によって表わされる判断が生じると考えられるのです。

 

カントは、因果性のカテゴリーについても、これまで見てきたのと同様の議論をおこなっています。たとえば、私が「太陽の熱が蝋を溶かす」と判断をおこなうとき、私は「太陽の熱」という出来事と、「蝋が溶ける」という出来事を、継起的に経験することになります*9。しかし現象の多様の単なる継起は、いまだ主観的な意識状態の連続的な変容にすぎず、客観的な因果性がつねに認められるわけではありません。たとえば、私が大きな家を眺めまわすとき、私の意識に映じる表象は継起的に変容していきますが、そのことは前に現われた表象が原因であり後に現われた表象がその結果であるということはできないのです*10。それにもかかわらず、私が「太陽の熱」の経験と「蝋が溶ける」という経験とのあいだに因果関係を見いだすのは、自発的な思考能力である悟性が因果性のカテゴリーを現象のうちに「考え入れる」(hineindenken)ことにもとづいています。

 

とはいうものの、因果性のカテゴリーを適用することで成立する個々の判断が、つねに客観的な妥当性を有するわけではありません。それらは経験的法則であるにすぎず、純粋悟性概念のみからみちびくことのできるような法則ではないからです*11。カントはヒュームの因果性についての説明を批判しつつ、次のように述べています。

 

今まで固かった蝋が溶ける場合、このことが恒常的法則に従って、それにつづいて起こるような何かが先行していなければならないこと(たとえば太陽の熱が)を、わたくしはア・プリオリに認識することができるのである。ただしかし経験を欠いてはわたくしは、結果から原因をも、原因から結果をも、ア・プリオリに、また経験に教えられることなしには明確に認識することはできないけれども。したがって彼〔ヒューム―引用者〕は法則に従ってなすわれわれの規定の偶然性から、法則そのものの偶然性を誤って推論したのであり、またある事物の概念を出て可能な経験となること(これはア・プリオリに生ずることで、事物の客観的実在性を形成するものである)と、実際の経験の対象の総合という、もちろんつねに経験的であるところの総合とを、混同したのである*12

 

彼は、因果性のカテゴリーのア・プリオリな原則として、「あらゆる変化は原因と結果との結合の法則にしたがって生ずる」*13というテーゼを掲げています。ここで彼が主張しているのは、「現象の継起における因果関係の原則は、経験のあらゆる対象(継起の条件にしたがうところの)に対しても妥当する」ということであり、同時に「この原則そのものが、このような経験の可能なための根拠である」*14ということでした。そしてこのことは、経験にもとづいてわれわれが獲得してきた個々の具体的な知識に誤りが見いだされたとしても、それによって否定されることはありません。

 

この世界におけるさまざまな因果関係は、科学的な探究によって解明されており、その結果、われわれはこの世界についてのさまざまな知識を獲得してきました。たとえばわれわれは、歌を詠むことで天地が動き出すことはないと信じています。しかし、ある日とつぜん歌を詠むと天地が激しく動くことになったとしても、ア・プリオリな因果性にかんする純粋悟性概念の原則が否定されることはありません。もちろんその結果、地質学や気象学のさまざまな法則が見なおしを迫られることになるかもしれませんが、これまでの経験にもとづく法則からはとうてい考えることのできないような異常な事態が生じたとしても、われわれはやはりその出来事の客観的な原因が存在するはずだということをア・プリオリに認めることでしょう。「あらゆる変化は原因と結果との結合の法則にしたがって生ずる」というカントの純粋悟性概念の原則が示しているのはこのようなことだったのであり、それは経験的な法則に誤りが含まれていることによって否定されるような性質のものではありません。

 

さて、ここまでの議論で、カントが因果性を悟性のカテゴリーの一つとして理解していたことが明らかになりました。しかし、因果性のカテゴリーが、単にわれわれの経験的認識において〈機能〉しているということだけが、カントの主張だったのではありません。われわれの観点から見てよりいっそう重要なことは、こうしたカテゴリーを現象に適用する超越論的統覚としての「考える私」の働きが、客観的な妥当性を要求することができる〈権能〉の主体として理解されていたということです。

 

ここでいったんカントのテクストを離れて、なにが問題になっているのかということを、より具体的な事例にそくして考えてみることにしましょう。われわれは小学校や中学校で、「バネの伸びはバネを引く力の大きさに比例する」というフックの法則について学びました。バネばかりはこの法則を利用しているのですが、限度を超える荷重をかけると、バネばかりが壊れてしまい、目盛りが正しい数値を示さなくなってしまうことがあります。おなじ重さのおもりを吊るしたとしても、正常なバネばかりでは正しい数値を指し示しますが、壊れてしまったバネばかりは誤った数値を示すようになります。

 

しかしながら、正常なバネばかりが正しい数値を示すことも、壊れたバネばかりが誤った数値を示すことも、それ自体としてはどちらも物理的な現象であることに変わりはありません。この世界には無数のバネばかりが存在しており、そのうちのあるものはフックの法則にしたがい、あるものはしたがわないというにすぎません。つまり、物理的な世界は、〈正しさ〉にかんして無規定だというべきなのです。

 

では、物理的な世界のうちに〈正しさ〉の占めるべき場所が存在しないのだとすれば、それはいったいどこに位置づけられるべきなのでしょうか。この問題に対して、ある種の心理学主義の立場においては、〈正しさ〉をある種の感情と理解し、内観によってとらえられる主観のうちの心理学的な事実として位置づけることになります。われわれは、50グラムのおもりを吊るしたとき、バネばかりは50グラムを表示するはずだと期待し、この期待が満たされたとき、バネばかりは〈正しい〉という心理学的な事実が生じると理解されるのです。このばあい、客観的妥当性の要求は、心理学的な期待の感情にすぎないということになります。しかしこのような立場においては、ある場合に期待の感情が生じ、べつの場合には生じないということには、なんら客観的な根拠は存在せず、せいぜいのところ「習慣性」のような「連想の法則」*15しか存在しないといわなければなりません。われわれが判断をおこなっているとき、みずからの判断が客観的な妥当性をもつと信じているとしても、それは単なる主観的な妥当性をわれわれが誤って理解しているにすぎないと解されるのです。そして、客観的な〈正しさ〉が不当にまとっている権利を剥奪するならば、〈正しさ〉とわれわれが見なしているものは、じつは〈主観的確信の内における正しさ〉にすぎないことが明らかになると理解されることになるでしょう。

 

わたくしもまた、心理学的な事実のみに目を向けるならば、〈正しさ〉はある種の期待の感情にすぎないということを認めるにやぶさかではありません。ただしこのことは、「客観的妥当性が心理的な事実の一種である」と認めることを意味しているわけではありません。わたくしが認めるのは、「もし心理学的な事実にのみ目を向けるならば、客観的妥当性もある種の感情として理解されるであろう」ということまでです。そして、「もし心理学的な事実にのみ目を向けるならば」という条件文は、カントが問題にしているような客観的妥当性をあらかじめ排除していることに、注意していただく必要があります。つまり、こうした心理学主義の立場は、最初から考察されるべき問題を排除することで心理学的な事実の領域を確保し、そのうえで客観的妥当性には占めるべき場所が存在しないと主張しているに等しいのです。このような議論によって、客観的妥当性にかんする謎が解き明かされているとはいえません。

 

カントは、〈正しさ〉が単なる主観的な必然性をもつにすぎないという立場を批判し、純粋悟性概念の使用によって成立する認識には客観的妥当性を要求する権利が認められるということを論証しようと試みます。そのために彼がなさなければならなかったのは、われわれの経験の可能性の条件である「私は考える」という働きが、認識の客観的妥当性を要求する〈権能〉上の主体となっていることを示すことでした。

 

このようにいうと、「われわれの認識の客観的妥当性を要求することなど、ほんとうに可能なのだろうか」という疑問をもつひともいるのではないでしょうか。なるほど、われわれはときに、一度くだした判断を、後に誤りであることが判明したといって、取り下げることがあります。判断が経験にその内容を求めなければならない以上、ときに判断に誤りが含まれることを完全に避けることは不可能です。しかしこのことから、因果関係はけっきょくのところ偶然的で主観的な表象の継起的結合関係にすぎず、因果関係についてのわれわれの判断に客観的妥当性を認めることができるというカントの主張は虚妄にすぎないと結論づけるのは、早計というべきでしょう。それどころか、まさにそうした場面においてこそ、われわれはみずからが有する〈権能〉にもとづいて、その関与がなければ〈正しさ〉にかんして無規定的であるほかない自然界にあらためて〈正しさ〉を差配しなおしているのであり、「自然に対する立法者」*16として振る舞っているのです。

 

さて、以上の議論からも明らかなように、カントの批判哲学において最高原理の位置を占める「私は考える」という超越論的統覚の働きは、経験的・個人的な「主観性」ではありません。新カント派の立場から哲学者としてのキャリアを開始したエルンスト・カッシーラーは、カント哲学における超越論的主観性が、ロックやヒュームのような経験論者たちが考えるような「人間本性」とはまったく異なるものだと解説しています。それは、経験的世界についてわれわれがおこなうさまざまな判断の単なる事実上の主体にとどまるのではなく、それらの判断が要求する客観的妥当性の〈権能〉を有する者だということができるでしょう。カッシーラーはこのような超越論的な「主体性」について、「諸学の内に、つまり、幾何学的構成の方法の内に、算術の計算手続きの内に、経験的観察・測定の内に、あるいは物理学的実験の確立の内に刻印されている主体性」*17だと述べています。つまりそれは、経験的・個人的な主観性ではなく、あらゆる学的認識の客観的妥当性の〈権能〉上の主体である「意識一般」*18を意味しているのです。

 

カントの生涯と学説

カントの生涯と学説

 

 

それでは、竹田はこうしたカントの批判哲学の意義を正しく把握していたのでしょうか。次回は、竹田のカント解釈について検討をおこなうことにします。

*1:とはいえ、形而上学的演繹の議論が〈機能〉の解明に終始しており、超越論的演繹の議論においてはじめて〈権能〉が問題にされるという理解は正しくありません。形而上学的演繹における〈機能〉の分類は、あくまでそれが純粋悟性認識の可能性の条件を探究するという権利問題の照明のもとでなされているのであり、このことが忘れられてしまうならば、そこでの議論は単なる心理学的な能力の分類であるかのような誤解が生じることになってしまうことでしょう。ちなみに竹田は、「ちょうどフロイト深層心理学説の根本仮説が、フロイトの思惑に反してほとんどどれも実証されなかったのと同じく、カントの感性・カテゴリー・図式・原則という人間認識装置の構図も、結局のところ、あくまでカント流の説明というにとどまり、哲学的にはさまざまな異論を生んでいる」(竹田青嗣『完全解読カント「純粋理性批判」』(2010年、講談社選書メチエ)148頁)と述べていますが、カントの議論は実証的なしかたで解明されるような心理学的な諸能力を明らかにすることをめざしたものではなく、竹田の評言はあたらないといわなければなりません。

*2:B128 高峯訳『カント純粋理性批判』110頁

*3:B127 高峯訳『カント純粋理性批判』110頁

*4:A89/B122 高峯訳『カント純粋理性批判』107頁

*5:B141 高峯訳『カント純粋理性批判』117頁

*6:B142 高峯訳『カント純粋理性批判』117頁

*7:B142 高峯訳『カント純粋理性批判』117頁

*8:B142 高峯訳『カント純粋理性批判』117頁

*9:彼は、「現象の多様が覚知されるのはつねに継起的である」(A189/B234 高峯訳『カント純粋理性批判』178頁)と述べています。

*10:トマス・リードは、ヒュームの因果関係についての考えを批判して、夜の後に昼がやってくる、あるいは昼の後に夜がやってくるという規則性は存在するが、このことから、夜が昼の原因であり、昼が夜の原因であるということはできないと述べています(Thomas Reid, Essays on the Active Powers of the Human Mind, MIT Press, 1969, p. 334)。

*11:カントは次のように述べています。「もちろん経験的法則そのものが、その根源を決して純粋悟性から導き出すことのできないことは、現象の測り知れない多様性が、感性的直観の純粋形式から十分に理解できないのと同様である。けれどもあらゆる経験的法則は悟性の純粋法則の単に特殊的な限定にすぎず、この純粋法則の下に、またこの純粋法則の規範にしたがってはじめて、かの経験的法則は可能なのであり、現象は法則的形式をえるのである」(A127-128 高峯訳『カント純粋理性批判』145頁)。

*12:A766/B794 高峯訳『カント純粋理性批判』487-488頁

*13:A189/B232 高峯『カント純粋理性批判』177頁

*14:A202/B247 高峯訳『カント純粋理性批判』185頁

*15:B142 高峯訳『カント純粋理性批判』117頁

*16:A126 高峯訳『カント純粋理性批判』144頁

*17:Ernst Cassirer, Kants Leben und Lehre, S. 164 門脇卓爾ほか監訳『カントの生涯と学説』(1986年、みすず書房)161頁

*18:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 305 久呉訳『カント全集 6』259頁

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (2)

前回は、竹田の現象学解釈の問題を哲学史的な背景のもとでとらえなおすことをめざして、カント哲学における超越論的な問題領域の発見についての考察を開始しました。今回は、前回の議論を引き継ぎつつ、主として『純粋理性批判』の第二版におけるカントの議論をたどることで、純粋悟性認識にかんするカントの考えを見ていくことにします。

 

カントの批判哲学の立場が、従来の独断的形而上学を克服するものであったことは、よく知られています*1。そこで、われわれはまず、『純粋理性批判』における「超越論的論理学」の構想を概観することで、カントが従来の独断的形而上学からどのようにして脱却していったのかを見てみたいと思います。

 

カントの「独断論」ということばは、主としてライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことを意味していますが、カント自身の前批判期の思想も同様の問題点を含んでおり、それゆえ『純粋理性批判』によって批判されなければなりませんでした。ここでは、1770年の教授就任論文『可感界と可想界の形式と原理について』によって、前批判期における彼の思想を簡単に見てみることにしましょう。

 

この論文のなかでカントは、感性(sensualitas)と知性(intelligentia)をはっきりと区別することをめざしています。そしてこうした試みは、形而上学の「予備学」に当たると位置づけられることになります。

 

純粋知性の用法の第一原理を含む哲学は形而上学である。この形而上学への予備学は知性的認識からの感性的認識の区別を教える学問である。われわれはこの論考でその例を示す*2

 

それでは、感性的認識と知性的認識は、どのようなしかたで区別されているのでしょうか。カントは、「感性とは主観の受容性であり、この受容性のゆえに、何らかの対象〔客観〕の現前によって特定の仕方で主観の表象が刺激されうる」*3と述べています。しかしこのことは、感性的認識は主観の受容性に依存しているということを意味しており、そのために感性的認識は主観的条件をまぬかれることはできないと考えられることになります。カントは、こうした性格をもつ感性的認識を知性的認識と対比しつつ、次のように述べます。

  

 こうして主観は対象の現前によって変容を受け、〔・・・〕そのかぎり認識において感性的なものに属するものは何であれ、主観の特殊な本来的性質に依存している。しかしまた他方で、そのような主観的条件を免れた認識は何であれもっぱら対象にだけ関わる。したがって以上からも明らかなように、感性的に認識されたものは、現れるがままのものごとの表象であり、知性的なものはあるがままのものごとの表象である*4

 

感性的認識の対象である「可感界」は、主観的条件をまぬかれることができません。これに対して、知性的認識の対象である「可想界」は、客観そのものであるとカントは考えます。彼は、「ある厳密な意味での知性的なものに関していえば、対象や関係についての概念は知性の本性そのものによって与えられ、感官のどのような使用からも抽象されたのではなく、また感性的認識そのもののいかなる形式も含んでいない」*5といい、知性は「その特質ゆえに感官のなかに入ってこられないものを表象することができる」*6と述べています。そして、具体的には「可能性、現実存在、必然性、実体、原因」*7などが、感性的な規定をいっさい含まない、純粋に知性的な概念の例にあげられています。

 

では、こうした知性的な概念についての探究は、どのようなしかたでなされうるのでしょうか。カントは「知性によって言明されたいかなる判断にあっても、述語は、それなくしては主語が思惟されえない条件である」と同時に、「述語が認識の原理」としての役割を果たすことができると主張します*8。たとえば、「SはPである」という判断について考えてみると、「PでなければSではない」という意味で、Sが思考されるための条件としてPがなければならないということを意味していると同時に、このような原理にもとづいて、われわれは知性的な概念についての認識を推し進めていくことができるというのです。

 

知性的な概念は、感性的表象の内容に依存しないとされている以上、経験を通じてその内容を明らかにするような道は存在しません。それにもかかわらず、知性的概念にかんする探究が可能だと考えられて考えられていたのは、判断における主語と述語の論理的関係が、事象的関係と相即していると考えられていたからにほかなりません。

 

こうした考えは、『純粋理性批判』において明確に否定されることになります。彼は『純粋理性批判』の第二版で次のように述べています。

 

論理学においてはしたがって、悟性は自己自身と自己自身の形式とのほかには、それ以上何ものをも取扱う必要がない。〔・・・〕したがって論理学はまた予備学として、いわば単に諸学の玄関をなすものであり、知識が問題となる場合には、もちろん論理学は知識評定のために前提されはするが、しかし知識の獲得は、本来的客観的にいわゆる学と称されているもののうちに求められねばならないのである*9

 

前批判期の思想は、論理学にこうした制限を越える役割をあたえていたのであり、それゆえ否定されなければならなかったのです。就任論文においてカントは、論理学に事象的な性格を認めており、それゆえ論理学によって感性的な規定をいっさい含まない「客観そのもの」としての知性的概念についての探究をおこなうことができるという立場に立っていました。これは、論理学を形而上学的探究のための方法、すなわち「オルガノン」とみなすことにほかなりません*10。批判哲学は、このような考え方が否定されることによってはじめて成立したのだということができます。

 

認識の内容についてはまだ非常に空虚貧弱であるのに、われわれの一切の認識に悟性の形式を与えるという、まことに外見だけの技術を持つと、そこに何かきわめて魅惑的なものがあるために、単に認識批判のための規準(Kanon)にすぎないあの一般論理学が、いわば客観的な主張を実際にもたらすための、少なくとも客観的な主張という幻影のための機関(Organon)のように用いられ、したがって実際にはそのために誤って用いられるのである。このように誤って機関と考えられた一般論理学は、今や弁証論と名づけられるのである*11

 

カントは『純粋理性批判』の超越論的弁証論において、四つのアンチノミーを提示することで、経験的内容をもたない純粋理性の空転によって生じる困難を示し、かつての彼自身もそのなかでまどろんでいたとされる独断的形而上学の誤謬を、白日のもとにさらしたのでした。

 

ここまで見てきたようにカントは、一般論理学はそれ自身のうちに対象をもたず、思考が思考として成立するための単なる論理的形式を示していると考えていました*12。しかし、いまやこうした一般論理学の事象性は否定されなければなりません。このことを忘れて知性の空転を引き起こしたのが独断的形而上学であり、その誤りを避けるためには、われわれの認識の対象が直観において与えられるということを認めなければなりません。「けだし直観を欠いてはわれわれの一切の認識は客観を持たず、かくてはわれわれの認識はまったく空虚のままだからである」*13とカントは述べています。

 

そのうえでカントは、いっさいの感性的な規定を含まない「客観そのもの」としての知性的概念を明らかにする「オルガノン」ではなく、純粋悟性概念の単なる経験的使用のための「規準」(カノン)としての役割を明らかにする「超越論的論理学」の構想を打ち出します*14。われわれの悟性はそれ自体単独で対象を獲得することはできず、直観において与えられる経験的対象に対してのみ使用されなければなりません。しかし、悟性の〈使用〉が経験的対象に依存するからといって、悟性と感性を混同することは許されないとカントは考えます*15。これこそが、経験的なものの認識における非経験的な条件としての純粋悟性概念の役割を解明する「超越論的論理学」の課題だということができるでしょう*16。彼は「超越論的論理学」を、次のように定義しています。

 

 かくて純粋直観としてでもなく感性的直観としてでもなく、もっぱら純粋思惟の行為としてア・プリオリに対象に関与できるような、したがって概念ではあるがしかし経験的起源のものでもなければ感性的起源のものでもないような概念が、おそらく存在しうるであろうという期待のもとに、われわれがそれによって対象を完全にア・プリオリに思惟するところの、純粋悟性認識及び純粋理性認識の学の理念をわれわれはあらかじめ構想する。このような認識の起源、範囲及び客観的妥当性を規定するような学は、超越論的論理学と称されねばならないであろう*17

 

では、われわれの認識が成立するに際して、悟性はいったいどのような寄与をおこなっているのでしょうか。カントはまず、思考の能力である悟性は「非感性的な認識能力」*18であり、「概念」による認識の能力だといいます。おなじことですが、「そもそもこれらの概念に関しては、悟性はこれによって判断するということよりほかに、何らこれを使用することはできない」*19とも述べられています。

 

そしてこのことから、「悟性の機能はしたがって、もしわれわれが判断における統一の機能を完全に示すことができれば、すべてこれを見いだすことができる」*20という主張がみちびかれることになります。これが、超越論的分析論のなかで「形而上学的演繹」*21と呼ばれている議論にほかなりません。

 

カントは、経験に起源をもたず、しかも「対象が考えられるためには欠くことのできない諸原理」(A62/B87 高峯訳『カント純粋理性批判』91頁)の役割を果たしている純粋悟性概念を解明するために、悟性が判断という仕方でのみ表象を統一する機能を果たしうるということに注目しました。そして判断の機能の分類を手がかりにすることで、判断を通じて諸表象を統一する機能であり、それなくしてはいかなる認識も成り立たないような「カテゴリー」*22を発見するにいたったのでした。判断表からカテゴリー表を導出するという「形而上学的演繹」の議論の背後は、このような見通しがあったのです。

 

それでは、こうしたカントの議論は、前回われわれが見てきた「超越論的統覚」にかんする議論とどのような関係にあるのでしょうか。

 

前回紹介したように、そもそもカントは「「私は考える」という意識が、あらゆる私の表象に伴わなければならない」*23と考えていました。第一版におけるカントの議論は、こうした統覚の根源的な総合・統一によってわれわれの認識が可能となっていることを解明することをめざしています。直観を通じてわれわれに与えられるものは単なる表象の多様にすぎません。そこで、こうした直観の多様を統一することでわれわれの認識を成立させている条件が解明されなければならないのです。

 

カントは、直観の多様を統一することでわれわれの認識を成立させている条件を追い求めて、「直観における覚知の総合」「構想力における再生の総合」「概念における再認の総合」という三重の総合作用が存在していると考えなければならないと主張しました。もし、一瞬ごとにそれぞれ異なった表象がわれわれに与えられているという経験的事実のみが存在するのであれば、われわれはそれらの表象を再認することもできず、私はなにごとかを認識しているということは不可能になってしまいます。そしてこのことからカントは、「私は考える」という超越論的統覚のはたらきにもとづく私の意識の同一性が、われわれの認識を可能にする超越論的な条件であることを認めなければならないと主張したのです。

 

他方でカントは、判断の機能について次のように述べています。

 

 一つの判断における種々なる表象に統一を与えるのと同じ機能が、一つの直観における種々なる表象の単なる総合にも統一を与えるものであり、この機能は一般的にいえば、純粋悟性概念と呼ばれるのである。したがって同じ悟性が、しかも自分が概念において、まず分析し、次にそれらを統一することにより、判断の論理的機能を完成したのとちょうど同じ行為によって、直観一般における多様を総合的に統一して、自己の表象中へ超越論的内容をもたらす働きをなすのである*24

 

われわれは判断を通じて、直観に与えられる表象の多様に統一を与えているのであり、この統一をもたらすのが純粋悟性概念の役割だと考えられていました。つまり純粋悟性概念は、われわれの認識を可能にする「超越論的統覚」が具体的に表象の多様を統一するさまざまな仕方を示しているのです。

 

カントは、「私は考える」という働きは、「各悟性判断一般の形式を含むものであり、あらゆるカテゴリーにこれを支えるものとして伴うもの(Vehikel)」*25であると説明しています。これは、「私は考える」という超越論的統覚の働きが、そのつどわれわれの直観に与えられる表象の多様を統一し種々の判断を構成しているカテゴリーの機能の担い手としての役割を果たしているということにほかなりません。『純粋理性批判』における形而上学的演繹の議論によって果たされたのは、判断表を手がかりとして、「私は考える」という超越論的統覚が直観の多様を統一している〈機能〉のさまざまなあり方を解明し、その全体像をカテゴリー表として明示することだったということができるのです*26

  

しかし、超越論的統覚による統一の〈機能〉の具体的なありようを示すカテゴリーを、判断表を手引きとすることによって枚挙し分類する「形而上学的演繹」の議論だけが、批判哲学の課題だったのではありません。表象の多様を統一する〈機能〉としての「私は考える」という超越論的統覚には、どのような〈権能〉が認められているのかという問題を考察し、それによってカテゴリーが客観的妥当性をもつことを明らかにしなければなりません。こうした課題に取り組んだのが、『純粋理性批判』の中核をなすと考えられている「超越論的演繹」の議論でした。これは、心理学主義と論理学主義の隘路をくぐり抜けることでフッサールが到達した「超越論的現象学」がカント哲学から継承した主題であり、そうでありながら竹田のフッサール解釈において見落とされている主題でもあります。そこで次回は、カントの超越論的演繹の議論が切り開いた問題の地平がどのようなものだったのかを明らかにしたいと思います。

*1:カントは1798年に書かれた書簡のなかで、「このアンチノミーこそが、私を独断のまどろみから目覚めさせ、理性批判そのものへと駆り立て、こうして理性の見かけ上の自己矛盾というスキャンダルを取り除いたのです」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 12, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1902, S. 257-258 木阪ほか訳『カント全集 22』(2005年、岩波書店)381頁)と述べていました。他方で『プロレゴーメナ』では、カントを「独断のまどろみ」から目覚めさせたのは、ヒュームの因果律批判だったと述べられています。「私は率直に告白するが、上に述べたデーヴィド・ヒュームの警告こそが、何年も前にはじめて私の独断的まどろみを破って、思弁的哲学の領野における私の諸研究に一つのまったく別の方向を与えた当のものであった」(Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 260 久呉訳『カント全集 6』194頁)。ただしここでは、この二つの証言がどのような関係にあるのかということには立ち入りません。

*2:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1902, S. 395 山本道雄訳『カント全集 3』(2001年、岩波書店)346-347頁

*3:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 392 山本訳『カント全集 3』342頁

*4:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 392 山本訳『カント全集 3』342-343頁

*5:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 394 山本訳『カント全集 3』345頁

*6:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 392 山本訳 『カント全集 3』342頁

*7:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 395 山本訳『カント全集 3』347頁

*8:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 2, S. 411 山本訳『カント全集 3』374頁

*9:B IX 高峯訳『カント純粋理性批判』26-27頁

*10:アリストテレスの論理学が、編集者によって『オルガノン』と名づけられたのは、それが単なる思考の法則の学である形式論理学ではなく、同時に存在の論理学として把握されていたということを意味しているということができます。

*11:A60-61/B85 高峯訳『カント純粋理性批判』90頁

*12:「一般論理学は、すでに度々述べたように、認識の一切の内容を捨てさり、自己に、それがどこからであろうと、外から、表象が与えられることを期待」(A76/B102 高峯訳『カント純粋理性批判』98頁)すると述べられています。

*13:A62/B87 高峯訳『カント純粋理性批判』91頁

*14:山口修二は、1964年に書かれた『自然神学と道徳の諸原則の判明性についての研究』と、1770年の教授就任論文に検討をくわえ、前者が「内包的論理学」を採用していたのに対し、後者では「外延的論理学」が採用されていると指摘したうえで、両者がともに「オルガノン」として用いられていたという点では共通していたことを明らかにしています(山口修二『カント超越論的論理学の研究』(2005年、渓水社)第1章参照)。

*15:純粋悟性概念が経験から生じるのであれば、それはけっして客観的妥当性を有することはありません。この点については、次回カントの「超越論的演繹」の議論を概観する際に、多少くわしく考察をおこなうことにしたいと考えています。

*16:「したがって超越論的論理学のうちで、純粋悟性概念の要素を叙述し、対象が考えられるためには欠くことのできない諸原理を論述する部門は、超越論的分析論であり、同時に真理の論理学である」(A62/B87 高峯訳『カント純粋理性批判』91頁)とカントは述べています。

*17:A57/B81 高峯訳『カント純粋理性批判』88頁

*18:A67/B92 高峯訳『カント純粋理性批判』93頁

*19:A68/B93 高峯訳『カント純粋理性批判』94頁

*20:A69/B94 高峯訳『カント純粋理性批判』94頁

*21:B159 高峯訳『カント純粋理性批判』125頁

*22:なお、カテゴリーについてカントは、「カテゴリーは多様を一つの概念の下に包摂する論理的機能以外の何ものをも含みえない」(A245/B303 高峯訳『カント純粋理性批判』212頁)と述べています。

*23:B131-132 高峯訳『カント純粋理性批判』112-113頁

*24:A79/B104-105 高峯訳『カント純粋理性批判』99頁

*25:A348/B406 高峯訳『カント純粋理性批判』264頁

*26:「統覚」と「悟性」の関係について、カントは次のように説明しています。「〔・・・〕統覚の総合的統一は、あらゆる悟性使用が、のみならず全論理学すら、そして後には超越論哲学が、それに結びつけられねばならないところの、最高点である。実にこの能力は悟性そのものである」(B134 高峯訳『カント純粋理性批判』114頁)。