しまうまのメモ帳

知的かつ霊的なスノッブであると同時に人類の味方でもある道、オタク的な世捨て人であると同時に正義を求める闘士でもある道を求めて

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (5)

前回われわれは、竹田のカント解釈について検討をおこない、〈正しさ〉を〈主観的確信の内における正しさ〉へと斬り縮めてしまう竹田現象学の立場が、カントの思想と相容れないのではないかという考えを提出しておきました。

 

われわれの考える〈正しさ〉は、竹田のいう「本体」ではありません。竹田の批判する「本体」の観念とは、われわれの認識から独立して存在し、けっして到達することのできない「客観的な世界そのもの」のことです。われわれが〈正しさ〉ということばによって言い表わそうとしているのは、こうしたものとは異なります。むしろそれは、われわれが認識活動において〈権能〉の主体として振る舞っているということから導き出された原理を意味しています。〈正しさ〉とは、「客観的な世界そのもの」ではなく、「私は考える」という超越論的統覚が〈権能〉の主体としておこなう判断において普遍的妥当性を要求することの原理として理解されるべきものです。

 

〈正しさ〉は「客観的な世界そのもの」ではありませんが、だからといって、竹田の主張するような主観の内における確信成立の条件へと還元されてしまうものではありません。カントは、『純粋理性批判』の「緒言」において、「われわれの認識がすべて経験〈をもって〉はじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験〈から〉生ずるのではない」*1と述べていますが、このことばを借りるならば、「〈正しさ〉は主観的確信〈をもって〉成立するのだとしても、主観的確信〈から〉生じるのではない」ということができるでしょう。

 

ただし、カント哲学の「物自体」という概念に対する竹田の批判には、簡単に切り捨てることのできない内容があるように思います。竹田によれば、「物自体」とは「人間の経験世界(=現象)の背後にあって現象一般を可能にしている何ものか、然しそれ自体は決して認識も表現もされえない何ものか」*2だとみなされます。竹田はこれを「本体」の観念の残滓とみなし、批判しています。

 

そこで今回は、カントの超越論哲学において「物自体」の概念がどのように位置づけられているのかということをたしかめ、そのことを通して次回以降フッサール現象学について考察をおこなうための準備をおこなうことにします。

 

「物自体」という概念は、カント哲学を理解しようとする者たちにとって躓きの石となってきました。かつてフリードリヒ・H・ヤコービは、「私は、物自体を前提せずにはその体系の中へと入り込むことができず、また物自体を前提してはその体系の中にとどまることができないということについて、絶えず混乱させられた」と述べています。もし、われわれがけっして物自体を認識することができないのであれば、それについてなにごとかを語ることさえ不可能なのではないだろうかという疑問が生じるからです。

 

そもそもカントは、みずからの哲学的立場について、「超越論的観念論者は経験的実在論者であって、現象としての物質に対し、推論される要なく直接に知覚される現実性を承認するのである」*3と述べていました。ここで彼は、従来の独断的形而上学の立場を「超越論的実在論」と呼んで、みずからの立場とはっきりと区別していたのです。彼は、「われわれの外に存在する独立体」*4を想定する超越論的実在論の立場においては、「これらの事物についてのわれわれの表象をわれわれがどんなによく意識していても、表象が実際に存在するかぎりそれに合致する対象もまた存在するということは、とうてい確実ではない」*5という問題に避けがたく陥ることになり、そのような立場にくみすることはできないとしています。

 

しかしカントは、われわれは超越的な形而上学的実体にけっして到達することはできず、経験的に認識される現象界の内にとどまるべきだという「経験的観念論」ないし「実質的観念論」*6の立場にも、くみすることはありませんでした。

 

対象についてのわれわれの認識が、「われわれの外に存在する独立体」としての対象と一致しているという保証はどこにも存在しません。デカルトの方法的懐疑の議論が示すように、われわれの認識が誤りであるような可能性は、けっして拭い去ることはできないのです。しかし、われわれの認識が誤りであるかもしれないというとき、それはいったいなにについての誤りだといわれているのでしょうか。このときわれわれは、みずからの認識についての〈正しさ〉を前提にして語っているはずです。カントの主張する「経験的実在論」は、経験的な立場において〈正しさ〉が前提されていることを認める立場だということができるでしょう。

 

これに対して、われわれの認識が単なる主観的な現象にすぎないという「経験的観念論」の主張は、経験的な立場においてはまったく無意味な主張だといわなければなりません。なぜなら、もしわれわれが「経験的観念論」の主張を受け入れ、「すべてがわれわれの主観的な表象にすぎない」ということを認めるならば、まさにそのことによって、われわれはもはや「すべてがわれわれの主観的な表象にすぎない」と言い立てる理由をうしなうことになります。いっさいが主観的表象にすぎないときに、なぜそれらを表象にすぎないとことさらに主張する必要があるでしょうか。もし、いっさいがわれわれの主観的な表象にすぎず、われわれがそうした現象の世界のなかで毎日を送っているのであれば、われわれはみずからの認識の対象を、まさにわれわれが哲学以前的な態度においてそうしているように、物自体として呼べばよいのであり、「それはじっさいには、単なる主観的な現象にすぎない」という主張は、実質的にはなんの役割も果たしていないといわなければなりません*7。そこで用いられる「現象」という概念はまったくの冗語にすぎず、「オッカムの剃刀」の原理にもとづいてただちに排除されることになるでしょう。それにもかかわらず、あえてわれわれの経験的認識の対象を「対象についての主観的現象」であるとする主張になんらかの根拠をもとめようとするとき、われわれは現象を超えた実体の世界を考えるほかなく、独断的形而上学に陥ることになります*8

 

われわれは具体的な経験の場において、みずからの認識がそれについて妥当とされるような〈正しさ〉を承認しているのであり、われわれの認識が単なる主観的意識の産物だとする「経験的観念論」の主張はまったく無意味なものと理解されるほかありません。ここでわれわれが承認している〈正しさ〉のことを、カントは「超越論的真理」と呼んでいます。

 

われわれの認識はすべて一切の可能な経験の全体中に存する。そして一切の経験的真理に先行してこれを可能ならしめるところの超越論的真理は、この可能な経験に対して一般的関係を持つところに存する*9

 

「超越論的真理」は、個々の経験的な認識について成り立つような真理ではありません。それは、われわれの個々の認識のありかたを可能にしている「私は考える」という超越論的統覚の働きと表裏一体のものだと考えられます。そうした超越論的真理を承認することが、さまざまな経験的認識が経験的認識として受け取られることの根拠となっているのであり、その意味で超越論的真理は個々の経験的認識が成立するための可能性の条件としての意義をもつということができるでしょう。

 

ところでカントは、超越論的統覚と表裏一体となって〈正しさ〉を可能にしている根拠となるはずのものを「超越論的対象=X」と呼び、「この超越論的対象〔・・・〕という純粋概念は、あらゆるわれわれの経験的概念一般に対して、対象との関係、すなわち客観的実在性を与えうるものをなす」*10と述べています。さらに、超越論的対象は独断的形而上学において想定されていた「われわれの外に存在する独立体」ではなく、「統覚の統一の相関者」(Korrelatum der Einheit der Apperzeption)*11だという説明がなされています。これは、超越論的対象が個々の経験的認識の対象なのではなくて、むしろ統覚とともに個々の経験的認識が成立するための「純粋な地平」(reiner Horizont)*12としての役割を果たしているということを意味しているということができるでしょう。

 

カントの立場は、「経験的実在論」にして同時に「超越論的観念論」であるとされていました。「経験的実在論」の立場においてわれわれは、みずからの認識が単なる主観的意識の産物ではなく、〈正しさ〉をもつことを承認していました。そして、このような認識のありかたを可能にしているのが、われわれの個々の経験的認識の地平をなしているところの超越論的対象にほかなりません*13。こうしたわれわれの認識のありかたを明らかにするカント哲学の立場が、「超越論的観念論」と呼ばれているのです。

 

よく知られているようにカントは、われわれの認識が対象にしたがわなければならないと考えるのではなく、対象がわれわれの認識にしたがわなければならないという「コペルニクス的転回」を主張しました。ただしこのことは、主観と客観の関係を逆転させる認識論的主観主義の主張だと理解するべきではありません。カッシーラーはこのことを、「思考法の革命とは、理性が自分自身を反省し、理性の前提と原則、その問題と課題を反省することから始めるという点に本質がある」*14と解説しています。さらに、「われわれの認識がすべて経験〈をもって〉はじまるとはいえ、それだからといってわれわれの認識がすべて経験〈から〉生ずるのではない」*15というカントのことばも、こうした考えにもとづいて理解できるように思われます。超越論的観念論の立場は、われわれの経験的認識〈とともに〉ありつつ経験的認識を可能にしている地平としての〈正しさ〉の役割を解明することをめざす立場だといってよいでしょう。

 

さて、すでに見たように竹田は、カントの「物自体」を「本体」概念の残滓とみなして批判していました。しかし、経験的実在論にして同時に超越論的観念論の立場に立っていたはずのカントが、独断的形而上学において想定されていたような「われわれの外に存在する独立体」を承認していたと考えることは、不自然ではないでしょうか。むしろ「物自体」は、これまでわれわれが見てきたような経験的認識の可能性の条件をなしている「超越論的対象」になぞらえて理解することが可能であるように思われます。もしそうした解釈が成り立つのであれば、カントの物自体を「本体」概念の残滓とみなす竹田の解釈は当を得ないといわなければなりません。

 

しかし、このように結論づけることを躊躇させるものが、カントのテクストのうちに存在していることも事実です。たとえばカントは『プロレゴーメナ』において、「実際に、もしわれわれが感官の対象を、当然そうすべきように、単なる現象と見なすならば、われわれはこれによってとにかく同時に、現象の根底に物自体そのものが存することを承認するが、もっともわれわれは、当の物がそれ自体どのような性質であるかを識らず、識っているのは、ただその現象、換言すれば、われわれの感官がこの知られぬ或るものから触発される様式にすぎない」*16と述べています。また『純粋理性批判』においても、「超越論的感性論」の冒頭に次のような文章を見いだすことができます。

 

 どういう仕方どういう手段で認識が対象に関係するにしても、いやしくも認識が対象に関係する場合に、両者の直接の媒介をなし、すべての思惟が手段として求めるものは直観である。けれども直観はわれわれに与えられるかぎりにおいてのみ生じるにすぎない。しかしこのわれわれに対象が与えられるということは、これまた、(少なくともわれわれ人間にとっては)対象がわれわれの心を何らかの仕方で触発することによってのみ可能なのである。われわれが対象によって触発される仕方を通して表象を得る能力(感受性)を感性という*17

 

こうした物自体の規定は、「超越論的分析論」において論じられている超越論的対象にかんする説明とは異質であり、両者をただちに同一視することは困難だといわなければなりません。この問題をめぐって、これまで多くの研究者たちが議論をかさねてきました。たとえば岩崎武雄は『カント『純粋理性批判』の研究』という著作において、「物自体」の概念は、独断論に歯止めをかけるための「限界概念」(Grenzbegriff)*18として理解されなければならないと主張しています。

 

カント「純粋理性批判」の研究 新装版

カント「純粋理性批判」の研究 新装版

 

 

感性を触発するものとしての物自体の存在を考えるということは確かに極めて不合理である。物自体の存在を始めから想定し、この物自体と主観との相互の交渉から感覚が生ずると考えるのはいわば独断論的立場であり、独断論を否定しようとするカントの批判主義にはおよそ似合わしからぬことであると言わねばならない。しかしわれわれが先入見をもたずに「先験的〔超越論的―引用者〕感性論」を読めば、そこに感性を触発する物自体が存在すると考えられていることは否定することができないのである。だが私はこの点には余りこだわる必要はないのではないかと考える。〔・・・〕後に見るように、「先験的分析論」においては物自体とは決してその存在を積極的に主張し得ないもの、単なる限界概念〔・・・〕として消極的な意味において用いられるべき概念と考えられているのである。そうであるとすれば、「先験的感性論」においてカントはただ常識的に最も分りやすい意味で物自体の概念を提出したにすぎないのではないであろうか。そしてそのような素朴な立場から出発して『純粋理性批判』においてしだいにより高い立場に進み、物自体の概念もそれに応じて異なった意味に用いられたのではないであろうか*19

 

このほかにも、多くの研究者たちがこの問題についてそれぞれの立場から詳細な研究をおこなっています*20。しかし、わたくしにはそうした研究史を正確に紹介する力はなく、また竹田の現象学解釈の妥当性を検証するわれわれにはそれらに立ち入る必要もないといってよいでしょう*21。いずれにしても、研究者たちがこの問題をめぐってさまざまな議論を戦わせてきたにもかかわらず、いまだ一意的な解釈にたどり着くにいたっていないことからも、カントが「超越論的真理」について十分に明快な議論を提供することに成功していないといってよいのではないかと思われます。

 

すでにわれわれは、カントの超越論的観念論の立場が、われわれの経験的認識とともにありつつ、経験的認識を可能にしている地平を解明することをめざす立場だということを論じてきました。それは、われわれが経験的立場において〈正しさ〉を承認していることを受け止め、その〈正しさ〉がわれわれの経験的認識においてどのような役割を果たしているのかということを解明する立場だということができます。しかし、どこまでも経験にそくしつつ、そのなかで承認されているはずの〈正しさ〉が具体的にどのように機能しているのかということを、カントが十全な仕方で論じていたとはいいがたいように思われるのです。

 

カントが多少とも具体的に、経験にそくしつつそこにおいて機能している〈正しさ〉の具体的な役割について論じているのは、むしろ「超越論的理念」の統制的使用について語っている「超越論的弁証論」での議論だったのではないかと思われます。

 

カントは『純粋理性批判』の第二版「序」において、「われわれを駆って必然的に経験の限界および一切の現象の限界を越え出ようとさせるものは無制約者であり、理性が一切の被制約者に対立せしめてこの無制約者を物自体の中に求め、それによって諸制約の系列を完結したものとして求めるのは、必然にしてかつあらゆる面で当然である」*22と述べていました。しかしわれわれの理性は、現象の内にこうした無制約者の理念に合致する対象を見いだすことはけっしてできません。そのため彼は、「理性はしたがって本来、悟性とその合目的的な任務とのみを対象とし、悟性が客体における多様を概念によって統一するように、理性は理性の立場から概念の多様を統一するのである」(A644/B672 高峯訳『カント純粋理性批判』427頁)と述べることになります。つまり、理性は感性に直接働きかけることはできず、悟性とその合目的的使用を統一することしかできないとされているのです。理性はそうしたしかたで悟性的な認識に体系的統一をあたえると考えられています。

 

われわれの認識の全体という理念は、このような理性による統一によって要請されることになるとカントは考えます。こうした超越論的理念の働きは「統制的使用」と呼ばれています。カントは、われわれがけっして超越論的理念に到達することはできないといい、しかしそれにもかかわらず、われわれの経験にそくしてその客観的妥当性が承認されているということを明らかにしています。

 

理性の経験的使用はこれらの理念に、単にいわば漸進的に、すなわち単に接近しつつ従うことができるのみであって、つねに到達することはできない。とはいえやはりこれらの理念は、ア・プリオリな総合命題として、未限定ではあるが客観的妥当性を有し、可能な経験の規則として役立ち、また実際に経験を形成するのに発見的な原則として、大いに有利に使用される*23

 

しかし、ここでカントが「超越論的理念」として考えているのは、自由・不死・神の三者であり、われわれが経験的立場において〈正しさ〉を承認しているという事実を解明するにはいたっていません。超越論的理念にかんするカントのすぐれた考察にもかかわらず、「超越論的真理」の具体的な機能をわれわれの経験にそくして明らかにするという仕事をカントは十全に果たしていなかったのではないかという非難は、やはり免れないように思われます。

 

竹田は、カントの物自体を「本体」概念の残滓とみなし批判していました。カントの思想全体に照らして考えてみるならば、こうした竹田の批判はやや性急だったのではないかといわざるをえないでしょう。しかし、物自体の位置づけについてのカントの議論にあいまいなところが多分にのこされていたことも、われわれは認めなければなりません。仮に竹田のカント批判が当たらないとしても、その責任の一端はカント自身に帰せられなければならないように思われるのです。

 

そして、カントがのこした問題を引き継ぎ、われわれの経験の時間的構造に注目することで、われわれが経験的立場において承認しているはずの〈正しさ〉の役割を、具体的な経験にそくして解明するという仕事にとりくんだのが、フッサールだったのです。彼の提唱する超越論的現象学の立場は、そうした哲学史的系譜のなかで理解される必要があります。

 

次回からはいよいよフッサールの思想の検討に入っていくことにします。

*1:B1 高峯訳『カント純粋理性批判』44頁

*2:竹田『欲望論』第1巻、137頁

*3:A371 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁

*4:A371 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁

*5:A371 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁

*6:カントは『純粋理性批判』第二版の「観念論論駁」で、こうした立場について次のように述べています。「観念論(ここでは実質的観念論を意味する)とは、われわれの外なる空間における対象の現実的存在を、単に疑わしくかつ証明されないものと説くか、あるいは誤謬であって存在不可能なものと説くものである」(B274 高峯訳『カント純粋理性批判』198頁)。

*7:もちろんこのとき、われわれの認識が誤りうる可能性が存在することを忘れてはなりません。われわれが事実を正しく認識したと思っていたとしても、のちにそれが誤りであったと判明する可能性は、どこまでも消去できずにのこりつづけます。とはいえそのばあいでも、事実についての個々の認識が経験の進行とともに訂正されうるということであり、訂正がそれに照らしあわせてなされるような〈正しさ〉が承認されているということに留意しなければなりません。

*8:カントは、「わたくしの知るかぎりでは、すべて経験的観念論を固執する心理学者は超越論的実在論者であるから、彼らが経験的観念論に対して、これを人間の理性が容易に処理できない問題の一つとして、非常な重要性を認めるのは、いうまでもなくまったく首尾一貫した態度である」(A372 高峯訳『カント純粋理性批判』289頁)と述べています。

*9:A146/B185 高峯訳『カント純粋理性批判』153頁

*10:A109 高峯訳『カント純粋理性批判』136頁

*11:A250 高峯訳『カント純粋理性批判』217頁

*12:ハイデガーは『カントと形而上学の問題』のなかで、超越論的対象=Xにかんして次のように述べています。「Xとは、われわれが一般にそれについてまったく何も知り得ないものである。しかしそれは、このXが存在者として現象の層の「背後に」隠されてあるから知りえないのではなく、それは端的に知識の、すなわち存在者の認識の所有のいかなる可能的対象ともなり得ないからである。Xがけっしてそのようなものになり得ないのは、それが無であるからである。」「無は存在者を意味しないが、それにもかかわらず「或るもの」を意味する。それは「たんに相関者として役立つにすぎない」、すなわちそれはその本質からして純粋な地平なのである。カントはこのXを「超越論的対象」〔・・・〕とよんでいる。ところでしかし存在論的な認識作用において認識されるXが、もしその本質上、地平であるとすれば、この認識作用はまたこの地平を、その地平的性格において開示し続けるようなものでなくてはならない。しかしその場合この或るものは、まさに直接的にそして唯一的に考えられたものとして把握の主題の中にあることは許されない。地平は非主題的にではあるが、しかもそれにもかかわらずまさに視野の中になくてはならぬ。そのようにしてのみ地平は、その中で遭遇するものをそのようなものとして主題の中に押し出すことができる」(Heidegger, Martin, Gesamtausgabe, Bd. 3, Hrsg. von Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 1991, Vittorio Klostermann, Frankfurt am Main, S. 122-123 門脇卓爾訳『ハイデッガー全集 第3巻 カントと形而上学の問題』(2003年、創文社)125-126頁、ただし訳語の一部を変更しました。以下も同様とします。)。また山崎庸佑は、「超越論的対象は〔・・・〕事物にかかわる経験がまさに事物にかかわる経験として納得されるゆえんの究極にあるもの、つまりは事物経験を事物経験として意味あらしめている超越論的な意味根拠にほかならない」(山崎庸佑『超越論哲学―経験とその根拠に関する現象学省察』(1989年、新曜社)70頁)といい、さらに超越論的対象が「主観の対象措定の作用=能力をすら究極のところで有意味に機能させ、いわば成り立たしめている真に超越論的な根拠の地平」(山崎『超越論哲学』68頁)だとする解釈を提出しています。

*13:「経験一般の可能性の条件は、同時に経験の対象の可能性の条件である」(A158/B197 高峯訳『カント純粋理性批判』159頁)というカントのことばも、こうした考えと軌を一にしているということができます

*14:Cassirer, Kants Leben und Lehre, S. 161 門脇ほか監訳『カントの生涯と学説』158頁

*15:B1 高峯訳『カント純粋理性批判』44頁

*16:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 4, S. 314 久呉訳『カント全集 6』273頁

*17:A19/B33 高峯訳『カント純粋理性批判』63頁

*18:A255/B310 高峯訳『カント純粋理性批判』219頁

*19:『岩崎武雄著作集』第7巻、78-79頁

*20:カント哲学を継承しつつそれをいっそう合理的な立場からとらえなおすことをめざした新カント学派の哲学者たちも、物自体を超越論的対象と同一視する解釈を提出しました。たとえばヘルマン・コーエンは、物自体とは「課題」(Aufgabe)であると主張します。彼によれば、物自体はわれわれの経験を超越した「未知なるもの」などではなく、経験の全体の把握をめざす学的認識を遂行するなかで解決されなければならない「課題」だと理解されなければなりません。他方、エーリッヒ・アディッケスは『カントと物自体』のなかで、物自体を超越論的対象と同一視する解釈を厳しく批判し、「カントは批判期全体にわたって、われわれの自我を触発する多数の物自体が主観を越えて存在することを、絶対に自明なこととして一度も疑ったことがないと私は確信する」(エーリッヒ・アディッケス著、赤松常弘訳『カントと物自体』(1974年、法政大学出版局)5頁)と主張しています。これらの研究については、牧野英二『カント純粋理性批判の研究』(1989年、法政大学出版局)においてていねいな紹介と検討がおこなわれています。

*21:ただしひとつだけ、大きな問題が存在していることに触れておかなければなりません。それは、われわれが「竹田青嗣現象学と欲望論を読み解く (5)」で検討したように、竹田がカントの認識論の図式とニーチェの欲望相関図式を対照し、後者にもとづいて彼自身のエロス原理を提出していたことです。たしかにニーチェは、カント哲学に対してくり返し厳しい批判をおこなっており、両者の立場は鋭く対立しているということができます。しかし他方で、ニーチェの「力への意志」の思想がショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の批判的継承であり、ショーペンハウアーの「意志」がカントの「物自体」に淵源を有していることにも留意しておく必要があるように思います。こうした思想史的系譜を踏まえたうえでニーチェの思想を理解しようとするならば、ニーチェの遠近法主義を欲望相関図式としてとらえ、単なる主観的なエロス原理をのみそこに見ようとする竹田の解釈は、ニーチェの思想の重要な側面を看過しているといわなければなりません。

*22:B XX 高峯訳『カント純粋理性批判』31-32頁

*23:A663/B691 高峯訳『カント純粋理性批判』437頁

竹田青嗣の現象学解釈を検証する (4)

竹田は、2000年以上におよぶ哲学の歴史を概観した『欲望論』(2019年3月現在、第2巻まで刊行)で、「本体」の観念が解体されたことが、哲学史上におけるもっとも重大な事件だったと論じています。そして、とくに重要な役割を果たした哲学者として、ニーチェフッサール、それに一定の留保をつけたうえではありますがハイデガーを加えた三人があげられています。その一方で、彼らの果たした役割の意味は現在でも十分に理解されておらず、ポストモダン思想や分析哲学はふたたび混迷のなかに陥ってしまっていると竹田は述べます。今回は、こうした竹田の哲学史観のなかでカント哲学がどのように評価されているのかをたしかめるとともに、彼のカント解釈を検証することにしたいと思います。

 

竹田は『プラトン入門』のなかで、「哲学のはじまり」について考察をおこなっています。哲学は宗教とおなじく、この世界のありかたについての説明ですが、「宗教が物語(=神話)によって世界を説明するのに対して、哲学は抽象概念を使ってこれを行なう」*1ところにちがいがあります。さらに、宗教が特定の共同体のなかでしか通用せず、その共同体から一歩外に踏み出してしまえば、たちまち多くの物語のなかのひとつにすぎないとみなされることになるのに対して、哲学は共同体の限界を越えて「普遍的」なものをめざしていくと考えられています。

 

プラトン入門 (ちくま学芸文庫)

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 タレスの残した言葉は、「万物の原理は水である」というものだ。なぜこれが哲学的思考のはじまりといえるのか。世界の全体を、「原理」(アルケー)とか起源といった概念によって考えようとしたこと。つまり物語を使用せず「抽象概念」を使用することによって世界説明を試みたことによるのである。
 人間がどのような契機で、世界を一つの「普遍的な対象」として把握するようになるのかは興味深い問題だ。しかし、さしあたって重要なのは、哲学の思考が、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行なうという「ルール」を設定したとき、それははじめて共同体を超える言語ゲームとして広がる条件を得た、ということである*2

 

哲学が誕生したことで、人類は「世界の「起源」や「限界」、「魂は不滅か(=死んだらどうなるか)」、「世界の根本動因(=神のような存在がいるか)」、「自由な存在の根拠」」*3といった、従来宗教や神話によって説明されてきた問題を、普遍的なしかたで説明することが可能になったのです。

 

しかしその一方で、竹田は哲学による説明にも、固有の「弱点」が存在するといいます。それをはっきりと示しているのが、ゼノンのパラドクスです。竹田は、「アキレスは亀をけっして追い越せない。なぜなら、有限の時間のうちに無限の点を通過することは不可能だから」という問題を例に、このことを説明しています。このパラドクスの核心は、「「有限のもの」の中に「無限のもの」は入りきらない」*4といい表わすことができると彼はいいます。

 

 われわれは、足の速い人間が足の遅い人間を追い抜くことをよく知っている。これはいわば「有限の時間のうちに無限の点が通過されている」ということだ。しかし、なぜわれわれは、この事実を「アキレスと亀」の論理でいい表わすと解きがたい「パラドクス」と考えるのだろうか。日常的に自明のことがらが、論理的にこれを表現すると「有限>無限」ということになると考え、これを矛盾だと考えるからである*5

 

抽象概念を用いて世界を説明する哲学において、ひとは「有限」や「無限」といった概念を実体化してしまうという誤りに陥ってしまい、そのときパラドクスが出現すると竹田は考えるのです。

 

 ともあれ、こうして哲学は、抽象概念を使用し「原理」を取りだすという新しいルールによって、共同体を越えるより“普遍的”な言語ゲームとして登場したが、抽象概念の使用は、また同時に哲学的思考の独自の難点を作り出した。〔・・・〕哲学の思考は、ただ「原理」を探究するという努力だけでなく、同時に、つねに概念の実体化による論理の空洞化に抗いつつこの作業を行う、という課題を負うものとなった。というのも、もしこの課題を怠れば、哲学は必ず、論理に論理を重ねて難問だけを作り出すような空虚な言語ゲームとなり、そのことで、その試行の本質を腐らせることになるからである*6

 

多くの哲学者たちは、「概念の実体化」の誤りを犯して、「この世界の起源」や「不滅の魂」、「世界の根本原因としての神」、「絶対に自由な存在」といった概念の意味するものがどこかに存在しているはずだと考え、独断的な形而上学を築き上げてきました。たとえばヘーゲル哲学は、「絶対精神」という原理にもとづく独断的形而上学だと考えられています。また他方では、われわれにはそうした実体を認識することはできないという懐疑論に身を任せる者たちも登場しました。竹田によれば、現代のポストモダン思想や分析哲学がそうした懐疑論に陥っているとされます。

 

竹田は『欲望論』のなかで、このような思考方式を「本体論」と呼んでおり、それを解体することが必要だと主張します。独断的形而上学は、概念を実体化することで、「この世界の起源」や「世界の根本原因としての神」などの「本体」がどこかに存在しているはずだと主張します。他方、独断的形而上学を否定する懐疑論の立場も、「本体」の観念の解体に成功していないと竹田はいいます。なぜなら懐疑論が主張するのは、われわれがけっして「本体」に到達することができないということであり、そのかぎりでなお「本体」の観念に依拠していると考えられるからです。それは「「本体」の観念を養分として認識の理論に居すわる寄生樹であって、それゆえ「本体」の解体にたどりつくことができない」*7と述べられています。

 

欲望論 第1巻「意味」の原理論

欲望論 第1巻「意味」の原理論

 

 

竹田は、このような考えにもとづいて、カントが『純粋理性批判』のなかでおこなった「二律背反」(アンチノミー)にかんする議論の意義を説明しようと試みています。

 

 哲学は「普遍的認識」をこととする。しかしこの「認識の普遍性」の概念が「本体」の観念に結びついているかぎり、すべての哲学的試みは認識論上の迷宮に入り込む。問題を追いつめたあげく最後に残されるのは、形而上学独断論かこれへの対抗としての懐疑論相対主義という両極の地点である。そして両極の立場は、互いに相手を否定しあって共にいっそう頑迷な“独断論”に陥る。この問題にはじめに本質的な照明を当てたのはカントのアンチノミーの議論だったが、彼の議論の本質もまたほとんど理解されていない*8

 

まずは、カントの議論を簡単に確認しておくことにしましょう。『純粋理性批判』の冒頭には、次のようなことばが置かれていました。

 

 人間の理性はその認識のある種類において奇妙な運命をもっている。すなわちそれが理性に対して、理性そのものの本性によって課せられるのであるから拒むことはできず、しかもそれが人間の理性のあらゆる能力を超えているからそれに答えることができない問いによって、悩まされるという運命である*9

 

このような人間理性の運命をもっともあざやかに示しているのが、「純粋理性の二律背反」と呼ばれる議論です。

 

カントによると、悟性のカテゴリーは、量、質、関係、様相という四つの種類に分類されます。これらのカテゴリーが現象界に適用されることによってわれわれの認識が成立しているというのがカントの考えでした。しかしわれわれの理性は、それぞれのカテゴリーにおいて、現象界を超えて絶対的統一としての「理念」を求めようとします。このような試みは「合理的宇宙論」と呼ばれており、カテゴリーの種類におうじて「理念」にも四つの種類が存在することになります*10。すなわち、「あらゆる現象の、与えられた全体の合成の絶対的完全性」「現象における与えられた全体の分割の絶対的完全性」「現象一般の生起の絶対的完全性」「現象における変易的なものの現実的存在の依存性の絶対的完全性」*11です。

 

純粋理性の二律背反は、これらの四種類の理念から導出されることになります。たとえば第一の二律背反は、「世界は時間において始まりを有し、空間に関しても限界の内に囲まれている」*12というテーゼと、「世界は始まりを持たず、空間においても限界を有せず、かえって時間に関しても空間に関しても無限である」*13というアンチテーゼの対立として現われます。また第二の二律背反は、「世界における各複合的実体は、単純な部分からなり、かつ実際に存在するものはいずれも単純体か、もしくは単純体から合成されたものにほかならない」*14というテーゼと、「世界におけるいかなる複合物も単純な部分からはつくられない。世界には一般に単純体なるものは実際に存在しない」*15というアンチテーゼの対立として現われます。

 

テーゼのほうは、世界の時間的な始まりや、空間の限界、世界の単純な構成要素といった「本体」が存在すると主張し、アンチテーゼのほうはそうした「本体」をわれわれは認識することができないと主張します。前者が独断論の立場であり、後者が懐疑論の立場です。ところがカントは、帰謬法によって、つまりおたがいに相手の主張が矛盾に陥ることを示すことによって、双方の立場の証明をしてみせました。これによって、われわれの理性が二律背反の運命に陥っているということが、白日のもとにさらされたのです。

 

竹田は『完全解読カント「純粋理性批判」』のなかで、「カント思想の核心は、「アンチノミー」の議論に集約的に現われている」*16と述べて、こうしたカントの業績を高く評価します。

 

完全解読 カント『純粋理性批判』 (講談社選書メチエ)

完全解読 カント『純粋理性批判』 (講談社選書メチエ)

 

 

 一般に、カント哲学は、キリスト教の世界像に代わる、新しい世界説明として現われた、スピノザの合理論とヒュームの経験論という両極の対立を調停するものと見なされている。
 世界は「永遠にして無限かつ一なるものとしての神である」、これがスピノザの世界観。これに対して、ヒュームは、どんな世界理論もそれぞれ異なった経験から編み上げられた「世界像」にすぎず、決して絶対的な真に達することはない、と主張した。つまり、一方は、人間理性は合理的推論によって世界の完全な認識に達しうると言い、他方は、これに対して、すべての認識は相対的であり絶対的認識はありえないと反駁する。
 カントは、きわめて独創的な新しい認識論をおいて、この両者の対立を調停、あるいは克服しようとした。その中心をなすのが「アンチノミー」である*17

 

 

そして竹田は、「この議論によって、カントは哲学史上はじめて、認識論的独断論と徹底的懐疑論相対主義)との長い対立に、一つの決定的な解答をおいたといえる」*18と述べます。独断的形而上学は、理性的な推論によって「この世界の起源」や「世界の根本原因としての神」などの「本体」を到達することをめざしました。他方、懐疑論の立場は形而上学が独断的な議論を展開していることを批判しますが、世界の客観的認識が不可能性だということを認めるにとどまっており、そのかぎりで「懐疑論の主張は、ただ論理上他を相対化するだけであって、その論理の本性からして、自分自身の主張の正しさを証明することもまたできない」*19と竹田はいいます。こうしてカントは、「本体」の観念が孕んでいるアポリアをはっきりと示すことによって、「本体」の観念の解体が必要だという考えに到達します。われわれの認識の対象となるのは現象界のみだというカントの立場には、このような哲学史的意義が込められていると竹田は考えます。

 

ただし竹田は、カントの「純粋理性の二律背反」の議論が果たした大きな役割を認めつつも、カントが現象界を越えた「物自体」という発想を切り捨てることができなかったことを指摘し、なお「本体」の観念の完全な解体にはいたっていないと批判していました。「本体」の観念を完全な解体は、現象学の登場によってようやく果たされることになります。フッサールは、「カントの本質的モチーフ」*20を受け継ぎつつ、認識の問題を「確信成立の条件」という発想で考えなおすことで、近代哲学の「主観‐客観」のアポリアを廃棄することに成功したのです。竹田はこうしたフッサール現象学の意義を、次のように説明しています。

 

フッサール認識論の根本のアイディアは、そういう誤解が広まっているが、絶対的、客観的な認識の基礎づけということとは無関係である。現象学的還元の本義は、「共通認識」が成立するための認識論的な条件を取り出すという方法にある。つまり、カントが、感性、悟性、理性、カテゴリー、図式、原則、といった諸概念を人間の認識装置の枠組として独自の仕方で構想したのに対して、フッサールは、誰もが同じ仕方で取り出せる「確信成立」の条件の共通構造だけを記述するという方法でこれをやり直している。
 このアイディアによって、フッサールは(通説とは異なって)、客観認識、あるいは普遍的認識の可能性を、「人間間の共通確信の成立の可能性の条件」として定義しなおしたのである*21

 

フッサール現象学は一切の認識を「確信形成」(「超越」の内的形成)の構造として解明し、そのことで認識の「普遍性」の概念を伝統的な「本体認識」の観念と完全に分離したかたちで理解することを可能にする。現象学による認識論的解明によって、はじめて、ヨーロッパの「形而上学」と一切の独断論は、どんな思想的相対主義を解することなく解体されるが、まさしくそのことでこの解体は、一切の懐疑論相対主義の終焉をももたらすのである*22

 

さて、竹田はこうした現象学の立場を継承しますが、フッサールがなお主知主義的な立場にとどまっていたことを批判し、フッサールを乗り越えていかなければならないと考えます。彼は、ニーチェハイデガーの思想をもとに「欲望相関図式」の発想を提示し、これにもとづいて人間の実存的なありようを「エロス的原理」として理解しようとします。そのうえで彼は、このような観点からカントの認識論に対する批判をおこないます。

 

 たとえばカントでは、人間悟性が「原因‐結果」というアプリオリなカテゴリーを内在しているのでなければ、自然科学の広範な客観性が現われることを説明できないことになる。しかし現在の哲学的知見からは、「原因‐結果」という概念は、生活の中でたえず不安を縮減しエロス的合理性を追求しようとする、人間的身体の普遍的な共通性という点から十分に説明できるので、人間の観念の「アプリオリな形式」であるとする必要はなくなる。カテゴリーがこの四つであるというカントの“先験的”証明(先験的演繹)も、十分に成功しているとは言いがたいかも知れない*23

 

ここで竹田は、カントの考察したカテゴリーの超越論的な機能は、エロス的原理へと還元することができると主張しています。しかしこのような理解は、ほんとうにカントの超越論哲学の意義を正しくとらえたものといえるのでしょうか。

 

カントの考えにもとづくならば、カテゴリーをエロス的原理へと還元するべきだという竹田の主張は、けっして認められないものといわざるをえません。そのことが明確に述べられているのが、『判断力批判』における次の文章です。

 

 快ないし不快の感情のある規定が感覚と呼ばれる場合、この表現は、私がある事物の表象(認識能力に属する受容性としての感官による)を感覚と呼ぶ場合とは、まったく別のことを意味している。というのも、後者の場合、表象は客観に関係づけられるが、前者の場合では、表象はもっぱら主観へと関係づけられ、認識にはまったく役立たず、また主観がそれによってみずからを認識するようなものにも役立たないからである。
 〔・・・〕草原の緑色は、感官の対象の知覚としての客観的感覚に属する。しかしこの緑色の快適さは主観的感覚に属し、これによってはどのような対象も表象されない*24

 

草原のあざやかな緑の色彩がわれわれにあたえる快適さは、「主観的感覚」以外のなにものでもありません。しかし、「私は考える」という超越論的統覚の働きにもとづいて「この草原は緑である」という判断が成立するとき、われわれは経験的な地平からカテゴリーの存在する論議的(diskursiv)な地平に参入していることになります。そしてこのときはじめて、われわれはみずからの〈権能〉にもとづいて、みずからの判断の客観的妥当性を要求することができるようになるのです。これに対して、エロス原理にもとづく快・不快の感情にはそうした客観的妥当性を要求する〈権能〉を認めることはできず、どこまでも「主観的感覚」でしかないといわなければなりません。

 

先に見たように竹田は、カテゴリーの超越論的機能をエロス的原理に還元するべきだと主張していました。しかしこうした主張は、カントの超越論哲学によって切り開かれた客観的妥当性の成立する論議的な問題領域を、ふたたび閉ざしてしまうものだといわなければならないでしょう。

 

竹田は、「カントの「形而上学的問い」の根拠の解体にもかかわらず、その意義が十分に理解されているとは言えないために、哲学における形而上学的な独断論相対主義懐疑論の対立は現代哲学においても続いている」*25と述べていました。そのような例として、竹田はデリダの「差延」にかんする議論をあげています。そこでは、「認識の形式化を意識的におし進め、それを論理的なパラドックスに追い込んで、むしろ積極的にその不可能性を証し立てる」*26ということがおこなわれています。しかし竹田によれば、こうした議論は「客観的認識の不可能性を「論理の不可能性」によって示すのだが、決してそれ以上を言うことができない」*27といわれており、懐疑論の立場にとどまっていると批判されることになります。こうして竹田は、ポストモダン思想は「本体」の観念の解体に成功していないと結論づけています*28

 

竹田は、カントの『純粋理性批判』における「純粋理性の二律背反」の議論を高く評価し、これによって独断的形而上学の立場とヒュームのような懐疑論の立場との相克が乗り越えられたと述べていました。そのうえで、デリダに代表されるようなポストモダン思想においてはカント哲学の意義が十分に理解されておらず、懐疑論の立場にとどまっているという批判がなされていました。しかし、前回われわれががカントの議論の検討を通じて明らかにしたように、カントの批判していた懐疑論とは、われわれの判断における客観的妥当性に目を向けず主観的妥当性しか認めない、ヒュームのような立場のことを意味していました。経験される事象のあいだには因果関係のような必然的な絆などどこにも存在していないというヒュームの主張に対してカントは、経験の可能性の条件を問い尋ねるという方法によって、悟性のうちに因果性のカテゴリーが存在していることを明らかにし、ヒュームの立場をしりぞけたのです。そしてこのような批判は、客観的な〈正しさ〉を〈主観的確信の内における正しさ〉に切り縮めてしまう竹田現象学の立場に対しても向けられなければならないでしょう。

 

カントの批判の対象となっていた懐疑論の立場は、竹田の批判するポストモダン思想よりもむしろ竹田自身の立場にこそ当てはまるといわなければなりません*29。竹田は、「本体」の観念の解体という彼自身の哲学史観にもとづいて、カントの「純粋理性の二律背反」の議論に高い評価をあたえていましたが、こうした竹田の解釈はカント哲学の全体像を踏まえたものとはいいがたいように思われます。

*1:竹田青嗣プラトン入門』(2015年、ちくま学芸文庫)25頁

*2:竹田『プラトン入門』28頁

*3:竹田『プラトン入門』46-47頁

*4:竹田『プラトン入門』39頁

*5:竹田『プラトン入門』40頁

*6:竹田『プラトン入門』43-44頁

*7:竹田青嗣『欲望論 第1巻 「意味」の原理論』(2017年、講談社)20-21頁

*8:竹田『欲望論』第1巻、18頁

*9:A I 高峯訳『カント純粋理性批判』17頁

*10:ただし岩崎武雄は、『カント『純粋理性批判』の研究』のなかで、「二律背反の二つの立場は、理性が宇宙論的理念を求めて二つの仕方で理性統一を行うということからではなく、理性統一を認めるか認めないかということから生ずるものと言うべきである。定立の立場と反定立の立場との相反は決して無制約者を求める理性自身の二つの立場の相反ではなく、理性の立場と反理性の立場との相反、あるいは、あくまでも絶対的統一を求めようとする理性の立場と、それに反対してこのような絶対的統一を認めずどこまでも被制約者の領域を越え出まいとする悟性の立場との相反であると言わねばならない」(『岩崎武雄著作集』第7巻(1982年、新地書房)413頁)と批判しています。じっさいカント自身も、二律背反の生じる理由について、次のような説明をしています。「このような弁証的理説は経験概念における悟性統一に関するものでなく、単なる理念における理性統一に関するものである。そしてこれらの理念の制約は、それらがまず規則に従う場合としては悟性に合致すべきであり、しかも同時に総合の絶対的統一としては理性に合致すべきことであるから、それらが理性統一に適応する場合には悟性にとって大に過ぎ、また悟性に適当する場合には理性にとって小に過ぎることとなろう」(A422/B450 高峯訳『カント純粋理性批判』313-314頁)。

*11:A415/B443 高峯訳『カント純粋理性批判』310頁

*12:A426/B454 高峯訳『カント純粋理性批判』315頁

*13:A427/B455 高峯訳『カント純粋理性批判』315頁

*14:A434/B462 高峯訳『カント純粋理性批判』320頁

*15:A435/B463 高峯訳『カント純粋理性批判』320頁

*16:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』282頁

*17:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』387-388頁

*18:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』388頁

*19:竹田『欲望論』第1巻、145頁

*20:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』391頁

*21:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』392頁

*22:竹田『欲望論』第1巻、25-26頁

*23:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』82頁

*24:Kant's gesammelte Schriften, Bd. 5, Hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1913, S. 206 牧野英二訳『カント全集 8』(1998年、岩波書店)59-60頁

*25:竹田『完全解読カント「純粋理性批判」』287頁

*26:竹田『意味とエロス』15頁

*27:竹田『意味とエロス』16頁

*28:他方、ドゥルーズ中沢新一の思想については、「一種のカント主義」(竹田『意味とエロス』16頁)だという断定がなされています。ただしこのばあいの「カント主義」は、物自体という「本体」の観念を抱え込んでいるという、悪しき意味で用いられていることに注意しなければなりません。ドゥルーズや中沢の思想を簡潔にまとめると、「自然が常に無限な多様体として、人間の認識を越え出る形で生成変化する」(竹田『意味とエロス』18-19頁)ということができると竹田はいいます。しかしこれは、「一方に「あるがままの現実」(=物自体)が存在し、もう一方に、制約された人間の認識形式があり、この両者は〈一致〉しない」(竹田『意味とエロス』19頁)という主張であり、けっきょくのところ「「あるがままの現実」が客観存在するという前提から考えはじめている」(竹田『意味とエロス』20頁)と竹田は批判します。

*29:石川輝吉は著書『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』において、竹田からの思想的影響のもとでカント哲学の解釈をおこなっています。そこでは、「経験論の完成者としてよく知られているヒュームは、〈ひとそれぞれ〉の主観以外にはなにも確かなものを認めない」(石川輝吉『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』(2009年、NHKブックス)50頁)としたうえで、カントの試みを「〈ひとそれぞれ〉の主観を認めながらも、同時に、だれにも共通なもの、普遍的なものを探ろうとする努力だと考えたほうがいい」(石川『カント 信じるための哲学』109頁)と主張します。さらに彼は、カントの超越論哲学について、次のような説明をおこなっています。「カントが「超越論的哲学」と言う場合、それは、ただたんに主観だけを確実とする哲学を意味しない。むしろ、その主観のなかに人びととの共通のものを探る態度のことなのだ」(石川『カント 信じるための哲学』109頁)。しかしこうした解釈は、カントがヒュームを批判する際に、主観的妥当性と客観的妥当性を明瞭に区別していたことを見落としており、超越論哲学の意義そのものを否定するものだといわなければならないでしょう。石川は「厳密に言えば、カントが取りだす認識の共通構造とは、あくまでも、カントにとって、共通にもっている「と思われる」構造にすぎない。だから、このカントの試みは、〈ひとそれぞれ〉のなかに〈普遍性〉を探るひとつの「努力」と考えたほうがいいのだ」(石川『カント 信じるための哲学』110-111頁)と述べていますが、ここには竹田と同様に〈正しさ〉を〈主観的確信の内における正しさ〉へと切り縮めてしまう誤りがあるように思います。